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  • DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」に関するメモ書き

    2019-02-25 19:09

    0.はじめに

    昨日、DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」という文章がnoteに投稿された。
    そのタイトルからも分かる通り、同記事はアニメーションにおける「作画崩壊」概念に関する分析を行ったものである。

    その参照項と、それを扱う手つきは、これまで自分が展開してきた議論に用いてきたものとは異なる分野でありながらも非常に感心させられる点が多かったため、極めて僭越ではあるが、私もその記事で用いている精神分析的手法を学んで、取り入れた文章を書き、応答してみたいという欲求が素人なりにではあるが生まれた。

    そこで本記事は、まず同記事の概要を纏めた上で、そこに用いられている精神分析的な手法に対して、別の文献としてカトリーヌ・マラブーの『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』を参照することを通じて、別様に議論の延長を試みるものである。



    1.「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」の整理

    まず、先掲のDIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」を大まかながら纏めると、次のようになるだろう。

    従来の「作画崩壊」論争で、ある作画Aが「作画崩壊」か否かという判断は、それが何らかの演出的効果を生じさせた、「物語」に貢献しているものかどうかという主観的な主張を推測の足掛かりとして、便宜的な「意図的/無意図的」という対立が争点となる。(※註1)

    この時、二つの異なる主張は、立場を異にしながらも実際には以下の三点で合意しているとDIESKEは述べる。
    ①作画Aは「崩れて」いる
    ②「作画崩壊」の外延かどうかは「物語」への貢献いかんによって判断される
    ③「作画崩壊」は稚拙な作画を内包する
    しかし、既に述べた通り、判断の基準は主観的なものでしかない。であれば、「作画崩壊」はそもそも分類概念として成立していない。
    よって、違ったアプローチが必要である。

    そこで召喚されるのが、ヴァルター・ベンヤミンが「星座」の比喩で語る「理念」である。DIESKEは「作画崩壊」を「現象の客観的な潜在的配置」として捉えることを提案している。星々が、観測者からそれぞれに見出されながら命名されることによって、その星座を形成する位置に移動するのではない(星々は、それが個別の星同士に共通した属性が認められるものでないにせよ、命名以前から既にその位置にあった)のと同様、「作画崩壊」という特異な視聴経験の布置を認識する契機となる形象があるのではないか、と。
    それをDIESKEは「崩壊の外傷」と呼ぶ。

    そもそも「作画崩壊」という経験においては、一般に考えられがちな傾向とは逆に、画面内に描かれたものが何か、その意味内容がはっきりと認識が可能である必要があると、DIESKEは述べる。
    それは、ある作画Aが「崩壊」していると認識するためには、「崩壊」していない状態にある一定の形を保ったイメージを鑑賞者が想起可能であることが条件づけられているためである。
    そして、そのイメージと実際に映し出されている映像の間に生じる亀裂が、「崩壊の外傷」と捉えられる。
    この傍証として、DIESKEは、一定の形を保たない、不定形の水や炎などを描くエフェクト・アニメーションや、抽象アニメーション、モーション・グラフィックスなどは「作画崩壊」の扱いを受けないことを挙げている。

    しかし、重要なのは、DIESKEがこの直後で次にように述べることであろう。
    さて、「崩壊」が状態の変化を指す概念である以上、崩壊以前の状態が条件づけられていることは、すでに確認したとおりだ。しかし、ここで注意をうながしたいのは、作画崩壊にかんしては崩壊以前の状態が実在しないということだ。むしろ、視聴者から「作画崩壊」と名指しされることによって、パッケージ版で修正が施され事後的に崩壊以前が用意される逆転すらおこっている。作画崩壊においては、その契機となる「崩壊の外傷」によって傷つけられる対象ーー欠如していない状態ーーというのは、視聴者の想像上のものにすぎない。この「あるはずのものがない」という経験は、ある精神分析用語をおもいださせる。それは「フェティシズム」だ。
    DIESKEは、「作画崩壊」を、「フェティシズム」の特殊な局面であるとする。そして、その局面において露わになる、それまで抑圧されていた不安の正体とは、アニメーションの世界が「つくりもの」であるという事実だと指摘する。
    そのような外傷的な経験の布置こそが、〈作画崩壊〉の実相なのだ、と。

    このようにして、従来の「作画崩壊」からDIESKEの提示する〈作画崩壊〉へ移行することに伴い、概ね次に挙げる二つの方向で議論が拡張し得る利点が生じる。

    ①「星座」の比喩を経由することによって、「作画崩壊」論争の定義では合意に含まれていた巧拙という観点を取り出し、別途の議論を設けることが可能になること。
    ②巧拙の観点が取り出されたことによって、確かに「崩れ」が生じた、「物語」に寄与しない映像でも、実際は(例えば、ある種のインターネット・ミーム化にまで至るような)何らかの美的達成となっている場合の再考が可能になること。

    以上のように、ヴァルター・ベンヤミンやジークムント・フロイトを参照しながら纏められた同記事は、少なくともイントロダクションの現段階ではアニメーターの固有名を用いず、作画オタク的な目利き能力に頼らない内容となっており、その類の訓練を経由していない人間でも理解が容易なものとなっている。



    2.「作画崩壊=古き傷つきし者」と、[作画崩壊=新たなる傷つきし者]

    さて、このように「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」の議論を纏めた時、重要なのはそもそも「作画崩壊」議論自体が実は精神分析的に行われてきたのだ、という点だと考える。

    「作画崩壊」の議論で推測の足掛かりとなるのは、DIESKEが述べるように、それが何らかの演出的効果を生じさせた、「物語」に貢献しているものかどうかという主観的な主張である。そこで念頭に置かれているのは、セル同士が綿密に有機的繋がりを(さながら「細胞 セル」の如く)持つことにより、映像がそれ自体で一つのモンタージュとして「物語」を描き出すかのような在り方だ。(※註2)

    そのように有機的な組織に対して、「物語」に貢献していない稚拙なものという定義の「作画崩壊」は、用紙の上で使用される鋭利なペンから生じた刺激によって作品という肉体に生じる意識の異変、まさに「突き刺す titrosko」という語から派生した傷を意味する「トラウマ」的体験として置き直すことが出来る。だからこそ、それを象徴的に取り出すこと(映像から画像キャプチャーすること)すら出来るのだ。

    したがって、「作画崩壊(批判)」とは、この有機的な存在が陥っている退行に対して抑圧を解消せよ、という主張へも置き換えることが出来る。それは批評 クリティークであると共に、治療 クリニックなのである。

    ここで問題になるのは、フロイトの述べる「可塑性」である。フロイトにおける「可塑性」についてマラブーは、『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』という著作で、次のように記述している。
    フロイトにおいて、「可塑性」は二つの本質的現象をさしている。第一にリビドーの活発さ、その対象を変え、ひとつに固着しない性格であり、第二に心の生活の破壊しえない性格である。心のうちでは、何ものも忘却されないし、痕跡には消去不可能な性質があるとされているのだ。刻印されたものが変更され、変形をうけ、再成形される可能性はあっても、それ自体は存続する。(※註3)
    この二つの本質的現象が、変化はするものの存続し、再び最初の状態へ戻る「退行」も可能にするような、フロイトが述べる心的生活の不滅性を支えるものである。

    ここでは、前節において、ある作画Aが「崩壊」していると認識するためには、「崩壊」していない状態にある一定の形を保ったイメージを鑑賞者が想起可能であることが条件づけられている、と述べたことを思い出す必要がある。
    それを踏まえるなら、「作画崩壊」批判者にとって、「作画崩壊」とは外部からペンによってもたらされた衝撃で「トラウマ」となった結果、高度な表現を行う能力を失ってしまった、「退行」に他ならないのである(※註4)。

    そして実際、それは作品(患者)と鑑賞者(精神療法家)の間で、「心的装置」という空間へ実際の脳を迂回する形を取りつつ、想像上の過去に対する自由連想法を用いた遡行という共犯関係の中で改めて(或いは新たに)見出される――。

    しかし、既にDIESKEが述べていたように、「崩壊の外傷」によって傷つけられる対象、欠如していない状態、一定の形式を崩すことなく存在するイメージというものはアニメーションにおいて実際は存在していない。

