夢みる機械〜安部公房、キューブリック、ピンク・フロイドの眼 (その2)
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夢みる機械〜安部公房、キューブリック、ピンク・フロイドの眼 (その2)

2014-12-27 11:33




    Chapter 2

    もしもシンセが弾けたなら

     安部公房はピンク・フロイドをいつごろから愛聴していたのだろうか。1979年6月のインタヴューでは、アナログ的文化とデジタル的文化の違いに触れつつ、このように語っている。

     それから、音についてもそうだ。たとえばロックをとっても、音よりボーカルの方が主導権を握っている。これは世界的にもそういう傾向があるけれども、ピンク・フロイドのような存在を考えた場合、これは明らかにボーカルの比重が音よりも軽い。彼らにはむしろ、シンセサイザーという新しい音の素材をこなして、新しいクラシックを作ろうという衝動がうかがえる。しかし、日本のニュー・ミュージックなどというのはなんのことはない、すべて歌詞なんだね。
                                (全集26巻p383)

     当時、「安部公房スタジオ」を主宰していた安部公房は、作・演出だけでなくシンセサイザーを使った作曲にまで手を広げていた。自作の音楽を舞台に使用し始めるのは、1976年の『案内人』からであり、おそらく1975~76年の間にシンセサイザーを購入したようだ。参考のためシンセサイザーを効果的に用いていた作曲家やロックバンドのレコードを片端から聞き、特にピンク・フロイドに強い共感を覚えたのではないだろうか。
     ピンク・フロイドはロジャー・ウォーターズ(b)、デヴィッド・ギルモア(g)、リック・ライト(key)、ニック・メイスン(ds)の4人によるイギリスのバンドだ。即興演奏やクラシックとの融合、コンセプト・アルバムへの挑戦、演劇性の高いステージ演出など実験的なアプローチをくり返し、その「ロック」の枠を拡大する活動は若いリスナーの知的好奇心を大いに刺激した。1973年に発表したアルバム『狂気(The Dark Side Of The Moon)』は世界的な大ヒットを記録し、それまでカルト的な人気に留まっていた彼らを、一気にビートルズやローリング・ストーンズと並ぶ世界的ロックバンドの地位へと押し上げた。しかし、ピンク・フロイドは「プログレッシブ・ロック」のジャンルにおいても、同世代の人気バンド、キング・クリムゾンやイエス、エマーソン・レイク&パーマーとはあきらかに異質な音楽観の持ち主である。そもそも彼らは演奏力が高くない。存在感を放つボーカリストもいない。音数は少なく曲構成もシンプル。それなのに現実音(リアルノイズ)を複雑にコラージュし、ゆったりとしたペースで展開する楽曲は迷宮的な奥行きと浮遊感を醸し出す。リスナーに壮大かつ文学的な幻想を見せるかと思えば、きわめて個人的な内省の感情へと切り込んでゆく。

     ところで、安部公房がシンセサイザーを得意としたというと、彼が流麗にキーボードを弾いている姿や、あるいは塔のように巨大なアナログシンセに取り囲まれている姿をイメージされる方もいるかもしれないが、どちらも誤りである。
     安部公房が愛用したシンセサイザーは1971年に発売されたEMSの「Synthi AKS」という製品で(写真)、同社の初期製品「VCS3」をブリーフケースに収納し、蓋の裏側にフィルム・キーボードとデジタル・シーケンサーを内蔵した持ち歩き可能なモデルだ。当時は100万円近い価格がしたそうだが、ごく最近まで発売されていた名機である。鍵盤をいじって出した音に、効果を加えたりループさせたり、あるいは内蔵されたテクスチャー音や音響効果を足すなどして曲に発展させて記録する。つまり、楽器が弾けない者でも作曲が可能であり、作曲の可能性を大きく拡大した機械なのである。なお、箱根の仕事場写真を見ると、その後Korgの「MS-20」(1978年発売)も入手しているようだ。


    「Synthi AKS」

    【動画】Kōbō Abe's EMS Synthi AKS
    https://www.youtube.com/watch?v=2RttZ3J5_YE
    (シンセサイザーによる実作を紹介する安部公房)


