『映画監督 小林正樹』を読む〜幻の『敦煌』について
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『映画監督 小林正樹』を読む〜幻の『敦煌』について

2017-02-16 23:11


    公式サイト https://www.iwanami.co.jp/book/b266515.html

     2月14日は、映画監督・小林正樹(1916~1996)の誕生日。
     じつは101回目の誕生日に合わせて『映画監督 小林正樹』(岩波書店)のレヴューをアップするつもりで書き進めていたのだが、例によって長文になり過ぎ、14日は無慈悲に過ぎ去ってしまった……とほほ。まぁ、重厚長大といえば小林映画の合言葉、この文章を最初から終いまで読んでやろうという方が、長過ぎると苦情を申し立てることはありますまい。ゆるゆる始めさせていただきます。

    『人間の條件』(1959~1961)、『切腹』(1962)、『怪談』(1964)、『東京裁判』(1983)などの圧倒的な代表作を持ちつつも、それらは長い、暗い、堅苦しいの三拍子揃い、優雅と洗練とユーモアを志向する映画ファンからは敬遠されがちな小林正樹作品だったが、2016年は監督生誕100周年ということもあり、各地での特集上映や世田谷文学館をはじめとする文学館での展示、未ソフト化作品のDVD化などが一気に進行、同じ「四騎の会」メンバーだったにもかかわらず、黒澤明、木下惠介、市川崑らに比較すると、知名度でも作品評価でも大きく引けを取っていた彼にようやくスポットライトが当てられる一年となった。
     その100周年イベントの大本命として期待されつつ、出版延期が伝えられること数度、12月末になってようやく出版されたのが、『映画監督 小林正樹』だ。
     厚さは実に670ページ、監督自身のロングインタヴューあり、仲代達矢や武満徹をはじめとするキャスト・スタッフの証言あり、内外の研究者による個々の作品論あり、詳細なフィルモグラフィあり、そして小林監督がその後半生を費やしながら映画化を果たせなかった大作『敦煌』の検討稿まで収録されているという、幕の内弁当どころかフルコースが凝縮されたような一冊。装丁に散りばめられた篆刻は、監督が自ら彫った印ばかりという懲りようだ。
     これに、世田谷文学館「生誕100年/映画監督 小林正樹」展の図録を併せて揃えれば、これまで研究書も評伝もまったく存在しなかった謎多き小林正樹ワールドに、ようやく開墾の鍬が入れられたどころか、一気に道が敷かれ交通網が整備されたかのごとき変わりよう。後は利用者が増えるのみ!

     さてその『映画監督 小林正樹』だが、監督の個人資料としては、1993年に収録されたロングインタヴュー「私が歩いてきた道」と、昭和20年4月から10月まで、日本陸軍上等兵から米軍捕虜として過ごした日々を記録した「宮古島戦場日記」が共に完全収録されており、これがじつに面白い。
    「私が歩いてきた道」では、北海道小樽の自然を背景に、三井物産社員のリベラルな家庭でテニスとスキーに興じながらすくすく育った少年時代から、上京して早稲田大学で出会った會津八一の影響で芸術愛好青年へと変貌、さらに映画の道を志しての助監督生活、丸5年に及ぶ戦地での体験がじっくりと語られてゆく。「家族」と「父」を描く作家である小林正樹、広い風景と引きの画面を好み、主人公にインテリを設定する傾向の基礎は、やはり成長過程の刷り込みにあったことがうかがえる。
     特に、師・會津八一から学んだ東洋美術の影響は甚大だったらしく、

    會津先生の下で学ぶことで、ぼくは美の原点というものの魅力をとても感じるようになっていきました。たとえば仏像というのは中国の漢時代まで遡らないとわからないといわれています。さらにそういう仏像彫刻の線、衣の線や顔の線を理解するには、同じ時代の印から入らないとわからないのですね。(中略)ですから、大陸の東洋美術をやらないと、日本の美もわからないのです。