    そしてそれと同様、脳の障碍における症例も、フロイトの言明に反して「退行」の不可能性、回帰作用の失調を示している。脳はフロイトが述べる「リビドー」などの代理的エネルギーの介入や、「心的空間」という迂回を必要とせず、フロイトの論では不可能とされる自己触発を行う。

    このように考える場合、人間には保存されたままの原始的な状態に遡って、過去に安寧の場を見出すことが許されていない。いかなる過去も、既に遡行可能なものではなくなっているからである。

    故に、「ひとたび脳の病変(頭部外傷、脳卒中、脳炎…)に見舞われたなら、脳の自己触発の過程は、程度の差はあれ、深刻なダメージをうけ、ときには失った形式を回復しえないほどに被害者の人格を激変させる」(※註5)のだ。

    そのような場合には、情動の失調、例えばアントニオ・R・ダマシオが自身の患者について「彼の全体的感情は“浅い”と言うのがいちばんぴったりする。」(※註6)と記述するような状態を伴う訳だが、これがアニメーションにおける「作画崩壊」表現にも通じるものでもあることは、両者の近接性を物語っていると言えるのではないだろうか。

    だとするなら、マラブーが「破壊による変容」として「断片と化した心 プシュケは、かつての面影なき人物の誕生と結び付ている」ような状態こそが、DIESKEが述べている鑑賞者が図像から想像する崩壊以前のイメージと落差、亀裂を生じさせる、「作画崩壊」と繋がっているのである。

    そして、この破壊は、フロイトが語った「可塑性」とは別、三つ目の「可塑性」に基づくものである。再びマラブーから引用を設けよう。
    この「可塑性」という語について、主たる三つの意味を想起していただかねばならない。まず、粘土などのように、かたちをうけとることのできる物質のもつ能力である。二つ目は、最初の意味とは逆に、かたちをあたえる能力で、彫刻家や整形外科医などがそなえている能力である。そして三つ目は、「プラスチック爆弾 plastic」や「プラスチック爆弾による攻撃 plastiquage」という語が証言するように、あらゆるかたちを爆発させ粉砕する可能性も示唆している。
    (中略)
    しかしながら、明らかに傷というもの――外傷ないし破局的出来事――は、この用語の肯定的な意味での「かたちの創造者」とはいえない。これは「美しい形態」という彫刻的な枠組みからは、かけ離れている。心の変容の決定因として傷に可塑的な力がそなわっているとするなら、さしあたって可塑性の第三の意味、爆発と無化という意味をあてるしかない。損傷後の同一性の創造があるなら、それは、かたちの破壊による創造ということになる。よってここで問題になっている可塑性は、破壊的な可塑性である。(※註7)
    この、ヘーゲル哲学から取り出した(フロイトの論には含まれない)第三の「可塑性」という概念を通じて、マラブーはフロイトは勿論、神経学にも更新を迫る訳だが、DIESKEの「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」が従来の「作画崩壊」概念を、「退行」可能なより早期段階にある対象を保持していない、全く新たな者としての相貌を露わにするものという[作画崩壊]概念に更新しようとする試みもまた、実はこれと軌を一にしたアクチュアルなものだと捉えることが可能なのである。

    両者は共に、新たな相貌に対する、新たな批評、新たな治療を要請している。



    3.まとめ/補遺

    ここまでの議論を纏める。第一節で、DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」を大まかに整理した上で、第二節からはそこで論じられていた従来の「作画崩壊」論争が如何にフロイト精神分析的であったかということ、またそれを更新しようと試みるDIESKEの議論がマラブーの議論などにも親和的であるということを確認した。

    とは言え、このままでは、アニメーションの実作業に対する翻訳が、少なくとも一見しただけでは余りにも困難な文章のままに留まってしまうように思える。
    無論、DIESKE自身は、このイントロダクションを軸として、今度はアニメーターの固有名も含んだ各論を展開していると述べており、それを通じてより直接的にアニメーションを論じる内容となることは間違いないだろう。
    しかし、それとは別に、本記事でも少なからず道筋を示しておく必要が、議論に参加した責任としてあるように思われる。

    そこで、簡単にではあるが、既存の映像論と如何にして接続可能であるかを検討して、記事を締め括りたい。

    マラブーはそもそも「反‐フロイト」や「反‐精神分析」ではない。(※註8)
    それは、例えば精神分析家マーク・ソームズから「問題は、フロイトが正しかったかどうかを証明することではなくて、その仕事を完成させることだ」という言葉を引用していることにも見て取れる訳だが、その中で思考に物質性を差し戻し、その間に区切り線を引くのを拒否するかのような態度は、何処かアンリ・ベルクソンやジル・ドゥルーズを連想させるものがある。

    だとすれば、まさにその両者を論じつつ「見たまま」の「リテラリティ」を重要な軸に据えた福尾匠『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』という著作などとも比較検討が可能になるかもしれない。例えば、本記事では用いた有機的な組織として、まるで生命であるかのように扱う「比喩」などは、解除される必要があるのではないか。DIESKEの議論は、その一助となる可能性を検討する一つの道筋を示しているのかもしれない。

    また、より直接的なアニメーション分野に近付いていくなら、まず、重要な先行研究として、セルゲイ・エイゼンシュテインの「原形質性」という概念を検討した土居伸彰「柔らかな世界 ライアン・ラーキン、そしてアニメーションの原形質的な可能性について」(『アニメーションの映画学』所収)を挙げなければならないだろう。
    そもそも、ここで云う「原形質性」とは、エイゼンシュテインの論文である「ディズニー」で提示されたアニメーションの可能性であるが、土居はそれが本当にディズニー作品で機能していたのか改めて検討している。
    そこで同じ柔らかなものではあるが、対比的な概念として持ち出されるのが、まさに本記事で何度も目にしてきた「可塑性」という言葉であった。しかし、土居は、ここで「可塑性とは、キャラクターの一貫性を保証するために用いられるようなのだ。」と記述している。確かに、本記事でも確認してきた通り、確かにフロイトの「可塑性」はそのようなものである訳だが、マラブーの提示する「可塑性」は、それとは異なっていることも確認した。
    であるならば、マラブーが述べる「可塑性」を、あの「原形質性」と比較して考えるべきなのではないか、という可能性は検討の余地があるように思える。

    或いは、アニメーターの吉原正行による「作画のとび箱 No.18 原画のプランニング―その① 動きに対する適正な原画位置と枚数」で論じられている井上俊之の作画(「原画」)工程が、「動きとして目に引っかけたいパーツ、例えば腕の原画は描いてある[…]けど腕以外の部分は動画が中割で割ってくれたほうが印象として綺麗に動く」かのようなプランニングに基づいており、謂わば「自動性」を持っていることなどは、改めてマラブーが記述する「自己触発」の観点と比較検討する余地はあるかもしれない。(※註9)

    無論、議論はそれ以外にも延長可能であるだろう。
    例えば、手前味噌になるが、自分が以前に『アニクリvol.5.5_β』に寄稿した「無銘論」での「かな/真名」性の問題は「有機的接続/無機的切断」でもあるため、今回の記事で扱った「作画崩壊」議論とも接続可能であるに違いない(先に挙げた、「比喩」の解除とも繋がっている)。
    また、これは課題としてだが、同じく『アニクリvol.6.5_β』に寄稿した「未知と道」では、作画に対する思考から、生物進化のアナロジーを経由することで露出するある種の無根拠性を改めてどう受け止めるべきか、という問題を扱ったが、これはDIESKE「作画崩壊の形式的な分析のノート」を経た現在、再検討しなければならないという直観が働いている。

    そのような各種の議論の末にこそ、DIESKEが述べていたような、既存の作画評価軸とはまた異なる新しい評価軸を設定が可能になるだろう。

    ともあれ、議論の端緒は、既に多方で開かれているらしい。
    もしも気が向いたら、ここまで読んで下さった方々にも、それぞれ議論を検討して頂ければ、これ以上の幸いはない。

