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「鉄血にして熱血にして冷血の大樹——アニメ『傷物語』論」(『アニメクリティークvol.6.0』所収「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」[牙]瀆葬版)
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「鉄血にして熱血にして冷血の大樹——アニメ『傷物語』論」(『アニメクリティークvol.6.0』所収「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」[牙]瀆葬版)

2017-05-24 16:00



     ※詳しい経緯に興味のない方は、ここを読み飛ばして頂いて結構です。
     この記事は二〇一六年から三部作で公開されたアニメ『傷物語』に関する文章です。但し、元々は僕が『アニメクリティークvol.6.0』という同人誌に寄稿した「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」第三節(2)[牙]として書かれた“かもしれない”ものでもあります。勿論、この記事単体でなるべく読めるようには書いてありますが、その点をあらかじめご注意下さい(一部、この記事以外の部分に言及するところもありますが、読み飛ばして頂いて結構です)。
     一応、経緯を説明しておきますと、実際の『アニメクリティークvol.6.0』の「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」の一部である[牙]部分には、全く違う文章が載っています。と言うのも、アニクリの主催・編集をなさっているnagさんは、より良い文章を作るために、こちらの文章に対してとても熱心に取り組んでくれる方で、データをやり取りする中で、時に膨大な量の追記、提案をして下さいます。
     前述の『アニメクリティークvol.6.0』に寄稿する際、最初に僕が彼に送ったデータは、『〈物語〉シリーズ』全体を通して考察するものでしたが、それに対して彼から送られて来たデータには、「終盤に、もっと『傷物語』の具体的シーンを考察する箇所を入れたほうが良いのではないか」という提案と共に、その例文が後半に追加されていました。
     それをとても気に入った僕は、彼の例文に僕が加筆修正する形で仕上げ直したものを『アニメクリティークvol.6.0』に載せて貰うことにしました。
     とは言え、彼がメインで書いたものと、僕がメインで書いたものでは、やはりニュアンスが全く異なるものになります。その両者を見較べることが出来ると、読者にとっても楽しみが一つ増えるのではないかとnagさんから提案を頂いたため、今回、改めて僕が最初から書き直したものを、記事として上げさせて頂きました。
     なので、『アニメクリティークvol.6.0』や、同時発刊だった『アニメクリティークvol.5.0』、その他既刊諸々も、是非とも宜しくお願いします。
     また、次回の『アニメクリティーク』は『機動戦士ガンダム サンダーボルト』などの松尾衡監督作品を軸に“「アニメにおける音と身体」特集2”を予定しているそうです(近々、寄稿募集文を公開する予定)。松尾衡監督の作品はどれも非常に素晴らしいため、こちらも(寄稿の検討も含め)宜しくお願いします。
     それでは、以下が本文です。

    「鉄血にして熱血にして冷血の大樹——アニメ『傷物語』論」
    (『アニメクリティークvol.6.0』所収「失われた接点を求めて——『西尾維新×新房昭之×シャフト』論」[牙]瀆葬版)

     ここで、アニメ『化物語』の完結と同時に制作が決定されたまま遅延され続けた末に、二〇一六年からようやく三部作として公開された『傷物語』を最後に考察してみよう。


     映画冒頭、やはり物語は螺旋階段から開始されて行く。しかし、実はこの段階で既に、『化物語』冒頭の螺旋階段とは異なってもいる。そこで、まずは順に画面を追って行こう。

     ファースト・カット、赤背景に「3/26(dimanche)→4/07(vendredi)」の字幕、次に黒背景の上に「vampire」、「tragedie」、「histoire」という字幕がそれぞれ続き、最後に「反轉」の文字が映されると文字通り画面は反転、そして直後にホワイト・アウト

