テリー・ジョーンズの死とテリー・ギリアムの新作〜『Hなえっちな変態SMクラブ』と『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』
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テリー・ジョーンズの死とテリー・ギリアムの新作〜『Hなえっちな変態SMクラブ』と『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』

2020-01-29 14:16


    公式サイト http://donquixote-movie.jp/

     先週は、モンティ・パイソンのメンバーであるテリー・ジョーンズの訃報(享年77)が飛び込んだのと、テリー・ギリアムの新作が日本公開を迎えるという、パイソンズのファンにとっては泣き笑いの一週間となった。

     イギリスの伝説的コメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』(1969〜1974)のビデオが発売されたのは80年代。当時10代だった私も熱中し、多大な影響を受けた。グレアム・チャップマンジョン・クリーズのケンブリッジ卒コンビが生み出すシニカルで論理的なギャグも面白かったが、テリー・ジョーンズマイケル・ペイリンのオクスフォード卒コンビが生み出すシュールで映像的なギャグがことのほか好きだった。ジョーンズ&ペイリン組は、後に『リッピング・ヤーン』(1976〜1979)というシリーズをBBCで製作するが、これなどはイギリス流のユーモア・スケッチ映像版としてマレな傑作なので、未見の方にはぜひお薦めしたい。『Mr.ビーン』あたりとは次元の違う面白さだ。


    『リッピング・ヤーン』第1話「トムキンソンの学校生活」

     パイソンズはケンブリッジ派とオクスフォード派のほかに、音楽ネタを得意とする一匹狼エリック・アイドルと、奇抜なアニメーションを制作するアメリカ人、テリー・ギリアムの6人によって構成されていたわけだが、このメンバーが初のオリジナル長篇映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』1975)を製作するにあたって、共同で監督を担当したのがテリー・ジョーンズとテリー・ギリアムだった。情熱的で仕切りたがりのジョーンズと、映像センス抜群のギリアムとの分担作業がとてもうまく行ったように見える映画化だが、やはり撮影現場で個性の強いメンバーを束ねるのは大変だったようで、以後の『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)、『人生狂騒曲』(1983)といったパイソン映画では、ジョーンズが単独で監督を担当、作家性の強いギリアムは美術や特殊効果のみを請け負うことになる。

     テリー・ジョーンズは『カンタベリー物語』のジェフリー・チョーサーの研究家としても知られ、童話作家としても活躍した多才な人物だったが、映画監督としては『Personal Services』(1987)という作品が忘れがたい。日本では『Hなえっちな変態SMクラブ』というポルノまがいの邦題でビデオ化されたのみだったが、最近CSでも放送された。息子の学費を稼ぐため、ウェイトレスをしながらコールガールに部屋の又貸しをして稼いでいたシングルマザーが、ついに自ら売春を始めるという話で、いつしか仲間が集まり事業拡大、彼女の娼館はさまざまな性癖を持つ人々が訪れる「変態の楽園」として大繁盛。さながら『にっぽん昆虫記』のイギリス版だ。
     これ、シンシア・ペインという娼館経営者が逮捕された実話を元にしており、脚本を書いたデヴィッド・リーランドはシンシアをモデルに映画を作るにあたって、まず彼女の少女時代にスポットを当て『Wish You Were Here』(1987)という青春映画を自ら監督した。そう、ピンク・フロイドの名曲と同じタイトルなんですねぇ。フロイド曲の邦題は「あなたがここにいてほしい」だったが、映画の邦題は『あなたがいたら/少女リンダ』。その実質的な続篇として、大人になった彼女が起こした事件を脚色したのが 『Personal Services』だ。邦題でいうと『あなたがいたら/少女リンダ』が『Hなえっちな変態SMクラブ』へと成長したわけで、なにやら無常感が漂う。撮影は現代最高のキャメラマンの一人、ロジャー・ディーキンス。巧みな移動撮影が演出を助けている。


    映画『Personal Services(Hなえっちな変態SMクラブ)』予告編
    https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=cbrR3Aot2Pw&feature=emb_logo

     テリー・ジョーンズは『エリック・ザ・バイキング〜バルハラへの航海』(1989)や『ミラクル・ニール!』(2014)のようなファンタジー色の濃いコメディを撮ると、どうもスケール感を出せずにギャグも弾まない傾向があり、堅苦しいお国柄をセックスの面から風刺する、『Personal Services』のような重喜劇(©︎今村昌平)が向いていたのではないかと思う。
     ただ、男性との売春行為をいっさい疑わない主人公たちが、世間から「変態」とされる人々を肯定することでリベラルかつパワフルなヒロインとして描かれるこの作品、「良識」で取り繕った社会へのカウンターカルチャーとして成立したのは20世紀までな気がする。「良識」が溶解した現在において、このメッセージを正しく伝えるには、さらにもうひと工夫が必要かもしれない。


    『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』(2018)予告編

     バロックな世界を視覚的に楽しませてくれる天性の映画監督は、あきらかにテリー・ギリアムの方だったわけだが、その彼も『バンデットQ』(1983)、『未来世紀ブラジル』(1985)、『バロン』(1989)の「夢想者三部作」を撮って以後は、『ブラジル』での最終編集権をめぐる争いや、『バロン』での大幅な予算超過といったトラブル続きが災いしたのか、「不遇」の一語が離れないフィルムメーカーになってしまった。同年輩のリドリー・スコットが今もハリウッドの最前線で豪速球を投げまくり、同じアニメーション畑出身のティム・バートンがダーク・ファンタジーの第一人者として多彩な活躍をしているのにくらべると、大きく水をあけられた感は否めない。しかし、時に優秀な「職人」に徹することができるスコット、バートンらとは違い、ギリアムは作品に自分の体臭をこすりつけようと愚直に格闘してしまう不器用な「芸術家」。ファンもまた、ギリアムの個人的体臭が薄めの作品には容赦なく不満を口にする。上出来にまとまった作品など、ハナから期待していない。

