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マグリット展を見てアラン・ロブ=グリエを想う
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マグリット展を見てアラン・ロブ=グリエを想う

2015-07-13 23:49



    マグリット展2015 (公式サイト) http://magritte2015.jp


     少し前の話だが、六本木の新国立美術館でルネ・マグリット展を見て来た。
     
     6月で東京の展示は終了。7月11日から10月まで京都市美術館で開催されている。
     マグリット展なんてつい数年前にも見たような気がしていたが、前回の渋谷Bunkamuraでの回顧展はもう13年も前になるのだとか。時の流れの早さと同時に、当時の印象が今なお克明に記憶されていることに我ながら驚く。今回の展示は、前回以上に画家の人生を俯瞰する構成となっており、有名作品だけでなく、あまり馴染みのない作品や模索期の作品が複数展示されているのがファンとしては見逃せない。
     代表作のひとつ、顔に女体が合成された「陵辱」も前回とは異なるヴァージョンが展示されていたし、最晩年の傑作「白紙委任状」が2バージョン並べて展示されているのもよかった。マグリットはひとつのアイディアを長期間に渡って複数のヴァージョンで制作する画家だ。白昼の空に夜景の家が描かれた「光の帝国」も、かなりの数のヴァージョンが残されており、それらの微細な違いを探しては、意図を読み解くのも楽しみの一つだ。
     もちろん、街に山高帽の紳士が無数に浮かんだ大作「ゴルコンダ」や、筒井康隆の『夢の木坂分岐点』の装幀に使用された「オルメイヤーの阿呆宮」といったお馴染みの作品も、今回はちゃんと揃えられている。


    オルメイヤーの阿呆宮

     マグリットの絵は大好きだ。まぁ、シュルレアリスム絵画のファンでマグリット嫌いというのはあまりいないと思うが、その愚直というか平面的なデペイズマン(異境送り)技法が現在ポップ・アートの世界に広まりすぎたためか、あるいはベルギーの国民的画家として押しも押されもせぬ地位を築いてしまったゆえか、思想なき商業芸術家と見なされたり、配色のセンスや筆致の凡庸さなど技巧面から非難されることも多いという。しかし私はダリの過剰さやデルヴォーの幻想よりも、一つのアイディアにすべてを凝縮しつつ描き手が一歩距離を置いている、マグリットの一コマ漫画風のスタイルが好みである。

     もともと、ジョルジオ・デ・キリコのデペイズマン技法やマックス・エルンストのコラージュ技法のフォロワーとして描き始めたマグリットだが、生活の手段として商業デザイナーを長くやっていたからだろうか、そのシンプルな作品には見る者が理屈抜きに異世界に置き換えられてしまうような腕力に満ちている。むろん、アイディアそのものは平面的な素材操作なので、ダサい作品も多いし、画面から深淵な思想が匂い立つことを感じることは意外に少ない。が、成功した作品からにじみ出る遊び心からは、強靭な現実懐疑の精神、現実の本質を剥き出しにさせる直言居士の鋭さがある。

     そういえばマグリット作品はいつも内容とはかけ離れたヘンテコな題名がついているのだが、これはアトリエを訪れた友人が完成した絵を見ては思いついたタイトルを額の裏に書き込んでいった仮題から選ばれたものも多いらしい。中には10もの仮題が並んでいた作品もあるそうで、どれだけ洒落たボケをかませられるかの「お題」と化していたようだ。画家本人がわざわざ「狂気」だの「天才」だのといった個性を演じて見せずにおれないタイプとは異なり、普段から役人のように凡庸な日常を送るべく心を砕いていたというマグリットの内面にこそ、表面の生真面目さを裏切る精神の不真面目さ、シュルレアリスム感覚が横溢していたに違いない。


