• 2021年に振り返る、寺田ヒロオの世界@トキワ荘マンガミュージアム

    2021-01-10 23:482

    公式サイト https://tezukaosamu.net/jp/mushi/entry/25467.html


     新年早々、2度目の緊急事態宣言が発出されることになったものの、こちらの日常にはたいした変化は起こらない。いちおうテレワーク推奨で出社を控えろ、という指令が出てはいるものの、仕事の納品スケジュールに影響が出ないのだから、あちこち駆けずり回る日々はあいかわらずだ。さて、まもなく2年目に突入するコロナ禍はどうなるのか。

     というわけで年明けそうそう忙しいことになっているのだが、それでも豊島区のトキワ荘マンガミュージアムで開催されている、「トキワ荘のアニキ 寺田ヒロオ展」には期間終了ギリギリに駆けつけることができた(注・その後、開催期間の延長が決定)


    トキワ荘マンガミュージアム全景

     私は子供のころにNHKで放送された『わが青春のトキワ荘〜現代マンガ家立志伝』を見て以来のトキワ荘ファン。昨年、豊島区にオープンしたばかりの「トキワ荘マンガミュージアム」のマニアックな再現ぶりは、同伴者がいたらうんちくが止まらなくなったことだろう。


    赤塚不二夫と石森章太郎が行水したことで知られる共同炊事場

     アパートの建物だけでなく、かの有名な「赤塚不二夫と石森章太郎が流行水した共同炊事場」や、寺田ヒロオ、水野英子、よこたとくお、そして石森章太郎の隣の部屋(アシスタント用に借りていた)が細かく再現され、椎名町の移り変わりや、漫画の描き方についての解説も丁寧に配置されている。


    再現された寺田ヒロオの部屋(ちゃぶ台の上にはチューダーのセットが)

     1階に降りると、資料室兼ミュージアム・ショップと展示室が並んでおり、こぢんまりした展示室で開かれているのが、おめあての「寺田ヒロオ展」。
     壁には、寺田ヒロオの生原稿がたくさん貼り出され、ショーケースには当時の掲載誌が展示されている。寺田ヒロオは枠線とよほど大きなコマ以外、すべてをフリーハンドで描いていたらしく、スッキリしたタッチに漂う温かみはそのせいだったのかと再確認。
     また、並べられた原稿や掲載誌が、まさに寺田ヒロオの作風と人柄を象徴する内容ばかりで、その的確な作品選択にスタッフの企画への熱の入りようを感じさせた。

     寺田ヒロオ(1931〜1992)、と言ってもその名前は今、ほぼ忘れ去られている。マンガ好きにとっては、藤子不二雄Aの自伝マンガ『まんが道』に登場する、面倒見のいい先輩・テラさんとして記憶していることだろう。
    『背番号0』や『スポーツマン金太郎』など、昭和30年代に心温まる児童漫画を描き続けた寺田ヒロオだが、トキワ荘の仲間たちが大メジャー作家へと飛躍していった昭和40年代、週刊化・過激化する漫画界になじめず、作品数を減らし続け、ついに絶筆へと至ってしまった伝説の漫画家。
     藤子不二雄や赤塚不二夫、石森章太郎らは出発点が手塚治虫であり、変貌する漫画界に合わせて作風を広げてゆく意欲を持っていたのに対し、出発点が井上一雄の『バット君』だった寺田は、「明朗快活で道徳的な児童漫画」という枠から抜け出すことも、アシスタントを雇って作画作業のプロダクション化を行うこともできぬまま、窒息してしまったようだ。
     漫画が進歩するたびに「表現の自由」をめぐる議論が絶えない。しかし、業界が表現の幅を獲得することで、逆に排除されてしまう才能もいた。


    寺田ヒロオの『パパニイ』と晩年作『七子の世界』(ポストカード)

     欲望充足を目的に描かれたマンガが氾濫する今、寺田ヒロオの良心的な作品群を読み返すと、その善良な世界に心が洗われる思いをするものの、やはり作品がよって立つ「良識」や「健全」の概念が、昭和30年代に閉じ込められたままなので、骨董品としての味わいしか感じられないのもつらいところだ。展示された作品の中に『パパニイ』という家庭漫画があり、これは父親が事故で生死不明になったため、たった一人の男手となった長男が、残された母親や姉妹たちを率いて家長を演ずるという内容らしいが、家父長制をなんの疑問もなく継続しようとするもので(形見らしきパイプを持ちパパ風に構えるのはカワイイが)、今の目で見るとかなりのズレを感じさせる。
    「健全」や「良識」、そして「道徳」も、時代と共に変化する。しかし、寺田ヒロオは時代に合わせて作風を更新できない作家だった。

