• 劇場版プリパラ み~んなあつまれ!プリズムツアーズ 感想【ネタバレ】

    2015-03-17 03:16
    劇場版プリパラ観ました。
     ルート1、ルート4、ルート2と3回観ました。
     以下のテキストは本編の内容についてネタバレを含むので未見の方などはご注意ください。



     ▼▼▼

     劇場版プリパラと銘打たれてはいましたが、蓋を開けてみれば昨年公開の映画、「プリティーリズム・オールスターセレクション プリズムショー☆ベストテン」のリメイクとも言えるような作品でした。
     過去のプリズムショーを回想し続けるという構成もそうですが、特にメタ要素の配置が前作と同様である点が特徴的でした。今作のオールスターセレクションの扱いは前作のマジカルみおんと対応していますし、客席に座って上映中の注意を聞くキャラクタ(ジュネの溢れる髪)も昨年と同じです。映画の最後に次シーズンの登場人物・あろまとみかんが登場するのも前作でらぁらが登場したのと対応しています。

     前作との違いはどこにあるかというと、それはもちろんプリパラ勢のプリズムジャンプであり、あいら・みあ・なるのプリパラ式ライブです。プリティーリズムからプリパラへの『継承』と『感謝』。これがこの映画のテーマだと感じました。

     今作でプリティーリズムとプリパラという2つの作品の繋がりが厳密化されたのは、両方のシリーズのファンである人にとってはたまらなく嬉しいことだったと思います。
     2つの世界の繋がりについては、プリパラ本編中でもコスモやめが姉ぇの存在や、セインツのシルエット、マスコットの墓場などで仄めかされていましたが、今回の映画によってその繋がりがより詳しく描かれました。
     セインツの3人は過去作の3人とは別人(オールスターセレクションの3人とも別)であることがわかりましたし、プリパラのコスモとマイデザのコスモについても同様に別人であることや、ファルルとりんねが出会うことがあり得る、つまりプリパラの世界がプリズムワールドと繋がっていることなどが今回明らかになりました。
     また、そふぃがコスモへ言い放った「マスコットの地獄にいたんだ~」は3DSゲームの売上についての言及ともとれますし、プリティーリズムの世界崩壊の際のあいら達の台詞である「もう踊れなくなっちゃった」については、筐体の稼働や関連商品の展開もなくなってゆくプリティーリズムというコンテンツを踏まえての台詞であると私は捉えました。
     消えてゆくプリティーリズムというコンテンツの遺伝子がプリパラへと継承されることによって、プリズムの煌めきを伝えるというプリティーリズムのキャラクターの持つ使命が果たされて救われていく…という、コンテンツを取り巻く環境を織り込んだメタなシナリオがこの映画の醍醐味で、このシナリオは青葉譲にしか書けないものだなと感じ入りました。

     しかし、9割くらいの部分でこの映画のシナリオに感動して涙しつつも、残りの1割で、劇場版『プリパラ』なのだからもっとプリパラの要素を掘り下げて欲しかったな…と思いました。ですがプリパラはこれからもっと盛り上がってどんどこ何度も映画が作られるはずなので、その期待は森脇監督主導で制作される映画のためにとっておくこととします。

     最後に。ルート4にリソース割きすぎでしょ!!!!!未見の人は這ってでも行ってください。それでは。
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  • 百合を知るもの来たれ!今年の冬は『百合SF』で決まり!まどマギもあるよ!【C85】

    2013-12-24 15:14
    ★OUSF(大阪大学SF研究会)の冬コミ(C85)新刊『百合SF』(評論本)に参加しています!★

     好きな百合作品を3つ挙げよ、と言われて「純粋!デート倶楽部(石田敦子)」と「HER(ヤマシタトモコ)」と「百合星人ナオコサン(kashmir)」を挙げてしまうような百合についてはニワカな私ですが、今回の『百合SF』、3つの特集に参加しています。 

     緊急特集 「魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語」に『何故まどか☆マギカの題はラテン語なのか?―神・魔女・悪魔について―』という長い題の評論を書きました。
     作中用いられる用語やモチーフにラテン語のものがほとんど存在しないのにタイトルが「PUELLA MAGI MADOKA MAGICA」とラテン語なのは何故か?という点に着目し、ラテン語とドイツ語の対比やドイツ文化と魔女の結びつきからまどマギを分析して、そこから浮かび上がる「悪魔」の存在について切り込んで解題しています。謎に包まれた存在である魔獣の正体も明らかに!?上記リンク先の告知ページに私の記事の冒頭部分の画像があり、途中までは試し読みできるようになっています。(表紙を含めて上から3つめの画像です)

