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  • 【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説④『クリエイショナー』第6話

    2018-07-17 08:59
    亜尾道(あびみち)高校は、俺の住む永苺園から歩いて十五分くらいの場所――言い換えるならば、俺の住む河降市の北の端に位置する、小さな私立高校だ。
     中途半端な発展しか遂げられなかった河降市の中でも、とりわけこの亜尾道高校の周辺は、緑が多い。具体的な立地環境を説明すると、丘とまではいかないもののちょっとした高台に建っていて、湖とまではいかないもののちょっとした池が近くにあり、森とまではいかないもののちょっとした雑木林が周囲を取り囲んでいる。……かといって、明光風靡な土地とまでは当然いかなくて、正門を出て百メートルほど坂道を下ったらすぐに大型スーパーが現れたりもするし、もう少し進むといきなり新興住宅街が広がっていたりもする。
     どうしてそこまで詳しく知っているのかというと、それはもちろん自分自身が在籍しているからに他ならないのだけど、では四カ月近くお世話になっているこの高校の良さを挙げよと言われれば、俺も少し困ってしまう。……しいて言うなれば、OBはおろか現役の生徒からも寄付金を受け付けるといったアグレッシブさ、テスト用紙代までをも請求してくるといったバイタリティ――そして、お金さえ積めばどんなに怪しい人物でも簡単なテストと面接だけで入学させてしまうといった、ラヴ&ピースな精神だろうか。
     ――夏休みを約一週間後に控えた、ある月曜日の朝。
     授業前の喧騒に包まれていた一年三組の教室が、担任の登場によって一気に静まり返る。
     といっても、別に我が担任である町(まち)譲(じょう)治(じ)先生が、生徒からめちゃくちゃ恐れられている訳ではない。……四十人足らずの男女が一斉に黙り込んでしまった真の原因は、彼がこの高校ではまったく見慣れない、それでいて、ひどく愛らしい少女を伴って現れたことにあった。
     緑色のブレザー、白いサマーセーター、赤い蝶ネクタイ、藍色と紺色のチェックスカートといった格好――すなわち亜尾道高校の女子の制服を身にまとったその少女が、教壇に立った町先生に促される形で、自己紹介を始める。
    「……きょ、今日から、このクラスに転入することになった、先峰玲音です!」
     なおかつ彼女は、緊張した面持ちでとんでもないことを言いだした。「そ、それでは、『いっぱつぎゃぐ』っていうのをやらせてもらいます! “意味を履き違えた笑うせぇるすまん”――ええ、この商品は、ヒヒヒヒヒ、かなりのお勧めの、ヒヒヒヒヒ、商品ですよ、ヒヒヒヒヒ」
     おかげで、静寂どころか、張り詰めた緊張感すら漂ってしまう教室内であった。
    「……ちなみに、先峰さんは那部坂君の御親戚だということです」
     何事もなかったかのように町先生がそう述べた。極めて賢明な判断だと思う。「なので、席は那部坂の後ろということにしましょう。……では先峰さん、どうぞ」
     なんだかとてつもないものを失ってしまった感のある少女が、頭を垂れながら教壇の真正面かつ前から五列目の席――すなわち、俺の後ろの席に腰掛ける。
     てっきり、『全然受けないじゃないですか! ……そもそも、本当にこの時代では転校生がいっぱつぎゃぐとやらをするのが慣例なんですか!?』なんて風に怒られるんじゃないかと思っていたけど、後ろを振り向いた俺に対して、玲音は意気消沈した様子でこう言うのだった。
    「も、申し訳ございません。……せっかく、クリエイショナーから『いっぱつぎゃぐ』とやらをお教えいただいたのに、まったく笑いを取ることができませんでした。完全に、あたしの力量不足です……」
     そんなにしおらしく謝罪されてしまうと、かえってこっちが罪悪感を覚えてしまう。
    「……ていうかさ」
     当然のごとく集中しているクラスメイトの視線を気にしながら、俺は小声で、顔を俯けさせたままの彼女に耳打ちした。「おまえ……いきなり出てるぞ」
    「え……?」
     一瞬、目を泳がせた後、「あ、うわ! だからサイズが小さいって最初に言ったのに……」
     慌てたようにスカートの裾を引っ張り始める玲音。
    「ち、違う違う! ……その『クリエイショナー』ってやつだよ。この高校内では、俺のことをそう呼ばないって、昨日の夜に約束しただろ?」
    「あ……そうでした!」
     両手をパチンと叩く彼女。「申し訳ありません、クリ……いえ、お兄様」
     念の為に言っておくと、この『お兄様』という上品かつ古くさい呼称は、玲音側からの提案だった。別に俺は『那部坂君』でも『準君』でもかまわなかったんだけど、その案は『クリエイショナーの実名をお呼びするだなんて、あまりにも畏れ多い』というよくわからない理由で、却下されてしまった。おかげでこんな気恥ずかしい呼ばれ方になってしまったのだけど、それでも『クリエイショナー』だなんて辞書でいくら調べても出てこないような単語を用いられるよりは、はるかにマシだといえよう。……一応、俺達は親戚だという設定だしな。
     それにしても、だ。まさか、転入手続きを申し込んだ次の日から、彼女が登校できるようになるとは思わなかった。前々から噂には聞いていたけど、どうやらこの金欠私立高校、お金さえ積めば、本気でどんなに身元が怪しい人間でも、そして夏休み直前というとんでもなく微妙な時期でも、気軽に入学させてくれるところらしい。
     ……やがて、町先生が一旦教室を出ていった後、何やら囁くような声が周囲から漏れ聞こえてきた。それと同時に、全員の、特に男子の一段と強烈な視線が、全身に突き刺さってくる。
     そりゃあそうだ。クラスの中でも地味な、いや、はっきり言ってかなり嫌われているだろう俺に突然現れた、美少女の親戚なのである。関心が集まらない方が不思議ってもんさ。
     とはいえ、俺に直接事情を訊こうと試みる男子は誰一人いなかった。……そもそも、この教室内で俺に気軽に話しかけられる人間は、ほとんどいない。逆に言えば、俺が気軽に話しかけられる相手も、ほとんどいない。
     ……そんな中、意外な事態が発生する。
     男子ではなく、一人の女子が、小走りで我々の元に駆け寄ってきたのだ。
     もっとも、彼女の目的は俺じゃないみたいだった。後ろの席で未だにもじもじしている玲音の両手をいきなり握りしめて、実に親しげな口調でこう話しかけたのである。
    「うわぁ、久しぶりやぁん玲音! あんたも大阪からこっちに引っ越してきたんやなぁ!」
    「…………え?」
     ポカンとした表情で、その女子を見つめる玲音。「ええっと、その……あんた、誰?」
    「ぅえええええ!? うちのこと、もう忘れてもうたんか!? ……ほら、小学校の時によく一緒に遊んだ、東(しょ)海(う)林(じ)張(はり)乃(の)やん! 張ちゃんや、張ちゃん!」
     そこから速射砲のように紡ぎ出された彼女の言葉をまとまると――どうやらこの東海林張乃と玲音は、大阪の同じ小学校に通っていた、いわゆる幼馴染だったらしい。
     しかしながら、小学校卒業を機に東海林が関東に引っ越したことにより、すっかり疎遠になっていたようでもある。……つまり、今日が約三年ぶりの再会となる訳だ。
     ……もちろん、俺の偽親戚があっけに取られるのも無理はなかった。東海林が懐かしげに振り返っているのは、あくまでも戸籍を借りているだけであるこの未来っ娘ではなく、本物の『先峰玲音』との想い出だろうからな。
     それにしても、たまたま購入した戸籍が、たまたま転入先の高校にいる人間の幼馴染のものだったなんて……これは単なる偶然なのだろうか? あるいは、これすらもあらかじめ未来の人間によって仕組まれたものなのだろうか?
