寺山修司
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寺山修司

2019-07-18 21:36
    ほんとに自分に誠実であるためには、どんな手段でもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかの形で修飾や風刺や、演技ということが入ってくるんで、そういうものを見ると目の色変えてポーズだなんてけなすのは滑稽だと思う。

    8歳から詩を書きはじめ
    18歳で短歌を発表し、歌壇で華々しいデビューを飾った後
    19歳の寺山修司が語ったとされる言葉である。
    「職業は寺山修司」と自称していた意味が
    この言葉の中に集約されている。

    寺山修司は1935年(昭和10年)
    青森県に長男として生まれる。
    出征した父は戦病死。
    戦中、戦後の混乱を母、はつと二人で乗り越えた。
    米軍キャンプで働いていたはつだったが
    福岡の米軍キャンプに移ってしまったため
    寺山は母方の叔父の元に身を寄せることになる。
    母親以上の存在であったはつとの突然の離別は
    寺山の孤独を深め、若い感性を大いに刺激した。
    母への想いを短歌に詠み、詩に落とし込むことで
    寺山芸術の最初の一歩が踏み出された。
    腎臓を患って病床に臥せった18歳からの4年間は
    彼の、死に対する深い洞察を育み
    作家性を大きく花開かせた。


    若くして世間を賑わせた才能は
    「職業は寺山修司」という言葉に表されるとおり
    短歌を詠むだけに止まらなかった。
    短歌は自己表現手段の一形態に過ぎず
    それは、後に寺山が舞台や演劇の脚本を書き
    戯曲を仕上げ、評論を執筆し、詩集を編み
    作詞を手がけ、映画監督までつとめたことからも理解できる。
    多才という言葉で表現するにはあまりに陳腐かもしれない。
    それは「寺山修司」そのものの一級品の表現として
    多種多様な形をとって彼から溢れ出し
    世界もそれを欲していた。
    「書を捨てよ、町へ出よう」では
    当時の若者の「気分」をすくい上げ
    日本を挑発し、人々を熱狂へと駆り立てた。

    過激に時代を疾走し、数々の芸術を生み出してきた寺山は
    晩年、米国のエッセイストであるスタッド・タッカーのルポ
    「Division Street」に魅了される。

    「Division Street」とは、タッカーが住むアパート近くの
    小さな路地裏に関することを20年に渡って書き記したもの。
    建築される家々とその消滅。
    ある飼い犬の歴史。
    ゴミ捨て場の変遷。
    小さな犯罪事件などなど、細部にわたって克明に記録され
    それは「日常生活の冒険」に昇華される。
    触発された寺山は、この「Division Street」の
    日本版を企画することになる。
    それは「路地」を考え、「路地」から現代社会を考察する
    寺山らしい試みになるものだった。

    「寺山修司・遊戯の人」の著者、杉山正樹に
    寺山はこのように語っている。

    「ぼくらがふつう路地というと、両手を伸ばすとどちらかが塀に触れる幅だよね。ところが日本の近代はそういうものをどんどん無用化し封鎖してしまい、道は人間中心から車中心になって、散歩という思想を切り捨ててしまった。だから、人間が通れる道についてもういっぺん観察して、そこから人間の捉え直しをしてみてもいいんじゃないかと思った。文学や映画に描かれた路地あたりをひとつの手がかりにして、消えてゆく路地について考えてみたいんだな。一葉とか荷風の文学のなかの路地とか、落語や大衆演劇のなかの路地とか、滝田ゆうの『抜けられます』という表示のある路地とかさ」

    「路地」というものを改めて考えていくことで
    現代社会を捉える切り口、視点が浮かび上がってくることを
    寺山は見出していた。

    「路地というのは、表通りの喧嘩を解決する場所だったり、酔っぱらいがヘドを吐く場所だったり、じっくり別れ話をする場所だったりした。つまり、きわめて個人的な場所として意味をもっていたわけだけど、その突き当たりには、集合的な場所があった。たとえば、銭湯とかさ。銭湯がなくなってきたことと、路地が減ったことは無関係ではないんじゃないかな」

    「路地にただよう味噌汁の匂いとか、紙芝居の自転車のベルとか、そういう懐かしい日常はどこへ行ってしまったのか。子どもたちのユートピアだった場所は、もはや取りもどすことはできないのか。つまりこの企画は、都市論の補注としての路地の考察だといってもいいわけだし、人間関係の考察でもあるわけだ。人間疎外をとりのぞくための手段を考えることでもあるんだからね」

    路地への考察を深め、現代社会を観察すると
    そこには人間関係を見つめ直すヒントがあった。
    ”社会から排除されたもの”を見つめ
    その”排除されたもの”からの視点を芸術に生かしてきた
    寺山なりの新たなアプローチが展開されるはずだった。

    だが、「路地」を創作する過程で寺山は
    思わぬ不運に見舞われる。

    1980年(昭和55年)7月13日午後10時ごろ
    寺山が渋谷区宇田川のアパートの敷地内に入り込み
    階段付近をうろついていたところ
    住民につかまり渋谷署に突き出されてしまった。
    寺山は住居侵入の事実を認め、釈放。
    罰金の支払いを求められる略式起訴となる。
    「朝日新聞」は朝刊に
    〈寺山修司"夜の顔"〉
    〈アパート侵入、捕まる〉などと報じた。
    それをきっかけに、「毎日」「読売」をはじめとした
    全国の地方紙が一斉にこの事件を
    ”寺山修司が女性アパートを「のぞき」”
    というふうに面白おかしく報道した。

    「路地」を執筆するため、その考察対象である路地を訪れ
    実地研究していただけであったのだろうが
    この報道によって寺山は変質者扱いをされてしまった。
    恐らくこの事件をきっかけに、寺山は路地に足を運び
    思索を巡らすことが難しくなってしまったにちがいない。
    「路地」の執筆は頓挫してしまったと考えられる。

    この事件の3年後。
    未完の「路地」を残して、寺山はこの世を去った。
    享年47歳。

    路地も路地裏も消滅し、人々が共有できていた空間は
    もはや絶滅していたのだ。
    共有空間ではない、ただの私有地を訪れた寺山は
    ”異物”として”排除”されてしまった。
    寺山自身が人間疎外の被害者となってしまった。

    彼の「路地」が完成し、その著述のなかで
    人間疎外をとりのぞく手段が浮き彫りになっていたとしたら
    現代の日本にうずまく閉塞感や孤独感は
    幾分か薄まったのではないだろうか。

    生活感溢れる生身の空間を求めた寺山のように
    散策や散歩が難しくなってしまった現代を
    残された我々はどのように生きていったらいいのかとか
    そういうことはとりあえず一旦置いといてですね
    以上のようなことを踏まえてこちらの動画をどうぞw

    似てるーww

    喋り方や顔形とかだけではなくて
    思想性や思考の積み上げ方までも似せてきてるって
    最近のものまねでは見たことないw
    (受け手がいないという問題もあるww)

    格調高いものまね?w
    元祖こまかすぎて伝わらないモノマネ?w
    (いや当時は伝わっていたのだろうけども)

    もしかしたら、坂道を散策したり
    ブラタモリをやったりするのは
    寺山修司なるものを求めていたりとかだったりして…w
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