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「安部公房の劇場」をめぐる一夜
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「安部公房の劇場」をめぐる一夜

2015-01-31 22:10


    『愛の眼鏡は色ガラス』(1973)の稽古を伝える記事


    『現代演劇のための俳優ワークショップ』の最終日に行われた講座に参加してきました。
     このワークショップ、なんと今回の特集は「安部公房」! 
     若手の演劇人が中心となり、1970年代に安部公房が目指した演劇の革新とはいったいどんなものだったか、独自の演技論「安部システム」となんだったのか、残されたテキストを手がかりに探ってゆくものなんですが……しかしまたスゴイ企画ですね、安部公房スタジオといえば、新劇でもアングラでもなかったがために日本演劇史からほぼ抹消されてしまった「まぼろしの集団」、もはや演劇界のドードー鳥と言ってもいい安部スタの活動に興味を向ける若き人類学者たちがいたなんて。やはりこの数年、各方面で研究活動が活発になっている影響か?

     初日と二日目は俳優向けに、安部公房スタジオで行われた稽古を再現して体験する、という内容だったようですが、25日の最終日は『安部公房とはだれか』の著者である木村陽子、そして元安部公房スタジオの俳優だった大西加代子の両氏を招いての一般講座。日曜日だったこともあり、私をはじめとする市井の安部ファンがずらっと集まり、狭い会場もほぼ満員の入りとなりました。
     この10年弱のことですが、鳥羽耕次『運動体・安部公房』、呉美姃『安部公房の<戦後>』、苅部直『安部公房の都市』、田中裕之『安部公房文学の研究』、友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』と若手研究者による評論が続々と刊行されており、安部研究については20世紀末の大飢饉的状況が嘘のよう。木村陽子さんの『安部公房とはだれか』もそのビッグウェーブに乗って現れた一冊なのですが、彼女の特徴はまず安部公房を「小説」・「演劇」・「テレビドラマ」・「ラジオドラマ」・「映画」、メディア5種目で表現の幅を拡大しようとした、革新的マルチメディア・アーチストとして位置づけ、映画作品や演劇作品、小説を横断しながら論じていることが挙げられましょう。
     そして、多くの論者がテキストの分析及び当時の資料を参照しつつ持論を展開しているのに対し、木村さんは積極的に作家本人を知る関係者に会ってインタヴューを行うという、ノンフィクション作家的な手法で内容の裏付けを行っていることも特徴です。取材の対象は、安部公房の親族や安部公房スタジオの元メンバーに留まらず、満州時代の幼馴染を探し出し、さらに西部デパートの堤清二(辻井喬)、紀伊國屋書店の松原治といった有名人にも手を広げています。東大教授から亜細亜大学長になった衛藤清吉を取材した縁で桜美林大学の客員研究員のポストまで世話してもらえたそうなので、取材活動は図書館通いに留めておかないほうがなにかとトクらしいですぞ、若き研究者のみなさん!
     ユニークなことに木村さん、浅利慶太にも接触しているそうです。今でこそ商業ミュージカル劇団として知らぬ者はない「劇団四季」ですが、結成当初の1950年代は、フランス演劇に影響を受けたストレートプレイが専門であり、寺山修司に初めて戯曲を委嘱し『血は立ったまま眠っている』を初演した劇団でもあります。浅利は1958年に「若い日本の会」に参加しており、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎ら文壇にも顔の広い人物ですが、安部公房とも交流があったとは知りませんでした。浅利慶太は木村さんを『ウィキッド』の打ち上げに招き入れ、会場の片隅で、
    「安部さんは、かつて芸術全体の表舞台を闊歩していた。その後、少しおごったために歴史を書き残す努力をされなかった。今、それがすべて忘れられようとしている。恐ろしいことだ」
     と語ったそうです。こうしたイベントや、相次ぐ研究書の出版などによって、正統な評価が始まることを祈るとともに、木村さんにはこれらの取材を反映した、第2作の執筆を期待したいところです。