    「まぁ、気づかんかってもしゃあないかぁ。うち、だいぶ昔と変わってもうたからなぁ。……けど、あんたもえらい変わったなぁ! 小学校の頃は地味な子やったのに、めっちゃ可愛くなってるやん! ていうか、那部坂君と親戚やったんやぁ! 知らんかったわぁ!」
    「……あのさ」
     我に返ったように東海林の手を振り払った玲音が、冷たく言い放つ。「あたし、ちょっと用事があるから、話は後にしてくれない?」
     それだけ言い残した後、我が共同生活者は、その場から足早に去っていってしまった。
    「……あ、あれぇ? ……うち、知らん間に玲音に嫌われてたんかなぁ?」
     眉を八の字にしながら尋ねてくる東海林張乃を、俺はとても直視することができなかった。
     肩まで伸びたボブカットの茶髪、希望感に満ち溢れているくりくりっとした瞳、親しみの沸く丸い輪郭、全体的に実年齢よりもはるかに若く見える顔立ち――このかなり背が低くてちょっと肉付きのいい関西出身の少女に、三か月ほど前から一方的な好意を寄せていたからである。
     なおかつ東海林は、このクラスで俺と口を聞いてくれる、唯一の女子でもあった。……といっても、別に向こうも俺に気があるとかそういうのじゃない。単純に彼女は、どんな人間だろうが分け隔てなく接してくれる、底抜けに優しい女の子なのだ。
    「い……いや、そ、そんなことは、な、ないと、思うよ」
     視線を泳がせながらも、俺がなんとかフォローを入れる。「き、きっと、あの、その、久しぶりだから、照れてるんだよ。……ほ、ほら、あいつ、素直じゃないし!」
     間違いなく、照れているのは俺の方だったけどな。
    「昔は素直な子やったんやけどなぁ……まぁ、もういうても高校生やもんなぁ……」
     よくわからない感想でまとめた後、東海林は何の濁りも感じられない笑みを浮かべながら、俺の胸に軽く自分の拳を当てた。「おう、慰めてくれてありがとうやで、那部坂君!」
     引っ込めた拳で作ったピースサインを残して、自分の席に戻っていく彼女だった。
     しばらくの間、意中の女性と思わぬ形で会話を交わせた幸福に浸った後、俺はそんな天使のような東海林張乃との交流権を一方的に放棄した、極悪女の姿を追ってみる。
     それはいたって簡単な作業でもあった。何故ならあの馬鹿女、あらかじめ『さっそく今日からマザーリアとのコンタクトを試みようと思っています!』と宣言していたからである。
     案の定、俺が発見した時にはすでに、玲音は廊下側最後列の席――すなわち、星村凛子の席の傍らに立っていた。……ひどく緊張した様子の玲音に対して、星村凛子は目線を合わす気すらないらしい。自由な時間いつもそうしているように、彼女はひたすら読書に耽っていた。
     それでもお互いの口が動いている以上、何らかのやり取りは交わされているみたいである。
     転校生がいきなりこの教室内において最も無愛想な女子に話しかけるといった異常事態を見守るクラスメイトに混じり、俺も彼女達の会話に耳をそばだてる。……だけど、具体的な内容は何も伝わってこない。まったく和気藹々としていない、ってことくらいしかわからなかった。
    「……那部坂」
     唐突に、背後から朴訥とした声が聞こえてきた。振り向くと、このクラスで俺が唯一気軽に言葉を交わせる相手、真壁透の顔があった。「おまえにあんな親戚がいることも、その親戚がこの高校に転入してくることも、俺は今までまったく知らなかったぞ」
    「あ、ああ……そういえば、言うのをすっかり忘れていたわ、ごめん」
    「もしかしておまえ達は、俺の隣の部屋で一緒に暮らしているのか?」
    「ええっと、まぁ、うん、そんな感じかな」
    「ところで、那部坂。大変なことになってしまった」
    「は? ……何がだよ?」
    「俺がだ」
     表情や口調を一切変えずに、彼は言った。「俺は恋をしてしまった。初対面の相手に対して、いや、そもそも女性に対してこんなに胸がときめいたのは、恐らく初めてのことだろう」
    「……ちょ、ちょっと待て。まさかおまえ……玲音に恋をしてしまったっていうのか?」
    「そうだ、激LOVEだ」
    「マジかよ……ていうか激LOVEって何だよ……」
     確かに、何故か一回り以上サイズの小さな制服を支給されたが為に、その造形が露わになってしまっている胸部と臀部は別にしたって、玲音は非常に魅力的な容姿の少女である。誰かが恋に落ちたって、全然不思議ではないだろう。
     だけど……よりにもよって、俺の唯一の友人が玲音に一目惚れしてしまうとは。
     そもそも、この男はそんな色恋沙汰にまったく興味がないと思っていたのに。
     ……というのも、だ。今まではあえて触れてこなかったけど、ていうかこれからもあんまり触れたくなかったのだけど、この真壁透という男はぶっちゃけ、かなりのイケメンなのである。
     涼しげな瞳、整った鼻筋、凛々しく引き締まった口元。そんな中性的ともいえる綺麗な顔立ちの上に、長身かつスマートな体型で、しかもサッカー部の将来のエース候補という、まるで一昔前の漫画やドラマに出てくる二枚目ヒーローみたいなこの男は、実際女子からの人気もかなり高いらしい。……それなのに、浮いた話一つ出てこないもんだから、もしかするとそっち系の人間なんじゃないかとひそかに疑っていたくらいなんだけど。
     すっかり絶句してしまう俺の耳に、今度は聞き慣れない声が飛び込んできた。
    「……真壁君」
     ちょっと低音の効いているその声を間近で聞くのは、たぶんこれが初めての経験だった。「この前の一件だけども、別にあなたに手を引っ張ってもらわなくたって、私とあの車が接触することは、ありえなかったと思うわ」
     ついさっきまで転校生と気のない会話を交わしていたはずの星村凛子が、いつの間にか、俺達の傍に近寄ってきていたのだ。
     彼女が元いた席の方に視線をやると、玲音が一人で呆然と立ち尽くしている。どうやら、自分が東海林に対して行ったような対応を、星村にされたってことらしい。ざまぁみろ、天罰だ。
    「ああ……そうだな、俺も同意見だ」
     基本的に感情を表に出さない真壁の顔からも、この時ばかりはさすがにほんの少しだけ驚きの色が読み取れた。……恐らく彼だって、この心を固く閉ざした女子とちゃんと言葉をやり取りするのは、これが初めての経験なんだろう。
    「とはいえ、私は絶対に他人に借りを作りたくないタイプでもあるの」
     抑揚がないという点は共通しているものの、俺の親友とは違い、星村の口調には一切の親しみも感じられなかった。「……だから、いずれ何らかの形でお礼させていただくわ」
     真壁との無感情対決に勝利した彼女は、それだけ言い残して、自分の席に戻っていった。
     代わりに、玲音がこちらに向かってとぼとぼと歩いてくる。すれ違いざま、ぎこちない笑顔で会釈する彼女を、やっぱり無視する星村であった。
    「……では、俺も自分の席に戻る」
     急に踵を返す真壁。
    「お、おい、なんでだよ! ……恋をしたんだったら、玲音と何か喋ったらいいじゃん!」
    「無理だ。……今の俺には、荷が重すぎる」
     そして、真壁も素早くその場を去っていった。やれやれ、なんて謙虚なイケメンなんだろう。
     まもなく、がっくりと肩を落としながらの帰還を果たした変な髪型の少女に、俺は再び小声で尋ねてみる。
    「で……コンタクトとやらは成功したのか?」
    「ああ、その……すみません、全然駄目でした」
     伏し目がちに答える彼女の表情は、敗北感に満ち溢れていた。「……やっぱり、めちゃくちゃ怪しいですよね、いきなり転校生が話しかけてくるだなんて」
    「そりゃあそうだろうな」
     しかも、相手はあの星村なのだ。うまくいく方がどうかしてるってもんさ。「……ちなみに、憧れの人と初めて喋ってみた感想はどうだったよ? 感激したか?」
     なんでもこいつは、未来の世界でも、『マザーリア』こと星村凛子と実際に対面したことはないらしい。しかし、同じ女性として、ずっとただならぬ尊敬の念は抱いていたという。
    「ええ、それはもちろん、すごく感激はいたしましたが……ちょっと、思っていたお方とは違いましたね」
    「ああ、予想以上にひどい態度だろ?」
    「いえ、ご性格はともかくとして外見が……あ、な、なんでもありません!」
     慌てた様子でかぶりを振る玲音。
    「おいおい……それで俺が納得すると思うか? 別に怒ったりはしないから正直に言えよ」
    「は、はい、申し訳ございません。……そ、その、マザーリアはお若い頃、『絶世の美少女』だったとうかがっていたんですが……」
    「まぁ、絶世とまではさすがにいかないか」
    「それどころか、はっきり言ってブサイ……い、いえ、その、今度こそなんでもありません!」
    「ブサイクって……おまえ、さすがにそれは言い過ぎじゃねぇの?」
     苦笑しながら、俺はもう一度星村の方に視線を向けた。
     流れからいって、我々が自分の話題をしているってことくらいはわかるはずだろうに、彼女は一切こっちの様子を窺うこともなく、読書を続けている。
     なるほど、確かに薄気味の悪い女だ。ここだけの話、彼女のことを悪く言うやつも、少なくはない。……けれど、あいつの容姿までをけなす人間は、ほとんどいないはずだ。腰辺りまでストレートの黒髪を伸ばし、化粧っ気もまったくなく、常に灰色のストッキングで生足を隠すといった古風かつ不気味なスタイルを貫いているとはいえ、彼女はどこからどう見たって、美人の範疇に属する女性なのである。細面の輪郭に切れ長の瞳が印象的な、和風美人だ。
     そんな星村凛子のことを、いくら自分も容姿が整っているとはいえ、『ブサイク』とまで言い放つくらいなんだから、玲音はよっぽど美的感覚に厳しい女なのかもしれない。……正直、俺だって裏ではどう思われているのかわかったもんじゃねぇな、こりゃ。
    「だいたいさ、おまえは未来の星村の姿を知っているはずだろ?」
    「はい、肖像画では何度も拝見させていただいたことがあります」
    「だったら、過去にどんな顔だったのかも、想像がつきそうなもんだけどな」