     ピンク・フロイドがシンセサイザーを導入したのは、1972年のアルバム『雲の影(Obscured By Clouds)』からだ。機種はEMSの「VCS3」。1972年に撮影されたライブ映画『ピンク・フロイド/ライブ・アット・ポンペイ』には、アルバム『狂気』の制作風景も撮影されており、ロジャー・ウォーターズが「Synthi A」(Synthi AKSの前機種)をいじりながら「走り回って(On The Run)」を作曲する様子が収録されている。
     人の内面に潜む感情をテーマにした『狂気』以後、ピンク・フロイドが発表したアルバム、『炎(Wish You Were Here)』(1975)、『アニマルズ(Animals)』(1977)、『ザ・ウォール(The Wall)』(1979)はすべてコンセプト・アルバムだ。コンセプト・アルバムとは、アルバムすべての曲を合わせてひとつのイメージ、ひとつのストーリーを表現し、ジャケットやインナーのデザインまで含めてレコード全体が「ひとつの世界観」を提示するものである。ピンク・フロイドは各曲の構造・演奏自体はシンプルだが、シンセサイザーの効果や現実のノイズを素材に、またミキシング技術を駆使して、緻密な音迷宮を作り上げてゆく。まだサンプリングという概念はなく、優れたミューシャンの大半が練習によるテクニックの向上に勤しんでいた時代に、彼らはまったく異なる手法で独自の音楽ドラマを創出しており、デザイナー集団「ヒプノシス」によるシュルレアリスム的なジャケットデザインも含めて、思想性の強いバンドとして人気を集めていた。
     鳥羽耕史『運動体・安部公房』によると、安部公房は『壁』(1951)の初刊本においては、桂川寛の挿画、勅使河原宏の装幀、石川淳の序文、著者近影の写真まで含めて「共同制作としての書物」としての出版物を志向した形跡があるという。また、ボクシングジムの現実音と武満徹の音楽、そして自分が書く台詞をコラージュした、『チャンピオン』(1963)のような実験的ラジオドラマも手がけていた。そんな安部公房にとって、テクノロジーを駆使してロックという制度すら食い破りかねない夢の音楽を生み出すピンク・フロイドが、異国で発見した兄弟のように思えたのは想像に難くない。
     安部公房が自ら作曲した音楽は、現在では1980年に公開されたビデオ作品『仔象は死んだ』のBGMからうかがうことしかできない。現在、試聴が困難な状況なので、聞いたことのあるファンは少ないだろう。アナログシンセの懐かしい響きとともに、シンプルな一音の変化で状況を感じさせる曲から、効果音なのか音楽なのか判別のつかない曲、明確なメロディに乏しいのにリリカルな印象を抱かせる曲など意外にバラエティに富み、まさに安部公房の「アナログ感覚」、言語化されない感情の部分が生の形で表れた創作物として興味は尽きない。
     とはいえ、それはやはりレトロな機械で作られたきわめて素朴な出来であり、ピンク・フロイドがスタジオで構築した楽曲には及ぶべくもない。現代のリスナーが聞いても、「大作家の手遊び」として微笑ましく受け止めるにとどまるかもしれない。
     だが、よく注意するとこの53分の映像作品には、常になんらかの音が緻密に貼り付けられていることに気づかされる。音楽だけではない。俳優の奇声、ささやき声、泣声、詩の朗読、突如インサートされる街のノイズ、呼子の音、笞を振る音、打ち寄せる波の響き……。そう、安部公房はラジオドラマ『チャンピオン』同様、この作品ではたんなる舞台作品のビデオソフト版を越えた新しい映像ソフトの開発、俳優たちの演技をとらえた映像と、音楽・言葉・音響を素材にコラージュし、「夢」をテーマとするコンセプト・イメージビデオの創造を試みていたのだ。
     これこそピンク・フロイドが作り続けたコンセプト・アルバムに映像を加えた独自の世界へ向けての活動であり、サミュエル・ベケットやアラン・ロブ=グリエ、寺山修司ら実験的な映画制作に乗り出していた作家たちへの挑戦でもあった。映画のディスク化・個人所有化の時代を予見した安部公房の構想通り、この作品がビデオソフト化され、安部真知もしくは田中一光のデザインによるジャケットで発売されていたら、安部公房スタジオに違った展望がありえたのではないかと思わずにいられない。
     ビデオ版『仔象は死んだ』制作を以て、安部公房スタジオが休眠に入ったのも、とりあえず自分なりの「課題」となっていた実験をすべてやり尽したという達成感があったからだろう。YMOの結成が1978年、シンセサイザーという機械そのものが珍しかった当時、ミュージシャンの経歴を持たない作家が、舞台の音楽をまるごと作曲するだけでなく、統合芸術としてのまったく新しい映像ソフトを制作するという行為が、どれほど先行的であり、どれほど孤独な作業であったことか。