    現実の感覚


     マグリットが確立した「様式」は、その後ピンク・フロイドやレッド・ツェッペリンのアルバム・カバーアートを手がけたヒプノシスや、『モンティ・パイソン』のテリー・ギリアムの切り絵アニメーションなどに継承され、彼らによってマグリット感覚は広く大衆化されていった。誰かが指摘していたと思うが、『天空の城ラピュタ』で天に向かって飛翔する崩壊後のラピュタは、「オルメイヤーの阿呆宮」を彷彿とさせなくもない。
     実際、私がマグリットの名を初めて知ったのは藤子不二雄Aのマンガ『マグリットの石』だった。うだつのあがらない浪人生が、古書店で見かけたマグリット画集に描かれた「巨岩」(「ピレネーの城」や「現実の感覚」に描かれるアレ)のイメージに取り憑かれる。やがて彼の頭上にはその絵に描かれた巨岩が出現する事態へと陥り、ついに巨岩によって叩き潰されてしまう……という、要するに「鬱屈した浪人生が発狂して死ぬ」ただそれだけの話で、「妄執から破滅へ」の図式を好む藤子Aらしい掌編だが、当然ながら小学生の頭には「マグリット=人を狂わせる絵」というイメージが刷り込まれてしまったものだ。


    映画『囚われの美女』予告編
    https://www.youtube.com/watch?v=ZaR_0GzMIAo

     マグリットと「共演」した作家と言えば、アラン・ロブ=グリエもそうだったなと思い出し、ロブ=グリエがマグリット作品をモチーフとした監督作品『囚われの美女』(1983)をDVDで再見した。ロブ=グリエは1961年、アラン・レネ監督のために『去年マリエンバートで』の脚本を執筆、1962年の『不滅の女』からは自ら監督業に乗り出し、亡くなるまでに9本もの長篇映画を監督(共同監督含む)している。
    『囚われの美女』は、彼の監督作中、唯一日本で劇場公開された作品だ。

     マグリット展の後で観た映画は非常に面白かった。そうなると次は原作小説が気になってくる。なんでも原作版『囚われの美女』(1975)は、ルネ・マグリットの絵画77点と21点のフィギュアを織り交ぜて制作した<大人の絵本>らしいが、邦訳は出版されてない。が、1979年に文芸誌「海」が翻訳を掲載したという。
     仕事で大宅壮一文庫を訪れる機会があったので、「海」の掲載号を借り出し小説版『囚われの美女』を読んでみた。おそらくロブ=グリエの研究者や愛読者は、小説版の試みこそ彼の独創性が正しく発揮されたもの、と評価しているのではないかと思う。が、私は映画版の方により興奮させられたので、その辺を書いてみたい。


    雑誌「海」に訳出された小説版『囚われの美女』

     もともと、アラン・ロブ=グリエは作品に絵画を引用することが多い。『迷路のなかで』(1959)は、雪の町をさまよう兵士と「ライヘンフェルスの敗戦」という絵画のイメージが交差するところから始まるし、『ヴァナデ女神への廃墟の神殿の建設』(1974)は、ポール・デルヴォーの銅版画連作にテキストを提供したものだし、『幻影都市のトポロジー』(1976)は、デルヴォーのほか、ロバート・ラウシェンバーグやデヴィッド・ハミルトンら芸術家のために書いた短文を構成したもの、さらに最後の監督作品となった映画『グラディーヴァ マラケシュの娼婦』(2006)では、主人公はドラクロワの研究者である。
     ロブ=グリエはよくよく異なるジャンルの芸術家との「合作」に熱心だったらしく、訪仏した横尾忠則と画文集を作る計画を発想したり、来日して安部公房と対談した際には、安部が撮った写真にロブ=グリエがテキストを書く形での合作を持ちかけたりしている。いずれも実現しなかったが、制作されたらどんな作品が仕上がったものか、想像すると楽しい。まぁ、あまり深く考えずに企画を口走る性格だったのではないかとも思うのだが……。


    ルネ・マグリット「囚われの美女」

     さて、『囚われの美女』だが、このタイトルはマグリットの有名作品の引用である。オリジナルの絵画は例によっていくつかのヴァージョンが存在するが、ロブ=グリエが引用しているのは、海岸に置かれたイーゼルと額縁、その額縁に入った空と雲の絵は、実際の空につながっている。額縁の背景と上手には赤い幕。そして砂浜には黒い球体が置かれている。これは現実の砂浜なのか、舞台の上を描いたものなのか、全体がただの絵画にすぎないと見るべきなのか曖昧な三重の入れ子状態。この「絵の中の絵」というモチーフ、空っぽの額縁なのか、額の中にその向こうの情景が描かれているのかが曖昧な状態を描くのはマグリットの常套手段で、ほかに「大潮」、「美しい虜」、「恋人たちの散歩道」、「風景の魅惑」など、いろいろな作品で描かれている。