    「それが……マザーリアはいつも人前では覆面をかぶってらっしゃったので、肖像画でもお顔は描かれていないのです」
    「覆面をかぶってるって……何だよそりゃ?」
     ひょっとして、将来星村は変態趣味にでも目覚めるんだろうか? あるいは、すでにもう目覚めてるんだろうか? ……ちょっとだけそんな妄想を繰り広げた後、俺は大事なことを思い出した。「あ、そうそう。……おまえ、さっきの東海林さんに対する態度は何だよ?」
    「……え?」
     きょとんとした顔つきで訊き返してくる玲音。「東海林さんって……その、誰ですか?」
    「それすら覚えてないのかよ!」
     その反応からいって、少なくとも彼女自身は、自分の購入した戸籍が転入先の高校にいる人間の幼馴染のものだと、あらかじめ知っていた訳ではないらしい。「ほら、最初におまえに話しかけてきた、ちっちゃな女の子のことだよ。いくらなんでも、あの対応はひどすぎるだろうが」
    「ああ、あの女ですか。しかしですね、クリ……お兄様。あたしはあの女のことをまったく知りませんし、そもそも今回のプロジェクトとは無縁の存在ですし、それに馴れ馴れしく下品な女でもありましたし、知能の低そうな女でもありましたし……」
    「うるせぇてめぇ!」
     俺の天使に対して何てことを言ってくれるんだ、コラ! 「口答えすんじゃねぇよ、馬鹿!」
    「も、申し訳ございません!」
     途端に玲音が机に額を擦りつける。つい調子に乗って怒鳴りつけてしまった俺も、そんな彼女の様子を見て、はっと我に返った。ただでさえ周囲のクラスメイトから注目されている中で、この状況は非常にまずい。これではなんだか、俺が自分の従姉妹だけには強い男みたいじゃないか。……まぁ、実際のところ、それに限りなく近いんだけどな。
    「……そのさ、うん」
     なるべく穏やかな声で、俺は諭した。「……とりあえず、頭を上げてよ」
    「いえ、あたしとしたことが、畏れ多くもお兄様に口答えしてしまうだなんて……この場で死んでお詫びしたい気持ちです!」
    「だから頭を上げろって! 俺が悪かったから!」
    「そんな……お兄様は、何一つ間違っていません!」
    「じゃあ、俺の言うことを聞いてくれ。頼むから!」
    「わかりました……」
     ゆっくりと頭を上げる彼女。よく見れば、額に赤いあざみたいなものができていた。かなり強い勢いで机にぶつけたせいだろう。さすがに心が痛む。
    「と、とにかくさ……俺や星村だけじゃなくって、他のみんなともなるべく仲良くしろよ。このクラスに馴染まないと、おまえの作戦とやらもスムーズにはいかないってもんだぜ」
    「……なるほど、そう言われてみればそうですね! やっぱりお兄様は、大局から物事を判断してらっしゃいます! ますます尊敬の念が深まりました!」
     今度は胸の前で両手を組みながら、キラキラとした瞳で俺を見つめてくる玲音であった。
     いずれにしても、我々の関係性に対する疑念をクラスメイト達に抱かせるには、充分すぎる光景だっただろう。半ば諦めた俺が、大きな溜息を吐く。
     そうこうしているうちに、町先生が再び教室に姿を現した。彼は一限目の授業、すなわち国語科の担当教師でもあるからだ。
  • 【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説③『奥さまは魔王』第6話

    2018-07-17 08:56
     さらに次の日。
     いつもより少し早く民芸博物館に出勤した俺が自分の机で書類をまとめていると、突然背後から声が掛けられた。
    「おはよう、天野君! 夢の新婚生活を楽しんでるかい? 愛しのハニーのことを考えると、仕事もおぼつかないってやつだろ? ぬふふふふふ……」
     振り向くまでもなかったね。こんなダサい言葉を口にする人物は、もっと言えばどっかの大泥棒三代目みたいな笑い声を発する人物は、この職場で一人しかいない。とはいえ、唯一の上司を無視する訳にもいかないので、しぶしぶ俺は椅子を反転させる。
     案の定、そこでは恰幅の良い初老の男性がニヤニヤしながら立っていた。
    「……おはようございます、館長」
    「おや、ずいぶん疲れた顔をしてるじゃないか。まぁ、新婚当初は夜も何かと忙しいからな、ぬふふふふふ……」
     こんな下世話な台詞の後に説明するのもなんだけど、彼はいつも俺のことを親身になって考えてくれる優しい人であった。俺の結婚に一番驚いたのも、そして一番喜んでくれたのも、他ならぬこの館長なのである。陳腐な表現を承知で言わせてもらえば、早くに両親を亡くした俺にとって、まるで父親代わりみたいな存在でもあったのさ。
     だからこそ、俺もついつい正直に言ってしまったのだろう。
    「ええ、とても忙しかったですよ。なんせ、掃除も洗濯も一人でしなければいけませんからね!」
     すると、予想通り館長の表情が一変した。
    「どういうことだ? 奥さんは、何も家事をしてくれないのか?」
     隣の椅子に腰掛けて心配そうな口ぶりで尋ねてくる彼に、俺はこれまでの顛末を事細かく説明した。厳密に言えば、愚痴りまくった。とにかく誰かにこの悩みをぶちまけたかったし、その誰かを求めるならば眼前の男性ほど最適な人物はいなかった。
     しばらくの間、難しい表情で俺の話に耳を傾けていた館長だったが、
    「……それは、君にもおおいに問題があるぞ」
     やがて、今度は予想外の返答を発した。
    「僕にも、問題が?」
     唖然となる俺に、
    「いいかい、天野君。夫には、妻を教育する義務があるんだよ」
     それこそ生徒を教育する先生のような口調で館長は言った。「話を聞いている限り、君はその場では笑って許してあげているようだけど、そんな体たらくじゃあ全然駄目だ。ちゃんと叱りつけてあげなければならない。そうしなければ、延々とこの状況が続くぞ。君はそれでもいいのかい?」
    「いや、もちろんよくはないですけど……」
    「だったら、妻を教育しなければいけない。すなわち、夫が仕事に出ている間、安心して家を任せられるような奥さんになるように、君が仕付けるんだよ。そして妻の方は、給料をちゃんと家に持って帰ってきて、たまの日曜日には家族サービスをして、浮気を一切しないような夫になるように仕付ける。つまり、お互いがお互いを教育するんだ。……これが正しい夫婦の在り方だと俺は思うぞ」
    「なるほど……」
    「大袈裟に言うならばな、天野君。…… “夫には、妻の為ならいつでも死ねる覚悟が必要”なんだよ」
    「いつでも死ねる覚悟、ですか? 本気で大袈裟ですね」
     俺が苦笑したところで、
    「結婚とは大袈裟なもんさ」
     館長の真面目くさった顔は変わらなかった。「要するに、だ。夫は妻を、『この人の為にならいつでも死ねる』と思わせるような女に成長させなければならないってことでもある。……どうだい、死ぬ気になれば、妻を教育するなんて容易いことだと言えるだろ?」
     なんだかずいぶんと古風な考え方に思えたし、また極論すぎるんじゃないかとも思えたが、それでも今の俺には妙に説得力のあるアドバイスであった。なにより、俺にこんな助言を行ってくれる人など、この世には一人しかいないからな。
     つまりは、教育が必要って訳か――。
     そんなことを考えながら、俺が本来の持ち場である受付カウンターに向かうと、眼鏡を掛けた女性が一人で黙々と開館準備を行っていた。
     去年の夏からここで働いている、女子大生バイトの加賀さんである。
    「……加賀さんはさぁ、料理とか得意なの?」
     カウンターに片肘をつきながら、何気なく俺が話し掛けてみると、
    「挨拶もなしにいきなり朝からセクハラですか、副館長?」
     彼女は無駄に整った顔をしかめながら、冷たい声で返事をよこしてきた。「……まぁ、自分で言うのも何ですが、料理はなかなかできる方だと思いますけど」
    「へぇ、意外だなぁ」
    「竜策市役所に、セクハラ相談を受け付けてくれる部署はあるんでしょうか? あるなら、今すぐ場所を教えて欲しいんですけど」
    「でもさ、やっぱり料理ができる女の子はいいよねぇ」
    「ひょっとして私を口説いてるんですか? 新婚早々のくせして。浮気の味を知る前に、自分の身の程を知った方がよろしいのでは?」
    「加賀さんは、どこで料理を習ったの?」
    「どこでって……そりゃあ、母親に教わったり、料理の本を読んだり、ですよ。別に、そんな教室に通ったりはしていません」
    「料理の本、ねぇ……」
     なるほど、教育には教科書が必要ってことか――。
     ……という訳で、愚直にも俺は仕事を終えて帰宅する際に、近くの本屋で料理関係の書籍を何冊か購入してみたのだった。
     これを突きつけてやれば、麻淋さんだって少しは心を入れ替えてくれるかもしれない。……そんな淡い希望を抱きながら、それでも悲壮な顔つきで俺が玄関のドアをゆっくりと開ける。
     さて、今夜はどんなオチが用意されているんだろうね? ワクワクし過ぎて、胸が張り裂けそうな気分だぜ、おい。 
     ――ところが、そこからの展開は恐ろしく意外なものであった。
    「あ、おかえりなさい!」
     まず、麻淋さんの声が予想外に明るかった。俺の帰宅を待ち構えていたかのように、上機嫌な笑顔すら浮かべている。「晩御飯は、もうできてますよ」
    「あ、ああ……」
     てっきり今日も暗い雰囲気を漂わせているものとばかり思い込んでいたから、あまりにも穏やかな彼女の様子に虚をつかれてしまった。おいおい、どうしたんだよ? なんだか結婚四日目の新妻みたく、甘酸っぱいオーラを放ってるじゃねぇか。
    「ちょっと冷めちゃったかもしれませんけど……」
     苦笑しながら、食卓を手で示す麻淋さん。
     ……視線を移した俺は、今度こそおおいに驚愕させられたさ。
     そこに用意されてあったのは、昨日とはまったく違う意味で名称のわからない料理の数々だったのだ。ゼリー状の物体が添えられた色彩鮮やかなサラダ、いかにも食欲をそそる香りを漂わせているスープ、そして四種類のソースがバランスよくかけられてあるステーキ。なおかつ、たくさんのフルーツにかこまれたデザートケーキと、高級そうなワインまで用意されている。