     といった発言など、時代劇を複数手がけながら、当時大量生産されていた娯楽時代劇とは一線を画する硬質な様式美を構築するセンス、そして後年、井上靖原作『敦煌』の映画化に執着する原点と思えてならない。

    水戸光子(1919〜1981)

     さらに、助監督時代から出征にかかる部分で驚かされたのは、当時『暖流』(1939)で高峰三枝子とダブルヒロインを演じて人気が爆発した女優・水戸光子とのプラトニックなロマンスだ。小林正樹は出征の直前、自身をモデルに『われ征かん』という脚本を執筆しており(世田谷文学館の図録に収録されている)、主人公とヒロインの関わりについては、実体験が元になっているんだろうなーとは思っていたが、まさか水戸光子とは。しかもヒロインのイメージキャストにちゃっかり「水戸光子」と書いてあるのですよ。これを本人に再現させようってんだから……えい、このシアワセ者め! 水戸は入営した小林のもとに面会に訪れたこともあったそうで、これはどうしたって『人間の條件・第三部』での入営した梶のもとに妻・美千子が面会に訪れる場面に影響したのではないかと想像するではありませんか。
     水戸光子とのロマンスについては、軍務の日々を綴る「宮古島戦場日記」の中盤で挿入される私小説『青春の旅』にも詳述されている。こちらも「死ぬ前に何かを残さなければ」との必死の思いで書かれたもので、「死の刻限を前に、どこまで人間性を高められるか」という終生のテーマがすでに浮上している力作だ。読めば二人の恋心に気づいていろいろ手を回してくれたのが小林の従姉・田中絹代だったり、二人がデートで訪れる銀座の骨董屋が「壺中居」(會津八一が揮毫した看板がかかっていた店。現在はギャラリーになっている)だったり、二人が最後の晩餐をとる店が「銀茶寮」(北大路魯山人が星岡茶寮の別館として開いた店)だったり、昭和の東京ファンなら楽しめるディティールが盛りだくさん。
     この仏教美術への真摯な憧憬と、水戸光子との甘酸っぱい恋愛模様を描いた『青春の旅』、小林監督は含羞に頬染めながら、こっそり書き綴っていたのかというとそうではなく、文学趣味の戦友や宮古島で知り合った教師らに堂々と読ませて回っているので驚かされる。そして「堤八千代(直木賞初の女性作家だが少女小説を多く執筆)のような感じ」とか「ロマンティックすぎる」とかいった率直な感想を返されてムッとしているのがカワイイ。この純粋さの奥にある「聖なる美」をなぜ見てくれないのか、というシュトゥルム・ウント・ドラング青年の魂の叫びが聞こえてきそう。この衒いなき純潔性を晩年まで維持しながら、「制度」や「死」と対峙し続けたのが、小林正樹という作家である。
     しかし小林正樹が出征中の1945年、水戸光子は森川信と結婚し、一児をもうけるも翌年離婚。その報せを知った小林は彼女からもらった手紙とチョッキを焼いたという。復員して木下惠介の助監督になった小林は『女』(1947)の現場で水戸と再会するのだが、互いにどんな思いだったのか……。

     映画監督になってからの部分でも、『壁あつき部屋』(1953)で巣鴨プリズンを取材して撮った映像を一部、『東京裁判』に流用しているとか、『怪談』の後に松竹を離れたのは退社ではなくクビであり、契約違反として裁判を起こした(勝訴している)、などの興味深い話が続くが、ひとつ奇妙に思ったのは『怪談』製作中のエピソード。撮影の途中で製作費が尽きたため、師匠である木下惠介に一千万円の借金を申し込んだところ、「一千万だとあとで苦労するのはあなただよ」と五百万円送ってきた、という話を披露しているのだが、これ、篠田正浩監督がインタヴュアーを務めた対談番組「わが映画人生」(こちらも収録は同じ93年)では、「五千万円貸してくれた」、とはっきり答えているのだ。単なる誤植なのか、小林の記憶違いなのか? 一桁違えば、木下監督の言葉の意味もまったく逆になってしまうのだが。


    イェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1961)

     映画人たちによる小林正樹回想エッセイでは、まず篠田正浩監督が松竹の後輩の視点で分析した「日本映画の中の小林正樹」が目を引く。「松竹ヌーヴェルヴァーグというものは、小林正樹という存在がなかったらああいう展開はなかった」と断言しているが、実際のところ、市川崑の洗練されたモダニズムやデザイン感覚が、増村保造や岡本喜八、さらに庵野秀明といった監督に発展的に受け継がれていったように、小林正樹のラディカルな表現主義と日本社会に対する批評的な視座は、その後の勅使河原宏や、大島渚、吉田喜重らの出現を先駆けたものだったと思う。
     さらに今年98歳になる橋本忍「切腹」は、傑作『切腹』を執筆した時の回想エッセイ。企画の発端は、たまたま訪問したカンヌ映画祭で見かけたイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1961)のポスターを見て、なんとか自分の作品をカンヌに出品させたい、と思ったことだという。なんだか現在放送中の「山田孝之のカンヌ映画祭」みたいな話ですなぁ。数年前に新人賞受賞作として雑誌掲載された滝口康彦『異聞浪人記』を読んでいた橋本は、カンヌで地中海の景色を眺めるうちに、切腹の座に着いた一人の浪人者のイメージがひらめく。

     私は思わずバネ仕掛けのように椅子から離れ、飛び上がった。
     まるで落雷にでも打たれたような衝撃だった。
    (そうだ! そう! そのままで!……今から切腹する浪人者が、切腹の座についての恨み節! そ、それでいいのだッ!)

     やたら芝居がかった橋本ブシが応えられません。後年、橋本は青森の山中で「日本髪を振り乱した若い女が、出刃包丁を構え、体ごと男にぶつかっている」というイメージがひらめき、「琵琶湖に沈められた女の恨み節」をテーマとする『幻の湖』(1982)を執筆・監督するわけだが、どうも一枚の「絵」から着想してゆくタイプらしい。小林正樹は松本清張『佐渡流人行』の脚本化を依頼しに橋本邸を訪問、スケジュールを理由に断られるも、たまたま前日に書きあがった『切腹』の脚本を持ち帰って映画化を即決したという。が、前述の「私が歩いてきた道」の取材では、小林は『切腹』の脚本は松竹の細谷辰雄か俳優座の佐藤正之の持ち込みで読んだはずと語ったそうだ。どちらが正しいのかは「藪の中」(←この言葉、現代の英語ではラショーモンというらしいです)ということで。


    『怪談』(1964)クライテリオン版Blu-ray予告編 https://www.criterion.com/films/629-kwaidan

     さらに、吉田剛「小林正樹というカオス」と、小笠原清「「終」マークなき『東京裁判』への道程」のふたつの回想録は、『人間の條件』から『東京裁判』まで、助監督の視点から小林組の現場を伝える好資料。特に、1億円の予算が3倍以上に膨れ上がり、制作会社にんじんくらぶを破綻に追い込んだ『怪談』の内幕については、プロデューサー・若槻繁が書いた『スターと日本映画界』、撮影監督・宮島義勇の自伝『天皇と呼ばれた男』の2冊を読んでいたものの、そのトラブル続きの現場の酷さに改めて若槻プロデューサーを気の毒に思った。撮影・宮島義勇、美術・戸田重昌、音楽・武満徹、録音・西崎英雄という「鬼」たちの跳梁を、いっさいの緊縮を叫ぶことなく放置した監督にいちばんの責任があることは間違いないが、他に俳優のスケジュール調整の問題や怪我の発生、現像ミスなどトラブルが重なったらしい。そんな状況でも信頼するスタッフ・キャストの理想追求を決して妨げない、というのが小林流の「完全主義」である。ともあれマイケル・チミノの『天国の門』(1981)、テリー・ギリアムの『バロン』(1989)に匹敵する大トラブル、できれば一冊にまとまったものを読みたいものだ。