    『仔象は死んだ』(1979)ビデオ版チラシ


    ふたつの「壁」をめぐって

     ピンク・フロイドのファンには、歌詞がくり出すイメージ以上にその音響空間いわゆる「トリップ感」と呼ばれる要素を愛好する者も多い。言語というデジタル表現を駆使して、意味を与えられる以前のアナログな現実や感情を表現する術を探り続けてきた安部公房も、前述のインタヴューを読む限りでは、ピンク・フロイドの歌詞以外の部分、新しいテクノロジーを使って独自の音響世界を構築する能力を高く評価しているように思える。
     しかし、先のインタヴューが行われた1979年の末に発表されたピンク・フロイドのアルバムは『ザ・ウォール』だった。それは、音楽性以上に歌詞の存在感が前面に出て劇的な物語を展開する、安部公房が嫌った「オペラ」のロックヴァージョンなのだ。はたして彼はこれをどう聞いたか。
    『カンガルー・ノート』の主人公は「ひげを剃った馬のようなロジャー・ウォーターズのファン」だという。ロジャー・ウォーターズ、この無骨なベーシストこそ1968年~1983年の期間においてピンク・フロイドの創作力を牽引した「頭脳」であり、『狂気』以後は全曲の作詞を担当、アルバムのコンセプトメーカーとして曲作りを主導し、ライブステージの演出も担当していた人物だ。
    『狂気』が世界的なヒットを記録することで、「すべての夢がかなってしまった」バンドは創作上の危機に陥りつつあった。そんな時においても、ロジャーは過剰な名声によってもたらされる危機感や暴力の絶えない世界から受ける被害妄想を糧に、創作に打ち込み続けた。やがて彼は、自分と外界とのコミュニケーションを阻む「壁」をモチーフにしたアイディアを思いつく。それが、大作ロックオペラ『ザ・ウォール』の始まりだ。
    『壁』といえばもちろん、安部公房の代表作である。が、両者の壁のイメージはずいぶん異なる。安部公房の「壁」とは『S・カルマ氏の犯罪』を例に挙げれば自分自身が変身しどこまでも広がってゆく壁だし、『赤い繭』を見れば自らを包み込んでゆく繭そのものだし、『魔法のチェーク』ではアルゴン君が食べ物を取り出すためにチョークで絵を描く壁であり、さまざまなイメージを内包しているのだが、『ザ・ウォール』の壁とは文字通り、心の中に築かれる遮蔽物そのものだ。また『ザ・ウォール』には、それ以前のアルバムとは異なり、ライブ公演を間近に控えながら精神的危機に陥ったロックスターが、「心の壁」に向き合うという物語が設定された。そのため歌詞は膨大で説明的になり、空間性に満ちた曲作りは後退した。

     安部公房は、それまでのスタイルを変質させたピンク・フロイドに失望しただろうか?

    『ザ・ウォール』はこれまでピンク・フロイドが行ってきた創作の集大成であり、最初からメディア・ミックス展開が予定されていた。アルバム発売後に行ったライブツアーは、演奏中にローディーによって次々とレンガが積み上げられ、ステージと客席の間に高さ11メートル、幅50メートルの巨大な「壁」が構築されるという仕掛けがあり、エンディングではその壁が轟音と共に崩壊した。

    『ザ・ウォール』ライブステージ(1980年公演)

