僕たちの失敗
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僕たちの失敗

2020-05-30 02:03

    ▪︎ 告白


    三沢光晴を殺したのは私だ。


    いきなりこんなことを切り出されても読者は困惑するだろう。順を追って話すとしよう。


    私が小学校3年生の頃、昭和57年のある金曜日午後8時、たまたま点いていたTVの画面に映し出されていたある試合によって、私はプロレスの虜になった。ブラウン管の向こう、プロレス中継の画面上で華麗に飛んだり跳ねたりしていた、タイガーマスクというプロレスラーの一挙手一投足に私の視線は釘付けになり、心を踊らせていた。

    毎週毎週、世界各国からやってくる刺客たちを迎え撃ってやっつけるタイガーマスク。その姿に自己を同一化させ、子どもながらに心の奥底に蓄積されていた日々のモヤモヤを解消させていた。自分も大きくなったらタイガーマスクみたいなプロレスラーになって、悪い奴らをやっつけたいと心から思っていた。


    しかし、小学校も高学年になってくるとプロレスの仕組みに疑問を抱くようになった。なんでロープに振られて素直に戻ってくるのか? なんで絶妙のタイミングでレフェリーが失神するのか? なんで馬場は(以下略 

    そんな中、我らがヒーローであるタイガーマスクは大人の事情で新日本プロレスを離れ、UWFという団体にスーパータイガーとして現れた。UWFは、格闘技志向が強いプロレスをリング上で展開していた。ロープに振られても戻ってこず、コーナーポスト最上段からの攻撃は交わし、場外乱闘などもってのほかであった。しまいには3カウントルールもやめてしまい、KOかギブアップのみという現在の総合格闘技的な路線に舵を切りつつあった。


    この路線を提唱していたのはかつてタイガーマスクの中の人だった佐山聡。しかしこの路線がプロレスファンたちに支持されるには時代が早すぎた。会場の客入りは悪く団体の存続も危ぶまれ、佐山選手は団体を追われるように去っていった。そして佐山選手は、後にシューティングという総合格闘技を立ち上げることになった。


    私も佐山選手とともにプロレスファンから足を洗った。



    ▪︎ 熱狂


    高校時代からまたプロレスを見るようになった。子供の頃よりも少しは世界の仕組みがわかるようになり、プロレスが持っている虚実入り乱れる世界観、今で言うところの『フェイクドキュメンタリー』的な魅力を感じるようになったからである。

    当時のヒーローはUWFを再興させ、そのリアリティあふれるファイトスタイルで社会現象化させていた前田日明。そしてもう一人、巨大資本をバックにした新興団体による選手引き抜きにより、存亡が危ぶまれた老舗団体『全日本プロレス』の若きヒーロー三沢光晴であった。奇しくもこの二人は、私が小学生の頃に愛読していた『プロレス大百科』によると、それぞれ猪木と馬場の後継者候補筆頭の若手選手として紹介されていた。


    三沢選手は全日本プロレスのリング上で、二代目タイガーマスクとして活躍していた。とはいえいくら才能に満ちあふれている選手でも二番煎じ感は否めず、初代ほどの人気は獲得できなかった。また高身長のため、初代のようにJrヘビー級で戦い続けるには厳しくなり、ヘビー級に転向した。さらに膝の大ケガも重なり、二代目はますます中途半端な立ち位置に追いやられてしまった。

    そんな三沢選手が一世一代の大きな賭けに出る。


    平成2年5月14日、東京体育館大会。主力選手の多くは新興団体に移籍してしまった。そして館外には雨が降りしきる、興行としては最悪の状況。客入りも悪い。そんな大会の中でも特に注目されてるわけではない試合。その試合で、二代目タイガーマスクは自らマスクを脱ぎ捨て、三沢光晴に戻ったのである。

    三沢選手は団体存続の危機を救うため、そして自分自身の再生のために虎の仮面を投げ捨たのだ。


    その後の三沢選手の活躍は改めて説明するまでもないだろう。若手選手を集めて『超世代軍』を結成し、当時の絶対エースであったジャンボ鶴田に戦いを挑んでいった。自分たちよりもひと回り大きく、身体能力が抜群でどんな技でもこなせる、さらに無尽蔵のスタミナを誇る、怪物と称された高い壁。その壁に向かって果敢にも戦いを挑んでいく若者たち、という構図は当時高校生だった私の心を捉えて離さなかった。さらにその熱は普段プロレスを見ないクラスメイトの間にも拡散していき、毎週日曜深夜に放映される全日本プロレス中継の学級内視聴率は50%を超えた。月曜日の休み時間は私の周りにプロレス初心者たちが集い、昨夜の試合に対する私の説法をありがたく聴いているという、一種異様な光景が繰り広げられた。