     ジャン・リュック・ゴダールを思わせるような映像の後、徐々に映し出されるのは、画面を覆い尽くすかのように様々な方向へ枝を伸ばしながらも、既に枯れ切った大樹である。

     カットが変わり、到着したエレベーターの扉が開くと、そこには阿良々木暦が荒い呼吸を繰り返しながら何かに怯えているかのような表情がアップで現れ、次のカットで円形のエレベーター・ホールが映し出される(このエレベーター・ホールは、東京都千代田区一ツ橋のパレスサイドビルディングという実際の建築物がそのままモデルになっている)。

     黒背景に白字で「NOIR」という字幕を挟み、再び大樹(ここで、先程よりも少し引いた画面により、大樹は何処かの建物に囲まれて生えていることが示される)。

     コツ、コツ、という足音が、地面から伸びるエレベーター・ホールに備え付けられた円柱状の操作盤を直上から捉えるカメラをゆっくり回転させるかのように鳴り響き(前節で記述した円運動をなぞり)、そこから画面が引くと、実際にその横を暦が歩いて行く。

     またもや大樹の映像を挟んで、やはり何かに怯えるかのように、しかし一方で何かを“飢え”を満たすものを探し求めるかのようにして、或いは、“上”を目指すかのようにして歩いて行く暦(その映像には、例えば4と書かれた黄色い扉から円形に反射するライトなど、太陽を連想させるようなものが散りばめられている)。

     実際、上へ続く螺旋階段に辿り着き、それを一歩、また一歩と上って行く暦が何かに手を伸ばすようにすると、黒背景に「MEHR LICHT!」という字幕(それはドイツ語で「もっとを!」を意味し、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが最期に更なる啓蒙を求めて言ったという逸話が伝えられる言葉)が映し出される。

     ようやくその頂上に辿り着き、暦が重い扉を開くと、曇天の下、山梨文化会館を模した学習塾跡を貫いているのがあの大樹であったことが示され、そこに数え切れないほどのが群がっている光景が広がる。

     字幕(「NOIR」)を挟んで、四本の太陽!)が風にはためく中、暦は屋上を歩いて行くが、カット・バックされるは輪郭線こそリアルなものの、そのテクスチャなどは曖昧に抽象化されており、何処を向いているのか、それどころか、二羽以上が重なるとそれぞれが区別不可能な一つの塊であるかのように描かれている。

     その反対に、暦の視線も、続くカットで風にはためくに隠れた太陽の映像などが連続して行く中、そのどれを眼差しているのか、鑑賞者に判別することは出来ず、主体は常に曖昧に揺らされ続ける(それは、さながらディエゴ・ベラスケス『侍女たち』の「フレーム内フレーム」が一人の鑑賞者という主体の地位に潜む虚構を暴くかのように)。

     そうして、これまで記述して来た映像から醸し出される不穏さがピークに達する時、それが訪れる。

     をはげしくはためかせる風によって、雲間から顔を出した太陽に暦が目を眩ませるその瞬間、短い暗転の後、彼が目にしたのは、を遮ろうとした自身の右手を起点に、全身が激しく燃える姿だった(否、彼が認識出来たとすれば、それは辛うじて右手の着火までで、鑑賞者のように全身が燃え盛っていることを理解出来るような状況では既になかったであろうが)。

     物凄い叫び声を上げながら「暴走」する暦は、そのまま屋上から落下する。

    「cerre histoire de vampire finina mal(「吸鬼にまつわるこの物語はバッドエンドだ。」)

    「elle finira quand tout le monde sera malheureux(「みんなが不幸になることで終わりを迎える。」)

     激しく地面に打ち付けられる暦。それでも太陽は彼を焼き尽くさんとするかのように照り付け、彼が必死でもがきながら伸ばした手は、しかしそれに触れることは出来ず、必然、止めることも出来ない。

     事実、まるで太陽に触れようとするのを覆い隠し、拒もうとするかのように画面は太陽からへ推移し、ここに至ってようやく『傷物語』と、深紅文字が実写映像をバックにしてタイトル・コールされる。

