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DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」に関するメモ書き
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DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」に関するメモ書き

2019-02-25 19:09

    0.はじめに

    昨日、DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」という文章がnoteに投稿された。
    そのタイトルからも分かる通り、同記事はアニメーションにおける「作画崩壊」概念に関する分析を行ったものである。

    その参照項と、それを扱う手つきは、これまで自分が展開してきた議論に用いてきたものとは異なる分野でありながらも非常に感心させられる点が多かったため、極めて僭越ではあるが、私もその記事で用いている精神分析的手法を学んで、取り入れた文章を書き、応答してみたいという欲求が素人なりにではあるが生まれた。

    そこで本記事は、まず同記事の概要を纏めた上で、そこに用いられている精神分析的な手法に対して、別の文献としてカトリーヌ・マラブーの『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』を参照することを通じて、別様に議論の延長を試みるものである。



    1.「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」の整理

    まず、先掲のDIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」を大まかながら纏めると、次のようになるだろう。

    従来の「作画崩壊」論争で、ある作画Aが「作画崩壊」か否かという判断は、それが何らかの演出的効果を生じさせた、「物語」に貢献しているものかどうかという主観的な主張を推測の足掛かりとして、便宜的な「意図的/無意図的」という対立が争点となる。(※註1)

    この時、二つの異なる主張は、立場を異にしながらも実際には以下の三点で合意しているとDIESKEは述べる。
    ①作画Aは「崩れて」いる
    ②「作画崩壊」の外延かどうかは「物語」への貢献いかんによって判断される
    ③「作画崩壊」は稚拙な作画を内包する
    しかし、既に述べた通り、判断の基準は主観的なものでしかない。であれば、「作画崩壊」はそもそも分類概念として成立していない。
    よって、違ったアプローチが必要である。

    そこで召喚されるのが、ヴァルター・ベンヤミンが「星座」の比喩で語る「理念」である。DIESKEは「作画崩壊」を「現象の客観的な潜在的配置」として捉えることを提案している。星々が、観測者からそれぞれに見出されながら命名されることによって、その星座を形成する位置に移動するのではない(星々は、それが個別の星同士に共通した属性が認められるものでないにせよ、命名以前から既にその位置にあった)のと同様、「作画崩壊」という特異な視聴経験の布置を認識する契機となる形象があるのではないか、と。
    それをDIESKEは「崩壊の外傷」と呼ぶ。

    そもそも「作画崩壊」という経験においては、一般に考えられがちな傾向とは逆に、画面内に描かれたものが何か、その意味内容がはっきりと認識が可能である必要があると、DIESKEは述べる。
    それは、ある作画Aが「崩壊」していると認識するためには、「崩壊」していない状態にある一定の形を保ったイメージを鑑賞者が想起可能であることが条件づけられているためである。
    そして、そのイメージと実際に映し出されている映像の間に生じる亀裂が、「崩壊の外傷」と捉えられる。
    この傍証として、DIESKEは、一定の形を保たない、不定形の水や炎などを描くエフェクト・アニメーションや、抽象アニメーション、モーション・グラフィックスなどは「作画崩壊」の扱いを受けないことを挙げている。

    しかし、重要なのは、DIESKEがこの直後で次にように述べることであろう。
    さて、「崩壊」が状態の変化を指す概念である以上、崩壊以前の状態が条件づけられていることは、すでに確認したとおりだ。しかし、ここで注意をうながしたいのは、作画崩壊にかんしては崩壊以前の状態が実在しないということだ。むしろ、視聴者から「作画崩壊」と名指しされることによって、パッケージ版で修正が施され事後的に崩壊以前が用意される逆転すらおこっている。作画崩壊においては、その契機となる「崩壊の外傷」によって傷つけられる対象ーー欠如していない状態ーーというのは、視聴者の想像上のものにすぎない。この「あるはずのものがない」という経験は、ある精神分析用語をおもいださせる。それは「フェティシズム」だ。
    DIESKEは、「作画崩壊」を、「フェティシズム」の特殊な局面であるとする。そして、その局面において露わになる、それまで抑圧されていた不安の正体とは、アニメーションの世界が「つくりもの」であるという事実だと指摘する。
    そのような外傷的な経験の布置こそが、〈作画崩壊〉の実相なのだ、と。

    このようにして、従来の「作画崩壊」からDIESKEの提示する〈作画崩壊〉へ移行することに伴い、概ね次に挙げる二つの方向で議論が拡張し得る利点が生じる。

    ①「星座」の比喩を経由することによって、「作画崩壊」論争の定義では合意に含まれていた巧拙という観点を取り出し、別途の議論を設けることが可能になること。
    ②巧拙の観点が取り出されたことによって、確かに「崩れ」が生じた、「物語」に寄与しない映像でも、実際は(例えば、ある種のインターネット・ミーム化にまで至るような)何らかの美的達成となっている場合の再考が可能になること。

