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あなたがリアルチートだと思う人物をコメントしてください!
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リアルチートの条件は以下の通りです。
1 いつの時代でも可
2 皇帝・指導者・政治家タイプ
3 リアルチートだと思う理由(できれば参考資料も)
4 ぶっちゃけリアルチートとまではいかなくても、すごいと思う人は誰でも可
・例
曹操
少なくとも三国時代で一番有能な指導者かと・・・孫権もいいけど・・。
参考資料 ウィキペディア
【パン祖】 江川英龍
【たとえ便所に隠れていても息の根を止めてやる】 ウラジーミル・プーチン
【吸血鬼にされた男】 ヴラド・ツェペシュ
【ビスまる子ちゃん】 オットー・フォン・ビスマルク
【米大統領「もうやだこのFBI」 ジョン・エドガー・フーバー】
【そうだ ウィーン、行こう】 スレイマン1世
【鳴け、ホトトギス】 信長・秀吉・家康
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ムスタファ・ケマル・アタテュルク オスマン帝国
オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領である。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。 全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ
菅原道真 日本
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領である。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。 全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ
菅原道真 日本
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
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幕末の大目玉、江川英龍(1801年6月23日ー1855年3月4日)
伊豆韮山代官。と言うと田舎の小役人の様だが、伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐などの幕府直轄領を監督する重職。
父親が長生きだったため35歳まで割とフリーな身だった。それを生かして神道無念流・練兵館の斉藤弥九郎と共に変装して各地を見回り悪を裁く。何故、時代劇にならない。
二宮尊徳(金次郎)を招聘して農業改革をしたり、種痘(牛痘)ワクチンを広めた事で領民からは『世直し江川大明神』と崇められる。
当時一流の知識人のサークルだった尚歯会とも親しく交流し、海防のために西洋の知識を吸収。高島秋帆を招聘して西洋式砲術の研究に取り組む。尚歯会は蛮社の獄で解散。高島秋帆も投獄されるが、投獄前になんとか長崎に出向いて砲術を学ぶ。
その後、江川から佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・木戸孝允などが砲術や西洋の知識を学び、さらに江川の紹介で西洋の知識に詳しい学者のネットワークが形成される。
ペリーが来航するとお台場建設の責任者を命ぜられる。7か月後の二度目の来航までに5基を完成させる。
反射炉を建造し、最新式銃砲の作成に必要な鉄を鋳造。
軍用糧食としてパンを焼く。ドーナツ型の乾パンに近い物。
爆裂砲弾を発明。炸裂率は西洋の標準が3割~5割だったが、8割方だったという。それを世界最高レベルの数でそろえた。ただし同時期に西洋で椎の実型弾とライフリング付き後装式銃砲のセットが発明されて射程距離が数倍に伸びたため、一瞬で旧式兵器に。
初めて農民兵部隊を組織、この際『気を付け』『回れ右』『右向け右』などを翻訳して導入。支配地域の農民に剣術を推奨。この支配地域に武蔵の国多摩が含まれていたのが、後の新選組のフラグとも言われている。
アメリカ帰りのジョン・万次郎を幕臣として登用するように進言し、入れられる。
開国交渉に来ていたロシアのプチャーチンの船が安政東海地震の津波&その後の嵐で沈没すると、ロシア人技師から西洋船の設計を学んでヘダ号を建造。それに乗ってプチャーチンは帰れた。
福沢諭吉が自伝で英雄と評価する。
絵画に長け、刀剣の製作もやっていた。
……書いててあまりの有能ぶりに軽くびびった。死因が過労死と言われるのも納得の激務。
伊豆韮山代官。と言うと田舎の小役人の様だが、伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐などの幕府直轄領を監督する重職。
父親が長生きだったため35歳まで割とフリーな身だった。それを生かして神道無念流・練兵館の斉藤弥九郎と共に変装して各地を見回り悪を裁く。何故、時代劇にならない。