     とは言え、長々と記述したものの、この映像は、三部作ある内の第一部『傷物語Ⅰ〈鉄血篇〉』の、更にその冒頭、実際の時間にすれば五分ちょっとの断片に過ぎない。

     佐々木敦なら「なんと映画は始まってからまだ十分も経っていない。なのにこの情報量は何ごとだろうか」(『ゴダール原論』)とでも書くだろうか。それはここで知る由もないが、しかし、確かにこの冒頭映像は充分すぎるほどの情報を鑑賞者に与えてくれている。

     それは、この物語が前節で言及した、弁証法(「啓蒙」!)的会話劇をカット・バックに翻案し、二つの螺旋が身を捩る「シャフ度」を通じて接点となり得る「フレーム」の切り出しからキスへ収束する体系を描き切ったテレビ放送版『化物語』までとは全く異なるものだ、と(事実、大樹が上空に向かって一点に収束するのではなく、多方向に向けて枝を伸ばしているかのように)。

     そもそも、既に前節で述べた通り、『化物語』冒頭に挿入される『傷物語』のダイジェストを経て描かれる螺旋階段での暦とひたぎの初接触は、とんでもない高さから落下して来るひたぎを暦が何の重さも感じさせずに受け止めるという、現実離れしたシーンとして描かれていた。

     それに対して、『傷物語』冒頭の螺旋階段は(勿論、それ以外の映像も)、背景を一つとってもパレスサイドビルディングや山梨文化会館などの実在する建築物をモデルにして、作画に関しても(劇場版であるが故にということもあろうが)よりリッチに、没入感を増して迫って来る。

     にもかかわらず、それは寧ろ『化物語』と反対に(と言うよりも、正確には『化物語』も当然ながらリアルさを求めてもいた訳で、しかし『傷物語』はそれ以上にリアルさを求めた結果として、逆説的な形で、より具体的に)接触を拒んでしまうかの如く事物を推移させる。

     必死で何かを追い求める暦だが、その視線はと交わらず、伸ばした手は空を切って太陽には届かない(それは彼を拒むかのように焼き、国旗という「フレーム」に切り出されたとしても、まるでに覆い隠されているかのようである)。

     リアルさの追求が、しかし接点へ結実するに至らず、寧ろ人間が日光燃え出すというあり得ない光景へ越え出てしまう映像によって示されるのは、単なる「現実/非現実」という対立ではなく、リアルさの追求こそが(それを踏み台にするかのようにして)超現実的表現、即ちシュルレエルへと飛躍する、ということであろう。

     事実、驚くほど精緻な作画が細かく分節化されて積み重なるアニメーションが、しかし、最終的には接触する感覚をもたらさず、寧ろ現実から飛躍する様を、先述の冒頭シーンから、例えば本編における吸鬼の戦闘——特に『傷物語Ⅲ〈冷血篇〉』における近代オリンピックを模したキスショットと暦の戦闘で一切の抵抗を感じさせず、容易に相手の肉体を幾度も幾度も切断し合う超現実的映像まで、三部作を一貫して見て取ることが出来るだろう。

     ここで、『化物語』で示された構図をより具体的に更新することが出来る。つまり、単に「現実」に対抗して「非現実」が生み出されるのではなく、寧ろ「現実」こそが(それを利用する形で飛躍する)「超現実」を生み出すのだ、という形へ。

     ここに至ってようやく、本稿の冒頭で示した、スクリーンに映し出した愛するキャラクターへ没入するが故にキスへ至るも、間に隔たったスクリーンの冷たさや硬さに拒まれる末に、それまで玉座に君臨していた偽りの簒奪者(「怪異の王」!)たる「リアリティ」のアンインストーラーが起動するという構図がより明確になると言えるだろう。

     そして実際、『傷物語』という物語は、一貫してあらゆるものが接触を拒むように配置されている。ここで注目したいのは、そもそも『〈物語〉シリーズ』には多くのヒロインが登場するものの、その中で『傷物語』に登場するのが吸鬼のキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード(後の忍野忍)と、後に障り猫に憑かれることとなる羽川翼のみであるということだ。