     小説『囚われの美女』は、実際に出版された状態がどうなっていたのかわからないが、翻訳された雑誌掲載版では、左頁にマグリット作品が挿絵風に掲載されている。書き出しではあきらかにマグリットの「ピレネーの城」を描写しているようなのだが、いつしかテキストは絵画からどんどん逸脱してゆき、主人公はオペラの客席に忍び込み、失神した隣席の少女を運び出して医者に診せたり、ショーウィンドウを眺めたり、花売娘から薔薇を差し出されたりといった場面が万華鏡のように連鎖し、ロブ=グリエ風の<視線>による描写が綴られてゆくのだ。
     ロブ=グリエは自らのスタイルとする「描写」の力、情感や思い入れを排した観察の文体で構成される「見る」という行為と、「読む」という読者の行為とを混交させてゆく技法をここでもくり返しているが、そこへマグリット作品というただ「見る」だけではすまされない、レイヤー構造がきわめて曖昧な絵画を共演させることで、テキストから「意味」や「物語」を安易に消費しようとするタイプの読者にさらなる揺さぶりをかけたかったのではないかと思う。


    「海」に掲載された小説版『囚われの美女』より

     こんな前衛小説をどうやって映画にするのかと思えば、なんのことはない、映画版『囚われの美女』は、小説版とはまったく無関係な代物だった。なんでもロブ=グリエ先生、ギリシャ神話「コリントの花嫁」をモチーフにした吸血鬼映画を構想中に、マグリットの絵画を引用することを思いついたのだとか。そのためか、映画の方がルネ・マグリット作品をなぞったイメージが小説版以上に濃く描かれている。



    映画『囚われの美女』でバイクを走らせるシリエル・クレール

     映画『囚われの美女』は、謎の組織の女ボス・サラ(シリエル・クレール)がバイクを走らせる描写から始まる。サラの部下である運び屋ヴァルテル(ダニエル・メスギッシュ)は、ナイトクラブで妖しい女マリ・アンジュ(カブリエル・ラズィール)と知り合うが、いつしか彼女を見失う。サラから「コラント伯爵に手紙を渡せ」との指令を受けたヴァルテル、夜道を車で飛ばしていたところ、縛られた状態で路上に放置されたマリ・アンジュを発見。介抱しようと近くの大邸宅に運び込むが、中では怪しげな金満家たちがパーティーの最中だった。医者が現れ部屋へと案内してくれるが、二人はそのまま閉じ込められてしまう。するとマリ・アンジュを縛っていた手錠が消え、彼女はヴァルテルの首筋に噛み付いて血を吸う。翌朝、目が覚めたヴァルテルはマリ・アンジュが消えていること、屋敷がいつのまにか無人となり、すっかり荒廃していることに気づく。指令を思い出したヴァルテルはコラント伯爵邸に向かうが、伯爵はすでに死んでいた。そして、伯爵の婚約者である「マリ・アンジュ」という女が少し前に失踪していること、伯爵にはマリ・アンジュ殺害の容疑がかかっていたことを知る……。