     それだけでなく、SEに合わせて戦闘機が落っこちてくる、曲の展開に合わせて教師や母親を演じる風船型ロボットが登場する、アニメーション映像が円形スクリーンに映写されるなど、ロック史上かつてない規模で行われる劇場型ライブでもあった。さらにアラン・パーカー監督による映画版『ピンク・フロイド/ザ・ウォール』も制作され、1982年に公開されたが、これもステージを撮影収録したいわゆる「コンサート映画」ではなく、ボブ・ゲルドフを主演に迎えて完全にオリジナルの劇映画として制作されたものだ。
     音楽・舞台・映像とジャンルを横断するマルチメディア表現は、まさに安部公房が50年代から追い続けてきた創作スタイルである。さらに「物語」にも注目してみよう。
    『ザ・ウォール』は、地位も名声も手中に治めたロックスター・ピンクが主人公。喝采を浴びることに疲れ、ファンの熱狂におびえるピンクは、公演を控えたままホテルの部屋に閉じこもり、なぜ自分はこんな面倒な人間になってしまったのかと、過去に関わった人々を回想する。戦死した父、過保護な母、意地悪な学校の教師、浮気した妻……。荒廃した精神の中で心の「壁」を成長させ、やがて完成させてしまうピンク。彼はスタッフによって薬を注射され、ステージに引きずり出されるが、朦朧とする意識の中、ステージ上の自分はファシズムの独裁者であり、集まった聴衆はその信者たちだと錯覚する……。
     主人公ピンクの姿は、ロジャー・ウォーターズの自画像であると同時に、もう一人の重要な人物がモデルとされている。ピンク・フロイドの初代リーダー、シド・バレットだ。ピンク・フロイドはデヴューアルバム『夜明けの口笛吹き』を発表した時点では、シド・バレットのワンマンバンドだった。作詞作曲を一人で手がけ、美術センスも豊かで、カリスマ性にあふれた美青年。しかしシドは、常習していたLSDの副作用によって精神を病み、音楽活動を続けられなくなってしまった。カリスマを失ったバンドは、それでも残った4人の結束によって世界有数の存在に成長した。そうなった時、ロジャーは改めて自分の原点にいた盟友・シドを見つめ直し、自らと重ね合わせることで相対化しようと試みたのだ。
     狭い場所に閉じこもった状態で振り返る、かつての日々の回想。自分の正しい姿を追い求めようとする、徹底して内省的な物語。そして、自分に多大な影響を与えたかつての友に向けた鎮魂歌。そう、安部公房は以前似たような小説を書いている。戦後の混乱の中、結核で亡くなった親友・金山時夫の記念碑として書いた長編小説『終りし道の標べに』(1948)。
     その原題は、『粘土塀』だった。
    「あの曲がりくねった粘土塀」のイメージから展開する『終りし道の標べに』はまぎれもなく安部公房の思考の出発点となった作品である。また、『ザ・ウォール』に登場する壁が、確固として存在する壁ではなく、前半ではレンガで少しずつ積み上げられてゆく壁であり、クライマックスでは一気にガラガラと崩壊する、可変性に満ちた物体であることにも注目したい。さらに、1965年に改訂された新版『終りし道の標べに』には、

     粘土……本質的に形態を持たぬもの……従って、あらゆる形態が可能であり、しかもそのすべての形態が、常に過程にしかすぎぬもの……あたかも大地の霧のように……

     という記述がつけ加えられていた。この「粘土塀」のイメージを出発点に、安部公房がつむぎ出した「砂」や「仮面」や「箱」や「布」や「都市」が、社会を描くための投影体であり、時間が経過するにつれて変化し続けるしなやかな可変性にも満ちていたように、ピンク・フロイド(ロジャー・ウォーターズ)もまた「レンガが積み上げられた壁」を社会の投影体として発見し、建築から完成、そして崩壊の過程をもって社会のシステムそのものを総括しようと試みていたのだ。

     そしてアルバム『ザ・ウォール』の最後を飾る曲「アウトサイド・ザ・ウォール(Outside The Wall)」の最終部は、“Isn’t this where…”と言いかけて断ち切られる。台詞の続きは、アルバムの一曲目「イン・ザ・フレッシュ?(In The Flesh?)」の出だしの声につながっている。“…we come in?”。つなげると、
    “Isn’t this where we come in?(入口はここから?)”
     となる。『ザ・ウォール』もまた、入口と出口がつながった巨大な円環構造を築いたアルバムだった。まるで安部公房が描いた昆虫・ユープケッチャのように。
     安部公房はきっと驚かされたことだろう。愛着をおぼえていたロックバンドが、突然そのタイトルだけでなく、内容まで自分の過去の作品、それも最初の長編を彷彿とさせるアルバムを発表し、自分が理想としたジャンルの枠を超越した柔軟なメディアミックス展開を始めたのだから。
     それを意識したのかどうか、『ザ・ウォール』が発表された後に、安部公房が執筆に取りかかった長編小説とは、石の「壁」に囲まれた空間で終末後の世界を妄想する男が主人公だった。彼は、侵入者たちのエゴイズムのぶつかり合いに翻弄され、生存競争を迫られることになる。タイトルは『方舟さくら丸』(1984)。