      特集「まんがタイムきらら つぼみ全単行本レビュー」に、杉浦次郎の「わんらぶ」についてレビューを書いています。この本は短編が素晴らしく、特に「ままごと」は傑作と呼ぶにふさわしい作品なので、今回レビューする機会が持てて嬉しいです。お勧めの作品なので、機会がありましたらぜひ読んでみて下さい!
     つぼみは宇河弘樹の「Walk wit me」や、きづきあきら+サトウナンキの「エビスさんとホテイさん」など、大好きな作品がたくさん生み出された雑誌だったので休刊はとても悲しいですね。復活を期待しています。

     特集 「桜Trick座談会」に参加しています。
      最初この「桜trick」という作品を読んだときには何かが欠けているな、というふうに感じたのですが、実はその欠落こそが時代の先を拓く超プログレッシブな「百合2.0」エンジンだった…!?百合の進歩と調和!「百合2.0」という新概念とは!?しゃべっていてとても楽しい座談会だったからきっと読んでも楽しい、といいな…!

     特集満載100Pの大ボリュームの『百合SF』、頒布についての詳細は告知ページをご確認ください。ご都合よろしければぜひお買い求めくださいませ。

  • まどマギ叛逆の物語、ラストシーンで思うこと【ネタバレ注意】【11/19改稿】

    2013-11-11 14:444
    【叛逆の物語のネタバレを含みます】
    【2013-11-19 12:55全面的に改稿】
    【2013-11-11 16:37追記】
    【2013-11-11 14:44初稿】



     まず、前のエントリ(ar381688【今は読めません】)で書いた「なぜほむらは、『まどかが自分の生み出した幻想である』という可能性を否定できたのか」という疑問ですが、昨日の5回目の視聴で氷解しました。
     例の夜の丘のまどほむのシーンってほむらがまどかのことを女神として崇めている(まどかの女神像のおみ足にすりすりする)シーンの直後にあったんですよね。ほむらにとってまどかは神のごとき絶対の存在であり、ほむらの守るべき秩序の基盤となっていることがそこで示されています。魔獣と戦い続けることこそが魔法少女としての絶対条件であり、その宿命から逃げることは許されない、魔法少女たるものまどかの犠牲にふさわしいものであるべきだ、と。
     しかしその後橋から飛び降りてきたまどかは戦いからの逃避を否定しません。私だって怖い、逃げ出したい、できることならみんなとずっと一緒にいたい、と人間らしいことを話します。これはほむらの抱くイメージのまどかならば絶対に言わないようなことであったと思われます。ほむらにとって絶対法則である神としてのまどかと、弱さを持つ人としてのまどか。この乖離がほむらに眼前のまどかを真に人間である存在として認識させた、ということだったのかなー、と。このことによってほむらは、眼前のまどかが自分の妄想でないことを確認でき、また同時に、まどかを本当の意味では救えていなかったと気付いてしまったのだと思います。
     花咲く夜の丘でほむらが、まどかが私の妄想だったのではないか…と不安を吐露するシーンも、ほむらにとっては神の存在を疑ってしまったことに対する告解だったのだと感じました。だからあんなに地を這うように身を投げ出して言うのだと。この世界にはありえない存在が3つある、と言った時にまどかが含まれていなかったのは、まどかへの疑念というものは、このような作法を以ってして初めて口に出せるくらい、ほむらにとって重要かつ禁忌なことだったからなのかもしれません。
     あとまどかがほむらの髪を編みこむ意味も気になってたんですけど、TV版ではまどかに守られる存在から守ろうとする存在への変化を三つ編みからストレートへの髪型の変化で表していたので、あの髪編みはほむらがふたたびまどかの庇護下に置かれようとしていることを示していて、その編まれた髪を振りほどくのは、まどかを守るべく真実を探そうとするほむらの決意の表れ、と考えるとしっくり来ます。髪を編む、あるいはリボンで結ぶという行為は全編通して幼さ、庇護を受けるものであるという象徴として描かれているようですね。終盤のリボンを返すシーンも再びほむらがまどかを守る存在となることの象徴ですし。