    以上のように、ヴァルター・ベンヤミンやジークムント・フロイトを参照しながら纏められた同記事は、少なくともイントロダクションの現段階ではアニメーターの固有名を用いず、作画オタク的な目利き能力に頼らない内容となっており、その類の訓練を経由していない人間でも理解が容易なものとなっている。



    2.「作画崩壊=古き傷つきし者」と、[作画崩壊=新たなる傷つきし者]

    さて、このように「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」の議論を纏めた時、重要なのはそもそも「作画崩壊」議論自体が実は精神分析的に行われてきたのだ、という点だと考える。

    「作画崩壊」の議論で推測の足掛かりとなるのは、DIESKEが述べるように、それが何らかの演出的効果を生じさせた、「物語」に貢献しているものかどうかという主観的な主張である。そこで念頭に置かれているのは、セル同士が綿密に有機的繋がりを(さながら「細胞 セル」の如く)持つことにより、映像がそれ自体で一つのモンタージュとして「物語」を描き出すかのような在り方だ。(※註2)

    そのように有機的な組織に対して、「物語」に貢献していない稚拙なものという定義の「作画崩壊」は、用紙の上で使用される鋭利なペンから生じた刺激によって作品という肉体に生じる意識の異変、まさに「突き刺す titrosko」という語から派生した傷を意味する「トラウマ」的体験として置き直すことが出来る。だからこそ、それを象徴的に取り出すこと(映像から画像キャプチャーすること)すら出来るのだ。

    したがって、「作画崩壊(批判)」とは、この有機的な存在が陥っている退行に対して抑圧を解消せよ、という主張へも置き換えることが出来る。それは批評 クリティークであると共に、治療 クリニックなのである。

    ここで問題になるのは、フロイトの述べる「可塑性」である。フロイトにおける「可塑性」についてマラブーは、『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』という著作で、次のように記述している。
    フロイトにおいて、「可塑性」は二つの本質的現象をさしている。第一にリビドーの活発さ、その対象を変え、ひとつに固着しない性格であり、第二に心の生活の破壊しえない性格である。心のうちでは、何ものも忘却されないし、痕跡には消去不可能な性質があるとされているのだ。刻印されたものが変更され、変形をうけ、再成形される可能性はあっても、それ自体は存続する。(※註3)
    この二つの本質的現象が、変化はするものの存続し、再び最初の状態へ戻る「退行」も可能にするような、フロイトが述べる心的生活の不滅性を支えるものである。

    ここでは、前節において、ある作画Aが「崩壊」していると認識するためには、「崩壊」していない状態にある一定の形を保ったイメージを鑑賞者が想起可能であることが条件づけられている、と述べたことを思い出す必要がある。
    それを踏まえるなら、「作画崩壊」批判者にとって、「作画崩壊」とは外部からペンによってもたらされた衝撃で「トラウマ」となった結果、高度な表現を行う能力を失ってしまった、「退行」に他ならないのである(※註4)。

    そして実際、それは作品(患者)と鑑賞者(精神療法家)の間で、「心的装置」という空間へ実際の脳を迂回する形を取りつつ、想像上の過去に対する自由連想法を用いた遡行という共犯関係の中で改めて(或いは新たに)見出される――。

    しかし、既にDIESKEが述べていたように、「崩壊の外傷」によって傷つけられる対象、欠如していない状態、一定の形式を崩すことなく存在するイメージというものはアニメーションにおいて実際は存在していない。

    そしてそれと同様、脳の障碍における症例も、フロイトの言明に反して「退行」の不可能性、回帰作用の失調を示している。脳はフロイトが述べる「リビドー」などの代理的エネルギーの介入や、「心的空間」という迂回を必要とせず、フロイトの論では不可能とされる自己触発を行う。

    このように考える場合、人間には保存されたままの原始的な状態に遡って、過去に安寧の場を見出すことが許されていない。いかなる過去も、既に遡行可能なものではなくなっているからである。

    故に、「ひとたび脳の病変(頭部外傷、脳卒中、脳炎…)に見舞われたなら、脳の自己触発の過程は、程度の差はあれ、深刻なダメージをうけ、ときには失った形式を回復しえないほどに被害者の人格を激変させる」(※註5)のだ。