    ステージ上に築き上げられた「壁」(2010年公演)


    アトラス社製ベッドで行こう

     安部公房の最後の長編小説『カンガルー・ノート』。この作品には、病院に行った主人公を連れ回すアトラス社製の「自走ベッド」が登場する。この自走ベッドのイメージが、ピンク・フロイドが1987年からコンサートで使用しているスクリーン映像に酷似していることは、以前から両者のファンの間では有名だった。
    『狂気』の一曲である「走り回って(On The Run)」が演奏される中、背景の円形スクリーンに映し出されるのは、だだっ広い部屋のベッドにいる男。彼はなぜか自分が空港にいる姿を幻視する。気がつけばベッドは車輪がついて走り出し、空港のカウンター、搭乗口を越えて滑走路へと滑り出し、ついには空へ向かって飛んで行く……というもの。


    【動画】"On The Run" Pink Floyd (Screen Film)
    https://www.youtube.com/watch?v=vVooyS4mG4w

      このスクリーン映像を作ったのは、ピンク・フロイドにおいてレコードジャケットをはじめとする各種アートワークを担当していたデザイン集団「ヒプノシス」のリーダー、ストーム・トーガソンだ。
     1985年、ピンク・フロイドの創造性に限界を感じたロジャー・ウォーターズは脱退を表明、ソロ活動へ移行する。頭脳を失ったフロイドは、ギタリストのデヴィッド・ギルモアが中心となって活動を再開。しかしニック・メイスンもリック・ライトも当時スランプで使い物にならず、ギルモアはかつて仕事したプロデューサー、デザイナーを呼び戻し、数々の作詞家やセッションミュージシャンを集めて「ピンク・フロイドっぽい」アルバムを作り上げる。それが1987年発表のアルバム『鬱(A Momentaly Lapes Reason)』だ。すでにヒプノシスを解散していたストーム・トーガソンも招集され、無限にベッドが並ぶ海辺に、手鏡を持った男が腰掛けているという壮大かつ深遠な「らしい」ジャケットを撮影した。彼にとってベッドは固執するモチーフの一つらしく、後にメガデスのライブ盤『ルード・アウェイクニング』(2002)のジャケットでも「空飛ぶベッド」を登場させている。
    『鬱』発表後に行われたピンク・フロイドのコンサートツアーでは、トーガソンは演奏中にスクリーンに映写する映像の制作も担当した。その時、「走り回って」の演奏用に、例の自走ベッドの映像も制作されたのである。このツアーの様子は、ビデオ『光~パーフェクト・ライブ!』(1989年発売)でも観ることができ、安部公房はこれを入手したか、あるいは1988年の来日公演を観賞したのだろう。『カンガルー・ノート』の主人公が、途中で『鬱』の出だしの音に思いを馳せるのは、作品の源泉がここにあることの種明かしと思われる。ピンク・フロイドのイメージを出発点とした小説ゆえに、幕を閉じるにあたって「エコーズ」を配置したというわけだ。
     そうは言っても、移動する「乗り物」のイメージそれ自体は、安部作品においては昔から馴染み深いものだ。特に印象的なものといえば、『バベルの塔の狸』に登場する、とらぬ狸が乗った棺桶がまず挙げられるだろう。主人公はその棺桶に乗りバベルの塔へ向かって飛んでゆく。また、『燃えつきた地図』の主人公が都市の迷宮をさまようために乗っていた自動車も重要な相棒だった。『密会』に登場するジャンプ・シューズも、主人公が迷宮を駆け抜けるための乗り物の変形と言える。
     また、『カンガルー・ノート』の最後に歌われる人さらいの歌を見てみよう。