     小林組がなぜ時間と予算がかかるのか、それは「小林組と美術監督・戸田重昌の仕事」からもうかがえる。『食卓のない家』(1985)の美術助手として参加した丸山裕司のインタヴューだが、木村威夫美術監督の助手であった丸山の目には、小林組と戸田の仕事ぶりは異様な世界に映ったようだ。
     ある日、照明準備も役者のリハーサルも終わっているのに、カメラが回らない日があった。50人ぐらいのスタッフ・キャストを待たせたまま、小林監督は指示もせず悠然としている。なにかロケセットに不満があるとしか思えないが、まずいことに美術監督も装飾担当も不在である。食器棚の中身の配置が悪いのだろうと見当をつけ、修正に行く。が、それでもスタートしない。時間だけが過ぎてゆく。改めてセットに入り、再度修正する。しかし小林監督も撮影の岡崎宏三もじっと腕を組んだまま動こうとしない。脂汗を流しながら3度めの修正を行ったところ、小林監督がおもむろに口を開く。「岡ちゃん、じゃあいこうか」。
     いや、そこは何がまずいのか教えてやろうよ、と言いたくなるし、普通の現場でこんな停滞が起こったら「今、ナニ待ち?」と誰かの怒号が飛ぶことは確実だ。が、小林組では誰もなにも言わずにじっと待つのが常態らしい。このように、スタッフ、キャストの全員が手を抜かぬ「本気」の調子が整うまで、ただひたすらに待ち続ける演出、時間と予算をどこまで削減できるか限界に挑戦中の現在からすると、まったくの別世界である。

     もうひとつ、柴田康太郎「作曲家・武満徹と録音技師・西崎英雄の仕事 小林組の音づくり」も、待ち望まれた内容だ。武満徹は小林正樹作品では、音楽家のみならず、音響演出の部分まで踏み込んだ仕事を担っていたが、その仕事を支えた録音技師・西崎英雄の存在に注目し、二人の分業がどのように小林作品を「音の映画」として彩っていったか、そして彼らがその後、大島渚作品や篠田正浩作品でいかに音響デザインの技術を発展させていったかについて紹介している。今後の研究の深化に期待したい。
     武満と西崎の二人は、『怪談』の現場で激しく対立したことがあり、そのためか初号試写は音響の成果が出ず、武満は怒りの手紙を小林正樹に寄越すことになる。その手紙も掲載されているが、内容は激烈そのもの。

    (前略)私は映画界のくさった美的感覚の全くない世界とはこれ以上つきあえないだろうと思いました。自分の人生のためにもぼくがそんな世界と交渉をもつ必要は全くない。
    私はすぐさまTapeを消してしまいたいほどですが、私のタイトルをはづしていただくことだけをお願いいたします。映画は恥知らずの製作者と無能な映画的技術家のものでしかない。日本ではそうです。いつでも意図したものにほぼ近い状態で満足しているに過ぎない敗北者の世界です。(後略)

     という武満の訴えを受け取った小林正樹は即座にダビングのやり直しを決断する。プロデューサーの若槻繁はもちろん大反対だが、小林は人件費を自分で建て替え、即座に準備に入ってしまう(当然ながらスタジオの使用費や機材費は後で若槻に回ってきた)。『スターと日本映画界』によると、再ダビングが始まったスタジオに顔を出した若槻は、小林から「若槻さん、あなたはプロデューサーとしての仕事を放棄したのだ!」と一喝されたというのでホント、お気の毒です。