     さて、木村さんの講義ではこうした彼女の立ち位置と『安部公房とはだれか』の内容をサラリとおさらいしつつ、安部の創作志向を3つの要素から解説します。

    1 リテラリー・アダプテーション

    2 偶然性の効果・即興性の重視

    3 気持ち芝居では到達できない表現

    「リテラリー・アダプテーション」とは木村さんの造語で、安部公房がひとつのモチーフを、複数の分野で作品化しながら発酵・改変させてゆく姿勢をさしています。ラジオドラマ『チャンピオン』が、短篇小説『時の崖』に、さらに演劇『棒になった男』第二景に、そして短篇映画『時の崖』へと発展してゆくように。
    「偶然性の効果・即興性」とは、いわゆる古典的な完成度を拒否し、偶然性、即興性をもとにイメージの可変性を重視することですね。ラジオドラマ『チャンピオン』は実際のボクシングジムで録音した会話を再構成しながらテキストを加えていったものだし、街のスナップ写真を大量に撮影してはそれらをイメージ源とするのも、定着を嫌い、表現が安易な「絵解き」に終わらないようにするためのトレーニングでしょう。
    「気持ち芝居では到達できない表現」とは、つまり心理学的なアプローチの限界性を指摘し、それを越えた演技表現を模索したことをさします。『時の崖』の演劇・映画においては、井川比佐志がボクシングジムに半年通って鍛え上げた肉体で、ボクサーがダウンされる状況を演じます。これは真に迫れば迫るほど、計算した演技で再現することは不可能。『イメージの展覧会』のように布の動きを多用した抽象演劇も、連日の公演でまったく同じに再現することはできないわけで、「気持」を重視する心理的リアリズムでは表現できない地点へ到達しようとする主張がうかがえます。

     こうした3つの要素によって、安部公房はチェーホフとスタニスラフスキーによって完成されたまま、進化が停滞してしまった新劇界、つまり上出来な戯曲が持つ「内容(意味)」を演出家がそのまま伝達してくれる、という構造に転換をもたらし、新たな段階に移行した新劇を生み出そうとしていたのだ……というあたりにさしかかったところで、安部公房スタジオ創立メンバーであった大西加代子さんがフェードイン。
     安部の初演出作品である『棒になった男』(1969)の制作に参加した話から、当時の稽古の内幕、そして安部公房がスタニスラフスキー・システムを更新するために提唱していた演技論「安部システム」の中核となる概念「ニュートラル」についての解説へと進んでゆきます。
     ニュートラルとは車好きの安部がギアのニュートラル状態(タイヤが完全にフリーになっている状態)から発想した言葉です。マニュアル車の場合、ギアをいったんニュートラルの位置にしないと、ギアチェンジできませんね。そのように、俳優が「型」でも「気持」でもない状態を作り出すことで、どんな演技(目的)にも瞬時に(最短のエネルギーで)到達できる、という考え方です。今はオートマ車で運転する人が大半だから感覚がわからないかもしれませんが……。

     大西さんの指導で、受講者全員で「ゼロのニュートラル」を作る基礎稽古を試してみました。それは、安部公房の説明を引用すると、こういう内容です。

     まず俳優たちに、各自、好きな場所、好きな姿勢を自由に選ばせる。
     現に聞えている物音に集中させる。(何種類の音が聞えているか?)
     次に、聞えている音を、一つ一つ消していくように注文する。むろん非常に困難なことだ。目にうつる物なら、目を閉じれば消えてしまうが、音は勝手に向うから入り込んでくる。消そうと思えば、かえって聞えてくる。いちばんいい方法は、現に聞えている音の中から、比較的聞き分けやすく、持続的な音を選び出し、それに集中することで他を押しのけることだろう。この作業は想像以上に緊張と集中を必要とする。
     その集中している状態を、内側からよく観察してもらっておく。音に対する集中が、体の他の部分を完全に解きほぐしてしまっているはずだ。そのときの生理感覚をよく記憶させておく。今後、その状態を「ニュートラル」な状態と呼ぶことにする。
                              「ニュートラルなもの」


