『アニメクリティークvol.5.5_β 新海誠/君の名は。』に向けてのメモ書き
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『アニメクリティークvol.5.5_β 新海誠/君の名は。』に向けてのメモ書き

2016-09-14 00:35

     最初に、この記事は、『アニメクリティークvol.5.5_β 新海誠/君の名は。』に評論文を寄稿するために、少し思考を整理する目的でtwitterに書き留めた連投メモを、他の方からの希望があった(連投が長すぎて一望できなかった)ので記事として纏めたものになります。
     勿論、記事へ直すにあたってそれなりに読めるような形には整えましたし、興味のある方に読んで頂けると非常に嬉しいのですが、同誌へ実際に寄稿する文章は編集の方と様々に意見を擦り合わせながら更に推し進めた形で提出するつもりですので、この記事とその寄稿文がどのように違っているのかを比較して頂きながらも楽しめるかと思います。
     なので秋の文学フリーマーケットで頒布が予定されている『アニメクリティークvol.5.5』のほうも宜しくお願い致します。
     また、別の同人誌には、この記事で多くの言及をすることになった高畑勲さんの作品群で、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『かぐや姫の物語』に関して、それぞれに短めの文章を寄稿する予定です(あと、同じ同人誌にラグビー論も載る予定です)。そちらも公開され次第、告知させて頂きたく思います。

     なお、『アニメクリティーク』は寄稿文を初稿の締め切りを十月一日まで募集しておりますので、もし希望の方がいらっしゃれば、同誌のサイトをご確認ください。
    http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2016/08/27/173112

     では、以下が連投を纏めた部分となります。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

     まず前提としてアニメの「動き」は十分に言語化されていない。
     例えば、片渕須直さんのコラムによると、あの井上俊之さんでさえも「動きのことについて喋ろうとすると、とたん口下手になっちゃうんです」と述べるという。
     そこで多くの場合、擬音と、声や手振りまで用いてようやく何とか示すことになる訳だ。

     それは端的に言えば、先行研究があまりない状態ということなのだが、ただ考えるヒントはあって、それが言葉の問題だと僕は考えている。
     つまり、「元になる運動/アニメーションされた各コマ」の関係を「元々あった言語/それにイメージを当てて読める(再生できる)状態にした文字」と重ねて考えることである。


     そもそも、この国では元々あった喋り言葉を文字にするにあたって、当初は漢字を海外から借用することでそれを達成し(借字による万葉仮名)、漢字が公的な場で使う共通言語として権威的なものとなった。
     しかし、その分節化して表される一字ずつは、元々の喋り言葉に対しての不透明性が高く、謂わば「カクカク」している。
     そこで時代が下ると、まるでその間を滑らかに埋めるような、丸みを帯びた「ひらがな」が発明される。

     これをアニメに寄せ直して考えてみると、柔らかで太目の描線を用いて滑らかに動くジブリ作品の映像を、海外から輸入したイメージ技法としてのアニメーションから換骨奪胎した日本独自の文化(的達成)と持ち上げつつ、未だに「フル/リミテッド」の呪縛から解き放たれない状況と相同的だと思われる。
     要するに、元々あった一繋ぎの運動をコマ毎のイメージに分節化して描くアニメーションと元々あった一繋ぎの喋り言葉を一字ずつに分節化して書く「仮名」の歴史には相同性があり、そうするとジブリの丸みを帯びた柔らかで太目な描線はそこから換骨奪胎した「ひらがな」に相当する、という訳だ。

     その「カクカク」したイメージ(コマ・漢字)の間を滑らかに埋める柔らかで丸みを帯びた文字(描線)の確立は、一部の階級だけが読み得る権威的な文字(宮廷での漢字)から国民の誰もが分かる文字に透明化すること(引いては、国民的作品・作家)への志向な訳だけれど、それは例えば高畑さんのアニメーション論と繋がっている。
     つまり、高畑さんは日本の伝統的絵画から日本アニメーションへの連続性を、これもまるで間を埋めるように滑らかな連続性のあるものとして繋げることで、その透明な文体を使用する(ことに親和的な)人間により輪郭を縁取られる一つのフラットな国民国家を論じる訳だが、ここには幾つか問題がある。
     実際、高畑さんは伝統的ま絵画技法からの有機的なアニメーションの出現(と共に古くからアニメーションに親しんで来た国民性)を論じる訳だけれど、これはひらがなの発明を独自な日本文化の成立と主張することで平安摂関体制を戦後日本の天皇制と連結する、ある種の和歌研究に見られる政治的寓話に通ずる。