    例えば、自分もよく寄稿する『アニメクリティーク』は、編集であるNagブログ「書肆短評」などを通じて大体は常に何かしらの寄稿募集している媒体で、本当に誰でも参加可能です。
    ちなみに自分は、継続的に議論を続けている、フセヴォロド・メイエルホリドの演劇論が新劇などを経由してアニメーションの中で密かに技術的な蓄積を行ってきたのではないか、という仮説を音楽のアナロジーを用いながら映像と音楽の両面で検討する文章を、夏に発刊予定の『アニクリ』に寄稿することを考えています(春の文フリ東京発刊予定の『アニクリvol.6.5(本号) 特集〈アニメにおける線/湯浅政明+森見登美彦〉は検討中……)。
    その際には、宜しくお願いします。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    (註1)これは、単に映像のみを鑑賞する側からは、制作者が意図的だったかどうか実証的に検討することが困難なためである。また、意図的であっても単に自己満足である場合や、意図していないが演出的に上手くいった、という場合も存在することは注意が必要である。

    (註2)「モンタージュこそが映画作品の全体であり、〈理念〉であるのだ。」(ジル・ドゥルーズ『シネマⅠ*運動イメージ』財津理・齋藤範訳、54頁、法政大学出版局、2008年)

    (註3)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、44頁、河出書房新社、2016年

    (註4)例えば、そのアニメがマンガなどの原作付き作品である場合、批判に「原作レイプ」という言葉が用いられることも、示唆的だと言えるかもしれない。

    (註5)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、82頁、河出書房新社、2016年

    (註6)アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』田中三彦訳、40頁、ちくま学芸文庫、2010年

    (註7)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、42‐43頁、河出書房新社、2016年

    (註8)その意味で言えば、DIESKEに関しても、決して「反‐作画オタク」的ではない姿勢を見て取ることが出来るだろう。それはあくまで、批評を更に一歩進めようという態度から出てきているのである。

    (註9)未加筆
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  • 「鉄血にして熱血にして冷血の大樹——アニメ『傷物語』論」(『アニメクリティークvol.6.0』所収「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」[牙]瀆葬版)

    2017-05-24 16:00



     ※詳しい経緯に興味のない方は、ここを読み飛ばして頂いて結構です。
     この記事は二〇一六年から三部作で公開されたアニメ『傷物語』に関する文章です。但し、元々は僕が『アニメクリティークvol.6.0』という同人誌に寄稿した「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」第三節(2)[牙]として書かれた“かもしれない”ものでもあります。勿論、この記事単体でなるべく読めるようには書いてありますが、その点をあらかじめご注意下さい(一部、この記事以外の部分に言及するところもありますが、読み飛ばして頂いて結構です)。
     一応、経緯を説明しておきますと、実際の『アニメクリティークvol.6.0』の「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」の一部である[牙]部分には、全く違う文章が載っています。と言うのも、アニクリの主催・編集をなさっているnagさんは、より良い文章を作るために、こちらの文章に対してとても熱心に取り組んでくれる方で、データをやり取りする中で、時に膨大な量の追記、提案をして下さいます。
     前述の『アニメクリティークvol.6.0』に寄稿する際、最初に僕が彼に送ったデータは、『〈物語〉シリーズ』全体を通して考察するものでしたが、それに対して彼から送られて来たデータには、「終盤に、もっと『傷物語』の具体的シーンを考察する箇所を入れたほうが良いのではないか」という提案と共に、その例文が後半に追加されていました。
     それをとても気に入った僕は、彼の例文に僕が加筆修正する形で仕上げ直したものを『アニメクリティークvol.6.0』に載せて貰うことにしました。
     とは言え、彼がメインで書いたものと、僕がメインで書いたものでは、やはりニュアンスが全く異なるものになります。その両者を見較べることが出来ると、読者にとっても楽しみが一つ増えるのではないかとnagさんから提案を頂いたため、今回、改めて僕が最初から書き直したものを、記事として上げさせて頂きました。
     なので、『アニメクリティークvol.6.0』や、同時発刊だった『アニメクリティークvol.5.0』、その他既刊諸々も、是非とも宜しくお願いします。
     また、次回の『アニメクリティーク』は『機動戦士ガンダム サンダーボルト』などの松尾衡監督作品を軸に“「アニメにおける音と身体」特集2”を予定しているそうです(近々、寄稿募集文を公開する予定)。松尾衡監督の作品はどれも非常に素晴らしいため、こちらも(寄稿の検討も含め)宜しくお願いします。
     それでは、以下が本文です。

    「鉄血にして熱血にして冷血の大樹——アニメ『傷物語』論」
    (『アニメクリティークvol.6.0』所収「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」[牙]瀆葬版)

     ここで、アニメ『化物語』の完結と同時に制作が決定されたまま遅延され続けた末に、二〇一六年からようやく三部作として公開された『傷物語』を最後に考察してみよう。


     映画冒頭、やはり物語は螺旋階段から開始されて行く。しかし、実はこの段階で既に、『化物語』冒頭の螺旋階段とは異なってもいる。そこで、まずは順に画面を追って行こう。

     ファースト・カット、赤背景に「3/26(dimanche)→4/07(vendredi)」の字幕、次に黒背景の上に「vampire」、「tragedie」、「histoire」という字幕がそれぞれ続き、最後に「反轉」の文字が映されると文字通り画面は反転、そして直後にホワイト・アウト

     ジャン・リュック・ゴダールを思わせるような映像の後、徐々に映し出されるのは、画面を覆い尽くすかのように様々な方向へ枝を伸ばしながらも、既に枯れ切った大樹である。

     カットが変わり、到着したエレベーターの扉が開くと、そこには阿良々木暦が荒い呼吸を繰り返しながら何かに怯えているかのような表情がアップで現れ、次のカットで円形のエレベーター・ホールが映し出される(このエレベーター・ホールは、東京都千代田区一ツ橋のパレスサイドビルディングという実際の建築物がそのままモデルになっている)。

     黒背景に白字で「NOIR」という字幕を挟み、再び大樹(ここで、先程よりも少し引いた画面により、大樹は何処かの建物に囲まれて生えていることが示される)。

     コツ、コツ、という足音が、地面から伸びるエレベーター・ホールに備え付けられた円柱状の操作盤を直上から捉えるカメラをゆっくり回転させるかのように鳴り響き(前節で記述した円運動をなぞり)、そこから画面が引くと、実際にその横を暦が歩いて行く。

     またもや大樹の映像を挟んで、やはり何かに怯えるかのように、しかし一方で何かを“飢え”を満たすものを探し求めるかのようにして、或いは、“上”を目指すかのようにして歩いて行く暦(その映像には、例えば4と書かれた黄色い扉から円形に反射するライトなど、太陽を連想させるようなものが散りばめられている)。

     実際、上へ続く螺旋階段に辿り着き、それを一歩、また一歩と上って行く暦が何かに手を伸ばすようにすると、黒背景に「MEHR LICHT!」という字幕(それはドイツ語で「もっとを!」を意味し、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが最期に更なる啓蒙を求めて言ったという逸話が伝えられる言葉)が映し出される。

     ようやくその頂上に辿り着き、暦が重い扉を開くと、曇天の下、山梨文化会館を模した学習塾跡を貫いているのがあの大樹であったことが示され、そこに数え切れないほどのが群がっている光景が広がる。

     字幕(「NOIR」)を挟んで、四本の太陽!)が風にはためく中、暦は屋上を歩いて行くが、カット・バックされるは輪郭線こそリアルなものの、そのテクスチャなどは曖昧に抽象化されており、何処を向いているのか、それどころか、二羽以上が重なるとそれぞれが区別不可能な一つの塊であるかのように描かれている。

     その反対に、暦の視線も、続くカットで風にはためくに隠れた太陽の映像などが連続して行く中、そのどれを眼差しているのか、鑑賞者に判別することは出来ず、主体は常に曖昧に揺らされ続ける(それは、さながらディエゴ・ベラスケス『侍女たち』の「フレーム内フレーム」が一人の鑑賞者という主体の地位に潜む虚構を暴くかのように)。

     そうして、これまで記述して来た映像から醸し出される不穏さがピークに達する時、それが訪れる。

     をはげしくはためかせる風によって、雲間から顔を出した太陽に暦が目を眩ませるその瞬間、短い暗転の後、彼が目にしたのは、を遮ろうとした自身の右手を起点に、全身が激しく燃える姿だった(否、彼が認識出来たとすれば、それは辛うじて右手の着火までで、鑑賞者のように全身が燃え盛っていることを理解出来るような状況では既になかったであろうが)。