     少なくとも、外観だけで言うならば満点に近い晩飯だぞ。
    「こ、これは……」
     唾を飲み込みながら、俺が尋ねる。「……どうしたんだ、麻淋。魔法でも使ったのか?」
     驚きのあまり、つい呼び捨てにしてしまったね。
     それに戸惑ったのか、一瞬びくっと体を揺らす麻淋だったが、
    「まさか……魔法なんか、使っていませんわ」
     すぐに優雅な笑みを浮かべながら、そう答えてきた。「それよりも、どうぞ早く召し上がってください」
    「う、うん……ありがとう」
     テーブルに所狭しと配置された豪勢な料理郡は、味もまた絶品であった。食べ始める直前まで、美しいのは見た目だけで中身はひどい有様だなんてわかりやすいオチを疑っていた俺に、どうか罰を与えてください、神様。できればそんなに痛くない罰を。
     ……さらに俺が驚かされたのは、家中がひどく清潔になっている点であった。昨日までの猥雑さが嘘のように、全ての物が整理整頓されている。どうやら、ちゃんと掃除機も使用されているようだ。しかも、俺のパジャマが寝室から無くなっていた。なんと、しっかりと洗濯を済ませた上に、風呂場のカゴに畳まれてあったのである。
     いや、考えてみれば、至極当然のことなんだろうけどさ。昨日までの経緯を知っている俺からすれば、死んだ弟の意思を継いで甲子園に出場した双子の兄を見るように、感動的な光景だったね。
     要するに、である。何故だかはわからないが、うちの奥さんは今日一日でレベル1から最終ボスを倒せるくらいまでのレベルアップを果たしたみたいなのだ。まるで人が変わったかのような不自然極まりない成長スピードだったけど、その原因を追求する気にはなれなかった。ていうか、一応追求はしてみたけれど、適当にはぐらかされてしまったからな。あんまりしつこく問い詰めるのも野暮ってもんだろうよ。
     たぶん、この二日間の悲惨な状況を鑑みて、麻淋はすっかり心を入れ替えたんだろう。俺はそういう風に解釈したさ。女性ってある意味とんでもない生物だから、きっとこれくらいの変化は当たり前なんだろう、と。
     ――そう、俺は単純だった。状況の変化に身を委ねるのは、得意中の得意分野であった。
     あいかわらず会話は全然盛り上がらなかったけど、それでも俺は充分満足していたね。買って来た料理本は、こっそりと寝室の机のひきだしに直しておいた。まさか、後日自分が使う羽目になるとも知らずに、な。
     久しぶりに食欲が充たされた俺は、風呂から上がってすぐに睡眠欲を充たしてしまった。結果的に、もう一つの欲望が充たされることはこの日もなかったって訳だ。
     とはいえ、それほどがっかりすることもあるまい。少なくとも、大きな懸案は解決されたのである。一日の内にそれ以上の進展を望むのは、それこそ罰当たりってもんだろうよ。
     次の日も、朝食こそお馴染みのコンビニパンだったものの、晩飯はこれから我が家で次期総理を決めるのかってくらいに高級料亭チックな懐石料理だった。そして、感動のあまり、胃袋だけではなく胸もいっぱいとなった俺は、やっぱり妻の体に触れることなく眠ってしまう。
                   ※
     いい加減思ったさ。……おいおい、これはさすがに病気なんじゃないかって。
     正直に言おう。俺にだって性欲くらいはある。野獣のように人並み外れちゃあいないと思うが、それでも裸の女性を見るとドキドキしてしまうような、普通の成人男性ではある。
     そんな俺が、若い美女と一つ屋根の下で暮らしているのだ。しかも、彼女は自分の妻でもある。そういう行為が禁じられているどころか、日本国、ひいては人類の発展の為にも、むしろ積極的に子作りに励んだっていいはずの対象だろうよ。
     けれど、毎日麻淋が寝室に入ってくるなり、眠ってしまう俺。人件費を計上するだけが使命のような民芸博物館の仕事で疲労が溜まる訳はなく、前日にぐっすり寝ているんだから寝不足って訳でもないのに。
     考えられるとすれば、心理的な何かが、そういう行為に及ぶことを止めている可能性だ。例えば、あまりにも彼女が美しすぎるが故に、自分自身で汚すことを深層心理下で恐れてしまっている、って感じかね?
     ……いやいや、まさかな。俺がそこまで高尚な精神を持ち合わせてるだなんて、到底思えないね。
     いずれにしたって、ここは一度、病院かカウンセリングに相談した方がいいのかもしれないぞ。俺が真剣にそう悩み始めていた、ある日の朝。
     出勤する為にマンションを出た途端、見覚えのある女性に遭遇した。
    「おお、天野さんじゃん! 久しぶりぃ!」
     前回よりは比較的フォーマルな格好をしている仁美さんが、俺の姿を見つけるなり、大きく手を振って近づいてくる。「やぁやぁ! 元気だったかい? 新婚生活はエンジョイしてるのかなぁ? もう、ベタベタしまくってるんだろうねぇ! ね、そうでしょ?」
     矢継ぎ早に無邪気な声で尋ねてくる彼女を前に、俺は思わず表情を曇らせてしまった。
     ……ベタベタどころか、我々はまだ口付けも交わしていない。いや、考えてみれば手を握ったことすらもないぞ。
    「そうでもないです。実にさっぱりしたもんですよ」
    「ああ、そうなんだ。へぇ……」
     一転して、困惑気味な顔つきで呟く仁美さん。その台詞に、なんだか『やっぱりねぇ』みたいなニュアンスを感じ取った俺は、
    「うん? どうしたんです?」
     と、逆に訊いてみた。すると、
    「いや、別に何でもないけど……あれは、そうなのかな、じゃあ」
     なんていう、いかにも思わせぶりな返答が返ってきやがった。
    「あれって何ですか?」
    「……いや、本当に何でもないよ。気にしないでね!」
     無理から笑顔を取り戻す彼女に、『はい、だったら気にしません』と応じるには、出勤時刻までいささか余裕がありすぎたね。
    「何か知ってるなら教えてくださいよ」
     だから、つい語気を荒げて問い詰めてしまったさ。「ていうか、絶対に何か知ってるんでしょ、仁美さんは!」
     しばらくの間、わかりやすいくらい目線を泳がせていた仁美さんも、一向にその場から離れようとはしない俺を見て観念したのか、やがておずおずと口を開き始めた。
    「いやぁね、一つ訊きたいんだけどさ。……麻淋ちゃんには、お兄ちゃんか弟さんがいるのかな?」
    「お兄ちゃんか弟さん? ……そんな話、聞いたこともないですけど」
     もっとも、兄や弟がいないという話だって聞いたことはないけどな。
     要するに、この期に及んでもまだ俺は、妻の素性をまったく把握できていなかった。彼女がどんな幼少時代を過ごして、どこの学校を出て、結婚するまで何をしていたみたいな基本情報を、これっぽっちも入手できていなかったのである。
     そりゃあ、同居して一週間も経つのに、未だにほとんど長い会話が成立していない有様だからな。名探偵や超能力者でもない限り、わかりようがないってもんだろ。
    「……わたし、見ちゃったんだよねぇ」
     俺が改めて自分達夫婦の異常性を省みていると、仁美さんは言いにくそうな口ぶりで話を続けた。「昼間に、男が入っていくところをさ」
    「入っていくって……ひょっとして、うちのマンションにですか?」
    「うん。天野さんの部屋に」
     彼女が小さく頷く。「ええっと、確かあれは三日前くらいのことだったかなぁ。昼の三時くらいに買い物から帰ってきたら、あなたの部屋の前に男が立っていたのよ。なんだかやけに周囲を気にするような素振りを見せてたわねぇ。だから、わたしも慌てて階段の影に隠れちゃったわよ」
    「お父さんが実家から来ていた、とかじゃないんですか?」
    「ううん、若い男だったよ。二十代前半くらいの。……しかも、かなりのイケメンだったねぇ! もう少しわたしが若かったら、恋に落ちてたかも!」
     イケメン、ねぇ。紅白歌合戦とセミの成虫くらいに、俺には縁のない言葉だな。「で、しばらく様子を伺っていたらドアが開いてさ、中から麻淋ちゃんが顔を出したの。こんなことを言っちゃあなんだけど……凄く嬉しそうな表情をしてたね、あれは」
     凄く嬉しそうな表情、か。そういえば、俺は麻淋のそんな表情を見たことがないな。
     かいつまんで言うならば、つまりこういうことのようだ。
     ――うちの奥さんは、俺が仕事をしている間に、若い男と家で密会している。
    「しかもさ、次の日もそいつが来てたんだよ、これが!」
     一旦喋り始めたら止まらなくなったのか、早口でまくしたてる仁美さん。この辺りは立派に主婦しているみたいだな。「ひょっとしたらあの人、毎日来てるのかもしれないねぇ」
    「そうなんですか……」
     としか、俺には答えようがなかった。出勤時刻には余裕があっても、事態を受け入れるには時間がなさすぎるってもんだぜ。
    「もちろん、わたしの勘違いかもしれないし、そうだったらそれに越したことはないんだけど……問題は、そうじゃなかった場合、だよねぇ」
     それがどういう場合かってことくらい、容易に察しがついたさ。もうガキじゃないんだからな。「いや、今だったら取り返しがつくと思うんだよ、わたしは」
    「今だったら……」
    「そうそう! ……ほら、まだ二人とも若いんだからさ。優介君と麻淋ちゃんがじっくりと話し合えば、案外簡単に解決するかもしれないじゃん!」
    「はぁ……」
     呆然とその場で立ち尽くす俺をよそに、『朝から変な話してごめんね! ……じゃあ!』なんて台詞を残してそのまま去っていく仁美さんであった。無責任な人だな、おい。残された身にもなれっていうんだ。
     ……とはいえ、別に俺が立ち直れないほどのショックを受けていた訳ではないぜ。我々は、大恋愛の末にくっついた夫婦じゃない。つい三週間ほど前に知り合って、一週間ほど前に結婚した、いわばインスタント夫婦なのである。だから、特に激しいジェラシーを感じたりはしなかったね。
     もっとも、まったく嫉妬心が芽生えなかったと言えば嘘になるだろうけどさ。少なくとも妻が、夫である俺には見せたことのないような表情を、他人に見せている訳だからな。ちょっとくらいは悔しく思ったところで、無理はないってもんだろ?