     例えば、トーマス・ラマール『帝国と国民のあいだ――戦後の和歌批評における帝国の影と国民的反動――』から重要な部分を引用する。
     口頭による伝承についていえば、鈴木は奈良・平安京の言語と複数性にあまり注意を払わない。宮廷での中国語の使用については触れず、万葉と古今を隔てる発音の違いは無視する。文字による伝承について言えば、民衆が仮名を生み出したと主張するために、仏教寺院や官吏の重要性は省かれてしまう。仮名はすでに中国の書道が確立した経路を辿っており、だからこそ勅撰和歌集がしばしば華々しく披露しているような書道の名人芸がありえたわけだが、これは無視される。(p.178)

    要するに鈴木の和歌研究が身を捧げているのは、一種の(戦後天皇制と文化ナショナリズムに同調した)日本語共同体であり、ここでは多様性というかたちで顔をのぞかせている異種混交的な要素は、意識的に排除されている。こうしてホブズボームのいう「領土的ナショナリズムの不条理と恐怖」が、和歌解釈の実践を覆うようになる。その不条理と恐怖は、差異の存在に気づいていながら、ウィルソン的な民族‐言語統一と純粋化の枠組みのなかでだけ差異が表現できるという、矛盾に満ちたこだわりにあるといえよう。(p.182)
     こうした研究を発表していたラマールが『アニメ・マシーン‐グローバル・メディアとしての日本アニメーション‐』の著者でもあるのは納得で、それは和歌とアニメの歴史に相同性がある(それ故に、抱えている問題にも同じく通じるところがある)からだと思われる。

     例えば、伝統的絵画から有機的連続的に発生した日本(の国民性に基づく)アニメーションという史観も、仮名が中国の書道が既に確立した経路を辿っていたことを無視するのと同様、そもそも「リミテッド」が、ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの生み出した手法を輸入したという事実を無視している。
     勿論、そうした亀裂を高畑さんが認知していない訳はなく、方言などの多様性も例えば著作『映画を作りながら考えたこと 「ホルス」から「ゴーシュ」まで』に言及があって、或いは『おもひでぽろぽろ』ではまさに異なる言葉遣いで喋る二人を描いている。
     それにもかかわらず、以前にも述べた通り、高畑さんは例えば『かぐや姫の物語』で硬質で角ばった宮廷(漢字)文化に批判的な、柔らかで丸みを帯びた描線で描かれるかぐや姫、即ち「ひらがな」で書かれた最初期の物語である『竹取物語』に軸足を置いて、透明化への志向を隠そうとしない。


     確かに、同作の描線は多様だ。
     だが、それは「鈴木は、平安詩学の形成をとりまく多様性を根絶して初めて、詩学のなかの多様性を再発見し回復する。いったん国家が外来の要素を放逐してしまえば、主体は自らの国語で自由に多様に話すことができるのである。」(p.182)とほぼ同型の問題を抱えている。

     再びラマールの『帝国と国民のあいだ』から引用を設ける。
    ウィルソン的図式では、文化、民族、そして国家の境界線を打ち立てるのは、話ことばとしての言語である。だからこそ鈴木は、仮名文字が事実上、日本語の話ことばであることをしめすのに努めるのだ。平安仮名が日本語の話ことばとすっきり一致せず、他の言語(中国語なり朝鮮語なり)を記しているとしたら、あるいはそれが混血的話ことばや精選された方言や、擬音語を表すだけだとしたら、平安宮廷は近代国家ではないし、その臣下=主体は日本人ではない。(p.181-182)
     要するに、ここで「サバルタン」の問題が出て来る。「サバルタン」が己の声を聴いて貰うためにはまず西洋的価値観を受け入れなければならなかったのと同じように「ひらがな」的な描線の裏には戦後に流入した西洋的価値観との共犯関係が暗に刻み込まれており、それ故に「フル/リミテッド」というカビだらけの価値観の転倒までに至ることが出来ない。
     実際、そもそも「フル」による表現=描かれている映像がそのまま機械的に脳内で実運動と同様に処理されて運動が再生されることというのは、一文字ずつがそのまま音を表現している西洋的な表音文字と密接に繋がっている選択な訳で、「ひらがな」的な描線の志向は必然的にこの下から抜け出せない。
     即ち、ジブリの「ひらがな」的描線を「独自の文化」として賞賛する裏返しに、「東洋人による奇抜な文化」という異質性の周縁部への追いやり(と同時に、それを暗黙に了解する自己規定)が潜まざるを得ない限り、それが二項対立の境界を再強化してしまい、皮肉にも従来の価値観を強めてしまうのだ。