     物凄い叫び声を上げながら「暴走」する暦は、そのまま屋上から落下する。

    「cerre histoire de vampire finina mal(「吸鬼にまつわるこの物語はバッドエンドだ。」)

    「elle finira quand tout le monde sera malheureux(「みんなが不幸になることで終わりを迎える。」)

     激しく地面に打ち付けられる暦。それでも太陽は彼を焼き尽くさんとするかのように照り付け、彼が必死でもがきながら伸ばした手は、しかしそれに触れることは出来ず、必然、止めることも出来ない。

     事実、まるで太陽に触れようとするのを覆い隠し、拒もうとするかのように画面は太陽からへ推移し、ここに至ってようやく『傷物語』と、深紅文字が実写映像をバックにしてタイトル・コールされる。

     とは言え、長々と記述したものの、この映像は、三部作ある内の第一部『傷物語Ⅰ〈鉄血篇〉』の、更にその冒頭、実際の時間にすれば五分ちょっとの断片に過ぎない。

     佐々木敦なら「なんと映画は始まってからまだ十分も経っていない。なのにこの情報量は何ごとだろうか」(『ゴダール原論』)とでも書くだろうか。それはここで知る由もないが、しかし、確かにこの冒頭映像は充分すぎるほどの情報を鑑賞者に与えてくれている。

     それは、この物語が前節で言及した、弁証法(「啓蒙」!)的会話劇をカット・バックに翻案し、二つの螺旋が身を捩る「シャフ度」を通じて接点となり得る「フレーム」の切り出しからキスへ収束する体系を描き切ったテレビ放送版『化物語』までとは全く異なるものだ、と(事実、大樹が上空に向かって一点に収束するのではなく、多方向に向けて枝を伸ばしているかのように)。

     そもそも、既に前節で述べた通り、『化物語』冒頭に挿入される『傷物語』のダイジェストを経て描かれる螺旋階段での暦とひたぎの初接触は、とんでもない高さから落下して来るひたぎを暦が何の重さも感じさせずに受け止めるという、現実離れしたシーンとして描かれていた。

     それに対して、『傷物語』冒頭の螺旋階段は(勿論、それ以外の映像も)、背景を一つとってもパレスサイドビルディングや山梨文化会館などの実在する建築物をモデルにして、作画に関しても(劇場版であるが故にということもあろうが)よりリッチに、没入感を増して迫って来る。

     にもかかわらず、それは寧ろ『化物語』と反対に(と言うよりも、正確には『化物語』も当然ながらリアルさを求めてもいた訳で、しかし『傷物語』はそれ以上にリアルさを求めた結果として、逆説的な形で、より具体的に)接触を拒んでしまうかの如く事物を推移させる。

     必死で何かを追い求める暦だが、その視線はと交わらず、伸ばした手は空を切って太陽には届かない(それは彼を拒むかのように焼き、国旗という「フレーム」に切り出されたとしても、まるでに覆い隠されているかのようである)。

     リアルさの追求が、しかし接点へ結実するに至らず、寧ろ人間が日光燃え出すというあり得ない光景へ越え出てしまう映像によって示されるのは、単なる「現実/非現実」という対立ではなく、リアルさの追求こそが(それを踏み台にするかのようにして)超現実的表現、即ちシュルレエルへと飛躍する、ということであろう。

     事実、驚くほど精緻な作画が細かく分節化されて積み重なるアニメーションが、しかし、最終的には接触する感覚をもたらさず、寧ろ現実から飛躍する様を、先述の冒頭シーンから、例えば本編における吸鬼の戦闘——特に『傷物語Ⅲ〈冷血篇〉』における近代オリンピックを模したキスショットと暦の戦闘で一切の抵抗を感じさせず、容易に相手の肉体を幾度も幾度も切断し合う超現実的映像まで、三部作を一貫して見て取ることが出来るだろう。

     ここで、『化物語』で示された構図をより具体的に更新することが出来る。つまり、単に「現実」に対抗して「非現実」が生み出されるのではなく、寧ろ「現実」こそが(それを利用する形で飛躍する)「超現実」を生み出すのだ、という形へ。

     ここに至ってようやく、本稿の冒頭で示した、スクリーンに映し出した愛するキャラクターへ没入するが故にキスへ至るも、間に隔たったスクリーンの冷たさや硬さに拒まれる末に、それまで玉座に君臨していた偽りの簒奪者(「怪異の王」!)たる「リアリティ」のアンインストーラーが起動するという構図がより明確になると言えるだろう。

     そして実際、『傷物語』という物語は、一貫してあらゆるものが接触を拒むように配置されている。ここで注目したいのは、そもそも『〈物語〉シリーズ』には多くのヒロインが登場するものの、その中で『傷物語』に登場するのが吸鬼のキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード(後の忍野忍)と、後に障り猫に憑かれることとなる羽川翼のみであるということだ。

     この二人に共通するのは、接触行為が相手への致命傷になってしまう、という点である。即ち、テレビ放送版『化物語』のラストを飾った一つの物語体系の結実としての接点たるキスに至ること自体が、既に失敗を運命付けられていた人物たちだけが配置されているのだ。

     実際、この時点での(まだ忍となる前の)キスショットと翼は余りにも完成され過ぎている。彼女たちはその完全さ故に、先述したシェリングとも親交の深いヘーゲルが「事物の螺旋的発展」と体系付ける「無教養の段階の個人から出発してこれを知へと導く」弁証法の形成過程と相反している。即ち、例えば彼女たちは「反証可能性」(カール・ポパー)を持てないが故に、近代(≒科学)国家の中に位置付けられない「怪異」としてしかあり得ないのである(実際、キスショットが忍となっても未だにやはり「怪異」であるのは勿論、後に成人した翼は、国家という枠組みを壊す活動家となる)。[10]

     それだけではない。

     そもそも、どうしてこの物語が美談で終わることが出来なかったのか(というよりも、どうしてこの事件が起こってしまったのか)。その理由も、やはりこの接点を持てなかったことに起因している。

     そこで、今度は『傷物語』のストーリー面を追ってみよう。

     先述した冒頭の後、映画は時間を遡り、三月二十五日、春休みに入る前日の放課後に、暦と翼が最初の会話を交わすところから再び開始する。そこで翼から吸鬼の噂を耳にした暦は、その夜、外出した際に、偶然にもその吸鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと出会ってしまう。四肢を失い、血溜まりの中で倒れた彼女は、暦に助けを求める。勿論、それは暦にとって吸されること、即ち命を代償にする行為であった。一度は逃げ出してしまう暦だったが、最終的には彼女に救いの手(ならぬ首)を差し出してしまう。

     しかし、結果的に暦は命を失うには至らなかった。キスショットが暦を自身の眷属へと変貌させたからだ(先述の冒頭シーンで、彼の身体が日光に燃えたのは、これが理由である)。

     何とか一命を取り留めた暦だったが、次なる問題は、果たして自分は人間に戻れるのか、であった。キスショットは、それが可能だと答え、そのためには自分の四肢を奪った三人の吸鬼ハンターから四肢を取り戻すように命じるも、暦はそれに失敗してしまう。

     そして、まさに命を奪われようとするその瞬間、助けに入った忍野の介入により仕切り直しとなって、そこでようやく暦は三人からキスショットの四肢(と、実は忍野が秘密裏にキスショットから奪っていた心臓)を奪還することに成功する。

     しかし、喜びも束の間、暦は完全体に戻ったキスショットがハンターの一人を文字通り食べている姿を目にしてしまう。ようやく、これまで自分が忘れたフリをして来た事実を前に、暦は忍と対立するに至る。

     最高ランクの「怪異」、「鉄にして熱にして冷の吸鬼」たるキスショットと、その眷属となった暦、化物同士の戦いは、暦の吸によるキスショットの完全消滅で幕を閉じる——はずだった。

     しかし、そこに翼が介入する。この展開は、仕組まれている、と。そう、実は、最初からキスショットは暦を人間に戻すため、自らの命を捧げるつもりだったのである。四〇〇年前に一人だけ作った最初の(暦を除いた唯一の)眷属を作った際、その眷属を人間に戻してやることが出来ず、彼がそのまま自殺するのを、暦がしたように身を挺して救うことが出来なかった(「あるべき姿」を取り得なかった)後悔を理由に。