     さらに、スクリプター・梶山弘子の手記「小林監督の置き土産」は最晩年の監督夫妻の姿を情感あふるる筆致でスケッチして涙を誘い、フィルムセンターの主任研究員・岡田秀則による「《つかの間の猶予》を巡って 小林正樹の未映画化脚本を読む」は、稲垣俊『日本の休日』、田向正健『あおによし 奈良の都は』などの映画化に至らなかった脚本を読み解きながら、「死」というその時を前にした「猶予」の時間を描く作家としての小林正樹を再検討している。特に『あおによし 奈良の都は』は小林版『世界大戦争』とでも言うべき最終戦争テーマのホームドラマ。イギリスのアニメ映画『風が吹くとき』(1986)を先取りした内容なのも気になるところ。

    『壁あつき部屋』(1953)松竹DVD

     後半は作品論のコーナー。この中では、安部公房の研究者である木村陽子「初期の伝説作『壁あつき部屋』を見る」に注目したい。巣鴨プリズンに収監されたBC級戦犯(<B・通例の戦争犯罪>、<C・人道に対する罪>に該当する戦犯)の問題を扱うこの作品、完成から3年もの間お蔵入りとなったことで有名だが、その事情について「戦犯を収監する米軍を批判する内容なので松竹がアメリカに遠慮した」と説明されがちである。が、木村は1953年の制作当時の視点で作品を再見し、「当時の戦犯釈放運動の矛盾を突きすぎていたため」ではないか、と指摘する。そのころの日本人にとってBC級戦犯とは「上官の命令で心ならずも加害者になった、かわいそうな人々」であり、彼らに命令を下した「真の戦犯」がどこかに存在する、という価値観が広まりつつあった。BC級戦犯は「道徳上では有罪だが、刑法上は無罪である」という理屈で即時釈放を訴える思想である。しかし『壁あつき部屋』は、そんな理屈はゴマカシに過ぎず、命令に従った者も明白に「有罪」だったのだ、と主人公が自覚してゆく物語である。脚本を担当した安部公房と監督の小林正樹は、日本人が忘れ去ろうとする「加害者意識」から目を背けることなく、後にアイヒマン裁判で有名になる「悪の凡庸さ」に切り込もうとしていた。そのため、松竹は戦犯釈放運動に同調する大衆から反発されることを恐れたのではないか、というもの。お蔵入りになった3年の間に戦犯の大半は釈放され、『壁あつき部屋』の先鋭性は薄まってしまった。後に戦犯問題を扱って国民的ヒットとなったのは、日本人の「被害者意識」に寄り添った『私は貝になりたい』(1958)である。その脚本家・橋本忍と小林は後に『切腹』でタッグを組むことになるのだから、人生は複雑だ。

     さらに、ヴァージニア工科大のスティーブン・プリンス「生命の息吹に触れる 小林正樹の芸術について」は、小林作品に頻出するキリスト教や仏教などの宗教的モチーフの処理を通じて、作品に浮かび上がる「聖性」について分析、1988年生まれのフランス人研究者、クレモン・ロジェ「崇高な残虐さ フランスにおける小林正樹作品の受容」は、1950年代のフランス映画界がミゾグチかクロサワかで盛り上がった後に現れた小林作品がどのように受け入れられたかを報告、作品に表れる残虐な暴力性は、制度への反抗と崇高さへの獲得に向かうバネとなることを指摘する。日本では未だに「反戦とヒューマニズムの作家」という紋切型でしかとらえられていない小林正樹だが、ここからようやくまともな作品論が始まってゆくのかもしれない。なお、スティーブン・プリンスは現在、小林正樹の研究書を執筆中であるという。
     そして劉文兵「小林正樹の「中国」」は、中国人研究者の視点で『人間の條件』から『敦煌』への流れを再確認したものだ。『人間の條件』の第一部・第二部で描かれる中国人描写とは、戦前の日本人が慣れ親しんだ記号的なステレオタイプに満ちており、それは作品自体が大きな図式の上で構築されたメロドラマであるためにしかたがなかったし、同時代に数多く作られていた他の「大陸もの」戦争映画でも同様だった。要するに、往年のハリウッド映画に登場する「ヘンな日本人」みたいな中国描写が当時の日本映画界には横行しており、『人間の條件』もそこから特別抜け出すことができたわけではなかったのだ。
     では、日中国交回復後に制作が具体化した『敦煌』では、どのような「中国」を演出しようとしていたのか。その先は、巻末に収録された『敦煌』検討稿と読みくらべるとさらに面白い。