     この二人に共通するのは、接触行為が相手への致命傷になってしまう、という点である。即ち、テレビ放送版『化物語』のラストを飾った一つの物語体系の結実としての接点たるキスに至ること自体が、既に失敗を運命付けられていた人物たちだけが配置されているのだ。

     実際、この時点での(まだ忍となる前の)キスショットと翼は余りにも完成され過ぎている。彼女たちはその完全さ故に、先述したシェリングとも親交の深いヘーゲルが「事物の螺旋的発展」と体系付ける「無教養の段階の個人から出発してこれを知へと導く」弁証法の形成過程と相反している。即ち、例えば彼女たちは「反証可能性」(カール・ポパー)を持てないが故に、近代(≒科学)国家の中に位置付けられない「怪異」としてしかあり得ないのである(実際、キスショットが忍となっても未だにやはり「怪異」であるのは勿論、後に成人した翼は、国家という枠組みを壊す活動家となる)。[10]

     それだけではない。

     そもそも、どうしてこの物語が美談で終わることが出来なかったのか(というよりも、どうしてこの事件が起こってしまったのか)。その理由も、やはりこの接点を持てなかったことに起因している。

     そこで、今度は『傷物語』のストーリー面を追ってみよう。

     先述した冒頭の後、映画は時間を遡り、三月二十五日、春休みに入る前日の放課後に、暦と翼が最初の会話を交わすところから再び開始する。そこで翼から吸鬼の噂を耳にした暦は、その夜、外出した際に、偶然にもその吸鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと出会ってしまう。四肢を失い、血溜まりの中で倒れた彼女は、暦に助けを求める。勿論、それは暦にとって吸されること、即ち命を代償にする行為であった。一度は逃げ出してしまう暦だったが、最終的には彼女に救いの手(ならぬ首)を差し出してしまう。

     しかし、結果的に暦は命を失うには至らなかった。キスショットが暦を自身の眷属へと変貌させたからだ(先述の冒頭シーンで、彼の身体が日光に燃えたのは、これが理由である)。

     何とか一命を取り留めた暦だったが、次なる問題は、果たして自分は人間に戻れるのか、であった。キスショットは、それが可能だと答え、そのためには自分の四肢を奪った三人の吸鬼ハンターから四肢を取り戻すように命じるも、暦はそれに失敗してしまう。

     そして、まさに命を奪われようとするその瞬間、助けに入った忍野の介入により仕切り直しとなって、そこでようやく暦は三人からキスショットの四肢(と、実は忍野が秘密裏にキスショットから奪っていた心臓)を奪還することに成功する。

     しかし、喜びも束の間、暦は完全体に戻ったキスショットがハンターの一人を文字通り食べている姿を目にしてしまう。ようやく、これまで自分が忘れたフリをして来た事実を前に、暦は忍と対立するに至る。

     最高ランクの「怪異」、「鉄にして熱にして冷の吸鬼」たるキスショットと、その眷属となった暦、化物同士の戦いは、暦の吸によるキスショットの完全消滅で幕を閉じる——はずだった。

     しかし、そこに翼が介入する。この展開は、仕組まれている、と。そう、実は、最初からキスショットは暦を人間に戻すため、自らの命を捧げるつもりだったのである。四〇〇年前に一人だけ作った最初の(暦を除いた唯一の)眷属を作った際、その眷属を人間に戻してやることが出来ず、彼がそのまま自殺するのを、暦がしたように身を挺して救うことが出来なかった(「あるべき姿」を取り得なかった)後悔を理由に。

     それを知った暦は、忍野に請う。「なんとかしてくれ」、と。そこで「誰も助けない。ただ自分で助かるだけ」が信条の忍野から三人に提案されたのは、死を望んでいたキスショットは力を失ったまま死ぬことが出来なくなり、人間に戻りたかった暦は完全に人間へ戻ることなく最小限の吸鬼要素だけを残したまま生きることになり、そんな二人の「怪異」を消滅させる機会を人間(翼)は失うという、全員が少しずつ不幸になって終わる結末だった——。

