• 【千と千尋の神隠し】ラストシーンで豚の中に両親がいないと分かった理由【考察】

    2020-01-09 22:00
    1.はじめに

    千と千尋の神隠しの最大の謎である「千尋が豚の中に両親がいないと分った理由」について、物語の中の場面、キャラクターの対比に注目しながらまとめることにする。

    詳しくは後に解説するが、この物語のテーマは

    「自分の最愛の人の姿かたちが変わってしまっていても、自分はその人を見つけ出せるのだろうか」というものではないかと考える。


    2.物語の題材

    この物語で題材にしているのは「水」と「人間」である。

    人間にとって水は欠かせないものであり、だからこそ川の神である「ハク」と人間である「千尋」が引かれあうラブストーリーになる。

    まず、「千尋」という名前について考察してみる。

    辞書で「尋」を引くと「水の深さの単位。1尋は1.8m」と記してあり、「千尋」はその1尋の千倍であり、計り知れない深さという意味である。

    この名前からわかるように、千尋はを表す名前である。また、ハクは住んでいた川が埋め立てられた川の主という設定である。千尋は物語の序盤で湯婆婆に名前を奪われ「千」になる。こうして水を意味する名前の部分を失い、千尋もハクもお互いに水を失っている状況であることが分かる。

    この点をふまえて、千尋が竜の状態のハクに乗るシーンを考える。二回あるこのシーンでは、千尋とハクが水の中に一瞬入る演出がある。これは、二人が一緒になった時だけ水の記憶を補い合い補完する仕組みではないだろうか。そして最後には名前、水の記憶を思い出すことができたと考えると筋が通る。最後のシーンは、千尋が川でおぼれた記憶があったという事実が大切なのではなく、広い意味で、人間が水との共存を取り戻すメタファーであろう。


    3.カオナシとハクの対比

    ハクの印象を言うと、清潔感があり、しつこくはないが困ったときに現れ、千尋を助けてあげる。また、千尋におにぎり、服を渡してあげる優男といったところだろうか。

    一方、カオナシはといえば、食べ方は汚く清潔感は皆無。千尋のことが好きで必要以上に付きまとい、彼女に対してセクハラとも取れる行動、パワハラともとれる行動をする。そして千尋にバンダナ、砂金、食べ物を渡す。正確には渡そうとする。

    ここまで見ると、千尋の前に現れたり、何かをあげたりするという点で見るとやっていることは両者同じなのである。

    これは偶然ではなく駿のメッセージが隠されていると考える。やっていることは同じであるように見えるが両者の行動には決定的な違いがある。

    それは千尋の目的の考慮である。

    そもそも、千尋の目的は湯屋で働くことでも、仕事がうまくなるわけでもない。親を見つけて帰る。それだけなのである。

    ここで、もう一度両者の行動を振り返ってみる。

    確かに、ハクは一番最初に両親の居場所を教え、連れてきた場所で渡すものはである。

    その点カオナシは、「欲しがれ」という言葉と共に、金、飯を無理矢理渡そうとする。

    明らかな違いは「千尋が一番必要としているものを理解して行動しているか」である。

    余談だが、これは恋愛においても同じであり、男の人は何かを与えて頼ってほしいと思うあまり、その人の本当に望んでいる物を考えることを放棄してしまうことが多いのではないだろうか。千尋にとってハクはヒーローである。カオナシはヒーローになりたかったがなれなかった男。このハクとカオナシの対比は現代社会のどこにでもいるカオナシのような大人たちに対してメッセージを送っているのかもしれない。

    そして暴走の末、外に出たカオナシに千尋が声をかける。ここでのセリフは印象的だ。

    「あそこにいるからだめになっちゃうの」

    そして水につかったカオナシは打って変わったようにおとなしくなり正気を取り戻す

    また、千尋やカオナシがいた「油屋」そして「水」。ここで油と水の対比が用いられている。


    4.千尋とハクの対比

    有名な話ではあるが、千尋は最初の契約書の文字の「荻」という字の火の部分を犬と書いている。

    本当に書き間違えたか、わざとであるかは定かではないが、これがラストシーンに大きく影響していると思われる。

    ハクは本当の名前を湯婆婆に教えているので脱出できず、千尋は教えなかったから思い出せて脱出することができた、と考えればラストシーンで千尋のみチャンスが与えれられ湯屋を脱出することのできたことの筋は通る。