     それを知った暦は、忍野に請う。「なんとかしてくれ」、と。そこで「誰も助けない。ただ自分で助かるだけ」が信条の忍野から三人に提案されたのは、死を望んでいたキスショットは力を失ったまま死ぬことが出来なくなり、人間に戻りたかった暦は完全に人間へ戻ることなく最小限の吸鬼要素だけを残したまま生きることになり、そんな二人の「怪異」を消滅させる機会を人間(翼)は失うという、全員が少しずつ不幸になって終わる結末だった——。

     これが、大まかな『傷物語』のあらすじである。

     まず、いま問題になっているのは、先に述べた「どうしてこの物語が美談で終わることが出来なかったのか(というよりも、どうしてこの事件が起こってしまったのか)」である。

     それは、キスショットがかつて、自ら死を選ぶ自身の眷属に対して、暦が「そうとしてしかあり得なかった」ような肖像としての、身を挺して誰かに手を差し伸べる姿を結ぶことが出来なかった(彼女にとっての「あるべき姿」を取れなかったことを後悔して、自殺を試みた)からである。

     既に説明した通り、『傷物語』というのは言ってしまえば、壮大な自殺を巡る、ある意味では「茶番」とも言える作品だ。言い換えれば、この物語を西尾維新の元々の出自であるミステリとして考えてみた場合の「真犯人」とは、キスショット自身なのである。

     一見すると意外なことに思われるかもしれないが、ミステリにおける「最初の謎」とは、実は事件のことではない。それは、寧ろ「真犯人」にとって存在している。例えば、殺人事件を扱ったミステリの場合、「真犯人」にとっては、どうして後の被害者となる殺されるべき人間が生きているのかが(そのようにただ、ある姿が「あるべき姿」だと)理解出来ない「最初の謎」であり、それ故に事件を起こすのである。つまり、こうしたミステリにおいては「実存」こそが問題になっているのである。

     事実、キスショットが、かつて自分がたった一人の眷属を救うために自ら身を挺することが出来なかった(「あるべき姿」を取り得なかった)ことを後悔し、自身がそのまま生きる(「そうとしてしかあり得なかった」)のが「あるべき姿」だと認められず、自らを殺すことを選ぶかのように。

     その姿は、まさに太陽へ手(枝)を伸ばしながら、それに触れることなく枯れ切ってしまった大樹そのものだ。

     それはつまり、先述した『傷物語』冒頭という、三部作を全て合わせれば三時間を超える大作の一部でしかないはずの断片が、既にして本編を示すに十分な「あるべき姿」という「象徴」としてのアニメーションの本分を全うしていたということ(そう考えてみると、西尾作品はやはりミステリを起点にした小説であると共に、それを、見事にアニメーションを巡る物語へと翻案して見せたのがアニメ『〈物語〉シリーズ』だと言えるだろう)。

     同じことを、今度は暦の側についても考えてみよう。

     作中でも指摘されている通り、本来の暦が「あるべき姿」とは、実はキスショットに命を捧げることではなく、彼女を見捨て、あの血溜まりの現場から逃げ去ることだった。しかし、暦はそれを認められず、彼女を助けてしまったからこそ、彼自身も述べる通り「加害者」の一人と言えるのである(同様に、翼もまた、最後の局面においては、化物であるキスショットを見捨て、彼女の消滅と共に暦が人間になることを選ぶべきだったと、忍野は云う)。

     こうして、『傷物語』に登場する人物たちは無限遠点の末に一点で収束する「あるべき姿」を取ることが出来ないまま、「そうとしてしかあり得なかった姿」を選択するが故に、「バッドエンド」なのである。

     しかし、だからと言って、それを捻じ曲げることも許されない。何故なら、既に述べた通り、そのようにただ、ある姿を合理的な思考に導かれる「あるべき姿」へ変えてしまおうとすることこそが、「真犯人」の行為だからである。

     確かに、彼らの選択は、「あるべき姿」ではなく、「そうとしてしかあり得なかった姿」である。その結果として示されるのは、キスショットにとって欠けていたのは“身を挺すこと”であり、暦にとって欠けていたのは“身を挺さないこと”であるという、矛盾である。決して、たった一つの冴えたやり方は、ここに示されることはない。

     実際、後の『〈物語〉シリーズ』では、作中ですら「阿良々木ハーレム」と揶揄されていた各々の登場人物も、もはや暦が関わることの出来ない存在となる翼や撫子を筆頭に、最終的には皆が別々の道へバラバラに進んで行くことになる。全員が一緒に幸せな結末を迎えることは決してない(暦とひたぎという唯一のカップルすら、その後にどうなるのかは、実は全く保証がないことは僅かにではあるものの、匂わされていなくもない)。だが、それぞれは個人で、忍野が云うように「自分で助かる」のである。

     私たちは、例えば生まれる時代、生まれる場所などを選べないように、「あるべき姿」ではなく、「そうとしてしかあり得なかった」条件の中で生きて行かざるを得ない。そのような「環境」によって駆動される新たなテクストは、さながら現在も西尾維新が恐るべき速度で書き上げ続けている作品群のように、鑑賞者による体系化を拒み、寧ろそれを崩しながら、その一歩先を常に行っていると言えるだろう。

     では、人間は「環境」に対する遅延を常に決定付けられているのだろうか。恐らく、そうではない。そもそも、その「環境」には、テクノロジーが人間によって生み出されたものであるのと同様に、介入する余地も残されているはずだからだ(例えば、暦と忍の主従関係が、どちらを上とも言えない状態にあることも思い起こそう)。[11]

     言い換えるなら、人間は「環境」に対して遅延するものでありつつ、先行するものでもあるということ。矛盾する二つを、統合することなく、寧ろ分裂したまま受け入れること。

     それは、一般に映像鑑賞を、二つの目で捉えた視差を伴う異なる映像を一つに統合する行為だと捉えるなら、失敗であると批判されるかもしれない。しかし、『傷物語』において、リュミエールの初期映画『軽食をとる子供たち』の背景で揺らめく木々や葉、『港を離れる小船』でうねる波がメインの事物よりも観客の目を惹いたという逸話に顕著な、従来なら意識にまで上がって来ることなく、無意識下で抹消されていたプレ・テクストを捉えた(「マイブリッジの連続写真」の正統な後継者である)ことを評価されたことに対する尾石達也からの目配せがあることを見落としてはならないだろう。

     そして、そのプレ・テクストとは、さながら『傷物語』の背景に工場群が常に映り込んでいるように、いま私たちを取り囲んでいるテクノロジーという「環境」なのである(実際、あの風になびく旗や草、波とそれに反射する光などは、テクノロジーによって演算されるものであるだろう)。

     その時、実作者と鑑賞者の間、例えるなら視線解析機を使用して鑑賞者の視線を可視化した際の印が画面上で虚ろに彷徨うかのような状態で宙吊りになったままの情動、つまり身体という自身の「環境」(「そうとしてしかあり得なかった姿」)との付き合い方が問題になるのである。


    [10] また、「無教養」とは言わないまでも、原則的には探偵側の人間が一定以上の事実を最初から把握していないことは、ミステリ小説における非常に重要な要素である。何故なら、極端な例を言えば、殺人事件において、あらかじめ犯人が被害者を殺すことを知っていて尚、それを告発していないのは、その者が犯人自身か、それに近しい(隠匿という罪を犯した)人間ということになってしまうからだ。最後まで探偵役であるには、ホームズ的な知恵だけではなく、ワトソン役のようなある程度の「愚かさ」が必要なのであり、例えば、ホームズの兄であるマイクロフトのように完璧ではいけないのである(そして、このマイクロフト役を『〈物語〉シリーズ』では、彼女たちの他に、例えば臥煙伊豆湖や忍野扇といった人物が引き受けている。

    [11] 例えば、「無意識」の話では、ベンジャミン・リベットは、人間の意識が行動を決定するのが、実際に身体が動き始めるタイミングよりも五五〇ミリ秒も遅れていることを、脳内の準備電位を計測することで明らかにした。また、ダニエル・クレメント・デネット三世も、人間の意識が単一の切れ目ない流れなどではなく、互いに犇き合う多の中で偶然にも閾値を超えたものがその都度に顔を覗かせては消えて行く、仮想的物語の断片もしくは断片の軌跡であり、それが人間に介入の余地を生むという逆説を述べている。