     だがそれよりも、自分の家に見も知らぬ男が出入りしているって点が、俺は一番気にくわなかったね。家賃は当然、俺の給料から出てるんだぜ。だったら、家主である俺に一声掛けるのが礼儀ってもんじゃないかい? たとえ、俺には言えないような理由で来ているとしてもさ。
     その他諸々の感情が渦巻く中、俺は強く決心した。
     ……ある作戦の決行を。
     という訳でその日、俺は体調不良だと偽って仕事を三時に早退した。理由はもちろん、妻とその若いイケメン男とやらの密会現場を押さえる為である。
     仁美さんの推測が正しければ、恐らく今日もそいつはうちに来ているはずだ。その男の姿を確認するのにも、あるいは麻淋の本性を知るのにも、これは絶好の機会だと言えよう。
     玄関の前に辿り着いてから、ゆっくりと呼吸を整える俺。すでに、何パターンかのシミュレーションは立てていた。……ああ、最悪の事態ですら、想定していたさ。
     しかし、結果的に俺の予測は全て外れてしまった。
     ――あらかじめ言っておくと、“その現場”に入っていった際、俺が妻から最初に掛けられた言葉は、『貴様、見てしまったのか』だった。
  • 【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説②『ピース』第6話

    2018-07-17 08:48
    「ああ、俺はそれで全然良いと思うで……」
     月川早苗が俺に求めていたのは、いつもこの台詞だった。
     言い換えるならば、『たぶん良いんちゃうかな』だとか、『なかなか良い感じやな』だとかいう曖昧な表現を、ひどく嫌う女でもあった。
     それどころか彼女は、『すごく良いやん』という言葉ですら満足しなかった。何故なら、主語がないからである。
    「うちが訊いてんのは、この世に存在するはずもない “客観論”なんかやないねん!」
     早苗の言い分はこうだった。「そうやなくって、杉田光樹の意見や。あんた自身がどう思うんかを訊いてるんや!」
     だから俺は、彼女に感想を求められた際、常に同じ台詞を口にするよう心掛けていた。『ああ、俺はそれで全然良いと思うで……』と。
     ちなみに、俺がこの台詞を毎日のように用い始めたのは、高校に入ってすぐの頃であった。それはすなわち、早苗の創作熱がいよいよ本格的になり始めた時期でもあった。
     ほとんど勉強をしている様子も窺えないのに、どういう訳か偏差値が高かったあいつは、俺よりも数ランク上の公立高校に入学することとなった。それによって、俺の奴隷生活もようやく終幕を迎える……はずだったんだけど、遺憾ながら物事とはそううまく進むものでもない。むしろ直接会う機会が減った分、スマホによって呼び出されたり何かを頼まれたりする回数が、格段に増えてしまったのである。
     『高校の近くの本屋ではあの漫画が売ってへんかったから、代わりにどっかで探しといて』というパシリ感丸出しのものから、『下着を買いにいくから、一緒について来い』なんていう、一歩間違えれば逆セクハラか罰ゲームみたいなものまで多岐に渡る雑用――その中でも大半を占めていたのが、早苗の創作の補佐的な業務であった。
     何のきっかけがあったのかはわからないし、そんなことを知りたくもないけど、とにかく高校に入って一ヶ月ほど経ったある日、早苗は突然『うちはクリエイターになる!』と宣言した。厳密に言えば、俺のスマホにそういう主旨のLINEを送ってきたのである。
     そして、無駄に有言実行タイプでもある彼女は、その日から宣言通りあらゆるジャンルの創作に手を染め始めた。
     同人誌作成、バンド結成、演劇集団の旗揚げ、小説執筆――おおよそ、メインストリームから外れてしまった高校生が思いつきそうな代物には全て飛びついたし、もちろん俺はその全てを手伝わされる羽目になってしまった。
    「……うちはな、生きた証を残したいねん」
     早苗が、暇つぶしに対するもっともらしい名目を思いついたのも、たぶんこの頃のことだろう。「『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』やなんて言うけど、あんなんは嘘やわ。リヴァプール生まれのジョン・レノンやアンキアーノ村生まれのダ・ヴィンチが有名な訳やなくて、『イマジン』を作曲したジョン・レノンや『モナリザ』を描いたダ・ヴィンチが有名なんや。つまり、人間が後世に残すんは、名前やなくって作品やねん!」
     まったく意味が理解できなかったし、理解できたところで詭弁だとしか思えなかっただろうけど、それでも彼女は何かを創りあげる行為に異常なまでの関心を抱く理由を、したり顔でそう解説するのであった。……いや、解説するだけならまだ可愛いもんだけど、なおかつ俺に賛同を求めてくる始末だった。
     とはいえ、ラブレターという最終兵器を握られている俺は、素直に頷いてみせたさ。なんなら、愛想笑いすら浮かべて。
     すると調子に乗った彼女は、創作物自体の感想まで毎回俺に求めてくるようになった。言うまでもなく『感想』なんてのは建前で、実情は『賞賛』である。無根拠の自信とプライドだけで成り立っているような彼女にとって、自分の創作物を他人が貶すことは、神に対する挑戦と同義だったのだろう。少なくとも、俺が彼女の作品を貶すことは、自らの私生活の破滅を迎えることと確実に同義であった。
     なので俺は、彼女のアイデアに対して常にイエスマンであり続けた。たとえそれが、黄色と黒だけという異常な配色の同人誌であっても、ドラムとボーカルだけというリズム重視すぎる編成のバンドであっても、ろくに喋れもしないフランス語の台詞のみというグローバルな演劇集団であっても、原稿用紙5千枚という別の意味で環境意識を呼び起こさせる小説であっても、俺の感想は常に、「……ああ、俺はそれで全然良いと思うで」だったのである。
     ……余談になるけど、そんな横暴かつ傲慢な月川早苗に対する周囲の眼差しは、意外に暖かいものだった。というのもこの女、俺以外の前では、ひどく人当たりの良い性格を演じていたみたいなのである。
     やれ、『明るくて楽しくて友達思いの同級生』、やれ『優しくてしっかり者で頼れる先輩』、やれ『可愛くて素直で信頼できる後輩』――。周囲の人間が語る早苗の印象は、彼女の最大の被害者からすれば、タチの悪い冗談か趣味の悪い妄言だとしか思えないものばかりであった。たった一通のラブレターで他人の私生活をほとんど支配するような女の、どこが『友達思いで優しくて信頼できる』のだろう。もしかすると、俺はずっと日本語の意味を勘違いして解釈していたのかもしれない。
    「だってさぁ、他人に嫌われたかって、得なことなんか何一つないやん?」
     ある時、あまりにもキャットカバーリングな態度にムカついた俺がその動機を尋ねてみると、早苗はいかにも腹黒そうな笑みを浮かべながらそう返答してきた。「……だいたい、人生なんて、全て演技みたいなもんなんやし」
    「おいおい、それは極論すぎるやろ」
     純真な俺が反発すると、彼女は見下すように顎を突き出しながら、
    「光樹にとっては極論でも、うちにとっては持論やねん」
    「あいかわらず、おまえは捻くれた性格やなぁ」
    「そうやで、うちは捻くれてるで。けどな、そんな捻くれたうちでも、他人には嫌われとうないから、あえて “良い人”を演じてんねん。たとえ、ほんまはしばき倒したい奴の前でもな」
     言いたいことを言ってすっきりしたのか、早苗は実に晴れやかな表情でこう締めくくった。「……うちが嫌われてもええのは、あんただけや!」
     俺が大嫌いな早苗の悪癖、もとい創作活動は、大学に入ってからも一向に収まる気配を見せなかった。それどころか、彼女の行動範囲が広がったことによって、さらに加熱する様相すら呈していた。同時に、俺が無理難題を押し付けられる頻度も、増加の一途を辿っていた……はずだった。
     なのに、である。
     何故か三回生になった途端、正確に言えば、今年の六月辺りに、その流れはぴたっと止んでしまった。というより、名参謀であり有能な秘書であり忠実な奴隷である俺の知らないところで、彼女が勝手に活動し始めたのである。
    「大学にうちの良い理解者が結構おってな。今はその人らと一緒に色々と作ってるんや」
     あっけらかんとした声が、スマホの受話口から聞こえてくる。それはまるで、俺の質問をあらかじめ想定していたかのごとく、流暢な口調であった。
    「ええっと、ちなみに今は何を作ってるんや?」
    「何を作ろうと、うちの勝手やろ! なんであんたにいちいちそんなこと教えなあかんねん!?」
     これまでずっと、影ながらどころか太陽活動並みの勢いで尽力してきた人間に対する台詞とは、到底思えないほど冷淡なお言葉。