二宮尊徳(金次郎)を招聘して農業改革をしたり、種痘(牛痘)ワクチンを広めた事で領民からは『世直し江川大明神』と崇められる。
当時一流の知識人のサークルだった尚歯会とも親しく交流し、海防のために西洋の知識を吸収。高島秋帆を招聘して西洋式砲術の研究に取り組む。尚歯会は蛮社の獄で解散。高島秋帆も投獄されるが、投獄前になんとか長崎に出向いて砲術を学ぶ。
その後、江川から佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・木戸孝允などが砲術や西洋の知識を学び、さらに江川の紹介で西洋の知識に詳しい学者のネットワークが形成される。
ペリーが来航するとお台場建設の責任者を命ぜられる。7か月後の二度目の来航までに5基を完成させる。
反射炉を建造し、最新式銃砲の作成に必要な鉄を鋳造。
軍用糧食としてパンを焼く。ドーナツ型の乾パンに近い物。
爆裂砲弾を発明。炸裂率は西洋の標準が3割~5割だったが、8割方だったという。それを世界最高レベルの数でそろえた。ただし同時期に西洋で椎の実型弾とライフリング付き後装式銃砲のセットが発明されて射程距離が数倍に伸びたため、一瞬で旧式兵器に。
初めて農民兵部隊を組織、この際『気を付け』『回れ右』『右向け右』などを翻訳して導入。支配地域の農民に剣術を推奨。この支配地域に武蔵の国多摩が含まれていたのが、後の新選組のフラグとも言われている。
アメリカ帰りのジョン・万次郎を幕臣として登用するように進言し、入れられる。
開国交渉に来ていたロシアのプチャーチンの船が安政東海地震の津波&その後の嵐で沈没すると、ロシア人技師から西洋船の設計を学んでヘダ号を建造。それに乗ってプチャーチンは帰れた。
福沢諭吉が自伝で英雄と評価する。
絵画に長け、刀剣の製作もやっていた。
……書いててあまりの有能ぶりに軽くびびった。死因が過労死と言われるのも納得の激務。
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フランスの宰相、リシュリュー枢機卿(1585年9月9日 - 1642年12月4日)
本名はアルマン・ジャン・デュ・プレシー。枢機卿およびリシュリュー公爵。『三銃士』で時に悪役、時にフランスの名宰相として有名なお方。当時のヨーロッパでも最もえげつない男。
カトリックの頂点であるローマ法王の選挙権と被選挙権を持つ枢機卿でありながら、教会ガン無視フランス第一の冷徹で容赦ない政治家。「信賞必罰など必要無い。必罰だけが重要だ」だそうです。
下級貴族の三男としてパリに生まれ、初めは軍人を目指す。リシュリュー家はリュソン司教職を持っていて、そこからの収入を私用に使って暮らしていたので聖職者から非難される。非難を逃れるために聖職者の道へ。
21歳で司教になる。年齢的に司教にはなれなかったのだが、ローマ法王から特例として司教に任じられる。三部会(当時の議会)に聖職者代表として出席し、その才能が認められて政界入り。
ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスとの政争に巻き込まれ一時失脚するが、才腕を認められて1622年に枢機卿に任じられた。2年後の1624年、首席国務大臣(事実上の宰相)に任じられた。
当時はドイツで三十年戦争の真っ最中。ハプスブル家の皇帝フェルディナント二世とドイツ諸侯が戦争中。スペイン王家もハプスブル家の血筋なので、皇帝が勝つとスペインとドイツの両方がハプスブル家になり、挟まれるフランスは終了。なのでドイツ諸侯(プロテスタント)を支援して皇帝フェルディナント二世(カトリック)と戦う。ただし自分の手は汚さない。
プロテスタント同盟の盟主としてスウェーデンの師子王グスタフ二世アドルフに戦費を融資、イギリス(同盟国)の雇う傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルトにも援助金を送る。が、このマンスフェルト、あだ名が『甲冑をまとった乞食』という戦争よりも略奪が得意な、性質の悪い傭兵の中でも最悪の男。ドイツ国内が略奪で荒廃すれば好都合だそうです。
他にもちゃっかりとグスタフ二世アドルフ死後のスウェーデン軍から傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルをヘッドハンティングしたりしている。スウェーデンが強すぎても嫌だそうです。
三十年戦争後半になると戦況が厳しくなってフランスも自分で戦わなくてはならなくなるが、最終的にヴェストファーレン条約でドイツ神聖ローマ帝国を終了させて目的達成。彼の死の6年後の事だった。
戦費のために大分重税をかけて農民反乱が起こったが、全て容赦なく叩き潰している。中央集権国家を目指したため、何度も大貴族によるリシュリュー排除の陰謀が起こったが、全て返り討ちにしている。
「私の第一の目標は国王の尊厳。第二は国家の盛大である」と言い、臨終の席で司祭に「汝は汝の敵を愛しますか」と問われると、「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたという。