    佐藤純彌監督『敦煌』(1988)
    予告編
    http://gyao.yahoo.co.jp/player/00998/v00142/v0000000000000000583/


    『敦煌』と言えば、1988年に鳴り物入りで公開された大映(徳間書店)制作の佐藤純彌監督作品は観に行きました。ええ、10代の映画ファンでしたからね。先日、当時の映画ノートが出てきたのでチェックしたところ、「なんというつまらなさだ。上映開始後10分でもう時計をのぞいた。以後10分おきに時計をのぞき、残り時間の長さに絶望した。」などと書いてある。子供は正直だね〜!
     この企画、もともとは小林正樹が20年以上に渡って準備していたものと後で知り、その構想に触れてみたいと思ったものだが、今回ようやく1983年2月の検討稿を読むことができた。

     脚本の内容を紹介する前に、井上靖の原作『敦煌』について押さえ直しておきたいのだが、これはいわゆる「想像力の文学」である。
     歴史小説と誤解している方もいるかもしれないが、この作品において事実なのは「20世紀の初め、敦煌の石窟寺院・莫高窟の壁の中から、数万点もの経典類が隠された一室が発見された」の一点のみ。誰がなぜ経典類を隠匿したのか、井上靖が作家的想像力を駆使して描いた完全な歴史ファンタジーだ。
     背景となるのは北宋の時代(1026年)、官吏任用試験を受けるため田舎から上京した趙行徳は、試験の待ち時間中に居眠りをしてしまう。気づけばとっくに試験は終了、エリート街道の夢はこれでご破算という大マヌケ。呆然として街にさまよい出れば、たまたま西域出身の女が素裸で売りに出されているのを助け、お礼に布切れをもらう。そこに書かれた西夏文字に惹かれた行徳は、隊商について西域へと旅をする。途中、西夏(タングート族)の漢人部隊に拉致されるが、隊長・朱王礼と友情を結び、その右腕として働くことに。ウイグル族との戦闘の最中、城内で王族の姫を発見、匿っているうちに恋愛関係となるが、念願の西夏への留学が決まったため、姫を朱王礼に預けて去る。1年の約束が3年経ち、西夏語をマスターして帰った行徳は、姫が西夏の王子・李元昊に取り上げられ、側室とされてしまったことを知る。行徳の帰還に気づいた姫は李元昊の閲兵中に城壁から飛び降りて死ぬ。行徳は姫からもらった首飾りを形見に、仏教の世界に接近、経典の西夏語への翻訳作業に従事する。西夏皇帝となった李元昊は周囲の国々を征服して国を成長させてゆくが、ついに朱王礼が反乱を起こした(彼もまたウイグルの姫に惚れていたのだ)。敦煌の城を舞台に李元昊軍と朱王礼軍の合戦が始まる。激戦の中、行徳は寺に残された膨大な経典を保存すべく、行商人・尉遅光をだまして石窟寺院の一室に運びこませる……。
     と、ストーリーを追うとなにやら壮大な歴史ロマンだが、原作はこれが淡々とした筆致で進んでゆく。読み終えて浮かぶのは、遺跡に資料が残される影には、どれだけ名もなき人々の生命が蕩尽されたのか、という歴史の悲劇性そのものだ。それを砂漠、戦火、宗教の複雑な色彩で染め上げつつ、最終的に「敦煌」という都市に集約してゆく。