     さすがに俺もカチンときて、
    「やれやれ……ってことは、これでようやく我侭女のお守りから解放してもらえるようやな! ほんまに、心の底からせいせいするわ!」
     と、悪態をついてやる。すると、
    「残念ながら、そうはいかんで」
     余裕めいた口ぶりで、彼女は続けた。「光樹には、最後の方でちょっとだけ手伝ってもらうつもりやからな」
    「最後の方? ……具体的に、俺は何を手伝えばええねん?」
    「それは……き・み・つ!」
    「いや、せめてそこは『秘密』って言えや! 『機密』なんて言葉を区切って言うても、全然かわいないぞ!」
    「うっさいねん、この無能男が! 今すぐ戒名を考えてやろか、あん!?」
     一転、今度はドスの効いた罵声が飛んでくる。悪態でこいつに対向しようとするのは、アリがモハメド・アリと対戦するくらい無謀だったようだ。「……とにかく、最後の方になったらちゃんとあんたを呼んだるから、それまでおとなしく待っときなさい!」
     仕方がないので、俺はおとなしく待っておいた。
     けれど、早苗は俺を呼んでくれはしなかった。
     ……いつまでたっても、どれだけ待ってみても。
     結局、俺はこの作品、すなわち月川早苗の最後の作品に関わることはとうとうできなかったし、矛盾を承知で言えば、やっぱり関わらなければいけなくもなってしまった。
     ――そして、だからこそ俺は今、彼女が生前通っていた大学の構内で、所在なく立ち尽くしているのである。
     『メゾン・ド・マドモアゼル』で行われたミーティングから二日後の、午前十一時二十分頃。
     絶好の撮影日和……とはお世辞にも言えないような曇り空の下、俺は『奥旅亜大学』のキャンパスで他の五人を待っていた。
     もちろん、ここで『シーン1』とやらの撮影を行う為である。
    『明日の午前十一時半に、奥旅亜大学のキャンパスへ来てください』
     前夜に田中育枝からLINEで送られてきた指示は、一見極めて明快かつ簡単なものに思えた。奥旅亜大学の場所は当然知っているし、午前十一時半という集合時間も常識的である。
     ところが、いざ実行に移してみると、これが意外に難題だったのだ。よく考えてみれば、早苗を迎えに『奥旅亜大学前駅』までやって来たことは腐るほどあっても、この大学の敷地内に足を踏み入れるのは、今回でまだ二回目だった。ちなみに前回だって、面識のない女性によって、正門のすぐ近くにある視聴覚室へとまっすぐ連れて行かれただけで終わってしまった。
     要するに、俺はこの大学の内部構造をほとんど把握できていなかったのである。
     結論から言えば、俺はこのLINEが示す『奥旅亜大学のキャンパス』という場所をすぐに特定することができなかった。というより、キャンパスの面積があまりにも広大だったので、どこで待っていればいいのか皆目見当がつかなかったのである。
     正門付近の地図パネルを見る限り、この『奥旅亜大学』は、三十棟以上の学舎が並び立つようなマンモス校らしい。そういえば、以前早苗が『下手すれば、ちょっとした町くらいの大きさ』だと言っていたような気もする。つまり俺は、『OO町で待ち合わせ』というくらい曖昧な約束を安易に受け入れてしまったみたいである。なんて愚かな男だろう。
     もっとも、俺には後悔や反省をしている暇などなかった。こうしている間にも、約束の時間は刻々と迫っているのである。しかもその待ち合わせ相手は、驚愕するほど凶悪な脅迫犯なのだ。約束を破れば、韻と一緒に俺の尊厳まで踏みにじられる可能性だって充分考えられる。
     よって俺は、慌ててスマホを取り出し、震える指でボタンを押すのであった。
    「……ようやく気がつきましたか」
     もうちょっと具体的な待ち合わせ場所を指定してくれ――俺がそう懇願するどころか、一言も喋らないうちから、田中育枝のさも愉快そうな声が聞こえてきた。どうやらこういう事態になることを前々から予想していたらしい。「学食の近くに、大きな噴水があるんですよ。その前で待っておいてください」
     今度こそ明快かつ簡単な指示であった。学食の場所なんてもちろん知らないけど、そんなものは夏休み中だというのにそこいらで歩いている暇な、もとい、勉強熱心な学生に尋ねればすぐに事足りる。
    「ってことは、そこで撮影を行うつもりなんか?」
    「ええ、そうです」
    「ちなみに、君は今どこにいるねんな?」
    「もう大学構内にはいます。ただ若干準備に手間取っているんで、少し遅れるかもしれません。まぁその場合は、ちゃんと誰かを現場に向かわせますから、適当にその人と時間を潰してください。……それではまた後で」
     電話を切った後、俺はすぐに近くの学生を呼び止めて学食の場所を訊き出した。
     その結果、午前十一時二十分には目的地に辿り着くことに成功した。約束の時間の十分前である。充分合格ラインだろう。ひとまず、危機は乗り切ったようだ。
     小さな龍と虎があしらわれている噴水の近くでさらに待つこと数分。学生がちらほらと眼前を通り過ぎる中、俺はようやく見覚えのある顔を発見した。
    「……おはよう」
     ゆっくりとした足取りで近づいてきたのは、西村だった。太っていて、人相が悪くて、俺よりも三つ年上の、あの男である。
    「あ、どうも……」
     年長者ということもあって、俺は軽く頭を下げておいた。そんな俺を見ても、表情を一切変えない西村。なんだか怒っているかのようでもある。
     そしてムスっとした顔のまま俺の隣に陣取った彼が、こちらと目線を合わせないままこう言った。
    「……育枝ちゃんに行けって言われたんや」
     それだけであった。今どきロボットでももう少し詳しく説明しそうなもんである。この台詞を補完してやると、『みんなが用意できるまで、杉田の相手をしてあげてほしいと田中育枝に頼まれた』ってことなんだろう。
     それにしても、だ。よりにもよって、一番とっつきにくそうな西村を選ぶあたりが、いかにも田中育枝らしい。
    「ひどいっすよねぇ、年上に対する扱いが」
     ずっと無言なのもさすがに気まずいので、俺が何気なく話題を振ると、
    「しゃあないわ。オレは雑用係やしな。……それに、育枝ちゃんの命令には逆らわれへんよ」
     ほんの少しだけ、西村の表情が緩んだ。……なんだ、こいつは? どうして田中育枝に命令されてちょっと嬉しそうなんだ? さてはこんなイカつい風貌のくせしてドMなのか? 「ああ、そうそう。杉田さんに一つ、訊いておかなあかんことがあるんやけど」
     一転、再び彼の顔つきが険しくなる。
    「え……なんすか?」
     思わず唾を飲み込む俺。
    「育枝ちゃんから聞いたんやけど……あの子の下着の色を毎晩LINEで訊いてるって、ほんまの話なん?」
    「嘘っす! まったくの嘘っす! 狼少年がドン引きするくらい悪質な嘘っす!」 
    「……それやったらええけど」
     ふっと、西村の全身から殺気が消えた。どうにか理解してもらえたらしい。
     ていうかあの女、どんなデマを流してるんだよ。そんなのがアリなら、ラブレター公開を阻止する為にこうして努力しているのも、完全に無駄な行為ってことになるじゃないか。
     俺にとってなんとも幸運だったのは、なんとも不穏な空気の漂う対談をここで終了できたことであった。視線を移したところ、遠くから大きく手を振っている女性の姿が見えたのである。童顔で背の低い女の子だった。
     なおかつその背後には、見慣れてはいないけど、それでも今は登場がとてもありがたい面々もいる。
    「……遅れて申し訳ございません」
     やがて俺の近くにまでやって来た田中育枝が、眼鏡の位置を右手で調整しながら、あからさまに心がこもっていないとわかる謝罪を述べた。「機材トラブルがありましてね」
    「機材トラブル?」
    「ええ、撮影用の機材に不具合が発生したんですよ」
     なるほど、本当に今日はここで自主映画の撮影とやらを敢行するつもりらしい。田中育枝が手にしていたのはかなり大きなデジタルビデオカメラだったし、その隣に立っている吉峰が持っていたマイクは、学生の思い出作りにしてはなかなか本格的な代物であった。
    「こいつの調子がちょっと悪くてねぇ!」