     むかし人さらいは
     子供たちを探したが
     すべての迷路に番号がふられ
     子供の隠し場所がなくなったので
     いま人さらいは引退し
     子供たちが人さらいを探して歩く
     いまは子供たちが
     人さらいをさがしている

     これは、安部公房スタジオの1978年公演『イメージの展覧会Ⅱ 人さらい』で歌われたものだ。『イメージの展覧会Ⅱ 人さらい』は即興中心で作られた抽象演劇のため、台本が存在しない。明確な台詞もなく人さらいの歌ばかりがくり返され、終末感の漂う暗い舞台だったという。公演を伝える資料から推察するに、舞台に登場するやお互いの顔を着色し、客席に向かって「お金ちょうだい」と雛鳥のように囁く子供たちの群れや、彼らを追ってうろつくギャング風の人さらいたち、サーカスの道化や曲乗りたちがくり広げるパフォーマンス、最後に客席に白い布がかぶせられてゆく展開など、その多くの場面が『カンガルー・ノート』の原型になっているのではないかと想像する。
    「人さらい」とはなにを意味するのだろうか。
     それは、舞台上に展開する「サーカス団」の古めかしいイメージなのか。
     かつて満州の荒野を前に親友・金山と夢想した「馬賊」なのか。
     学生時代に軍事教練でうんざりさせられた「徴兵制」なのか。
     20代後半から一時期熱狂した「共産主義」なのか。
     目前に迫りつつあった「死」なのか。
     思えば安部公房の作品には、数々の「人さらい」でいっぱいだ。『第四間氷期』では胎児をかき集める科学者たち、『砂の女』では主人公を砂穴にとらえる村人たち、『密会』では妻を連れ去る救急車。さらに言えば、自ら仮面を作る『他人の顔』の主人公や、箱をかぶって彷徨する『箱男』などは、「人さらい」を探して歩く現代人の姿とも言えるだろう。安部公房は、「人さらい」に対する恐怖と待望の相反する感情をずっと追い続けてきた作家でもあった。
     1980年代後半、かなり健康を害していた安部公房は、新作長編『飛ぶ男』の執筆に難航、1990年の夏には肺炎で長期の入院を経験した。ここに至って、安部公房は残された創作力をふり絞り、ピンク・フロイドの映像を入口に、かつて達成した舞台の成果をさらい直し、人間が無意識に「人さらい」を待ち望む姿、同時に社会のある時期に現れる「人さらい」の姿を、今一度小説の形での結晶化を試みたのではないだろうか。

     安部公房の前衛表現は、常に時代の必然によって導かれる。『カンガルー・ノート』の執筆に取りかかったころの世相を振り返ってみよう。それは、1990年の秋。そう、日本でバブル経済の崩壊が始まったその年、世界はイラクのクウェート侵攻による湾岸危機をめぐって「戦争」が始まる可能性に直面、誰もが不安に顔を曇らせていた。
    『カンガルー・ノート』の連載が始まった1991年初頭、多国籍軍はイラクへの攻撃を開始した。たちまち報道は戦争一色となり、日本人はみなテレビという覗き箱が伝える本物の戦争映像に夢中になった。論壇は自衛隊の海外派兵をめぐって大揺れに揺れ、戦後民主主義者がしがみついてきた反戦平和思想は「平和ボケ」という罵声の前に急速に色褪せ、支持を失っていった。追いつめられたイラクが核兵器を使用する可能性を論じる者や、ベトナム戦争に匹敵する泥沼状況が、今後数年から数十年に渡って続くと予想する者もいた。しかし、実際の戦闘はひと月半で終了した。その後の議論は自衛隊のPKO参加をめぐるものへとスライドし、現在の集団的自衛権の問題へとつながってゆく。
     改めて、「人さらい」の歌を読み返そう。『イメージの展覧会Ⅱ 人さらい』では、台詞の代わりにこの歌の最終部が何度もくり返されたという。

     だれも人生のはじまりを憶えていない
     だれも人生の終わりに
     気づくことはできない
     でも祭りははじまり
     祭りは終わる
     
    祭りは人生でないし
     人生は祭りではない
     だから人さらいがやってくる
     祭りがはじまるその日暮れ
     人さらいがやってくる


    『イメージの展覧会Ⅱ 人さらい』(1978)公演写真



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