     しかし晩年にあたる1982年ごろ、トキワ荘ブームや『「漫画少年」史』の編纂者として名前が浮上したからか、寺田ヒロオは雑誌連載で一コマ漫画を描いたことがあったらしく、それらの原稿も展示されていた。詩的なものから諷刺的なものまで、タッチも内容も決して衰えを感じさせるものではない。こうした作品をマイペースで描き続けられればよかったのに、と思ってしまう。


    トキワ荘の青春 デジタルリマスター版(公式サイト) http://tokiwasou2020.com/


     寺田ヒロオについては梶井純『トキワ荘の時代 寺田ヒロオのまんが道』(現在はちくま文庫)という評伝が描かれているが、この本を原案とする市川準監督の映画『トキワ荘の青春』(1996)が、今年の2月にデジタルリマスター版で再公開されるという。
     本木雅弘が寺田ヒロオを演じた『トキワ荘の青春』、私は公開時に観ているが、寺田ヒロオの挫折を中心に、若手漫画家たちの過ぎ去りし青春を淡々と描く、静謐な「三丁目の夕日」とでもいうべき映画だったので落胆した。

    「おいおい! なんでトキワ荘がこんなしみったれた純文学みたいな話になっちゃうの〜?」

     私にとってトキワ荘の魅力とは、「はちきれんばかりの想像力を胸に秘めた、それでいて貧乏な連中がくり広げる、若衆宿のバカ騒ぎ」そのものだった。昭和30年前後という時代だからこそ成立した、才能集団がつむぐ幸福な時間。しかし市川準監督は、その中で「取り残されてゆく男」を内省的に描くことを選んだ。「寺田ヒロオ展」を見た後で25年ぶりに再見したらどう思うか、改めて観に行くつもりではいる。

     そして帰り道には、『まんが道』でおなじみの中華食堂「松葉」(現存しているのだ!)でラーメンを食べるのであった。
    「ンマーイ!」


    『まんが道』でおなじみ「松葉」のラーメン

    NHK『わが青春のトキワ荘〜現代マンガ家立志伝』 (1981)取り壊し直前のトキワ荘が映っている


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  • 2020年に観た映画から……

    2020-12-31 22:16


    片岡一郎『活動写真弁史 映画に魂を吹き込む人びと』(共和国)

     「早いもので、2020年も本日で終了ということになりました。年末恒例のベスト・テンをうかがいたいのですが」

     「いやぁ〜、今年はコロナ禍で長い休業期間が挟まれるは、休業が明ければ怒涛のつめこみスケジュールに振り回されるわで、とても新作映画を観る時間が作れなかったんだよ」

     「それじゃ年々減りつつあった映画観賞本数が、今年はガクンと減ったわけですね?」

     「驚くなかれ、去年の半分以下ですよ。休業期間中はためこんでいた旧作ソフトや配信映画を観ることもできたんだが、下半期は新作のチェックがさっぱり……」

     「じゃあ、去年に続いて今年もベスト・テン選出は棄権ということで」

     「と、思ったんだが数少ない観賞数の中から、気に入った映画を並べたらちょうど10本になったのだ。2020年という特殊な年のメモリアルとして、いちおう公開しておこう」

    1.パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)

    2.異端の鳥(イェジー・コシンスキ)

    3.スパイの妻(黒沢清)

    4.Mank/マンク(デヴィッド・フィンチャー)

    5.ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(オリヴィア・ワイルド)

    6.ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密(ライアン・ジョンソン)

    7.ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋(ジョナサン・レヴィン)

    8.テリー・ギリアムのドン・キホーテ(テリー・ギリアム)

    9.魔女がいっぱい(ロバート・ゼメキス)

    10.ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語(グレタ・ガーヴィグ)

     「ふーむ、ベスト3以外は全部、英語の映画ですね」

     「まぁ、単館公開や小さな上映会までのぞきに行く余裕がなかったのと、世評と自分の評価が大きく食い違う作品も多かったのでね。それから、日本映画は新作がほとんど観られなかった。『アルプススタンドのはしの方』や『れいこいるか』、『夏、至るころ』、『ミセス・ノイズィ』、『私をくいとめて』などの話題作はそのうち観るつもり」