    しかしそんな幸せな時代は長くは続かなかった。



    ▪︎ 怒り


    平成4年11月、無敵の王者だったジャンボ鶴田は肝炎により一線を退くことになった。

    対立概念を失った超世代軍は、超世代軍と聖鬼軍に内部分裂を起こし、両者の抗争が中心となった。あっけなく世代交代を果たしてしまった彼らはまるで共食いのような抗争に明け暮れることになる。一年中同じ相手との戦いである事情も相まって、マンネリを防ぐために技のインフレ化・カウント2.9の攻防をひたすら繰り返す悲壮感あふれる戦いが繰り広げられた。


    時を同じくして海外から『バーリトゥード』という、ほぼなんでもありのリアルファイトが勢力を拡大してきた。時代の流れはリアルファイトを標榜していたUWF系(すでに3派に分裂していた)に傾いていたのだ。その焦りからか三沢選手たちの攻防はエスカレートの一途を辿る。リング上、エプロンサイドから場外のコンクリート床に向かって相手を脳天から真っ逆さまに落とすような、もはや技と呼ぶのも憚られる行為が当たり前のように行われるようになった。私は観戦を続けながらも心理的にはかなり引いていたが、表だって懸念を表明することはなかった。その頃、全日本プロレスの興行収益は過去最高を記録した。

    私はそのまま会場から徐々に足が遠のき、平成10年にTV中継で三沢選手が『エメラルドフロージョン』という名称の新必殺技を披露したのを目の当たりにしてから、試合を観ることすらやめてしまった。あれを技と呼ぶのは、私のプロレスファンとしての美学に反するからだ。そしてなにより、あんなに大好きだった三沢選手がこんな技を繰り出すようになった現実を直視したくなかったのだ。


    その後、プロレス界の流れはより一層格闘技路線に流れた。佐山選手や前田選手の後継者である、UWFでデビューした若者たちがバーリトゥードのリングに上がった。彼らは当時隆盛を誇っていたグレイシー柔術に立ち向かい、そして倒した。

    全日本プロレスは総帥ジャイアント馬場の逝去をきっかけとし、始めほとんどすべての所属選手が『NOAH』という三沢選手が立ち上げた新団体に移籍した。

    私はプロレス自体をほとんど見なくなった。しかし平成2年6月8日、日本武道館で行われたジャンボ鶴田vs三沢光晴の試合だけは、事あるごとに見返していた。特に嫌なことがあった夜には、酒を飲みながらこの試合を繰り返し観ていた。そして三沢選手が鶴田選手からまぐれのような3カウントを取ったシーンで決まって涙腺が緩んだ。



    ▪︎ 懺悔


    平成21年6月13日土曜日。仕事を終えて帰宅したばかりの私は、三沢選手が試合中の事故で病院に緊急搬送されたとのニュース速報を見た。当時私はニコ生で『昭和のプロレスをまったりと鑑賞する会』という放送をほぼ毎日流していた。さっそく三沢選手の応援放送を開始する。回復を祈って。視聴者がいつも以上のペースで増えていく。普段プロレスを見ない人も三沢選手の安否が気になっているようだ。


    放送を続けている最中に、三沢選手の訃報が入った。三沢選手の応援放送は追悼放送にそのタイトルを変えて朝まで続けた。もちろん泣きながら続けた。

    プロレスとは鍛え上げられた互いの身体をぶつけ合い、鍛え上げられた部位を攻撃し、全力で相手の技を受けるものだと思っている。それによって攻防の迫力と技の美しさが担保されるのだ。しかし三沢選手を始めとした彼らの戦い方は一線を超えてしまっていたのだ。ある意味バーリトゥードよりも生命に危険が及ぶレベルまで至ってしまっていた。

    そして彼らの戦いぶりにNOを突きつけるどころか、拳を振り上げ声の限り叫び足を踏み鳴らした。よりも高く、より遠くへ、より急角度で、と選手たちを煽るように。


    結果、プロレスは壊れた。プロレスラーは壊れた。プロレスを壊したのは私だ。

    三沢光晴を殺したのは私だ。





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