     で、そんなテリー・ギリアムが1990年代から抱えていた企画が、『The Man Who Killed Don Quixote(ドン・キホーテを殺した男)』。2000年にジョニー・デップ主演で撮影開始にこぎつけるが、強引にプロジェクトを組んだ無理が祟り、ロケ地の不首尾や悪天候、ドン・キホーテ役のジャン・ロシュフォールの病気といったトラブルが重なって、ついに製作中止に陥った顛末は、ドキュメンタリー映画『ロスト・イン・ラマンチャ』(2002)にくわしい。
     その後もギリアムが『ドン・キホーテ』の製作を再開した、という噂が流れること数度、主演俳優の情報はコロコロ変わるが、どうしても撮影開始にこぎつけられぬままポシャってしまう、幻のプロジェクトとなっていた。ギリアムの「ドン・キホーテ企画発進」は、「宮崎駿の引退宣言」と同じくらいアテにならない情報として映画ファンに知れ渡り、「ギリアム先生、このまま『見果てぬ夢』を抱えたまま世を去ってしまうのでは……」とファンも本人も心配になっていたところ、いつの間にかアダム・ドライバーとジョナサン・プライスの主演で撮影開始、無事に完成へと至ったのだから驚いた。

     とはいえ、完成したからって油断はできぬ。だいたい「構想ウン十年の夢のプロジェクト」が、蓋を開けたら熟成させすぎで酢になっていた、なんてことはよくある話。過度な期待は禁物、禁物……。
     が、公開初日に現物を観てもう一度驚いた。『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』と邦題がつけられたこの新作は、ひさびさにギリアムの体臭がプンプン漂う純度100%の力作だったのだ。しかも、内容はまさかの「夢想者三部作」の完結篇(みたいな感じ)。21世紀になって80年代の夢の続きが観られるとは思わず、客席で快哉を叫びたくなった。
     2000年にジョニー・デップで撮影した時点では、現代のイヤミなCMプロデューサーが、17世紀にタイムスリップして本物のドン・キホーテに遭遇するという、マーク・トゥエインの『アーサー王宮廷のヤンキー』に似た物語だったようだが、完成した作品では、売れっ子CMディレクターが、学生時代に撮ったドン・キホーテ映画のロケ地を再訪したところ、当時の撮影に参加した老人が今もドン・キホーテを演じ続けており、その妄想世界に巻き込まれるという、きわめて内省的な物語になっていた。主人公のCMディレクターと、ドン・キホーテを演じる老人は、ハリウッドの「商業」の論理に苦しみながら、個人的な「夢」を追い続けて悪戦苦闘するギリアム自身が分裂した姿に違いない。
     さらに、「ドン・キホーテを連れ帰るため村人が仮装して芝居を打つ」とか「『前編』を読んだ公爵夫妻がドン・キホーテをからかうため屋敷に招く」といったセルバンテス原作のエピソードもしっかり流用、夢と現実が行き来するメタフィクション構造にいっそうの奥行きを与えている。主演のアダム・ドライバーが長い手足をバタバタさせながら演じるサンチョ・パンサもいいが、ジョナサン・プライス演じるドン・キホーテはさながら『未来世紀ブラジル』の主人公が転生した姿で、彼がロシア人富豪のパーティーで愚弄される場面は悲痛なものがあった。


    ギュスターヴ・ドレが描くドン・キホーテとサンチョ(『バロン』に続いてギリアムのイメージ源となった)

     いっぽう、映画としては弱点も多い。脚本をいじりすぎたせいだろう、前半の展開はモタモタして冗長だし、女性キャラクターを活気づかせられないのも相変わらずだ。あえてCGを多用せず、歴史的建造物を借りてのロケが中心となったようだが、やはりユニークなセットを駆使した全盛期の映像にくらべると視覚面ではヴォリューム不足。予算の都合か『ロスト・イン・ラマンチャ』の時は準備していた、マリオネットの兵士たちとのチャンバラ場面も削除されてしまったらしい。
     それでも、仮装舞踏会での迷宮感はひさびさのギリアム節に酔わせてくれるし、原題「ドン・キホーテを殺した男」の意味が判明するラストは胸に迫るものがあった。夢の破綻と再生。『バロン』のラストの語り直しとはいえ、「夢VS現実」のドラマを愚直に描き続けるガンコ一徹な芸術家ギリアムによる「オレは絶対に夢から覚めないぞ!」という高らかな宣言が聞けて、嬉しかった。

     だが、『Personal Services』の諷刺がストレートに通じにくくなったのと同様、「夢の勝利」を信じるギリアムの姿勢は、「分断」が進む現在において、はたして有効なのだろうかと疑問に思わなくもなかった。今、下層の側が抱くことのできる「夢」とは、例えばポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』(2019)のラストが描くような、絶望の一形態にほかならないのではないだろうか。それともギリアムは「白鳥の歌」を歌うにあたって、『未来世紀ブラジル』のラストを鮮やかに転換させた、ととらえるべきなのだろうか。
     夕陽に向かって消えてゆくドン・キホーテの姿をまぶたに浮かべつつ、自分自身がドン・キホーテとしてあるならば、これからどんな戦い方ができるのか、観終わって思いを巡らせずにはいられなかった。


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