      やってみるとコレ、めちゃくちゃ難しい。まず、聞こえている音すべてを受信し、その中からひとつの音へと集中する。そして一気に緩和して、また元の状態に戻る……。
     世界に満ちている音に対して、完全にオープンな状態と、一点に集中した状態。緊張と緩和。その状態へ自由に到達できるようにして、なおかつ「感情」の底に潜む生理を合理的に理解することで、機能的に感情を操作し、ファナティックな情念芝居とも、地味で退屈な写実的演技とも異なる、俳優に最も必要と言われる「存在感」の在り方を、技術的に掘り下げようとしていたようです。

    全身のエネルギーが、音の識別のために完全に使い果されてしまっているので、他の生理機能は、ひどいエネルギーの節約状態だ。一見バランスを失った、不自然な状態にも思えるが、見方を変えればこれほど自然な状態もないのである。
     水滴は、表面張力のせいで、表面積を最少にしようと球状になる。外圧が作用しなければ、完全な球体になる。このエネルギー最少の法則は、人間の運動(状況との関係によって規定された存在の形式)にもそっくり当てはまるはずだ。その行動にエネルギーを割くために、他の部分では抑制がおこる。その抑制を明示することによって、集中の方向(状況との関係)を表現し、伝達しようとするのが、ニュートラルな演技術のとりあえずの目的だったわけである。

          「再び肉体表現における、ニュートラルなものの持つ意味について」



    『ウェー』(1975)でウェーの女を演じる大西加代子(中央)


     このイベント全体のレポートと、最終日における大西加代子さんの発言内容に関しては、ワークショップの講師の一人である清末浩平さんのブログに詳細にまとめられているので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

    【まとめ】安部公房ワークショップ(演劇) 清末プログラム(1/23-24)報告

    http://42286268.at.webry.info/201501/article_7.html

    安部公房ワークショップ(演劇) 木村陽子さん・大西加代子さんの回

    http://42286268.at.webry.info/201501/article_8.html

    「ニュートラル」の基礎稽古における「緩和」が、アクターズ・スタジオのメソッド演技における「リラクゼーション(脱力)」を連想させるなど、私も同じ感想を抱きました。しかしメソッド演技が脱力状態からさまざまな感情の記憶を引き出す訓練を行うのにくらべ、安部システムにおいては緩和とは単なる脱力や弛緩ではなく、コンラート・ローレンツやデズモンド・モリスらの動物行動学に報告されるような、人間行動にひそむ生理的なメカニズムを瞬時に引き出す準備段階であるようですね。
     心理的リアリズムに対する「生理的リアリズム」をめざしていたと思われます。


    安部公房スタジオの稽古風景

     清末さんの稽古レポートでも「ゴム人間のゲーム」や「写真のぞき」の稽古実践が紹介されていますが、安部公房は俳優たちにさまざまな「ゲーム」をやらせては、その即興反応を録音し、新たなモチーフを紡ぎ出す材料にしていたようです。おそらく、それらが1970年代の『笑う月』(1975)や『密会』(1977)にも反映されているのでしょう。
     これで思い出すのは、私の会社の入社試験。私の勤務先には元安部公房スタジオのメンバーが何人かいたせいかもしれませんが、ある時期まで新人採用で妙なゲームをやらせていたものです。
     私が受験時にやらされたのは、二人一組で参加するゲーム。それぞれがテーブルの上に並べて伏せられたカードから好きなものを一枚引き、そのカードに書かれた人物になりきって相手からのインタヴューに答える、というものです。
     私が引いたカードは、「本田宗一郎」でした。相手に向かって本田型経営と松下型経営の違いについて、宗一郎っぽく(?)まことしやかに解説してみせたものです。
     相手が引いたカードは、「アインシュタイン」でした。なので相対性理論について質問してみたところ、相手は絶句してしまいました。えっ、性格悪い? 食うか食われるかの世界だからいたしかたありませんよ。
     ほかの年では、集団討論もやらせましたね。6~8人の学生をふたつのグループに分け、ディベートを行わせます。お題はいくつか用意しておくのですが、例えば「犬と猿が戦争を始めたら人類はどちらに味方すべきか?」。このしょーもないお題で犬派と猿派のグループで議論させ、15分後とつぜん犬派と猿派の支持立場を逆転させ、ディベートを続行させます。つまりそれまで犬派で喋っていた論者がだしぬけに猿派に転向しなくてはなりません。強硬な意見を展開していた者が、瞬時にロジックを逆転させられるかどうか、ある意味ニュートラル状態の維持にかかっていると言えるゲームかもしれません。
     これも「昔、稽古でこんなのがあってさ……」という放言から発想されたものだったような気がします。