     これが、大まかな『傷物語』のあらすじである。

     まず、いま問題になっているのは、先に述べた「どうしてこの物語が美談で終わることが出来なかったのか(というよりも、どうしてこの事件が起こってしまったのか)」である。

     それは、キスショットがかつて、自ら死を選ぶ自身の眷属に対して、暦が「そうとしてしかあり得なかった」ような肖像としての、身を挺して誰かに手を差し伸べる姿を結ぶことが出来なかった(彼女にとっての「あるべき姿」を取れなかったことを後悔して、自殺を試みた)からである。

     既に説明した通り、『傷物語』というのは言ってしまえば、壮大な自殺を巡る、ある意味では「茶番」とも言える作品だ。言い換えれば、この物語を西尾維新の元々の出自であるミステリとして考えてみた場合の「真犯人」とは、キスショット自身なのである。

     一見すると意外なことに思われるかもしれないが、ミステリにおける「最初の謎」とは、実は事件のことではない。それは、寧ろ「真犯人」にとって存在している。例えば、殺人事件を扱ったミステリの場合、「真犯人」にとっては、どうして後の被害者となる殺されるべき人間が生きているのかが(そのようにただ、ある姿が「あるべき姿」だと)理解出来ない「最初の謎」であり、それ故に事件を起こすのである。つまり、こうしたミステリにおいては「実存」こそが問題になっているのである。

     事実、キスショットが、かつて自分がたった一人の眷属を救うために自ら身を挺することが出来なかった(「あるべき姿」を取り得なかった)ことを後悔し、自身がそのまま生きる(「そうとしてしかあり得なかった」)のが「あるべき姿」だと認められず、自らを殺すことを選ぶかのように。

     その姿は、まさに太陽へ手(枝)を伸ばしながら、それに触れることなく枯れ切ってしまった大樹そのものだ。

     それはつまり、先述した『傷物語』冒頭という、三部作を全て合わせれば三時間を超える大作の一部でしかないはずの断片が、既にして本編を示すに十分な「あるべき姿」という「象徴」としてのアニメーションの本分を全うしていたということ(そう考えてみると、西尾作品はやはりミステリを起点にした小説であると共に、それを、見事にアニメーションを巡る物語へと翻案して見せたのがアニメ『〈物語〉シリーズ』だと言えるだろう)。

     同じことを、今度は暦の側についても考えてみよう。

     作中でも指摘されている通り、本来の暦が「あるべき姿」とは、実はキスショットに命を捧げることではなく、彼女を見捨て、あの血溜まりの現場から逃げ去ることだった。しかし、暦はそれを認められず、彼女を助けてしまったからこそ、彼自身も述べる通り「加害者」の一人と言えるのである(同様に、翼もまた、最後の局面においては、化物であるキスショットを見捨て、彼女の消滅と共に暦が人間になることを選ぶべきだったと、忍野は云う)。

     こうして、『傷物語』に登場する人物たちは無限遠点の末に一点で収束する「あるべき姿」を取ることが出来ないまま、「そうとしてしかあり得なかった姿」を選択するが故に、「バッドエンド」なのである。

     しかし、だからと言って、それを捻じ曲げることも許されない。何故なら、既に述べた通り、そのようにただ、ある姿を合理的な思考に導かれる「あるべき姿」へ変えてしまおうとすることこそが、「真犯人」の行為だからである。

     確かに、彼らの選択は、「あるべき姿」ではなく、「そうとしてしかあり得なかった姿」である。その結果として示されるのは、キスショットにとって欠けていたのは“身を挺すこと”であり、暦にとって欠けていたのは“身を挺さないこと”であるという、矛盾である。決して、たった一つの冴えたやり方は、ここに示されることはない。

