「学びは、ぜいたく品だ」
この言葉を発したのは林修である。とある番組で、林先生に質問をするというコーナーがあり、ある高校生が質問した。
「林先生に質問があります。僕は今、高校生です。先生も親も勉強しろ勉強しろと言うのですが、どうしても勉強する気になれません。どうしたらいいでしょうか」
林先生はこう返した。
「やめちまえ、勉強はぜいたく品だ。あなたは何もわかってないかもしれないが、あなたが勉強するためにどれだけあなたのお父さんとお母さんが、辛いことも我慢し、いろんな障害も乗り越えて、仕事をして、お客様に頭を下げ、お金をもらって、それをあなたのためにと思って投資してるんだ。そんなこともわからないで勉強する気がねえのか。やる気上がんねえとかいう人間に学ぶ資格は無いのだ。」
まさにその通りだ。でも実際どうだろうか。自分の手を胸に当てて思い出してみて欲しい。
小学校中学校の時、どんな気持ちで勉強していたか?
その質問した高校生と同じだったのではないのか?
自分も受け身ではなかったか?
小学校の頃はいくらで中学校の頃はいくらで、と。お父さんお母さんがいくら払ってくれていたかを把握していたか?
していないだろう。ちなみに公立なら小学校に200万、中学高校は150万、私立ならこれの3倍の値段はかかってくる。これを自分で払えるか?払えない。でもお父さんお母さんは払ったのだ。そんなこと全く意識せず、常に受け身で、しっかり勉強しようとしなかった人が多かったかもしれない。もちろん私もそうであった。逆に授業中寝たことない、授業中落書きしたことない、という人はいるだろうか?大抵、適当にやっていたのではないか?
じゃあ、今はどうか。どれくらい学ぶ意識高いか?
今現在、内戦や戦争が起きている国がある。そこにいる子供たちも大人も学ぶなんてことは選択できない。戦争中に学ぶなんてことはありえないのだ。
私は思う。今の日本に生まれてきたことは非常に豊かなことである、と。
毎日、鉄砲の玉飛んでくるかもと思って生きる必要はない。家に帰ってきたときに「誰か忍び込んでるかもしれない」と思うこともない。電車に乗るとき、「後ろから刺されるかもしれない」と思って後ろのカバンに鉄板を入れている人はいるだろうか?いないだろう。しかし実際、そのような国はたくさんある。
でも私たちは、そんなことさえ考えなくていいくらい、安心安全に暮らしている。この豊かな日本でこの豊かな時代に生まれた私たちがやることはただ一つだ。贅沢しかない。違うだろうか。贅沢しない生き方などできるだろうか。私たちは贅沢をするために生きている。そしてもっと贅沢したいから私たちは勉強している。もっと豊かに生きたいから。
戦争中に自分の想いが伝わらなくて苦しんでいる人などいなかった。
「あぁ、今日も生きられた。子供たちが生きてる。お父さんお母さん生きてた。」
それだけで十分だった。
今の私たちはそれを十分だと思えなくなった。でも私はそれを悲観的に思ったことは無い。よし、贅沢しようじゃないか。自分が夢を持ったら、お父さんお母さんが止めても「いや、俺はやりたいんだ」と突っぱねてでも自分の夢を叶えれられる贅沢を味わおうじゃないか。
私はそう思っている。今は、生きたいように生きられる贅沢の中で生きている。そして、生きたいように生きる選択肢を増やすために私たちがやる行為のことを「学ぶ」というのだと思う。選択肢が増えないのに学ぶだろうか。
私たちは日々、選択肢を増やすために学んでいる。