     ただ、それを避けるためには「ひらがな」的な描線(を用いた作品)を全否定する必要性は必ずしもなく、単純に従来と違う観方で内在する分岐点を探し出し、同じ描線を異なる方法で使用することが重要になる。
     こうした前提を踏まえると、『君の名は。 your name.』を扱う必然性と重要性が一部ではあるけれど、明らかになるだろう。


     そこでまず抑えておきたいのは、『君の名は。your name.』という作品も、ここまで言及して来たジブリ作品がそうだったのと同様、自己言及的なアニメーション論的アニメであると
    同時に、小野小町の「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」を基にしていて、作中でも言及している通り「仮名」を念頭に置いたものだということ。
     ここまでは『かぐや姫の物語』と共通している。

     とは言え、先述して来たように高畑さんが「ひらがな」と元々の喋り言葉(=丸みを帯びた柔らかな描線で描かれる各コマと元々あった運動)が一致するような透明化の志向に努める(それ故に、戦後の日本が抱えた領土的ナショナリズムや西洋的価値観との共犯関係から抜け出せない)のに対して、新海さんは不透明性のほうに注意を促している、という点には違いがある。

     その違いが最も出ているのが、まさに「うた」に関する意識だろう。
     例えば、高畑さんは『映画を作りながら考えたこと 「ホルス」から「ゴーシュ」まで』にてアニメ主題歌が日本語のイントネーションを崩しながらメロディの可能性を広げるなど、ある種の型破りを志向する土俵であることを認めつつも、自分はそれを志向しないと述べている。

     そうした高畑さんの志向が辿り着く先が、一字一音の純粋な日本の喋り言葉(分節化された一コマずつがそのまま実運動を表現すること)への遡及である。
     事実、高畑さんは例えばイモ欽トリオの「百パーセントか/た↑おもい↑い」という切れ目と抑揚の崩れ方に、(評価は保留しつつ)「日本語としてはメチャクチャ」だと言及している。


     では、それに対して新海さんの「うた」の扱いがどうかと言えば、今回の主題歌や挿入歌に選んだRADWIMPSの曲を実際に聴いてみると、まさに高畑さんが自分は志向しないと言っていたイモ欽トリオの「百パーセントか/た↑たおもい↑い」的な切れ目や抑揚が使われている。
     例えば、切れ目に関して最も分かりやすい二番「何億何光年/分の物語を語りに来たんだよ」など色々あるが、やはり何よりも挙げるべきは、曲の盛り上がり部分となるサビに、閉音節(クローズド・シラブル)を持って来て「君の前前前世から僕は」と繰り返し歌うこと、即ち日本語の基本だと見做されがちな拍(モーラ)の「一字一音」を外していることだろう。

     元々、日本では押韻よりも拍の数を音数律とする定型詩を基本に、そこから次第に自由詩へ発展して行った歴史がある。
     新海さんがRADWIMPSの歌詞について「歌詞には『日本語はこんなに自由で豊かなんだ』という驚きが常にあります。」と述べるのは、明らかにこの流れの上にあり、それに対して、高畑さんの志向というのは保守的な姿勢だと対比できる訳だ。

     例えるならマス目付き原稿用紙を想像して、高畑さんの論じるような「ひらがな」一字毎に一音ずつが宿る透明化志向では綺麗にマス毎に一文字ずつ書かれるべきだということになり、それに対して新海さんの場合は所々で音が前や後ろに寄り、一マスに複数の字が入っていて、引いては一字毎に一音ずつが宿っていないということになる。