    この世界では「名前を知っていることで本当の姿を取り戻すことが可能になる」ということは、ハクのうろこがはがれるラスト前のシーンからでも明らかである。

    その証拠にハクのうろこがはがれた後の彼の目の輝き、眉の形など、それまでのシーンとはっきり区別して描かれている

    神隠しの世界では「自分の名前を分かっているということは、自分が何者であるかを分かっている」ととらえてよさそうだ。

    名を失って帰り路がわからないハクと、最後まで名前を完全に失うことなく帰ることができた千尋が対比的に描かれている。


    5.カオナシと千尋の対比

    カオナシというキャラクターの役割はいったい何なのだろうか。

    それは、受動性ということだと考える。振り返ってみるとカオナシは行動すべてが受動的なのである。また、受動性とは自分の欲望よりも他人の欲望に突き動かされる性質のことである。

    ただ橋に立っていたカオナシに千尋があいさつをするという、そもそも出会いからして受動的である。その後、千尋が扉を開けっぱなしにするという形で湯屋に招き入れる。ここでも自分で行動するというよりは受け身である。

    そんなカオナシは湯屋で他人の欲望に出会う。

    はじめは千尋の必要とする薬湯の札、砂金、食べ物、と。このように他人の欲望にあおられて行動し、さらに相手の欲望を引き出すように行動する。

    しかし、そんなカオナシの暴走がストップするシーンが二場面ある。

    一つは、大量に出した札を千尋が断るシーンだ。このシーンの後カオナシは消えてしまう。

    もう一つは、太ったカオナシが千尋を呼び、食べ物を欲しがらせようとするシーンだ。「千は何が欲しいんだ?言ってごらん」と言うカオナシに対して千尋は「あなたはどこから来たの……」と話を続ける。そしてカオナシはうろたえる。

    このように、二つのシーンの共通点は、千尋という「他人」が欲望に煽られず、きっぱりと拒絶する。ということだ。

    やはりここでは、欲望に煽られるカオナシと欲望を拒絶する千尋が対比的に描かれている。

    6.坊&湯婆婆と両親&千尋の対比

    この対比は、この映画を考察し理解する上で最も大切だと考える。

    湯婆婆と坊の関係は、作中ではっきりと明言されていないが、湯婆婆にとって坊は非常に大切な存在であるということは読み取れる。

    そんな坊は作中で姿を変える。本物の坊はネズミになり、その代わりとなる偽物が頭三匹によって作られる。

    この両者に湯婆婆は3度遭遇するのである。

    一度目は、湯婆婆が千尋を太ったカオナシの部屋に呼び出すシーンだ。(この記事のサムネでもある。)この時、姿が変わった坊に対して次のような言葉を言う。「なんだその小汚いネズミは」。湯婆婆は坊が変わったことに気づいていないのである。

    もう一つのシーンは印象的であろう。この物語において非常に重要なシーンである。それは、ハクが湯婆婆の部屋に訪れるシーンだ。この時ハクは「まだ気づきませんか。大切なものがすり替わったのに。」と言い、次に湯婆婆が見る視線の先は坊、ではなく砂金なのである。そして時間がたって物音がして初めて坊を見、魔法を使ってようやく気付く。ここでも1度では坊が偽物だということに気づいていないのである。

    3つ目はラストシーンである。一瞬ではあるが、橋の上で坊(ネズミ)が湯婆婆の元に飛んでいく。ここで、魔法が解け、坊は元の姿に戻り、湯婆婆が抱き着く。特に深い意味は無いシーンのように思えるが、やはり湯婆婆は姿の変わった本物の坊に「気付かなかった」という事実が意味する事は大きい。