趣味はぜんまい時計の収集だったそうです。
本名はアルマン・ジャン・デュ・プレシー。枢機卿およびリシュリュー公爵。『三銃士』で時に悪役、時にフランスの名宰相として有名なお方。当時のヨーロッパでも最もえげつない男。
カトリックの頂点であるローマ法王の選挙権と被選挙権を持つ枢機卿でありながら、教会ガン無視フランス第一の冷徹で容赦ない政治家。「信賞必罰など必要無い。必罰だけが重要だ」だそうです。
下級貴族の三男としてパリに生まれ、初めは軍人を目指す。リシュリュー家はリュソン司教職を持っていて、そこからの収入を私用に使って暮らしていたので聖職者から非難される。非難を逃れるために聖職者の道へ。
21歳で司教になる。年齢的に司教にはなれなかったのだが、ローマ法王から特例として司教に任じられる。三部会(当時の議会)に聖職者代表として出席し、その才能が認められて政界入り。
ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスとの政争に巻き込まれ一時失脚するが、才腕を認められて1622年に枢機卿に任じられた。2年後の1624年、首席国務大臣(事実上の宰相)に任じられた。
当時はドイツで三十年戦争の真っ最中。ハプスブル家の皇帝フェルディナント二世とドイツ諸侯が戦争中。スペイン王家もハプスブル家の血筋なので、皇帝が勝つとスペインとドイツの両方がハプスブル家になり、挟まれるフランスは終了。なのでドイツ諸侯(プロテスタント)を支援して皇帝フェルディナント二世(カトリック)と戦う。ただし自分の手は汚さない。
プロテスタント同盟の盟主としてスウェーデンの師子王グスタフ二世アドルフに戦費を融資、イギリス(同盟国)の雇う傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルトにも援助金を送る。が、このマンスフェルト、あだ名が『甲冑をまとった乞食』という戦争よりも略奪が得意な、性質の悪い傭兵の中でも最悪の男。ドイツ国内が略奪で荒廃すれば好都合だそうです。
他にもちゃっかりとグスタフ二世アドルフ死後のスウェーデン軍から傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルをヘッドハンティングしたりしている。スウェーデンが強すぎても嫌だそうです。
三十年戦争後半になると戦況が厳しくなってフランスも自分で戦わなくてはならなくなるが、最終的にヴェストファーレン条約でドイツ神聖ローマ帝国を終了させて目的達成。彼の死の6年後の事だった。
戦費のために大分重税をかけて農民反乱が起こったが、全て容赦なく叩き潰している。中央集権国家を目指したため、何度も大貴族によるリシュリュー排除の陰謀が起こったが、全て返り討ちにしている。
「私の第一の目標は国王の尊厳。第二は国家の盛大である」と言い、臨終の席で司祭に「汝は汝の敵を愛しますか」と問われると、「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたという。
趣味はぜんまい時計の収集だったそうです。
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ヴィルヘルム2世 プロイセン王国
29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。祖父の治世において長きにわたり宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は政治的権力を大きく落とした。パリ陥落の知らせに対しヒトラーに祝電を送っている。
ヴィクトリア女王 イギリス
イギリス・ハノーヴァー朝の第6代女王にして初代インド女帝。世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られその治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。1830年代以降の英国史は彼女抜きでは語れないとも言われてる御方。因みに彼女のパンツのデカさもロイヤル級でありオークションにて高値が付いた。
エンリケ航海王子 ポルトガル
ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが大航海時代の初期における重要人物の1人である。その生涯において、探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導しそれまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いた。1420年5月25日、エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に、莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源とした。このため、特に1440年代までに駆けエンリケは大西洋への進出に並々ならぬ情熱を傾けると同時に、騎士団における重責についてもおろそかにはせず以後はキリスト教を熱烈に信奉する。エンリケ王子の人物像としては、その辿った足跡が果たしてどこまで事実であるのか後世の創作によるものであるのか、多くの謎がある。探検事業の動機や目的についても、種々の説がある。