    そのような場合には、情動の失調、例えばアントニオ・R・ダマシオが自身の患者について「彼の全体的感情は“浅い”と言うのがいちばんぴったりする。」(※註6)と記述するような状態を伴う訳だが、これがアニメーションにおける「作画崩壊」表現にも通じるものでもあることは、両者の近接性を物語っていると言えるのではないだろうか。

    だとするなら、マラブーが「破壊による変容」として「断片と化した心 プシュケは、かつての面影なき人物の誕生と結び付ている」ような状態こそが、DIESKEが述べている鑑賞者が図像から想像する崩壊以前のイメージと落差、亀裂を生じさせる、「作画崩壊」と繋がっているのである。

    そして、この破壊は、フロイトが語った「可塑性」とは別、三つ目の「可塑性」に基づくものである。再びマラブーから引用を設けよう。
    この「可塑性」という語について、主たる三つの意味を想起していただかねばならない。まず、粘土などのように、かたちをうけとることのできる物質のもつ能力である。二つ目は、最初の意味とは逆に、かたちをあたえる能力で、彫刻家や整形外科医などがそなえている能力である。そして三つ目は、「プラスチック爆弾 plastic」や「プラスチック爆弾による攻撃 plastiquage」という語が証言するように、あらゆるかたちを爆発させ粉砕する可能性も示唆している。
    (中略)
    しかしながら、明らかに傷というもの――外傷ないし破局的出来事――は、この用語の肯定的な意味での「かたちの創造者」とはいえない。これは「美しい形態」という彫刻的な枠組みからは、かけ離れている。心の変容の決定因として傷に可塑的な力がそなわっているとするなら、さしあたって可塑性の第三の意味、爆発と無化という意味をあてるしかない。損傷後の同一性の創造があるなら、それは、かたちの破壊による創造ということになる。よってここで問題になっている可塑性は、破壊的な可塑性である。(※註7)
    この、ヘーゲル哲学から取り出した(フロイトの論には含まれない)第三の「可塑性」という概念を通じて、マラブーはフロイトは勿論、神経学にも更新を迫る訳だが、DIESKEの「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」が従来の「作画崩壊」概念を、「退行」可能なより早期段階にある対象を保持していない、全く新たな者としての相貌を露わにするものという[作画崩壊]概念に更新しようとする試みもまた、実はこれと軌を一にしたアクチュアルなものだと捉えることが可能なのである。

    両者は共に、新たな相貌に対する、新たな批評、新たな治療を要請している。



    3.まとめ/補遺

    ここまでの議論を纏める。第一節で、DIESKE「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」を大まかに整理した上で、第二節からはそこで論じられていた従来の「作画崩壊」論争が如何にフロイト精神分析的であったかということ、またそれを更新しようと試みるDIESKEの議論がマラブーの議論などにも親和的であるということを確認した。

    とは言え、このままでは、アニメーションの実作業に対する翻訳が、少なくとも一見しただけでは余りにも困難な文章のままに留まってしまうように思える。
    無論、DIESKE自身は、このイントロダクションを軸として、今度はアニメーターの固有名も含んだ各論を展開していると述べており、それを通じてより直接的にアニメーションを論じる内容となることは間違いないだろう。
    しかし、それとは別に、本記事でも少なからず道筋を示しておく必要が、議論に参加した責任としてあるように思われる。

    そこで、簡単にではあるが、既存の映像論と如何にして接続可能であるかを検討して、記事を締め括りたい。

    マラブーはそもそも「反‐フロイト」や「反‐精神分析」ではない。(※註8)
    それは、例えば精神分析家マーク・ソームズから「問題は、フロイトが正しかったかどうかを証明することではなくて、その仕事を完成させることだ」という言葉を引用していることにも見て取れる訳だが、その中で思考に物質性を差し戻し、その間に区切り線を引くのを拒否するかのような態度は、何処かアンリ・ベルクソンやジル・ドゥルーズを連想させるものがある。

    だとすれば、まさにその両者を論じつつ「見たまま」の「リテラリティ」を重要な軸に据えた福尾匠『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』という著作などとも比較検討が可能になるかもしれない。例えば、本記事では用いた有機的な組織として、まるで生命であるかのように扱う「比喩」などは、解除される必要があるのではないか。DIESKEの議論は、その一助となる可能性を検討する一つの道筋を示しているのかもしれない。