    さてここで、千と千尋のテーマを振り返ってみる。「自分の最愛の人の姿かたちが変わってしまっていても、自分はその人を見つけ出せるのだろうか」

    そう、ここではそれを見つけることのできなかった湯婆婆と、ラストのシーンで見つけることのできた千尋が対比されて描かれているのである。


    7.橋のシーンの対比
    ちなみに、「橋を渡る」というシーンにも対比が使われていると思われる。初めはハクに「連れられて」渡り、最後のシーンでは「ひとりで」渡る。個人差があるかもしれないが、この最後の橋を渡るシーンには必要以上に長い時間がとられているように自分は思えた。この対比により橋を渡るという行為で千尋の成長を表現しているのだと考えられる。


    8.千尋が豚と出会うシーン
    千尋が作中で豚と出会うシーンは四度あった。

    一回目は、ハクと出会った後に元の場所に戻り、両親と同じ服を着た豚が飯を食べているところを発見するシーン。実はこのシーンでは、両親が豚になったと千尋は確信していないようにも思える。それを見た後、「お父さん、お母さん、どこ」と探し回るからだ。

    二回目はハクに連れられて養豚場へと向かうシーン。養豚場の前で千尋は眼をぱちくりさせ、ハクがうなずき、両親と「思われる」豚の元へ向かう。この時、千尋は、「私よ。千よ。」と言う。

    三回目は、豚を見回して、どの豚か両親かわからない、といった夢だ。しかしこのシーンは、竜になった傷だらけのハクが暴れるシーンの直前なので印象は薄いかもしれない。夢から冷めた後、千は「分からなかったらどうしよう」という不安を口にしている。

    そして四回目はラストシーンである。

    9.まとめ

    ここまでの考察を踏まえて、なぜ千尋が豚の中に両親がいないと分かったかについて考える。

    豚の中の両親が初め(2,3回目の再開)分からなかった理由は、彼女が「千」だったからであろう。

    この世界では、名前は記号ではなく、自分は何者かということを意味していた。自分の名前を分かっているということは、他の誰かに支配されたり、自分の進む道を誤ったりしないということであろう。

    千尋は自分が何者なのかをわかっていたので、目先の金に惑わされる湯婆婆とは違い、自分の大切なものをまっすぐ真剣に見つめ続けていたからであると考える。


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  • 3週間だけ勉強しろ

    2019-12-17 21:007

    3週間。

    これは「ある物事が習慣化するのに必要な期間」である。

    次のような経験はないだろうか?
    面白いと思うYouTuberを見かけてチャンネル登録をした。数か月が経ち、登録した当初ほどのワクワクや楽しさは無い気もするが、通知が来るので見に行く。

    (なんというか、見ないと気持ち悪い気がする…)

    これは、あなたの中で「動画を見る」という行為が習慣化しているのだ。

    Youtuberの毎日投稿だけでなく、生放送配信者の定期配信は視聴者の「習慣化」を狙っているのである。見ることを習慣化した視聴者は、そうそう離れることはない。なぜなら、それは彼らの生活の一部になっているからだ。

    これを勉強にも活かせばいい。
    「受験だ!1年間頑張ろう!」と思うから始める前から辛くなるのだ。

    とりあえず3週間思いっきりやろう!!

    この意気込みで取り組んでみてほしい。この方がやる気も出るのは言うまでもない。

    また、3週間後、そのやる気は残っていないだろう。

    もちろん悪い意味ではない。

    「今日もいつも通りやるか」
    とやる気など無くてもできるようになっている。

    「やる気が無くて勉強がはかどるのか?」
    と思うかもしれない。答えはイエスだ。

    正確に言うと、はかどっていることに気付かない。なぜならその行為は習慣化され「生活の一部」になっているのだから。毎朝、顔を洗って歯を磨く事と何ら変わりはない。


    さて。ここで、学校あるあるを一つ上げる。

    定期テスト前。勉強量が多くて成績の良い人は、勉強しているアピールなどせず、普段はほとんど勉強しないバカに限ってアピールしがち

    どうだろうか?共感者は、きっと多いはずだ。

    二者の間で大きく違うのは「勉強という行為が特別なことであるかどうか」の認識である。

    例えば、「勉強3時間」。

    普段からコツコツ3時間勉強している人には日常。しかし、普段全く勉強しない人がテスト前夜にする「勉強3時間」はどうであろう。きっと、普段の生活から離れた一大イベントである。そりゃ自慢したくもなる。

    もしかしたら、君の周りにも「定期テストガチ勢」と呼ばれる人はいるのではないか?