  • 『アニメクリティークvol.5.5_β 新海誠/君の名は。』に向けてのメモ書き

    2016-09-14 00:35

     最初に、この記事は、『アニメクリティークvol.5.5_β 新海誠/君の名は。』に評論文を寄稿するために、少し思考を整理する目的でtwitterに書き留めた連投メモを、他の方からの希望があった(連投が長すぎて一望できなかった)ので記事として纏めたものになります。
     勿論、記事へ直すにあたってそれなりに読めるような形には整えましたし、興味のある方に読んで頂けると非常に嬉しいのですが、同誌へ実際に寄稿する文章は編集の方と様々に意見を擦り合わせながら更に推し進めた形で提出するつもりですので、この記事とその寄稿文がどのように違っているのかを比較して頂きながらも楽しめるかと思います。
     なので秋の文学フリーマーケットで頒布が予定されている『アニメクリティークvol.5.5』のほうも宜しくお願い致します。
     また、別の同人誌には、この記事で多くの言及をすることになった高畑勲さんの作品群で、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『かぐや姫の物語』に関して、それぞれに短めの文章を寄稿する予定です(あと、同じ同人誌にラグビー論も載る予定です)。そちらも公開され次第、告知させて頂きたく思います。

     なお、『アニメクリティーク』は寄稿文を初稿の締め切りを十月一日まで募集しておりますので、もし希望の方がいらっしゃれば、同誌のサイトをご確認ください。
    http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2016/08/27/173112

     では、以下が連投を纏めた部分となります。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

     まず前提としてアニメの「動き」は十分に言語化されていない。
     例えば、片渕須直さんのコラムによると、あの井上俊之さんでさえも「動きのことについて喋ろうとすると、とたん口下手になっちゃうんです」と述べるという。
     そこで多くの場合、擬音と、声や手振りまで用いてようやく何とか示すことになる訳だ。

     それは端的に言えば、先行研究があまりない状態ということなのだが、ただ考えるヒントはあって、それが言葉の問題だと僕は考えている。
     つまり、「元になる運動/アニメーションされた各コマ」の関係を「元々あった言語/それにイメージを当てて読める(再生できる)状態にした文字」と重ねて考えることである。


     そもそも、この国では元々あった喋り言葉を文字にするにあたって、当初は漢字を海外から借用することでそれを達成し(借字による万葉仮名)、漢字が公的な場で使う共通言語として権威的なものとなった。
     しかし、その分節化して表される一字ずつは、元々の喋り言葉に対しての不透明性が高く、謂わば「カクカク」している。
     そこで時代が下ると、まるでその間を滑らかに埋めるような、丸みを帯びた「ひらがな」が発明される。

     これをアニメに寄せ直して考えてみると、柔らかで太目の描線を用いて滑らかに動くジブリ作品の映像を、海外から輸入したイメージ技法としてのアニメーションから換骨奪胎した日本独自の文化(的達成)と持ち上げつつ、未だに「フル/リミテッド」の呪縛から解き放たれない状況と相同的だと思われる。
     要するに、元々あった一繋ぎの運動をコマ毎のイメージに分節化して描くアニメーションと元々あった一繋ぎの喋り言葉を一字ずつに分節化して書く「仮名」の歴史には相同性があり、そうするとジブリの丸みを帯びた柔らかで太目な描線はそこから換骨奪胎した「ひらがな」に相当する、という訳だ。

     その「カクカク」したイメージ(コマ・漢字)の間を滑らかに埋める柔らかで丸みを帯びた文字(描線)の確立は、一部の階級だけが読み得る権威的な文字(宮廷での漢字)から国民の誰もが分かる文字に透明化すること(引いては、国民的作品・作家)への志向な訳だけれど、それは例えば高畑さんのアニメーション論と繋がっている。
     つまり、高畑さんは日本の伝統的絵画から日本アニメーションへの連続性を、これもまるで間を埋めるように滑らかな連続性のあるものとして繋げることで、その透明な文体を使用する(ことに親和的な)人間により輪郭を縁取られる一つのフラットな国民国家を論じる訳だが、ここには幾つか問題がある。
     実際、高畑さんは伝統的ま絵画技法からの有機的なアニメーションの出現(と共に古くからアニメーションに親しんで来た国民性)を論じる訳だけれど、これはひらがなの発明を独自な日本文化の成立と主張することで平安摂関体制を戦後日本の天皇制と連結する、ある種の和歌研究に見られる政治的寓話に通ずる。

     例えば、トーマス・ラマール『帝国と国民のあいだ――戦後の和歌批評における帝国の影と国民的反動――』から重要な部分を引用する。
     口頭による伝承についていえば、鈴木は奈良・平安京の言語と複数性にあまり注意を払わない。宮廷での中国語の使用については触れず、万葉と古今を隔てる発音の違いは無視する。文字による伝承について言えば、民衆が仮名を生み出したと主張するために、仏教寺院や官吏の重要性は省かれてしまう。仮名はすでに中国の書道が確立した経路を辿っており、だからこそ勅撰和歌集がしばしば華々しく披露しているような書道の名人芸がありえたわけだが、これは無視される。(p.178)

    要するに鈴木の和歌研究が身を捧げているのは、一種の(戦後天皇制と文化ナショナリズムに同調した)日本語共同体であり、ここでは多様性というかたちで顔をのぞかせている異種混交的な要素は、意識的に排除されている。こうしてホブズボームのいう「領土的ナショナリズムの不条理と恐怖」が、和歌解釈の実践を覆うようになる。その不条理と恐怖は、差異の存在に気づいていながら、ウィルソン的な民族‐言語統一と純粋化の枠組みのなかでだけ差異が表現できるという、矛盾に満ちたこだわりにあるといえよう。(p.182)
     こうした研究を発表していたラマールが『アニメ・マシーン‐グローバル・メディアとしての日本アニメーション‐』の著者でもあるのは納得で、それは和歌とアニメの歴史に相同性がある(それ故に、抱えている問題にも同じく通じるところがある)からだと思われる。

     例えば、伝統的絵画から有機的連続的に発生した日本(の国民性に基づく)アニメーションという史観も、仮名が中国の書道が既に確立した経路を辿っていたことを無視するのと同様、そもそも「リミテッド」が、ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの生み出した手法を輸入したという事実を無視している。
     勿論、そうした亀裂を高畑さんが認知していない訳はなく、方言などの多様性も例えば著作『映画を作りながら考えたこと 「ホルス」から「ゴーシュ」まで』に言及があって、或いは『おもひでぽろぽろ』ではまさに異なる言葉遣いで喋る二人を描いている。
     それにもかかわらず、以前にも述べた通り、高畑さんは例えば『かぐや姫の物語』で硬質で角ばった宮廷(漢字)文化に批判的な、柔らかで丸みを帯びた描線で描かれるかぐや姫、即ち「ひらがな」で書かれた最初期の物語である『竹取物語』に軸足を置いて、透明化への志向を隠そうとしない。


     確かに、同作の描線は多様だ。
     だが、それは「鈴木は、平安詩学の形成をとりまく多様性を根絶して初めて、詩学のなかの多様性を再発見し回復する。いったん国家が外来の要素を放逐してしまえば、主体は自らの国語で自由に多様に話すことができるのである。」(p.182)とほぼ同型の問題を抱えている。