     実際、後の『〈物語〉シリーズ』では、作中ですら「阿良々木ハーレム」と揶揄されていた各々の登場人物も、もはや暦が関わることの出来ない存在となる翼や撫子を筆頭に、最終的には皆が別々の道へバラバラに進んで行くことになる。全員が一緒に幸せな結末を迎えることは決してない(暦とひたぎという唯一のカップルすら、その後にどうなるのかは、実は全く保証がないことは僅かにではあるものの、匂わされていなくもない)。だが、それぞれは個人で、忍野が云うように「自分で助かる」のである。

     私たちは、例えば生まれる時代、生まれる場所などを選べないように、「あるべき姿」ではなく、「そうとしてしかあり得なかった」条件の中で生きて行かざるを得ない。そのような「環境」によって駆動される新たなテクストは、さながら現在も西尾維新が恐るべき速度で書き上げ続けている作品群のように、鑑賞者による体系化を拒み、寧ろそれを崩しながら、その一歩先を常に行っていると言えるだろう。

     では、人間は「環境」に対する遅延を常に決定付けられているのだろうか。恐らく、そうではない。そもそも、その「環境」には、テクノロジーが人間によって生み出されたものであるのと同様に、介入する余地も残されているはずだからだ(例えば、暦と忍の主従関係が、どちらを上とも言えない状態にあることも思い起こそう)。[11]

     言い換えるなら、人間は「環境」に対して遅延するものでありつつ、先行するものでもあるということ。矛盾する二つを、統合することなく、寧ろ分裂したまま受け入れること。

     それは、一般に映像鑑賞を、二つの目で捉えた視差を伴う異なる映像を一つに統合する行為だと捉えるなら、失敗であると批判されるかもしれない。しかし、『傷物語』において、リュミエールの初期映画『軽食をとる子供たち』の背景で揺らめく木々や葉、『港を離れる小船』でうねる波がメインの事物よりも観客の目を惹いたという逸話に顕著な、従来なら意識にまで上がって来ることなく、無意識下で抹消されていたプレ・テクストを捉えた(「マイブリッジの連続写真」の正統な後継者である)ことを評価されたことに対する尾石達也からの目配せがあることを見落としてはならないだろう。

     そして、そのプレ・テクストとは、さながら『傷物語』の背景に工場群が常に映り込んでいるように、いま私たちを取り囲んでいるテクノロジーという「環境」なのである(実際、あの風になびく旗や草、波とそれに反射する光などは、テクノロジーによって演算されるものであるだろう)。

     その時、実作者と鑑賞者の間、例えるなら視線解析機を使用して鑑賞者の視線を可視化した際の印が画面上で虚ろに彷徨うかのような状態で宙吊りになったままの情動、つまり身体という自身の「環境」(「そうとしてしかあり得なかった姿」)との付き合い方が問題になるのである。


    [10] また、「無教養」とは言わないまでも、原則的には探偵側の人間が一定以上の事実を最初から把握していないことは、ミステリ小説における非常に重要な要素である。何故なら、極端な例を言えば、殺人事件において、あらかじめ犯人が被害者を殺すことを知っていて尚、それを告発していないのは、その者が犯人自身か、それに近しい(隠匿という罪を犯した)人間ということになってしまうからだ。最後まで探偵役であるには、ホームズ的な知恵だけではなく、ワトソン役のようなある程度の「愚かさ」が必要なのであり、例えば、ホームズの兄であるマイクロフトのように完璧ではいけないのである(そして、このマイクロフト役を『〈物語〉シリーズ』では、彼女たちの他に、例えば臥煙伊豆湖や忍野扇といった人物が引き受けている。

    [11] 例えば、「無意識」の話では、ベンジャミン・リベットは、人間の意識が行動を決定するのが、実際に身体が動き始めるタイミングよりも五五〇ミリ秒も遅れていることを、脳内の準備電位を計測することで明らかにした。また、ダニエル・クレメント・デネット三世も、人間の意識が単一の切れ目ない流れなどではなく、互いに犇き合う多の中で偶然にも閾値を超えたものがその都度に顔を覗かせては消えて行く、仮想的物語の断片もしくは断片の軌跡であり、それが人間に介入の余地を生むという逆説を述べている。


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