    実は、私も、定期テストガチ勢の一人だった。テストの二週間前から本気で勉強し、それ以外の模試などはスルーしていた。

    結果、現役で大学に落ちた。(これに関しては後日、別の記事で掲載する。)
    身をもって分かった。

    努力が習慣に勝てる事は無い

    だって、彼らは頑張っていないのだから。感覚的には。

    歯磨きするのと同じだ。勉強をしない方が気持ち悪くなる。そういう精神で絶えずペンを動かしている。

    また、1時間やって1時間休憩を続けるとその習慣が、2時間やって30分休憩ならその習慣が、3時間やって10分間トイレやお茶を入れるのならその習慣がつく。ちなみに自分は浪人の時期、携帯を家に置いて塾に通うということを習慣化させた。(詳しくは以前載せた記事『「スマホ無しでは生きれない」??』で掲載している。↓)https://ch.nicovideo.jp/suigin__80/blomaga/ar1841035

    何が言いたいか。

    どうせ習慣化させるなら、厳しめに設定するのが良い

    ということだ。

    この記事を読み終えた人は今すぐ取り掛かって欲しい。

    「明日から頑張ろう」を30回言うと夏休みは終わる。

    「今」から三週間だけ頑張るのだ。

    勉強だけではない。ダイエットや料理、趣味などをしようか悩んでいるか悩んでいる方、3週間だけ頑張って欲しい。

    歩き出さなければ何も始まらない。

    どうしても違う、と思ったら進路変更すれば良いのだ。

    自転車のペダルは漕ぎ出しが一番重い。が、漕ぐにつれだんだんと軽くなる。これが習慣化だと思って良いだろう。

    休憩を多く挟むということは、それだけ漕ぎ出しの辛さも味わうことになる。

    休憩があるからリスタートが辛い。土日があるから月曜が辛い。浪人生には土日も夏休みもクリスマスも正月も無い。しかし、全く苦では無かった。やったことのない人にとっては、苦に見えるだろうが、私は感じてなかった。

    受験は、試験科目が決まっており、試験時間も、試験会場も決まっている。
    もちろん、試験の日が決まっている。つまり、終わりの日が決まっている。
    では、決まっていないのは何か。

    受験の始まりの日だ。


    受験にフライングスタートは無い

    いかに早く、「やらされてる勉強」から抜け出して「自発的な勉強」を習慣化させるかの勝負である。

    3週間だけペダルを回してみて欲しい。成功すると信じている。


  • 【哲学】明日の「あなた」は本当に「あなた」ですか?

    2019-12-11 22:3011

    教師はこう言う。

    「二年後を考えて勉強しろ」

    「十年後を考えて生きろ」

    しかし、こう言われたところでいまいちピンと来ない。

    だが、これをピンポイントの1点で考えると途端に怖くなるのは自分だけだろうか。

    例えば、1日後の、この時間ピッタリに自分が何をしているかを考えてみる。災害や事故に遭わない限りほぼ確実にこの部屋にいるだろう。トイレかもしれないし風呂に入ってるかもしれないしTwitterをしているかもしれない。それは分からないがここに存在しているはずだ。

    ここで怖いのは、たった一日先の事なのに、明日の自分は今日(今)の自分のことを全く考えてないということだ。

    今、自分は明日の自分の事が非常に気になっている。一体何をしながら何を考えているのか。しかし明日の自分はほぼ確実に気づかない(思い出さない)だろう。

    自分が欲しいのはただ1点、明日の「今」だ。

    明日の自分を例にしたが、これは1時間後でも良いし、50年後でも良い。こちら側からは考える(想像する)ことが出来る。大雑把ではなく、〜年後の「ちょうど今の時間」と。自分は何年後であろうと、確実にこの時刻に「いる」わけだ。地球上のどこかに。