     「それにしても副題のついたタイトルが多いですねぇ」

     「だろ? 私が子供のころは、最近の洋画はカタカナ題名ばかりで内容の見当がつきにくい、などとオールドファンが嘆いたものだが、今じゃ説明的な副題をつけるのが大流行だ。日本人は余白の美を愛する国民性、などとよく言われるが本当かね? 少なくとも広告の分野ではまったく逆で、しつこいぐらいに文字を使って『意味』を押し付けてくるじゃないか」

     「往年の名作映画も、再公開の際には改めて副題がつくかもしれませんね」

     「『カサブランカ 君の瞳に乾杯』なんてのは勘弁してほしいよ」

     「『サイコ ベイツ・モーテルの恐怖』なんてのはどうでしょう?」

     「まったくヒネりがなくて逆にありそうだな。じゃ、『ライムライト 老いらくの恋』はどうだ?」

     「“老いらくの恋”って言葉じたいが古すぎて意味が通じるか不安ですが。では、タルコフスキーで『ストーカー 禁止領域へようこそ』

     「むむ、確かに『ストーカー』って言葉は別の意味で定着してしまったので、今だと副題が必要だと考えるアホがいるかもしれん」

     「今年の映画だと『1917 命をかけた伝令』だとか『シチリアーノ 裏切りの美学』とかいろいろありましたね」

     「『シチリアーノ』なんて原題は“The Traitor”(裏切り者)だもんな。それを言ったら『ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語』は原題が“Little Women”なんだから普通に『若草物語』でいいだろう。なんでこんなに長たらしくするんだ?」

     「たぶん、『若草物語』のままじゃクラシックな文芸映画のイメージを持たれてしまうので、どうにか今っぽさを出したかったのでは」

     「確かに、グレタ・ガーヴィグの新作は原作の『若草物語』が持つ現代的視点を巧みに抽出した佳作だったから、なんとかして今の観客に届けたいと思うのはわかるけど」

     「格差問題を大胆な構図で物語化した『パラサイト』にしろ、ラブコメ映画の図式を更新させた『ロング・ショット』にしろ、印象に残る映画はやはり“現代”と切り結んだ作品といえそうですね」

     「それだけじゃなくて『Mank/マンク』や『スパイの妻』のような作品でさえも、決して懐古調や趣味性に溺れぬ現代性を掴んでいたし、『魔女がいっぱい』もロアルド・ダール原作にBLM運動の盛り上がりを意識したとしか思えない脚色を加えている。今年随一のメガヒット作『鬼滅の刃 無限列車編』だって、実力主義による“強者の美学”を語る鬼たちが跋扈する状況に、必死の抵抗を見せる主人公たちを描いて、“よく働く者への挽歌”のパターンへ巧みに収斂させた作品と見ることも可能だ」

     「今後の映像作品は、劇場公開だけでなく配信公開もあるし、視聴形態もさまざま。“現代”を掴むことはもちろん、“受け手”をどう意識するのかというプロデュース戦略も求められそうですね」

     「そういえば先日、『活動写真弁史 映画に魂を吹き込む人びと』という分厚い本を読んだんだけどさ」

     「現役の活動写真弁士である片岡一郎さんが書いた、弁士の歴史をまとめた本ですね」

     「まさに労作、という言葉がふさわしい一冊でね。19世紀末に誕生した映画が、風景描写や日常スケッチから、ニュース報道や劇場での芸事の記録、歴史再現ショー、さらに“物語”を得て演出テクニックを磨いていった時代、これに並走する形で進化していった弁士の歴史を『ある生き物の記録』さながらに紹介した内容で、映画史としても芸人伝としてもじつに面白い。しかも、これまたノスタルジー一本槍な内容ではなかったんだよなぁ。今、アニメ大国となった日本では『声優』が大人気だが、声優ブームが発展する過程で起こる出来事は、だいたい弁士人気が盛り上がったころにも起こっていた、と言って過言ではなさそうだ」

     「そういえば、声優さんが特集されるテレビ番組では、その場でアフレコをやってみせるショーがつきものですよね。私なんか、ファンはあれの何を面白がっているのか、正直なところ不思議だったんですが……」

     「うん、日本人は琵琶法師の昔から、『語り芸』を尊ぶ歴史があり、それは義太夫や浪曲、講談に落語へと受け継がれているわけだが、映像文化においても映し絵や覗きからくり、パノラマなど口上がつくことで完成する表現が多かった。平面で完結している映像に、『声』の要素を付け加えることで立体的なライブショーとして楽しみたい、という独特の感覚があるらしいんだな。もちろん、これを『邪魔』と考えるインテリたちも、当時からいた」