     これをどう映像化するか。小林正樹が稲垣俊に執筆させた検討稿を読むと、なんと冒頭がロンドンの大英博物館なのですよ。探検家オーレル・スタインが敦煌から持ち帰ったコレクションの数々が映し出され、やがて現在の敦煌の遺跡へと移ってゆく。ナレーションが遺物発見の歴史と現在の研究状況を説明し、西夏地域の地図のアップを映すや画面はいつしか11世紀、荒涼たる砂漠を行くウイグル人の隊商に変わっている。砂漠の城に入城し、休息をとる隊の面々に近寄る青年、趙行徳。「どうか、自分を西夏に連れて行ってくれ」と頼み込むという展開だ。
     この脚色で驚くのは主人公・趙行徳が西夏に向かう動機づけが重要視されていない、という点だ。それよりも、大英博物館に収蔵された遺物の記憶として幻視が展開する、というイメージを先行させている。趙行徳はあくまで物語全体の狂言回し、行徳の目を通して、観客自身が東西文化の交流点であった中国・西域の世界を発見してゆく、という仕掛けを狙ったものと思われる。
     その後の展開はおおよそ原作を尊重しながら進む。合戦を経てのウイグルの王女との出会い、彼女の死、朱王礼との友情、李元昊との対立と反乱も砂漠と西域文化を背景に悠々と進行する。分量から察するに必要な尺はおよそ3時間半。 
     スポンサーとして名乗りを挙げた大映(徳間書店)は「娯楽性が足りない」、「歴史的なものを重視しすぎていて、ドラマ的なものが不足だ」という理由で改稿を求めるが、小林は根本的な改変に応ぜず、ついに大映から「製作を中止するか、原作権を譲渡して降板するか」という過酷な条件を突きつけられることとなる。


    西夏文字の経典

     実際に映画化された佐藤純彌監督の撮影稿(吉田剛・佐藤純彌)を読むと、物語を劇的かつ経済的に語るよう、原作からかなりの改変が加えられている。冒頭は宋の首都での官吏試験会場。主人公・趙行徳(佐藤浩市)は最終面接で西夏への対策法を問われて返答できず、失敗。街で出会った西夏の女(三田佳子)からもらった布に書かれた西夏文字に惹かれ、尉遅光(原田大二郎)の隊商について旅をすると、西夏軍の朱王礼(西田敏行)の部隊にさらわれる、という展開だ。ウイグルの姫も王女ツルピア(中川安奈)とヒロインらしい名を与えられ、出会いの場では甲冑姿で行徳に斬りかかる戦闘美少女にキャラ変更。李元昊(渡瀬恒彦)はツルピアと強引に結婚式を挙げようとする悪漢となり、ツルピアの自殺はその結婚式の真っ最中と相当にドラマチックな脚色となっている。
     舞台展開も小林版が雲州城(霊武)→涼州城(武威)→甘州城(張掖)→粛州城(酒仙)→瓜州城(安西)→沙州城(敦煌)と多彩に変化してゆくのに対し、佐藤版は崇德殿(北宋首都)から始まり、甘州城(張掖)→興慶城(西夏首都)→沙州城(敦煌)だけとシンプルにまとめられた。上映時間は2時間23分。
     砂漠を背景に繰り広げられる男たちと女のスペクタクル・ロマン。おそらく大映としては往年の『釈迦』(1961)や『秦・始皇帝』(1962)のような70㎜大作のイメージで売り出したかったのだろう。

     小林と大映の意見の齟齬について、前述の劉文兵はこのように指摘する。

     井上靖のベストセラー小説に含まれたスペクタクル性をより際立たせたうえ、メディア戦略を用いてヒットを仕掛けていく過程において、徳間側が固執していた「中国」のイメージは、おそらくかつて小林正樹が『人間の條件』の中で描き出したファンタジックな「中国」と通底しているように思われる。
     しかし、『敦煌』に至ると、小林正樹が試みたかったのは、戦争やその後の文革によって何重にも抑圧され、見えなくなった中国の歴史や文化を、緻密な時代考証にもとづき、スクリーンの中に君臨させることであったように思われる。