     いい雰囲気だからなんとなく感動するけど、これって結局どういうシーンなんだっけ??とひとつひとつ突き詰めて考えて観てみると何度観ても発見とともに新鮮な感動があり、深くのめりこんで観ていける素晴らしい映画だなーとつくづく思います。

     前置きが長くなりました。私のラストシーンの解釈を述べます。
     まず、円環の理とまどかの関係がどうなったかを考えます。
     ほむらのさやかに対する発言を真実だとすると、ほむらは「まどかの人間としての記録」だけを円環の理から切り取り、人間としてこの世に送り出したということになります。ダークオーブとなった巻き取られたピンクの糸は、度重なるループの中でほむらがまどかを思いながら積み重ねた因果の結晶であり、その量はまどかを概念へと昇華させた量と同等であると考えられます。よって、その因果によりほむらもまた魔法少女より高位の存在となることができたのでした。
     まどかは円環の理から切り離されて人間へ、ほむらの記憶の中のまどかはダークオーブへと変化した、と私は認識しています。
     次に、QBがボロボロな理由ですが、これはQB側のエネルギーの枯渇によるものではないかと考えています。あいつはどれだけ銃弾を撃ちこんでもすぐ複製が現れるので、フィジカルへのダメージが与えられているわけではなさそうです。エネルギーさえあればいくらでも新しいQBが生成可能な性質から考えると、むしろ大元であるエネルギーが底を尽きかけているのではないかと考えられます。
     ではなぜQBのエネルギーが枯渇したのか、ですが、その理由を考えるにはQBのエネルギー収支について考える必要があります。QBは、少女の希望から絶望への相転移から莫大なエネルギーを取り出すことのできる仕組みを持っていることが示されています。また、人間の技術では不可能な「奇跡」を起こすことが可能であり、それを餌に魔法少女を募っていました。つまり、奇跡という形でエネルギーを投資し、魔女化の際に生み出されるエネルギーを回収し収支をプラスに持っていく、というのがQBのエネルギープランだと考えられます。
     このプランはまどかの円環の理化で破綻しました。魔女化する直前で、円環の理がソウルジェムを浄化し呪いを消し去ってしまうので、主要なエネルギー源である希望から絶望への相転移が起こりません。QBのエネルギープランは再編を余儀なくされます。ほむらが魔獣を倒した後に残った黒いキューブをQBが回収してはいましたが、これからエネルギーを取り出すことができたとしても、これまでと比べて効率は圧倒的に悪いでしょう。ただ、ほむらやマミ・杏子などすでに奇跡が叶えられている魔法少女たちについては、初期投資が終わっている状態であり、減価償却のためにも可能な限り呪いを回収しようという方針を取っていたものと考えられます。QBは新たに魔法少女を生み出すことは止めつつ呪いを回収し、ほむらから聞き取った話(円環の理=鹿目まどかによる救済)を軸に仮説を立て、今回の遮断フィールド実験を実行に移します。
     実験は失敗に終わり、悪魔ほむらが誕生します。ほむらは魔なるものであり、世の調和を乱すものであると言われており、様々な理不尽を生み出すものであると考えられます。そして、振り返ってみればそもそも魔法少女たちは、人の世の理不尽に立ち向かう為に魔法少女になることを選んでいるわけで、ほむらの世界への働きかけは、結果として魔法少女を増やす結果を生み出すものと考えられます。あるいは、魔法少女にはこの世界のエントロピー:乱雑さを下げるはたらきがある、と言い換えてみてもよいでしょう。過去、文明を進歩(=秩序を構築)させてきたのも魔法少女のはたらきであるので、この読み替えは自然です。ほむらが悪魔としてエントロピーを増大させる方向に世界を動かそうとすると、秩序だった世界を求める魔法少女達の働きによって平衡されます。そうして少女たちの求める希望を叶える奇跡をキュゥべぇは起こし続け、消耗していきました。これがQBがボロボロであった理由だと想像しています。ほむらの呪いを始末するためにインキュベーターの協力が必要という発言も、QBがインキュベーター(孵卵器)としての仕事で疲弊しているという説と合致します。