     そして、この高畑さん的な態度の裏に潜む亀裂の無視について連想するような内容も、実はラマールは述べている。
    鈴木の指示にしたがえば、『古今集』当時の仮名と和歌の出現を、直接の伝承として、単一の流れと純粋化の過程としてみることになる。そうしなければ、混乱した書記法、隠喩性、不純な発音、詩的政治的実験などだらけどの、不規則変化の世界に向かわざるをえない。(p.177)

    鈴木はこの複雑さを見るのが嫌で、戦後の日米が再構築したウィルソン的な日本国家像に沿ったかたちで、過去の日本を見る。しかし彼の名人芸には、「帝国」との共犯関係が必然的に刻み込まれている。(p.183)
     個人的には必ずしもこれと同じ言葉を使おうとは思わないけれど、確かにそうした連続性と一体性を重んじる透明化の志向が西洋的価値観、つまり「フル/リミテッド」という古臭い上下関係を打破し得ないことは既に述べた通りである。
     それは、「ひらがな」の一字ずつが喋り言葉の音の響きを、そして分節化された各コマが元々あった運動を、そのまま透明に表現をしているのだと理解を促そうとする思考法の裏に、表音文字的な、音声中心主義が刻み込まれているが故の必然である。

     更に言えば、こうした思考法では「映画/アニメーション」(の前者が上で後者が下)という図式もまた、再強化され、固定化されてしまうだろう。
     例えば、片渕さんのコラムによると「仮現運動」にはコマ間の運動距離が長い「LRAM」とその逆の「SRAM」があり、前者が側頭葉上溝付近を刺激してコマの隙間を鑑賞者の記憶から補完させつつ動きを感じさせるのに対して、後者は頭頂部から後頭部の脳が機械的に処理して実運動と同様に捉えるという。
    (『視覚心理入門』によれば、正確には視覚系の側から見ると仮現運動に対置されるような「実運動」があるわけではないのだが、ともあれ)先述した分節化された各コマが本来あった運動をそのまま透明に表現する志向に基づく場合、「SRAM」こそが善であって、その反対に「LRAM」は何処までも偽の運動に貶められるからだ。

     だからこそ、同じ媒体を扱いながらも、高畑さんと全く反対の方向へと注意を促そうとしている新海さんの『君の名は。your name.』を扱うことに重要性がある。

     実際、字と音の関係が不透明で乖離があることは、『君の名は。your name.』の内容とも密接に繋がっている。
     その一つ目は、そもそも『君の名は。your name.』が入れ替わりを胆にしていることだ。
     そもそも両者が透明に結びついていれば、三葉が瀧の身体で喋ったりその逆だったりの入れ替わりなんてのは絶対にあり得ない。
     二つ目は、ここでようやくアニメーションを和歌研究における一拍一字(一音)と並べつつ論じ続けて来たことが日の目を見ることになるけど、アニメーションでも、コマ毎に描かれた線画が等間隔ではなく、「ツメタメ」や、実際はないコマの挿入(或いは、本来あったはずのコマが落とされていること)が存在することである。

     例えば、片渕さんの『β運動の岸辺で』第二十三回「ABCは知ってても」ではアメリカでのリップ・シンクの便宜的方法として、
    A「閉じ口」
    B「歯は閉じているが、唇がわずかに開いた状態」
    C「小さめの開き口」
    D「大き目の開き口」
    E「母音eの口」
    F「母音oの口」
    を基本とする旨が語られている。