     吉峰は、ショルダーバックのように掛けている大型ウォークマンみたいな機械を指差した。本日の彼女のファッション、すなわちオーバーオールにはいかにも不釣合いな物体である。「なんか、ところどころ雑音が入るんですわ。それも、女性の声とかやったらまだ救いがあるけど……って全然救いないわ! そんでもって全然救うこともできへんわ、霊媒師やないんやから! ……ちなみに個人的には、この大学って絶対にめっちゃ霊がうろついとると思うとります。だって実良、ちょっと霊感あるもん。この間も、霊に囲まれてお金を取られたもん。でもまぁ、霊やったらしょうがないわなぁ……って、現実逃避なだけやん! ただのカツアゲされた苦い思い出ですやん! ……それはともかく、たまに『ザー』っていうノイズが入ったりしてたんすよ、さっきまではね。けど、単にシールドの問題やったみたいで、新品を使えばばっちし解消しましたで! ほんまに、プラグイン側の問題やったらどうしようかと思ったわぁ!」
     熱心に解説してくれる彼女には申し訳ないけど、俺にはさっぱり理解できなかった。専門用語が登場する後半部分も、もちろん前半部分も。
    「という訳で、機材の方は完璧なようです」
     シックな色の上着に、タイトなスカート。思い込みかもしれないが、この日の田中育枝は、早苗が好んで選びそうな服を身に纏っていた。「……それにしても、徳永さんはこんな重い機材をちっちゃな女の子に持たせて、平気なんですか?」
    「え……いや……その……」
     暑苦しいほどフォーマルな服装でばっちり決めた徳永が、ばっちり決まらない反応を示す。「だ、だって、実良ちゃんはマイクと音声担当、やんか? だから、その、素人の、おれが手伝ったりしたら、かえって迷惑、かなと思って……」
    「荷物運びくらいは手伝っても支障がないのでは?」
    「え? ……ああ、そうやった、かも」
    「ご心配なく。別にこの一件で徳永さんを見損なったりはしませんよ」
     真夏だというのに、明らかに氷点下な口調で眼鏡娘は言った。「だって、最初から最低ラインですから」
    「そ、そんなこと、言わんといてよぉ……」
    「どうでもええけどさ、育枝」
     肩を落とす徳永の横で、こちらもお洒落かつ嫌味にならないブランド服で身を固めた里見が、整っている顔つきを崩してみせる。「なんかだいぶ曇ってるみたいやけど、撮影しても大丈夫なんか?」
    「大丈夫って、どういうこと?」
    「ほら、脚本には、『太陽が照りつける中』ってト書きがあったやん?  でも……」
     言葉を区切った里見が、頭上を見上げる。
     ……確かに、『太陽が照りつける』と表現するには程遠い空模様だ。どちらかと言えば、『雨が降りしきる中』になる可能性の方が高そうである。
    「簡単な話やん。その一文を書き換えればいいだけや。……『曇り空の下で』って」
     あっさりと言い放つ田中育枝。要するに、早苗の撮影方針は堅持しても、脚本内容の方は改竄OKってことらしい。その辺のさじ加減がよくわからないけど、とにかく続けて彼女は俺の方に顔を向けた。「……それでいいですよね、監督?」
     それでいいも何も、俺だって天候を操れる訳じゃない。だから、異論はなかった。……いや、ないはずであった。
     ところが、気がつけば俺は信じられない一言を発していたのだ。
    「……いや、晴れるまで待とうや」
     何故俺がこんな指示を出したのか、その理由はいくつか考えられる。『新人監督として舐められないように、最初あえて無茶な指示を出してみた』という著名な監督のエピソードを想起したのかもしれないし、あるいはもっと身近な監督――自分の意見やアイデアを曲げられることが心底嫌いだったエセクリエイターの顔を思い出したのかもしれない。
     いずれにしても、俺が空気どころか天候も読めない発言をしてしまったのは事実であった。
    「待つって……本気で言ってはるんですか?」
    「ああ、そこそこにはな」
     引っ込みのつかなくなった俺が、反抗的な助監督を睨みつけてやる。「だいたい、どうせ今日は『シーン1』しか撮影せえへんのやろ? それやったら、待ってる時間なんて腐るほどあるってもんやで」
     しばらくの間、無言で俺をじっと見つめていた田中育枝だったけど、やがて落ち着いた声でこう答えた。
    「なるほど、わかりました。映画において、監督の意見は絶対です。たとえそれが学生の自主映画であっても、たとえ監督が下着の色を毎晩LINEで訊いてくるような変態であっても、ね」
     不敵な笑みを一瞬浮かべてから、彼女は声を張り上げた。「……そんな訳なんで皆さん、今から『天候待ち』を行います!」
    「よぉし! そういうことやったら、実良はその間に音を拾ってくるわ!」
     吉峰が勢い良くマイクを天に突き上げてみせる。
    「音を拾ってくる? 何の音や?」
     まさか、本当にこの構内で彷徨っている霊の声でも拾いに行くつもりなのか?
    「群集の音っすよ、群集の音!」
     頬を膨らますチビッ娘。リアクションまでが幼い。
    「なんでそんなもんが必要やねん?」
    「いやいやいや監督はん、脚本には、『たくさんの学生がたむろしている』とも書かれてありますやん。たぶん、月川先輩は夏休みが始まる前に撮影する前提でそう書いたんやろうけど、残念ながら今は夏休みに入ってもうたから、学生があんまり歩いてません。やったら、比較的学生が集まってる場所で音を拾って、それを後から何重にもミックスすれば、いかにもたくさんの人が歩いてるって感じのシーンになるってもんでしょうが! しかも霊の声が入ったりしてれば、一石二鳥やんか! ……って、一つ鳥を間違えてるわ! そっちは『獲り憑かれる』方のトリやわ!」
     少しだけ俺の予想も当っていたようだけど、意外な部分の方が大きかった。このハイテンション娘も、それなりにこの映画のことを真剣に考えているらしい。後半のくだりは、あいかわらずさっぱりわからなかったけどな。
    「ああ、今度は、おれが、機材を、持つで!」
     慌てた様子で吉峰の元に駆け寄る徳永。さっきの田中育枝の台詞がよっぽど効いているらしく、その表情からは悲壮感すら漂っていた。
    「え、ほんまですか? ありがとうございますぅ! ……って、どこ触ってるんすか!」
    「ち、ちゃうよ! その、機材を、持とうとして、たまたま、手が当って、しまっただけで……」
    「やっぱり、徳永さんは最低ラインですね。終身名誉最低ライン者の称号を差し上げましょうか」
    「育枝ちゃん! これは、誤解、なんや!」
    「ええ!? 徳永さんってセクハラキャラやったんですかぁ!? わたし、全然憧れてはいませんでしたけど、見損なってまいましたぁ!」
    「ちょ、ちょっと、華奈子ちゃんまで! また、おれの評価、下がってもうたん!?」
    「どうでもええから、早く行きますよ、徳永さん!」
    「どうでも、よくは、ないと、思うけどなぁ……」
     本当にどうでもいい会話を交わした後、吉峰と徳永は噴水前から去って行った。なんだかんだいって、俺を除く五人のメンバーは仲が良いみたいである。
     やがて残された面子は、噴水前の花壇のような場所に並んで腰掛けた。シャーマンのような能力を有していない以上、我々はただ黙って晴れるのを待つほかなかった。
     とはいえ、実際に沈黙しながら待つのはあまりにも退屈すぎる。俺と同じ思いだったのか、まぁこんな場合は誰だってそう思うに違いないだろうけど、里見が右隣に座っている西村に、最近公開されている洋画の話題を振った。強面男も、そのまた右隣に座っている田中育枝の様子をちらちらと窺いながらそれに応じる。当の毒舌眼鏡娘はといえば、デジタルビデオカメラの電源を入れてはすぐに消すという不可解な行動を繰り返していた。さらにそのまた右隣に座っている俺からすれば、さっきからずっと聞こえてくるカチッカチッというスイッチ音が、なかなか耳障りであった。
    「おい、そんなことしてたらカメラが壊れてまうぞ」
     やむなく、忠言する俺。
    「え? ……ああ、すみません。つい無意識に」
     珍しく、田中育枝が軽く焦ったような様子を見せた。そんな彼女を前にして、俺はある仮説を思い描く。
    「ひょっとして……緊張してるんか?」
    「まさか!」
     即座にせせら笑うような声をあげる田中育枝。「月川先輩の代役をするからって、このあたしが緊張するとでもお思いで? ……確かに、あたしは毎晩のように杉田さんに緊縛されていますけど」 
     冗談や皮肉や嘲りによって幾重にもコーティングされた彼女の本心――それを窺い知る絶好の機会を、どうやら俺は逃してしまったようである。眼前で口元を歪める田中育枝は、すでに普段の田中育枝以外の何者でもなかった。むしろ、その隣に座っている西村の眼光の方が、本心をあからさまに物語っている。そのうち俺は彼に殺されるかもしれない。
     なので、慌てて話題を変えた。
    「あのさ、ちょっと訊きたいんやけど……いや、下着の色以外の質問やぞ」