     そして、あのラストシーンの弦月はその流れの行き着く果てである、「魔獣が全て倒されたあとの世界」を示しているのではないか?と考えています。あの半月はほむらかまどかかどちらか側の完全な勝利を示すものであると思われますが、ほむらの勝利は世界の無秩序化を意味するので、これは考えにくいです(世界が荒廃しているわけでもなく、またまどかの幸福を願うほむらの行動原理ともそぐわない)。世界はこれ以上ないほどに強い秩序を持ち発展したものと思われます。世界から湧き出す呪い・魔獣も非常に少ないものとなっているでしょう。さやかとの会話では、宇宙を滅ぼすつもり!?という問いに対して魔獣が全て滅んだ後ならそれもいいかもと答えていたほむらですが、渡り廊下でのまどかとのやりとりで、まどかにとって大切なものは秩序の保たれた世界であり、個人的な欲望などではないことを確認しています。前述のとおり、まどかの願いを尊重するほむらには宇宙を根本から破壊することなんてできるはずがありませんし、完全に調和のとれた世界においてはまどかを守る必要も既にありません。悪魔としてのほむらは行き詰まってしまいました。
     茂みのがさつく音に対して警戒した素振りを見せるところからも、ほむら側の敗勢を色濃く感じさせます。敵襲への備えが必要な状況なのでしょう。すでに人間や魔法少女よりも高位な存在となっているほむらの存在を脅かすことができるものといえば、ほむらにとって特異な存在であるまどかしかいないでしょう。秩序と無秩序、敵味方に分かれてしまったまどかとの最終決戦を恐れ、慌てて姿を確認しますが、現れたのはQBであり、ほむらはひと安心し、ダークオーブとともに踊り出します。
     あの踊りからは曲も相まって冒頭のナイトメア退治シーンが想起されます。このリフレインで、物語冒頭のナイトメアがほむら自身のナイトメアであることが示唆されている、というのが私の見解です。「まだだめよ」とは、ほむらが自ら創りだしたソウルジェム内の世界で何も知らない少女として目覚めるには、呪いを募らせてきた記憶=ナイトメアを消し去る必要がある、ということであり、魔法少女たちによってナイトメアが倒されることにより「さあおはよう」と、物語を始める準備がなされた、という筋書きだと考えています。また、冒頭のナイトメアにのみ「HOMU LILLY」のタグがついているという分析もあり(仁美のものにはついていない)、これも冒頭のナイトメアがほむら自身のナイトメアであるという説を裏付けるものです。
     そしてこの重ねあわせからは、まどかたち魔法少女によるナイトメア退治=ほむら退治を予感することができるでしょう。
     まどかとの戦いを選ばず、ダークオーブに閉じ込めたまどかとの過去・積み重ねてきた因果を愛でつつ闇に消えるほむら。閉じた扉にかかるリボンは、もう誰も受け入れることのないほむらの閉じた心と、それに絡まってそばにあるまどかとの思い出。

     ――というのが私なりのラストシーンの解釈です。

     物語の終わり方については様々な解釈と賛否両論あるみたいですね。私は美しくも物悲しい物語だなあ…と涙を流して受け入れていたのですが、ほむらとまどかの関係を、ファンと原作の関係として読み替えた場合、否定的な意見が出てくるのもうなずけるな……とも思いまして。
    <ほむらは愛ゆえに円環の理からまどかを切り離して歪な新世界を作るが、まどか自体は秩序をもって物語を終わらせることを求めている。ほむらもそれを受け入れる。>
     という終盤の流れを、ほむら=まどマギのファン、まどか=原作・原典・正史と読み替えてみると、
    <まどか☆マギカのファンは愛ゆえに原作からキャラクタを切り離して歪な二次創作の世界を作るが、まどか☆マギカという作品;原作自体は秩序をもって物語を終わらせることを求めている。ファンもそれを受け入れる。>
     となり、これは非常に寂しいというか、箱庭に閉じ込められたような閉塞感をおぼえるかと思います。
     なぜほむら=視聴者;ファンと読み替えられるかという部分についての説明はまた稿を改めて詳しく語れたらなーと思います。とりあえず「ループ構造」においての「選択権の保持」はゲームにおけるプレイヤーと同等の権利であるとだけ指摘しておきます。

     次回作は、こう物語の終わり方を解釈してしまうとなかなか期待できなさそうだとも思うんですが、行き過ぎた秩序とくればディストピアものなので、あるとすればまどかを失った円環の理が暴走して云々、みたいな話かなー?と思ったりしてます。