    時間は連続である。つまり〜年後の「今」という一点を確実に過ぎる。しかし、今こうして必死になってその時について考えてることなど覚えてるはずもない。

    思考を巡らせていると、ふと、今の自分と今以外の自分は全く別物なのではないかと思えてくる。

    こういうことを考え始めたのは今に始まったことではない。

    小学生の頃の出来事。家でトイレを済ませた私は、月の変わり目だったのでカレンダーをめくった。それは私にとって珍しい行為だった。その時、「来月も、こうしてめくるんだろうな」と思った。同時に、「来月の今この瞬間は何をしているのだろう」と考えた。「暑いから半袖を来てるかな」「友達とゲームしてるかな」といった程度ではあったのだが。

    しかし、来月のカレンダーは親がいつの間にかめくっており、次に自分がめくることになったのは、およそ半年後であった。その時にめくろうと思ったのも単なる思い付きであった。めくる瞬間に半年前を思い出した。「あぁ、ごめん半年前の僕、めくるの忘れてた…」。

    その時、私は不思議な感覚に陥った。まるで、時がループしたような。気づいたら時間が経っていた。めくる前は確かに来月のことを考えていた。もちろん半年前から見た来月、つまり5ヵ月前のことなど覚えていない。

    少し怖くなった。

    そして、その瞬間に、今現在からみて、~日後、~か月後、~年後のことを考えた。

    「〜年後の僕は今頃してるかな」

    「~」に入る数字はもちろん忘れた。

    ここでまた怖いのが、その「〜年後の僕」というのは、から見て、とっくに過ぎてしまっているかもしれないし、まだ数年先かもしれないし、今この瞬間かもしれない、ということだ。

    それは分からないが、確実に言えることがある。

    「いる」ということだ。

    その時思い描いていた〜年後の自分が。人生の中のどこかには。気づくわけもないのに。

    そして、今も文字を打ちながら考える。一年後の「この瞬間の」自分を。1年後の12月11日午後22時8分時点の自分を。

    バイトはしているのか。授業はついていけているか。趣味は上手くいっているか。どうせこの時間だとまだ起きてこのベッドに座っているのだろう、などなど。気になることは山ほどある。そして1年後、この瞬間が訪れる事だけは確定している

    また、未来の自分はいるわけだが未来の自分を作るのは今この一瞬一瞬である。時間を微分すると「今」になり、積分すると「人生」になる、とどこかの名言集で見たのを思い出した。どんな些細なことも未来に繋がる気がしてならない。自分はとある大学に通っているが、そもそもセンターの点数が実際よりもっと高かったらボーダーの高い大学にチャレンジしていたであろうし、低かったら志望校を下げていた。また、この大学に落ちていたら私立に通っている。このような人は自分だけではないはずである。受験規模だけでなく、実際には何十億人もの偶然が絡み合って「今」がある。これから先も。一つ一つの行動が自分や他人に影響を与え、絶えず、その人が「今」想像する「〜年後の自分」というものを常に変え続けている。


    自分のことで言うと、春休みのバイトは何をするか。この後予習をするか復習をするか。明日の放課後に勉強をするか、配信をするか。今2択で悩んでいるAmazon電子機器商品をどちらにするか。明日の靴を左から履くか右から履くか。次のジャンケンでパーを出すかグーを出すか。どんな些細なことも何かしら今後に影響して、今想像している「〜年後の自分」は毎秒毎瞬更新され続けているのだろう。

    人生は偶然の連続であるが、未来の自分は必然的に「いる」。その事は分かる。どんな先にいる自分であろうと無限に考えることが可能である。なぜなら、時間を細かくすると未来の自分というのは無限に存在するからだ。しかし無限に無視されることも分かっている。

    分かっていることだらけなのにこの気持ち悪さは何なのであろうか。

    来月の自分はどうしているのか、来月の「今」何を見て何を感じ何を考えているのか。考え出すと気になって気になって気になって仕方なくて仕方なくて仕方なくて。本当に気になって気になって気になって仕方なくて仕方ない。

    まぁ、きっとこのような記事を書いた事もさっぱり忘れ、「カップラーメンなうw」とでもツイートしているのだろう。