     講座の終わりには、大西さんが持参してくれた当時の安部公房スタジオの公演パンフレットの数々を眺めながら、今や観ることのかなわぬ安部公房演劇についてみなで思いを馳せました。さながら発見された化石や苔むした石垣から、往事の姿を想像するようなものでしょうか。パンフレットには、井上ひさし、清水邦夫、寺山修司、黒井千次など交流のあった作家・演劇人らがエッセイを寄せてくれています。
     しかし、1970年代の演劇ジャーナリズムは、唐十郎の状況劇場、鈴木忠志の早稲田小劇場、佐藤信の黒テント、つかこうへいの劇団つかこうへい事務所などなど、新劇から大きく逸脱した方法論で活躍するアングラ劇団の若い才能に幻惑され、「新劇の更新」にこだわった安部の活動は理解されなかったようです。実際、安部システムの方法論がその後普遍化することがなかったのはなぜなのか、それはまた別に考える余地があるでしょう。木村陽子さんも、安部の認識では、劇団初期に構想していた演技理論は「失敗」と判断されたのではないか、と語っていました。劇団創立時に参加していたベテラン俳優たち、仲代達矢、田中邦衛、井川比佐志らを外してより抽象性の高い作品創作へと向かって行ったのにも、なにか理由がありそうです。
     安原顕によると、著名なシェイクスピア研究家、ヤン・コットが来日した際に『愛の眼鏡は色ガラス』(1973)を観せたところ「ベケットの模倣」と断じたと言います。また、1960年代に安部が教授を務めた桐朋学園短期大学の教え子で、安部原作『人命救助法』で演出家として世に出た大橋也寸さえも、安部公房スタジオの成果にきびしい評価を下していることもあり、そのあたりは遅れてきた世代はなんとも言えません。
     しかし、「イッセー尾形の一人芝居」の演出家・森田雄三や、ダンス・カンパニー「パパ・タラフマラ」主宰・小池博史など、安部公房スタジオの活動から多大な影響を受けたことを後に語っている演劇人もいます。
    『仔象は死んだ』(1979)のアメリカ公演の成功によって有終の美を終えた安部公房スタジオですが、ヨーロッパ公演が行われていたら、どんな展開がありえただろうか、とも思ってしまいます。

     演出家としての安部公房の評価については、手がかりとなる映像作品が3つ現存しています。

    『時の崖』(短篇映画・1971年)

    『ウェー』(公演記録映像・1975年)

    『仔象は死んだ』(ビデオ作品・1979年)

     このうち、『時の崖』と『仔象は死んだ』は安部公房が自ら制作した映像作品です。『ウェー』は記録用に観客無人の公演を撮影したものだということが、今回大西さんに確認してわかりました。
     この3作品が公に上映されたのは、1997年の草月ホールのイベント「安部公房・演劇の仕事」が最後ではないかと思います。できることなら、このすべてを大きな画面でもう一度観たいと思っています。どうかスクリーンでの再上映を実現するか、あるいはなんらかの形でソフト化し、新潮文庫の棚に並ぶ安部の小説群がその作品世界のほんの一面でしかないことを知らせてほしい。そして1970年代、その想像力の内側ではどんな火花が散っていたのか、あるいはその火薬は湿気ていたのか、愛読者に検討の機会を与えてもらいたいものです。
     死蔵された「夢」が、いつまでの一人だけの密会を抱きしめているのは、あまりにも哀れすぎる……。


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