     「へぇ、洋画のタイトルやポスターに文字情報をたっぷり付け加えたがる感覚にも通じるんですかね」

     「近年では、チャップリンの無声短編に複数の声優がライブでアテレコする『声優口演』というステージショーがあったが、活動写真弁士の創成期には、まさにそのような『声色弁士』と呼ばれる一団がいて、生アフレコ形式で公演していたこともあったそうだ。ぜんぜん知らなかったよ」

     「昔の弁士たちは、ビデオがないから説明用の台本を作成するのが大変だったでしょうね」

     「著者が現役の弁士だから、そういう“語り芸”の中身にも注目しており、現存資料から当時の説明のスタイルをいろいろ紹介してくれているのも嬉しいところだよ。そうやって三十年あまりかけて発展した映画説明者の文化が、トーキーの到来によってたちまち大絶滅へと至る……。映像文化の周辺でメシを食ってる人間にとっては他人事に思えない内容です」

     「なるほど、本日も国内感染者数は4515人と劇的に増加中、社会的距離とマスク着用がマナーとみなされるようになった社会で、映像文化の世界もなんらかの変化が起こることは間違いない、と」

     「実際、リモート会議がこんなに普及するなんて一年前には想像もつかなかったわけだからさ。われわれ業界のはしくれにいる者も、絶滅しないよう常にリスク・シナリオ・プランニングを練っておく必要はあるだろう。このブログも、まとまった文章を書く時間が取りづらいこともあるが、もっと短いコラム的な内容にして、その代わり更新頻度を上げてゆくことを考えている。“現在”の記録になることを意識してね」

     「はいはい、新年に向けての決意らしく、三日坊主で終わらないようにしてくださいよ。それではみなさん、来年もどうぞよろしくお願いします」

    活動写真弁士・澤登翠による説明付きのフリッツ・ラング監督『ニーベルンゲン クリームヒルトの復讐』


  • 女が仮面を外す時〜黒沢清監督『スパイの妻』

    2020-11-01 22:38



     今、某局のレギュラー子供番組で、ドラマパートの演出に参加しているのだけど、ウチの制作スタッフにはドラマ現場未経験の新人女性しかいないため、撮影スケジュールを予定通りに回すのが難しいことが判明。そこで、前回の撮影では他の回で演出を担当している若手監督にチーフ助監督をお願いしたのだが、その監督さん、東京藝大の大学院で映画を学び、教授を務める黒沢清監督から大きな影響を受けたという。

    「学生の時に『LOFT』と『叫』を観て、すげぇ、これこそ本物の映画だ、と感動しました」

     と、彼が藝大の門を叩いた動機を聞き、高校生のころに『ドレミファ娘の血は騒ぐ』をレンタルビデオで観て、伊丹十三製作総指揮の『スウィートホーム』の公開初日に駆けつけた世代の黒沢ファンとしては少し感慨深いものがありました。
     さらに、撮影期間中にヴェネチア映画祭で黒沢清が銀獅子賞(監督賞)を受賞したというニュースが飛び込んできたので、現場で彼とその話題を口にしていたところ、

    「あ、『スパイの妻』ならオレ、現場についてたよ」

     と技術スタッフの一人が声をあげたので驚いた。さっそく現場の様子を訊いてみると、

    「1日にワンシーンかツーシーンのゆったりしたスケジュールでね、長いカットが多くてテイクも少ないから、16時には終了でラクな現場だったなぁ

     そこがいちばん印象深かったらしい。
     なるほど、日本の映画・ドラマ界はよほどの大作でない限り、昼の撮影が終わればそのまま夜間撮影に突入というスケジュールがしょっちゅう。ワンカット撮り終えたらキャメラマンは三脚抱えて次のポジションへすっ飛んでゆくのがあたりまえの日常からすると、黒沢組は別世界に映ったようだ。

    「いい監督というのは、スタッフ・キャストに対する要求が高いものだ。さんざん大変な目に遭わせてなお、彼らから『もう一度仕事がしたい!』、と思われるのが一流だぞ。『あの監督はすぐ終わるし楽チンだから大好き!』なんて言われる奴は三流以下だ」

     と、かつて師匠から聞かされたものだが、確かに昔の映画を見れば、粘り屋の撮る映像の方が、早撮りの人にくらべて充実度が高く、時の風化に堪えている例は多い。とはいえ、酷使に見合う残業代をつけていた時代ならいざ知らず、薄給でパワハラつきの長時間労働に人が集まるわけがなく、その上できあがった作品が、配信で観られる海外作品にくらべてあまりにもショボいのでは、スタッフのモチベーションが上がるはずもない。
     これからの演出家は、「現場の熱は画面に映らない」という真理を肝に銘じつつ、時間と予算と安全性を見極めた上で、最善の効果をあげるマネージメント能力が求められるのは間違いないだろう。