    『敦煌』はそもそも、原作自体が日本人作家の空想の産物であり、これを日本人が日本語で演じるという企画だ。ハリウッド製の『戦争と平和』(1956)や『ジンギス・カン』(1965)が横行した時代とは異なり、合作相手は現代の中国人。彼らに恥ずかしくない作品にするには、描かれる中国文化について綿密な時代考証と即物的なリアリズムで臨み、作品の持つファンタジー性を止揚させる必要があった。かつての『怪談』が、西洋人原作者の視点でとらえ直された日本美の世界だったのと同様、シルクロードの終着点である日本から見返した大陸文化の美そのものを描きたかったのだろう。おそらく、小林の想定する『敦煌』とは、『バリー・リンドン』のタッチで展開する『アラビアのロレンス』のような叙事詩だったのではないか。
     しかしすでに『未完の対局』(1982)で中国との合作を経験済みであった大映としては、このスケールでは製作予算がとうてい賄えない上、日中両国での大ヒットは望めないこと、さらに『怪談』での制作費超過という<実績>を考慮して、小林を外さざるをえなかったようだ。企画はその後、深作欣二を経て佐藤純彌に受け継がれるが、両監督とも制限ある予算の中で原作をいかに血湧き肉躍るアクションドラマに仕立て直すかで苦労したという。この原作、英雄譚にすればするほど日本人には縁の遠い話となり、中国人には白々しいものに映るのではないかと思う。

     インタヴューでは、小林正樹は降板の真相についてあまり多くを語っていないが、以下の言葉は重く、苦い。

     断念したいきさつは、これ以上はいろいろと差し障りがあって話せません。ただ、大映との関係で人間としての信頼を踏みにじられるようなことがあった。それはもう、ぼくとしては映画界全体に対する不信感になってしまいました。よくこんな世界で生きてきたものだという、そういう不信感です。

     じつはSNS上で、晩年の小林監督に面会した方のコメントを読んだことがある。話題が公開版の『敦煌』に及ぶと、小林は「ダメなシャシンにしちゃったよ……」とつぶやいたという。
     しかし今、『映画監督 小林正樹』に収録された、監督本人の肉声やスタッフ・キャストの証言、個々の作品論を踏まえた上で味わう『敦煌』検討稿はまた格別である。戦乱に翻弄されながら、西夏語の学習に経典の翻訳、大量の経典の保存に邁進する教養人・趙行徳の姿は、戦時中、「宮古島戦場日記」に奈良の古刹や仏像の批評を詳細に記録したり、「1767年 フンボルト誕生、カント47才、レッシング38才、ゲーテ18才〜」に始まる西欧精神史年表を脈絡なく書きつけたり、愛する女性の記憶を私小説として作品化しようと試みる一兵士・小林正樹の姿に重なってゆく。戦乱など歴史の暴威の中でかき消されがちな個人の倫理と美意識にいかに永遠性を与えるか、国の存亡などよりも「美」を優先してはいけないのか、という戦い。思えば小林作品はいずれもそうした戦いに自分自身が飛び込んでゆく「私映画」だった。

    『映画監督 小林正樹』は、小笠原清、梶山弘子の二人の編者に見事「小林組」の完全主義精神が受け継がれていたことを実感させられる大著である。特に、世田谷文学館の図録に『われ征かん』などの初期脚本を再録、今回も手書きの「宮古島戦場日記」を収録用に書き起こした梶山氏の労苦にはほとほと敬服する。これからの作品再見が楽しみだ。



    P.S.
    莫高窟から発見された「敦煌文書」の研究はさらに進み、発見された教典類について「戦乱から防ぐため仏教僧が隠した」というかつて主流だった説は否定されつつある。近年有力となっているのは「不要になったが捨てるに忍びない資料を一時的に保管しておいた」という説。発見された部屋はBOOKOFFの倉庫みたいな場所だったらしい。歴史ロマンは何処に……


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    ふかくこの生を愛すべし〜「生誕100年 映画監督・小林正樹」
    http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar1052239

    市川崑と小林正樹〜モダニストとクラシシスト
    http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar1010214


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