     フランスとの合作『リトルズ』において、アメリカから招聘された作画監督は、この基本を使用して、ダイアローグ・シートに「A——CD—CBEFC—D——CBLKCB——」のような形でリップ・シンクの指示を書き出していったのだが、それについて同コラムでは次のように書いてある。
     しかし、こうした子音の口を、ダイアローグシートに従って唐突に2コマだけ出して、果たして「動いて」見えるものだろうか。あまりに唐突過ぎて単にパカパカしてしまうだけなんじゃないだろうか。
     それ以外でも、例えば「CD—C」とあるのは、本来「CD・C」(・=中割り)なのではないだろうか。同じ口の形でしばらく止まっているより、その方がよほどスムーズに動くはずだ。となれば、「C—D——C」は、実は「C・D・・C」であるべきなのであって、このDからCへの2コマ中2枚の中割りは、3コマ中1枚にしてもたいした違いはないはずだ。
     ことほど左様に、アメリカの便宜的方法というのは、どうもフル・アニメーション的ではないのである。
     この内容には、ここまで言及し続けて来た西洋的価値観に根差す「一字一音」への純粋化に対する批判と幾らかこだまする部分があるだろう。
     即ち、分節化された一コマ毎にきっちり対応する音が透明に表現されている志向のほうが、音と音を繋ぐ部分を単純化してしまっているが故に、寧ろ不自然なのだ、と。

     そして、その「一字一音」と同様に、一コマ毎がそのまま透明に本来あった運動を表現することを志向するのも、また不自然だろう。
     つまるところ、本記事では、シンコペーションで前の小節に喰い込んだり、或いはその逆に溜めを作るように、「ツメタメ」により伸縮する線画の時間、時に先行し、或いは時に遅延をするような複数の時間が併存している(それは、さながら『君の名は。』において滝と三葉の時間が混線していたような)点に注意を押しやりたいのだ。
     何故なら、それが不透明性に注意を促すということだからである。

     また、ラマールは次のようにも述べている。
    書道と返り点の使用は、徹底して雑種的なテクストを生み出すので、こうしたテクストについて純粋性云々ということは不可能である。実際のところ、テクストはあまりに雑種的であるので、純粋な起源については考えようがないのだ。(p.179-180)
     そこで必要になるのが、和歌研究でも実際には道筋を示されていながらも看過されて来たとラマールが述べる、「混乱した書記法、隠喩性、不純な発音、詩的政治的実験などだらけの、不規則変化の世界」が「どのように多層にコード化されているのかを追求すること」だということである。それは、例えば先に引用したリップ・シンクのコードのように。

     纏めよう。
     透明化への志向が「声は語に住まい、言葉から生じているように見える」ように努めるのに反して、実際の輪郭線とは自身を語るための声を持たないモノであり、それを複数人によって描き継ぎながら拾い上げるのが今日のスタジオ・システムだ(それ故に、個人で制作していた際の作品と、多人数で制作するようになった現在の新海さんでは、扱い方にも違いが出るのが当然だと思われる)。
     そうした不透明性への焦点化が『君の名は。』の内容と密接に結び付いていると思われる。


     例えば像と声の間に不透明性があるからこそ瀧と三葉の入れ替わりがあり得るということについては既に触れたが、他にも「あまりに雑種的であるので、純粋な起源ついては考えようがない」(=民族叙事詩たり得ない=ロマンスたり得ない)テクストとしての輪郭線が己の記憶というものを持たないのもやはり当然であろう。
     輪郭線がそうした徹底的に己を語る術を持たないモノという前提に立つからこそ、僕はこの記事作成に先んじて投稿した感想ツイートで、あのシーンで互いを見つけた二人が本当にあの二人なのかを運命の如く絶対的な形で決定することは不可能だ、ということをまず念頭に置くべきだと触れずにいられなかった。
     それどころか、あの二人が男女かさえ確定的ではない。何故なら、輪郭線には性が内在していないからだ。
     それも、元々あった一繋ぎの運動をコマ毎のイメージに分節化して描くアニメーションとの相同性があるとして並べて論じて来た、元々あった一繋ぎの喋り言葉を一字ずつに分節化して書く「仮名」の歴史に学ぶべきことだ。


     再びラマールから引用してみよう。
    外部の他者を排除しようとする固い意志に加えて、和歌批評は、内部の他者を飼いならそうとすることにもこだわっている。ここでも鈴木の仮名論が見本となるだろう。和歌の内部の多様性を主張していながら、彼の多様性はつねに内的な純粋化に基づいており、ジェンダーがこの純粋化を権威づける決定的な場になっている。仮名を女手と結びつけるところに、それがもっとも明らかだろう。(p.185)