29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。祖父の治世において長きにわたり宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は政治的権力を大きく落とした。パリ陥落の知らせに対しヒトラーに祝電を送っている。
ヴィクトリア女王 イギリス
イギリス・ハノーヴァー朝の第6代女王にして初代インド女帝。世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られその治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。1830年代以降の英国史は彼女抜きでは語れないとも言われてる御方。因みに彼女のパンツのデカさもロイヤル級でありオークションにて高値が付いた。
エンリケ航海王子 ポルトガル
ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが大航海時代の初期における重要人物の1人である。その生涯において、探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導しそれまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いた。1420年5月25日、エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に、莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源とした。このため、特に1440年代までに駆けエンリケは大西洋への進出に並々ならぬ情熱を傾けると同時に、騎士団における重責についてもおろそかにはせず以後はキリスト教を熱烈に信奉する。エンリケ王子の人物像としては、その辿った足跡が果たしてどこまで事実であるのか後世の創作によるものであるのか、多くの謎がある。探検事業の動機や目的についても、種々の説がある。
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アクセル・オクセンシェルナ(1585年6月16日 - 1654年8月28日)
スウェーデンの師子王・グスタフ二世アドルフの側近として辣腕をふるったスウェーデン宰相。ちなみにグスタフ・アドルフは即位時17歳、そのときオクセンシェルナ28歳。ラノベですかという若さ。
外交の達人でデンマークに対抗するためにイギリスとオランダを味方に付ける。ロシアを恫喝して食料をぶんどる。三十年戦争介入のためにフランスから戦費を引っ張り出すなど大活躍。
また血の気の多いグスタフ・アドルフへの冷静なツッコミ役であり、「オクセンシェルナよ。人が皆おまえのように冷静であったら世界は凍り付いてしまうな」「人が皆、陛下のように短気であれば、世界が燃え尽きてしまいます」という会話が伝えられている。
グスタフ・アドルフ戦死後も、遺児クリスティーナを女王に就けて国を指導し、ヴェストファーレン条約での三十年戦争終結まで漕ぎ着ける。
グスタフ・アドルフ在世中は共にドイツに在ってプロテスタント諸侯相手に外交をしていたが、死後はスウェーデンに戻り、ほぼ0になっていた税収を回復させて兵站を完璧にこなす。ヨーロッパの蕭何。
今もスウェーデンの首都ストックホルム、グスタフ・アドルフス広場にはグスタフ・アドルフの銅像があり、それを下からオクセンシェルナの銅像が仰いでいる。
スウェーデンの師子王・グスタフ二世アドルフの側近として辣腕をふるったスウェーデン宰相。ちなみにグスタフ・アドルフは即位時17歳、そのときオクセンシェルナ28歳。ラノベですかという若さ。
外交の達人でデンマークに対抗するためにイギリスとオランダを味方に付ける。ロシアを恫喝して食料をぶんどる。三十年戦争介入のためにフランスから戦費を引っ張り出すなど大活躍。
また血の気の多いグスタフ・アドルフへの冷静なツッコミ役であり、「オクセンシェルナよ。人が皆おまえのように冷静であったら世界は凍り付いてしまうな」「人が皆、陛下のように短気であれば、世界が燃え尽きてしまいます」という会話が伝えられている。
グスタフ・アドルフ戦死後も、遺児クリスティーナを女王に就けて国を指導し、ヴェストファーレン条約での三十年戦争終結まで漕ぎ着ける。
グスタフ・アドルフ在世中は共にドイツに在ってプロテスタント諸侯相手に外交をしていたが、死後はスウェーデンに戻り、ほぼ0になっていた税収を回復させて兵站を完璧にこなす。ヨーロッパの蕭何。
今もスウェーデンの首都ストックホルム、グスタフ・アドルフス広場にはグスタフ・アドルフの銅像があり、それを下からオクセンシェルナの銅像が仰いでいる。