     で、ベテランの技術スタッフが驚くほど効率的に演出をこなし、なおかつ海外の有名映画祭で受賞するという、誰にとっても理想的な結果を導き出した黒沢清の『スパイの妻』、先日やっと観賞しました。

    「今さらヴェネチア監督賞なんて遅い遅い、『CURE』のころに受賞して、『アカルイミライ』のころにはカンヌでパルムドールぐらい獲ってなきゃオカシイでしょ!」

     長年の黒沢ファンとしてはこのように叫びたいところではあるが、正直な話、黒沢映画はストーリーに弱さのあるものが多く、国際映画祭で評価が浸透するのに時間がかかったのはやむを得ない。そういえば、かなり昔のトークショーで、黒沢監督が「実際にあった事件や出来事を題材にした作品に挑戦してみたい」と発言するのを聞いたことがあり、彼の魅力は、その非リアリズム性漂う描写がいつしか独特のファンタジー世界を形成するところにある(その意味で戦後の小津安二郎に近い)、と思っていた私には意外だった。イーストウッドやスピルバーグをはじめ実話の映画化が大流行している昨今だが、作品内の「リアル」の基準をどんどんズラしてゆくのが特徴の黒沢演出が「実話」というリアリズムが担保された世界をきちんと描けるのか、少し疑問に思ったのだ。
     監督の発言は、当時企画中だった『一九〇五』(明治時代の横浜が舞台の時代劇だったが中止になった)を念頭に置いた上でのものだったろう。しかし、『スパイの妻』を見ると、改めて黒沢清がどのように「歴史」と触れ合おうとしていたかが垣間見え、そこが私にはひときわ興味深かった。

     濱口竜介と野原位によるオリジナル脚本『スパイの妻』は、かつて関東軍が満洲で人体実験をはじめとする非道な研究を行っていた、という事実を前提とする架空の物語で、「禍々しいものが映ったフィルム」、「階段のある部屋」、「窓外が不自然な乗物」、「霧に消えゆく船」、「制服のファシスト集団」などなど、黒沢映画の定番モチーフを散りばめつつ、夫婦間の恋愛サスペンスとして巧みにまとめられている。
     鍵となる「関東軍の蛮行が記録されたフィルム」のディティールには過度に踏み込まず(マクガフィンという奴ですね)、そもそもなぜ一貿易商がそんな場面の撮影を許可されたのかもよくわからない。しかも登場する憲兵の制服は映画オリジナルのデザインとなると、これはいわゆる「歴史再現」とか「実録」とかいうものではなく、描かれるのは「映画の世界」として設計された1940年の神戸だということが見えてくる。多くの戦中サスペンス劇のように、凶悪な軍部と正義の民間人の諜報戦がリアリズムたっぷりに描かれるものと期待した人は、ここで乗り損ねてしまうかもしれない。
     しかし歴史を題材に、おなじみの映像遊戯に淫するのではなく、夫婦それぞれの思慕と、国家と個人のぶつかり合いが重なり合ってゆく古典的メロドラマを描きながら、憲兵(東出昌大)、夫(高橋一生)、妻(蒼井優)の3人をめぐって「誰が『怪物』だったのか?」を観る側が探ってゆく特殊な怪奇映画として浮かび上がらせる手つき、このあたりに黒沢演出が新たな勝負に出ている様子が見てとれ、私は大いに興奮させられた。
     出演者では、出だしで無邪気な妻に見えた蒼井優が、夫の身辺に暴力の気配が感じられてくるや敏感に佇まいが変化するあたりと、作品中でもっとも「リアル」に撮られた劇中の自主映画で見せる表情がすばらしい。
     
     インターネットをのぞけば、ほんの数十年前の過去を積極的に忘却・払拭しようとする人々が多数いる現状、そんな「今の日本」を射程にとらえた諷刺劇としても観賞可能な『スパイの妻』は、テレビ用の小品なれど海外でロケを行ったりCGを駆使した近作よりも、いっそう懐の深いスケール感を獲得できていたと思う。
    『岸辺の旅』、『散歩する侵略者』に並んで、近年もっとも見応えある黒沢作品。劇場には大人の観客がたくさん集まっていた。