    これは平安朝研究では支配的な知見であり、鈴木は他の論者と同様、書の流儀の差異(真名と仮名、楷書と草書)を、中国語と日本語の差異に合致させている。この一連の一般化が動員するのが、母語の言説である。まず第一に、女手は崩れて女性のもとに落ちてきたものとされ、男性詩人も実際使ったことは無視される。第二に、書記法は純粋に表音的とされる。第三に、大和ことばは日本民族と同一視される。この三つの単純化の結果、女手は最終的に混じりけなしの母語と一致する。たとえば鈴木はつねに、自律性、純粋性、女性性を結びつけるため、伝えられる平安女性の純粋さ(貞節さ)は日本の自立の場と化す。やがてはこうした単純化は、疑わしい物語を紡ぎだす。日本女性は純粋で貞節で、外来の形式に冒されていない(いっぽう男性は中国語も日本語も使う)。この外国との遭遇によって彼らの権威は危機に瀕する。だから究極的には、日本語の純粋性を——母語を通じて——保証するのは、女性なのだ。(P.185-186)
     これに関しては「異なる国家、民族、宗教集団のあいだの境界線を引く役目を女性が果たすとき、女性が一人前の市民として立ち現れるかどうかはいつもきわめて危うくなる」(カンディヨーティ)ことを考えるなら、同じ過ちを繰り返す訳にはいかない。
     だからこそ、同作の入れ替わりを通じて、まるで「重ね合わせ」の如く輪郭線の二項対立を撹乱する性の在り方に注意を促したいのだ。

     しかし、だからと言って本当にあの二人が誰でも良い(なんでもあり)という訳には決していかない。
     そこで重要なのが、本作で二人の中身を辛うじて判定可能にしている芝居や演技であろう。
     輪郭線自体は起源を持たず、自身を語る声や言葉も持たない。
     だが、同作ではそれを(かつての新海さんのような個人制作ではなく)スタジオ・システムによって多人数で描き継ぎながら、芝居させる。それは、さながら声なき声を拾い上げるようなもので、そこでようやく絶対的ではないにせよ輪郭線が自己主張を始める(逆に言えば、もし今回の作品がジブリやプロダクションI.Gなどの常連アニメーターによる作画ではなく、かつて新海さんが個人で制作していたような作画や、或いは新海さん自身の吹き替えだったのであれば、本作は本当に三葉ではない他の誰かと出会って終わったのではないか、というより過去の作品は実際にそうやって捉えることが出来たのではないだろうか)

     それは、例えば作中での避難誘導が結局のところ自治体のシステムに頼らざるを得ないことにも繋がっている。声なき声を拾い上げるのに必要なのは、具体的な手続きに他ならない。
     これは、どうして論じる対象として、現在の商業アニメを扱うべきなのか、という問題へと繋がっているのだ。

     ただ、その手続きに関して、その質的な向上と維持のための諸々の変化、例えば作画監督の上に総作画監督、更には総々作画監督を置く先に待ち受ける労働環境としての破綻の問題が、これまで目を背けてきた複雑性に踏み込まなければならないとここまで主張して来た以上は、向き合わねばならなくなることだということも分かる。

     日本語の響きについて、その響きを維持しながら如何に表現の幅を拡張することが出来るかという問題は、これまで詩や小説の世界で常に繰り返されて来た。
     その歴史から動きをコマ毎に分節化して表現するアニメの動きを語る際に学べることは多いように思われる。
     本記事では、実際にアニメの動きに関して制作側で利用が出来るような語彙を増やすまでに至ることはまだまだ出来なかったが、喋り言葉をイメージ毎に分節化して表現する文字という問題がそれを考える上でのヒントになることを幾らかでも示せていれば幸いである。
     今後は、編集の方と意見を出し合いながら、より具体的な形でアニメの動きに関する語彙を増やしていけるように努力を続けて行きたい。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

     最後に一言だけ付け加えるならば、こうした言葉の問題を扱うに際しては、例えば漫画の『月に吠えらんねえ』がアニメ化されたりするときっと面白いのではないだろうかと個人的に思っています。
     それは置いておいても漫画『月に吠えらんねえ』はメチャクチャ面白いので、皆様も是非にどうぞ。
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