     物語だけを追うと、いわゆる不条理系スリラー映画。秘密組織の美しき女ボスだとか、謎の金髪吸血娘だとか、怪しげなパーティーに集まる紳士たちだとか、紋切型のこっ恥ずかしいキャラが次々登場するあたりが、いかにもロブ=グリエ風。そもそもサラがバイクに乗る描写や、ヴァルテルがマリ・アンジュを車に乗せて走る描写は、公開年(1983年)を考慮しても、「今どきそれはないでしょ!」と言いたくなるほど安っぽいスクリーン・プロセスで描かれ、バイクや車がまったく動いてないのは一目瞭然、つまりこの映画自体が「作り物」であることを強調する。
     しかもよく見ると、冒頭のナイトクラブも、二人が迷い込む屋敷も、コラント伯爵邸も、すべて同じロケ地を飾り直して撮られているのである。なんとスクリーン・プロセスのショットさえも、同じロケ地にシステムを組んで撮影したらしい。
     つまりこれは、現実の「贋物」である映画という枠の中で、改めて「贋物」として撮られた世界であり、曖昧さはどこまでも衝突し、層を重ねてゆく。その画面が、時として絵画と現実を平面的な世界の中で一体化してしまう、ルネ・マグリット絵画と交差することで、作品の「だまし絵」感覚が、より複雑化し広がりを与えてくれる。
     この映画では、作品のそこかしこにマグリット作品のモチーフが登場、『囚われの美女』が印刷された絵葉書が小道具として使われたり、突如実写で再現されたりもする。海辺に立つイーゼルと額縁、そして赤いカーテン。イーゼルとカーテンを通過し、広がる海と青い空にカメラが向かってゆくのだが、その風景はやはりスクリーンという「枠(フレーム)」にくくられている。
     こう書くといかにもワケのわからんアンチ・ロマンの映画化で頭を悩まされるのかと思われるかもしれないが、「映画を見る=絵を見る=物語を追う」という三つの体験を、紋切型のキャラを操作して楽しむ、一種のゲーム的な映画と捉え直せば、こんなにシンプルな作品はない。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』にも通じる楽しさである。
     さらに、低予算の中に遊び心をたっぷり散りばめた撮影は、ジャン・コクトー監督『美女と野獣』やウィリアム・ワイラー監督『ローマの休日』を撮ったベテラン、アンリ・アルカン。リアリズムと非リアリズムの匙加減に唸らされる。


    映画『囚われの美女』で再現されるマグリット的イメージ

     アラン・ロブ=グリエは自らの脚本を「シネ・ロマン」と呼び、シナリオと小説の中間的な作品と定めたが、その最初の作品『去年マリエンバートで』を改めて読み返すと、その冒頭は廊下を移動するカメラが、やがて額縁を映し出す動きを指定しているのに気づかされる。カメラが移動して額縁をとらえると、その奥にはスタッフ・キャストのクレジットや映画のタイトルが書かれた文字が貼られ「作品」のように見える。が、カメラが移動すればその作品は解体され、やがて本物のポスターや絵画がはまった額縁、無人の舞台などを映してゆく。映画の「枠」が規定するものが極めて曖昧で、幾重もの虚構性を重ねていることを宣言する冒頭なのだ。
     完成した『去年マリエンバートで』では、このクレジット案は採用されていないのだが、この部分からもロブ=グリエは作品を規定する「額縁」の問題にこだわりつづけていた作家だったことがわかる。平面の中に描かれるものの位相を曖昧にするマグリットの絵画が、彼にインスピレーションを与え続けたのは当然だろう。
    『カリガリ博士』(1919)や『狂った一頁』(1926)などのサイレント期の表現主義映画から現在に至るまで、視覚的なトリックと物語の枠の解体を駆使するシュルレアリスム系サスペンス映画は綿々と作り続けられているが、独特のスタイルを完成させ、大衆的な支持すらも勝ち得た作家を一人挙げるとすれば、『ツイン・ピークス』(1990〜91)や『ロスト・ハイウェイ』(1997)、『マルホランド・ドライブ』(2001)のデイヴィッド・リンチではないかと思う。
     ではリンチの登場で、ロブ=グリエが模索して来た映画はすっかり過去のものとなったかと言えば、これは必ずしもそうとは言い切れない。フランシス・ベーコンの影響をふまえて独自の作品世界を構築するリンチも優れた作家だが、ロブ=グリエが監督したやや不器用な作品群、特にマグリットを引用した『囚われの美女』は、有名な「芸術」を引用することで作品に衒学的な深層を加えるのではなく、それらの要素を加えることで夢の世界に豊饒さをもたらし、むしろヒッチコックの『汚名』やホークスの『教授と美女』のような優雅で古典的な映画、ロブ=グリエ流の視点で見つめ直した「ジャンル映画」の完成を目ざしていたのではないだろうか。
     多層の曖昧さを構築しつつ、表層的な部分で完成されたポップな作品。思えばロブ=グリエの小説作品も、そのようなものばかりだった。それゆえ、過剰に深刻で美学的な『去年マリエンバートで』のアラン・レネ演出は、「ちょっと違う」のではないかと思うのだ。

    『去年マリエンバートで』予告編


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