    また、より直接的なアニメーション分野に近付いていくなら、まず、重要な先行研究として、セルゲイ・エイゼンシュテインの「原形質性」という概念を検討した土居伸彰「柔らかな世界 ライアン・ラーキン、そしてアニメーションの原形質的な可能性について」(『アニメーションの映画学』所収)を挙げなければならないだろう。
    そもそも、ここで云う「原形質性」とは、エイゼンシュテインの論文である「ディズニー」で提示されたアニメーションの可能性であるが、土居はそれが本当にディズニー作品で機能していたのか改めて検討している。
    そこで同じ柔らかなものではあるが、対比的な概念として持ち出されるのが、まさに本記事で何度も目にしてきた「可塑性」という言葉であった。しかし、土居は、ここで「可塑性とは、キャラクターの一貫性を保証するために用いられるようなのだ。」と記述している。確かに、本記事でも確認してきた通り、確かにフロイトの「可塑性」はそのようなものである訳だが、マラブーの提示する「可塑性」は、それとは異なっていることも確認した。
    であるならば、マラブーが述べる「可塑性」を、あの「原形質性」と比較して考えるべきなのではないか、という可能性は検討の余地があるように思える。

    或いは、アニメーターの吉原正行による「作画のとび箱 No.18 原画のプランニング―その① 動きに対する適正な原画位置と枚数」で論じられている井上俊之の作画(「原画」)工程が、「動きとして目に引っかけたいパーツ、例えば腕の原画は描いてある[…]けど腕以外の部分は動画が中割で割ってくれたほうが印象として綺麗に動く」かのようなプランニングに基づいており、謂わば「自動性」を持っていることなどは、改めてマラブーが記述する「自己触発」の観点と比較検討する余地はあるかもしれない。(※註9)

    無論、議論はそれ以外にも延長可能であるだろう。
    例えば、手前味噌になるが、自分が以前に『アニクリvol.5.5_β』に寄稿した「無銘論」での「かな/真名」性の問題は「有機的接続/無機的切断」でもあるため、今回の記事で扱った「作画崩壊」議論とも接続可能であるに違いない(先に挙げた、「比喩」の解除とも繋がっている)。
    また、これは課題としてだが、同じく『アニクリvol.6.5_β』に寄稿した「未知と道」では、作画に対する思考から、生物進化のアナロジーを経由することで露出するある種の無根拠性を改めてどう受け止めるべきか、という問題を扱ったが、これはDIESKE「作画崩壊の形式的な分析のノート」を経た現在、再検討しなければならないという直観が働いている。

    そのような各種の議論の末にこそ、DIESKEが述べていたような、既存の作画評価軸とはまた異なる新しい評価軸を設定が可能になるだろう。

    ともあれ、議論の端緒は、既に多方で開かれているらしい。
    もしも気が向いたら、ここまで読んで下さった方々にも、それぞれ議論を検討して頂ければ、これ以上の幸いはない。

    例えば、自分もよく寄稿する『アニメクリティーク』は、編集であるNagブログ「書肆短評」などを通じて大体は常に何かしらの寄稿募集している媒体で、本当に誰でも参加可能です。
    ちなみに自分は、継続的に議論を続けている、フセヴォロド・メイエルホリドの演劇論が新劇などを経由してアニメーションの中で密かに技術的な蓄積を行ってきたのではないか、という仮説を音楽のアナロジーを用いながら映像と音楽の両面で検討する文章を、夏に発刊予定の『アニクリ』に寄稿することを考えています(春の文フリ東京発刊予定の『アニクリvol.6.5(本号) 特集〈アニメにおける線/湯浅政明+森見登美彦〉は検討中……)。
    その際には、宜しくお願いします。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    (註1)これは、単に映像のみを鑑賞する側からは、制作者が意図的だったかどうか実証的に検討することが困難なためである。また、意図的であっても単に自己満足である場合や、意図していないが演出的に上手くいった、という場合も存在することは注意が必要である。

    (註2)「モンタージュこそが映画作品の全体であり、〈理念〉であるのだ。」(ジル・ドゥルーズ『シネマⅠ*運動イメージ』財津理・齋藤範訳、54頁、法政大学出版局、2008年)

    (註3)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、44頁、河出書房新社、2016年

    (註4)例えば、そのアニメがマンガなどの原作付き作品である場合、批判に「原作レイプ」という言葉が用いられることも、示唆的だと言えるかもしれない。

    (註5)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、82頁、河出書房新社、2016年

    (註6)アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』田中三彦訳、40頁、ちくま学芸文庫、2010年

    (註7)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』平野徹訳、42‐43頁、河出書房新社、2016年

    (註8)その意味で言えば、DIESKEに関しても、決して「反‐作画オタク」的ではない姿勢を見て取ることが出来るだろう。それはあくまで、批評を更に一歩進めようという態度から出てきているのである。

    (註9)未加筆
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