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ジョシュア・ノートン アメリカ
19世紀のアメリカに実在した王位僭称者。
自身を皇帝ノートン1世と称し更には当時アメリカと敵対状態にあったメキシコの保護者として帝位請求を行った。
彼の政策は「コール紙」を通じて、『勅令』として発布されました。その内容は「街灯をあと5ワット明るくすべし」「クリスマスには街路樹を飾りつけるべし」」「黒人奴隷を解放すべし」(リンカーンの奴隷解放宣言より2年前)「女性に参政権を付与すべし」「サンフランシスコを 『シスコ』 と略して呼ぶ事を禁止する」など、いろいろあったんですが、恐るべきことにそのほとんどは実際に施行されています。「街の発展のために、オークランドからフェルグラティブに吊橋をかけるべし」という勅令は、さすがに当時は技術的に不可能だったんですが、現在のゴールデンゲートブリッジ(1933年完成)は、この「ノートン勅令」と寸分違わぬコースを通ってます。凄いと思う・・・
19世紀のアメリカに実在した王位僭称者。
自身を皇帝ノートン1世と称し更には当時アメリカと敵対状態にあったメキシコの保護者として帝位請求を行った。
彼の政策は「コール紙」を通じて、『勅令』として発布されました。その内容は「街灯をあと5ワット明るくすべし」「クリスマスには街路樹を飾りつけるべし」」「黒人奴隷を解放すべし」(リンカーンの奴隷解放宣言より2年前)「女性に参政権を付与すべし」「サンフランシスコを 『シスコ』 と略して呼ぶ事を禁止する」など、いろいろあったんですが、恐るべきことにそのほとんどは実際に施行されています。「街の発展のために、オークランドからフェルグラティブに吊橋をかけるべし」という勅令は、さすがに当時は技術的に不可能だったんですが、現在のゴールデンゲートブリッジ(1933年完成)は、この「ノートン勅令」と寸分違わぬコースを通ってます。凄いと思う・・・
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懐良親王(1329年~1383年4月30日)
後醍醐天皇の皇子。征西将軍の宮。1336年に九州を征服して来いと征西将軍に任命されて送り出される。7歳、五条頼元ら家臣はいるが軍勢は無し。無茶振りが過ぎる。
九州に上陸すらできず、瀬戸内海の忽那島で5年を過ごし、1341年にやっと薩摩へ上陸。ちなみに後醍醐天皇は1339年に崩御。
島津を倒し、菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年征西府を開き、九州征服開始。室町幕府から送り込まれる一色範氏、仁木義長、足利直冬らと死闘を繰り広げるもこれに勝つ。
そして1359年。土着の大豪族、九州の黒幕・少弐頼尚と筑後川の決戦。戦国時代の川中島・関ヶ原と並んで日本三大決戦と呼ばれる戦に挑む。
この一戦で菊池武光は血みどろになった刀を川で洗ったと伝えられ、大刀洗川の地名が残る。
九州に南朝、と言うか実質南北朝のどっちでもない独立王国を築き、建国したばかりの明から『日本国王良懐』となぜかぜかまし読みで公認される。
しかし三代将軍義満の時代に入ると、今川家の祖・今川貞世(了俊)が派遣され、大宰府と博多を失う。良成親王(後村上天皇の皇子)に征西将軍を譲り、1383年死去。
なお兄後村上天皇は、北畠顕家と共に東北に行って2度の強行軍にも同行している。凄い皇子たちだ。
彼の死後も明はしばらく室町幕府を正当な政府と認めず、懐良親王の使者を偽装して貿易をしなければならなかった。
活躍が遅いので太平記には彼の記述は無い。おかげで知名度がだいぶ低い。
後醍醐天皇の皇子。征西将軍の宮。1336年に九州を征服して来いと征西将軍に任命されて送り出される。7歳、五条頼元ら家臣はいるが軍勢は無し。無茶振りが過ぎる。
九州に上陸すらできず、瀬戸内海の忽那島で5年を過ごし、1341年にやっと薩摩へ上陸。ちなみに後醍醐天皇は1339年に崩御。
島津を倒し、菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年征西府を開き、九州征服開始。室町幕府から送り込まれる一色範氏、仁木義長、足利直冬らと死闘を繰り広げるもこれに勝つ。
そして1359年。土着の大豪族、九州の黒幕・少弐頼尚と筑後川の決戦。戦国時代の川中島・関ヶ原と並んで日本三大決戦と呼ばれる戦に挑む。
この一戦で菊池武光は血みどろになった刀を川で洗ったと伝えられ、大刀洗川の地名が残る。
九州に南朝、と言うか実質南北朝のどっちでもない独立王国を築き、建国したばかりの明から『日本国王良懐』となぜかぜかまし読みで公認される。
しかし三代将軍義満の時代に入ると、今川家の祖・今川貞世(了俊)が派遣され、大宰府と博多を失う。良成親王(後村上天皇の皇子)に征西将軍を譲り、1383年死去。
なお兄後村上天皇は、北畠顕家と共に東北に行って2度の強行軍にも同行している。凄い皇子たちだ。
彼の死後も明はしばらく室町幕府を正当な政府と認めず、懐良親王の使者を偽装して貿易をしなければならなかった。
活躍が遅いので太平記には彼の記述は無い。おかげで知名度がだいぶ低い。