     再びラマールの『帝国と国民のあいだ』から引用を設ける。
    ウィルソン的図式では、文化、民族、そして国家の境界線を打ち立てるのは、話ことばとしての言語である。だからこそ鈴木は、仮名文字が事実上、日本語の話ことばであることをしめすのに努めるのだ。平安仮名が日本語の話ことばとすっきり一致せず、他の言語(中国語なり朝鮮語なり)を記しているとしたら、あるいはそれが混血的話ことばや精選された方言や、擬音語を表すだけだとしたら、平安宮廷は近代国家ではないし、その臣下=主体は日本人ではない。(p.181-182)
     要するに、ここで「サバルタン」の問題が出て来る。「サバルタン」が己の声を聴いて貰うためにはまず西洋的価値観を受け入れなければならなかったのと同じように「ひらがな」的な描線の裏には戦後に流入した西洋的価値観との共犯関係が暗に刻み込まれており、それ故に「フル/リミテッド」というカビだらけの価値観の転倒までに至ることが出来ない。
     実際、そもそも「フル」による表現=描かれている映像がそのまま機械的に脳内で実運動と同様に処理されて運動が再生されることというのは、一文字ずつがそのまま音を表現している西洋的な表音文字と密接に繋がっている選択な訳で、「ひらがな」的な描線の志向は必然的にこの下から抜け出せない。
     即ち、ジブリの「ひらがな」的描線を「独自の文化」として賞賛する裏返しに、「東洋人による奇抜な文化」という異質性の周縁部への追いやり(と同時に、それを暗黙に了解する自己規定)が潜まざるを得ない限り、それが二項対立の境界を再強化してしまい、皮肉にも従来の価値観を強めてしまうのだ。

     ただ、それを避けるためには「ひらがな」的な描線(を用いた作品)を全否定する必要性は必ずしもなく、単純に従来と違う観方で内在する分岐点を探し出し、同じ描線を異なる方法で使用することが重要になる。
     こうした前提を踏まえると、『君の名は。 your name.』を扱う必然性と重要性が一部ではあるけれど、明らかになるだろう。


     そこでまず抑えておきたいのは、『君の名は。your name.』という作品も、ここまで言及して来たジブリ作品がそうだったのと同様、自己言及的なアニメーション論的アニメであると
    同時に、小野小町の「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」を基にしていて、作中でも言及している通り「仮名」を念頭に置いたものだということ。
     ここまでは『かぐや姫の物語』と共通している。

     とは言え、先述して来たように高畑さんが「ひらがな」と元々の喋り言葉(=丸みを帯びた柔らかな描線で描かれる各コマと元々あった運動)が一致するような透明化の志向に努める(それ故に、戦後の日本が抱えた領土的ナショナリズムや西洋的価値観との共犯関係から抜け出せない)のに対して、新海さんは不透明性のほうに注意を促している、という点には違いがある。

     その違いが最も出ているのが、まさに「うた」に関する意識だろう。
     例えば、高畑さんは『映画を作りながら考えたこと 「ホルス」から「ゴーシュ」まで』にてアニメ主題歌が日本語のイントネーションを崩しながらメロディの可能性を広げるなど、ある種の型破りを志向する土俵であることを認めつつも、自分はそれを志向しないと述べている。

     そうした高畑さんの志向が辿り着く先が、一字一音の純粋な日本の喋り言葉(分節化された一コマずつがそのまま実運動を表現すること)への遡及である。
     事実、高畑さんは例えばイモ欽トリオの「百パーセントか/た↑おもい↑い」という切れ目と抑揚の崩れ方に、(評価は保留しつつ)「日本語としてはメチャクチャ」だと言及している。


     では、それに対して新海さんの「うた」の扱いがどうかと言えば、今回の主題歌や挿入歌に選んだRADWIMPSの曲を実際に聴いてみると、まさに高畑さんが自分は志向しないと言っていたイモ欽トリオの「百パーセントか/た↑たおもい↑い」的な切れ目や抑揚が使われている。
     例えば、切れ目に関して最も分かりやすい二番「何億何光年/分の物語を語りに来たんだよ」など色々あるが、やはり何よりも挙げるべきは、曲の盛り上がり部分となるサビに、閉音節(クローズド・シラブル)を持って来て「君の前前前世から僕は」と繰り返し歌うこと、即ち日本語の基本だと見做されがちな拍(モーラ)の「一字一音」を外していることだろう。

     元々、日本では押韻よりも拍の数を音数律とする定型詩を基本に、そこから次第に自由詩へ発展して行った歴史がある。
     新海さんがRADWIMPSの歌詞について「歌詞には『日本語はこんなに自由で豊かなんだ』という驚きが常にあります。」と述べるのは、明らかにこの流れの上にあり、それに対して、高畑さんの志向というのは保守的な姿勢だと対比できる訳だ。

     例えるならマス目付き原稿用紙を想像して、高畑さんの論じるような「ひらがな」一字毎に一音ずつが宿る透明化志向では綺麗にマス毎に一文字ずつ書かれるべきだということになり、それに対して新海さんの場合は所々で音が前や後ろに寄り、一マスに複数の字が入っていて、引いては一字毎に一音ずつが宿っていないということになる。

     そして、この高畑さん的な態度の裏に潜む亀裂の無視について連想するような内容も、実はラマールは述べている。
    鈴木の指示にしたがえば、『古今集』当時の仮名と和歌の出現を、直接の伝承として、単一の流れと純粋化の過程としてみることになる。そうしなければ、混乱した書記法、隠喩性、不純な発音、詩的政治的実験などだらけどの、不規則変化の世界に向かわざるをえない。(p.177)

    鈴木はこの複雑さを見るのが嫌で、戦後の日米が再構築したウィルソン的な日本国家像に沿ったかたちで、過去の日本を見る。しかし彼の名人芸には、「帝国」との共犯関係が必然的に刻み込まれている。(p.183)
     個人的には必ずしもこれと同じ言葉を使おうとは思わないけれど、確かにそうした連続性と一体性を重んじる透明化の志向が西洋的価値観、つまり「フル/リミテッド」という古臭い上下関係を打破し得ないことは既に述べた通りである。
     それは、「ひらがな」の一字ずつが喋り言葉の音の響きを、そして分節化された各コマが元々あった運動を、そのまま透明に表現をしているのだと理解を促そうとする思考法の裏に、表音文字的な、音声中心主義が刻み込まれているが故の必然である。

     更に言えば、こうした思考法では「映画/アニメーション」(の前者が上で後者が下)という図式もまた、再強化され、固定化されてしまうだろう。
     例えば、片渕さんのコラムによると「仮現運動」にはコマ間の運動距離が長い「LRAM」とその逆の「SRAM」があり、前者が側頭葉上溝付近を刺激してコマの隙間を鑑賞者の記憶から補完させつつ動きを感じさせるのに対して、後者は頭頂部から後頭部の脳が機械的に処理して実運動と同様に捉えるという。
    (『視覚心理入門』によれば、正確には視覚系の側から見ると仮現運動に対置されるような「実運動」があるわけではないのだが、ともあれ)先述した分節化された各コマが本来あった運動をそのまま透明に表現する志向に基づく場合、「SRAM」こそが善であって、その反対に「LRAM」は何処までも偽の運動に貶められるからだ。

     だからこそ、同じ媒体を扱いながらも、高畑さんと全く反対の方向へと注意を促そうとしている新海さんの『君の名は。your name.』を扱うことに重要性がある。

     実際、字と音の関係が不透明で乖離があることは、『君の名は。your name.』の内容とも密接に繋がっている。
     その一つ目は、そもそも『君の名は。your name.』が入れ替わりを胆にしていることだ。
     そもそも両者が透明に結びついていれば、三葉が瀧の身体で喋ったりその逆だったりの入れ替わりなんてのは絶対にあり得ない。
     二つ目は、ここでようやくアニメーションを和歌研究における一拍一字(一音)と並べつつ論じ続けて来たことが日の目を見ることになるけど、アニメーションでも、コマ毎に描かれた線画が等間隔ではなく、「ツメタメ」や、実際はないコマの挿入(或いは、本来あったはずのコマが落とされていること)が存在することである。

     例えば、片渕さんの『β運動の岸辺で』第二十三回「ABCは知ってても」ではアメリカでのリップ・シンクの便宜的方法として、
    A「閉じ口」
    B「歯は閉じているが、唇がわずかに開いた状態」
    C「小さめの開き口」
    D「大き目の開き口」
    E「母音eの口」
    F「母音oの口」
    を基本とする旨が語られている。

     フランスとの合作『リトルズ』において、アメリカから招聘された作画監督は、この基本を使用して、ダイアローグ・シートに「A——CD—CBEFC—D——CBLKCB——」のような形でリップ・シンクの指示を書き出していったのだが、それについて同コラムでは次のように書いてある。
     しかし、こうした子音の口を、ダイアローグシートに従って唐突に2コマだけ出して、果たして「動いて」見えるものだろうか。あまりに唐突過ぎて単にパカパカしてしまうだけなんじゃないだろうか。
     それ以外でも、例えば「CD—C」とあるのは、本来「CD・C」(・=中割り)なのではないだろうか。同じ口の形でしばらく止まっているより、その方がよほどスムーズに動くはずだ。となれば、「C—D——C」は、実は「C・D・・C」であるべきなのであって、このDからCへの2コマ中2枚の中割りは、3コマ中1枚にしてもたいした違いはないはずだ。
     ことほど左様に、アメリカの便宜的方法というのは、どうもフル・アニメーション的ではないのである。
     この内容には、ここまで言及し続けて来た西洋的価値観に根差す「一字一音」への純粋化に対する批判と幾らかこだまする部分があるだろう。
     即ち、分節化された一コマ毎にきっちり対応する音が透明に表現されている志向のほうが、音と音を繋ぐ部分を単純化してしまっているが故に、寧ろ不自然なのだ、と。

     そして、その「一字一音」と同様に、一コマ毎がそのまま透明に本来あった運動を表現することを志向するのも、また不自然だろう。
     つまるところ、本記事では、シンコペーションで前の小節に喰い込んだり、或いはその逆に溜めを作るように、「ツメタメ」により伸縮する線画の時間、時に先行し、或いは時に遅延をするような複数の時間が併存している(それは、さながら『君の名は。』において滝と三葉の時間が混線していたような)点に注意を押しやりたいのだ。
     何故なら、それが不透明性に注意を促すということだからである。

     また、ラマールは次のようにも述べている。
    書道と返り点の使用は、徹底して雑種的なテクストを生み出すので、こうしたテクストについて純粋性云々ということは不可能である。実際のところ、テクストはあまりに雑種的であるので、純粋な起源については考えようがないのだ。(p.179-180)
     そこで必要になるのが、和歌研究でも実際には道筋を示されていながらも看過されて来たとラマールが述べる、「混乱した書記法、隠喩性、不純な発音、詩的政治的実験などだらけの、不規則変化の世界」が「どのように多層にコード化されているのかを追求すること」だということである。それは、例えば先に引用したリップ・シンクのコードのように。

     纏めよう。
     透明化への志向が「声は語に住まい、言葉から生じているように見える」ように努めるのに反して、実際の輪郭線とは自身を語るための声を持たないモノであり、それを複数人によって描き継ぎながら拾い上げるのが今日のスタジオ・システムだ(それ故に、個人で制作していた際の作品と、多人数で制作するようになった現在の新海さんでは、扱い方にも違いが出るのが当然だと思われる)。
     そうした不透明性への焦点化が『君の名は。』の内容と密接に結び付いていると思われる。


     例えば像と声の間に不透明性があるからこそ瀧と三葉の入れ替わりがあり得るということについては既に触れたが、他にも「あまりに雑種的であるので、純粋な起源ついては考えようがない」(=民族叙事詩たり得ない=ロマンスたり得ない)テクストとしての輪郭線が己の記憶というものを持たないのもやはり当然であろう。
     輪郭線がそうした徹底的に己を語る術を持たないモノという前提に立つからこそ、僕はこの記事作成に先んじて投稿した感想ツイートで、あのシーンで互いを見つけた二人が本当にあの二人なのかを運命の如く絶対的な形で決定することは不可能だ、ということをまず念頭に置くべきだと触れずにいられなかった。
     それどころか、あの二人が男女かさえ確定的ではない。何故なら、輪郭線には性が内在していないからだ。
     それも、元々あった一繋ぎの運動をコマ毎のイメージに分節化して描くアニメーションとの相同性があるとして並べて論じて来た、元々あった一繋ぎの喋り言葉を一字ずつに分節化して書く「仮名」の歴史に学ぶべきことだ。


     再びラマールから引用してみよう。
    外部の他者を排除しようとする固い意志に加えて、和歌批評は、内部の他者を飼いならそうとすることにもこだわっている。ここでも鈴木の仮名論が見本となるだろう。和歌の内部の多様性を主張していながら、彼の多様性はつねに内的な純粋化に基づいており、ジェンダーがこの純粋化を権威づける決定的な場になっている。仮名を女手と結びつけるところに、それがもっとも明らかだろう。(p.185)


    これは平安朝研究では支配的な知見であり、鈴木は他の論者と同様、書の流儀の差異(真名と仮名、楷書と草書)を、中国語と日本語の差異に合致させている。この一連の一般化が動員するのが、母語の言説である。まず第一に、女手は崩れて女性のもとに落ちてきたものとされ、男性詩人も実際使ったことは無視される。第二に、書記法は純粋に表音的とされる。第三に、大和ことばは日本民族と同一視される。この三つの単純化の結果、女手は最終的に混じりけなしの母語と一致する。たとえば鈴木はつねに、自律性、純粋性、女性性を結びつけるため、伝えられる平安女性の純粋さ(貞節さ)は日本の自立の場と化す。やがてはこうした単純化は、疑わしい物語を紡ぎだす。日本女性は純粋で貞節で、外来の形式に冒されていない(いっぽう男性は中国語も日本語も使う)。この外国との遭遇によって彼らの権威は危機に瀕する。だから究極的には、日本語の純粋性を——母語を通じて——保証するのは、女性なのだ。(P.185-186)
     これに関しては「異なる国家、民族、宗教集団のあいだの境界線を引く役目を女性が果たすとき、女性が一人前の市民として立ち現れるかどうかはいつもきわめて危うくなる」(カンディヨーティ)ことを考えるなら、同じ過ちを繰り返す訳にはいかない。
     だからこそ、同作の入れ替わりを通じて、まるで「重ね合わせ」の如く輪郭線の二項対立を撹乱する性の在り方に注意を促したいのだ。

     しかし、だからと言って本当にあの二人が誰でも良い(なんでもあり)という訳には決していかない。
     そこで重要なのが、本作で二人の中身を辛うじて判定可能にしている芝居や演技であろう。
     輪郭線自体は起源を持たず、自身を語る声や言葉も持たない。
     だが、同作ではそれを(かつての新海さんのような個人制作ではなく)スタジオ・システムによって多人数で描き継ぎながら、芝居させる。それは、さながら声なき声を拾い上げるようなもので、そこでようやく絶対的ではないにせよ輪郭線が自己主張を始める(逆に言えば、もし今回の作品がジブリやプロダクションI.Gなどの常連アニメーターによる作画ではなく、かつて新海さんが個人で制作していたような作画や、或いは新海さん自身の吹き替えだったのであれば、本作は本当に三葉ではない他の誰かと出会って終わったのではないか、というより過去の作品は実際にそうやって捉えることが出来たのではないだろうか)

     それは、例えば作中での避難誘導が結局のところ自治体のシステムに頼らざるを得ないことにも繋がっている。声なき声を拾い上げるのに必要なのは、具体的な手続きに他ならない。
     これは、どうして論じる対象として、現在の商業アニメを扱うべきなのか、という問題へと繋がっているのだ。

     ただ、その手続きに関して、その質的な向上と維持のための諸々の変化、例えば作画監督の上に総作画監督、更には総々作画監督を置く先に待ち受ける労働環境としての破綻の問題が、これまで目を背けてきた複雑性に踏み込まなければならないとここまで主張して来た以上は、向き合わねばならなくなることだということも分かる。

     日本語の響きについて、その響きを維持しながら如何に表現の幅を拡張することが出来るかという問題は、これまで詩や小説の世界で常に繰り返されて来た。
     その歴史から動きをコマ毎に分節化して表現するアニメの動きを語る際に学べることは多いように思われる。
     本記事では、実際にアニメの動きに関して制作側で利用が出来るような語彙を増やすまでに至ることはまだまだ出来なかったが、喋り言葉をイメージ毎に分節化して表現する文字という問題がそれを考える上でのヒントになることを幾らかでも示せていれば幸いである。
     今後は、編集の方と意見を出し合いながら、より具体的な形でアニメの動きに関する語彙を増やしていけるように努力を続けて行きたい。

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     最後に一言だけ付け加えるならば、こうした言葉の問題を扱うに際しては、例えば漫画の『月に吠えらんねえ』がアニメ化されたりするときっと面白いのではないだろうかと個人的に思っています。
     それは置いておいても漫画『月に吠えらんねえ』はメチャクチャ面白いので、皆様も是非にどうぞ。