     なんでこんな注釈が必要なんだろうな。「この映画って、全部で何シーンあるんや? それくらいは、さすがに監督として知っとかなあかん範囲ってもんやろ」
    「七シーンです」
     予想外に素早い返答だったし、
    「たった七シーンなんかよ?」
     返答内容自体も予想外だった。「俺は映画のことなんか全然わからんけどさ、なんかえらい貧相な仕上がりになりそうやな」
    「『本当に優れた絵画は、たった一枚で人々を一時間以上立ち止まらせる。それに比べて映画は比較にならないほどのコマ数を使えるのだから、七シーンだけでも素晴らしい作品は作れるはず』……なんて感じのことを、月川先輩が言っていたような気もする、今日この頃です、おぼろげながら」
    「いや、だからそこははっきり思い出せよ! かなり重要な部分やろうが!」
     どうせ、その絵画うんぬんって話も誰かの受け売りなんだろうけどさ。
    「なおかつ、以前にも説明した通り、今回の作品は月川先輩にとって『習作』みたいなものだったはずです。よって、最初は無難にスケールの小さな映画にしたのではないでしょうか? ……もちろん、これはあくまでもあたしの推測ですが」
     なるほど、なんとなくは納得できる理由だ。
     『構想が広がった』とかなんとかで『第12・25話』なんて不条理な漫画を描いてきた前科のある早苗のことだから、完全に断言はできないものの、常識的に考えれば、残されたシーンはあと六つってことになる。
    「要するに、俺はあと六日分のスケジュールを空ければええってことやな」
    「六日になるのか五日になるのかは、まだちゃんと決めていませんけど……」
     口を濁すように答える彼女。
    「うん? それはどういう意味や?」
    「……ほら、最終シーンのことですよ。あのシーンは、月川先輩が演じたバージョンが形として残ってる訳でしょう?」
    「ああ、このあいだ見せてもらったやつか」
     能天気かつ喜怒哀楽の激しい女が矛盾した独り言を口にするだけという、あの不気味な動画のことだ。
    「あたしとしては、できればあの映像を映画に取り入れたいんです。……というより、あれが本来のラストシーンですし、月川先輩が本来のヒロインなんですから、なんとかあの映像で映画を締め括りたいと思ってるんですよ」
     意外に早く次の機会は訪れたみたいだったし、なおかつ今度こそ俺はその機会を生かせたようでもあった。真剣な面持ちで語る彼女の眼鏡の奥、その大きな瞳に、俺は一切のコーティングも見出せなかったからな。
     いや、あるいは普段よりもっと分厚く塗りたくられていたのかもしれない。……『月川早苗に対する、妄信的とも言える敬愛』というコーティングが。
    「けどさ」
     そのコーティングの強力さを知り尽くしている俺でも、反論せずにはいられなかった。「実際問題、『シーン1』から『シーン6』までは、君がヒロインを演じるつもりなんやろ?」
    「はい、そうです」
    「じゃあ、最終シーンだけ別人が演じてたらおかしないか? 違和感ばりばりやないか?」
     いくらド素人が作る自主映画だからといって、途中でいきなり主人公を演じる役者が変わったりなんかしたら、観ている方だって疑問符以外の感想文を書けないと思うけど。
    「だから、違和感なく月川先輩にバトンを渡せるような演技を、精一杯頑張ろうと思ってるんです」
     田中育枝が、ふと顔を俯ける。「もっとも、あんまり自信はありませんが……」
     消え入るような声でそう付け加えた後、彼女は再びデジタルビデオカメラのスイッチを弄び始めた。 
     ……やっぱり、緊張しているらしい。
     ふいに、真夏にしてはやけに涼しい風が俺の体を包み込んだ。曇っているせいだろうか。あるいは、噴水の近くにいるせいかもしれない。周囲に建つ、というよりもはやそびえ立つと表現した方が正しいであろう大きな学舎郡が、なんらかの気圧的変動を引き起こしている可能性だってある。
     いずれにしても、俺にはその原因がよくわからなかった。わかっていたのは、俺の心にも涼しい風がそそいでいたということだけである。
     すなわち、すぐそばに人がいるのに襲ってくる孤独感。つまりは、やりきれない沈黙。
    「……そういえばさ」
     そんな訳で、俺はもう一度、田中育枝とのコミュニケーションに挑んでみた。「許可は下りたんかよ?」
    「許可、って何ですか?」
     キョトンとした顔で彼女が訊き返してくる。
    「いや、撮影許可や。大学にかけあってみるとか言ってたやんか」
    「ああ……それは、やめときました」
    「なんでやねん? ちゃんと許可を取らな、何かとやばいんちゃうか?」
    「月川先輩はこう言ってました。『うちが撮影OKやと言えば、OKやねん』って。とどのつまり、月川先輩が脚本に『奥旅亜大学のキャンパスで撮影する』と書いていれば、撮影してもOKって意味なんです」
     やれやれ、妄信的どころか狂信的とすら言えるな。どうしてあんないい加減な女のことを、そこまでリスペクトできるのかね?
    「かいつまんで言えば、早苗が撮影許可を出したって論法なんか?」
     呆れる俺の前で、
    「……それはわかりませんけどね」
     田中育枝は意味ありげに目を細めてみせた。「ちなみに、月川先輩はこうも言ってました。『それに、うちって結構イケてるルックスしてるから、相手が男やったら多少無茶な撮影したって許してくれたりすると思うんやぁ』って。……ええ、これははっきり覚えてますね。確かに言ってました。断言できます」
    「なんでそんなちょっと嫌な台詞だけはっきり覚えてるねん、こら!」
     記憶の取捨選択が明らかに間違ってるぞ。
     とにかく、早い話が大学側には何の許可も貰っていないってことらしい。道理で、周囲の学生達の視線が冷淡なはずである。まぁ、許可を取っていたところで好奇の目で見られるのは避けられなかっただろうけど、それでも俺達自身はそれなりに胸を張って撮影に臨めたはずだ。
     まったく、手回しが良さそうなくせして、変なところで頑固かつ非合理的な女だな。
     そして我々は、再び示し合わせたかのようにお互いの声帯活動を停止した。隣の眼鏡娘は、デジタルビデオカメラのスイッチがいかに丈夫かをまだ試したい様子だった。将来は電機メーカーにでも就職するつもりなんだろうか?
     いよいよもってすることがなくなった俺が、何気なく空を見上げてみる。
     あいかわらず、『空色』なんて表現に猜疑心を抱いてしまうくらい淀んだ色彩を放っていた。
     皮肉なもんだ。空気よりも軽い人生だった女が、空気よりも軽い雲に、またもや計画を狂わされようとしている。――誰かさんの影響だろう。そんな陳腐な感想を抱きながら、俺はずっと頭上を眺めていた。
     ……ところが。
     それから二十分後に、俺は認識を大きく改めなければいけなくなった。しかも、同時に二人の女性に対して。
     なるほど、戯言としか思えなかった吉峰の台詞も、あながち的外れではなかったのかもしれない。
     念の為に言っておくと、俺はそういった類の話を一切信じないタイプの人間だ。厄年だろうが奇妙な写真が撮れようが、わざわざお祓いに行くつもりにはさらさらなれないほどの現実主義者でもある。
     けれど、天界を支配していた灰色の舞台幕がゆっくりと袂を分かち、その隙間から本来の主が現れたこの瞬間だけは、童顔チビッ娘の霊感とやらを、ちょっとだけ信じてやってもいいような気分に陥った。
     だとすれば……どこまでも強引な女やな、まったく。
     思わず立ち上がってしまう俺の横で、
    「……どうやら撮影許可が下りたようですね」
     同じように腰を浮かしていた田中育枝が、陽光を反射しまくっている眼鏡を外してみせた。
     無言で頷いた俺の胸に、デジタルビデオカメラが強く押し当てられる。
    「え? 俺が撮影するんかよ?」
    「当たり前です! カメラは杉田さんにしかできへんでしょうが!」
     それこそ怨霊みたいな形相で叫んだ後、「……あ、すみません。すこし口が過ぎました。やばいなぁ」
     何故か照れたように頭を掻く田中育枝であった。今さらこの程度の暴言で俺が傷ついたり怒ったりする訳がないってことくらい、彼女も充分理解しているだろうに。
    「……わかったよ、俺が撮ればええんやろ」
     しぶしぶカメラを受け取る俺。察するに、代理監督とはすなわち撮影係という意味だったらしい。道理で助監督よりも権限がないはずだ。
    「録画ボタンはこの赤いやつです。それ以外の機能は使わなくてもいい、というより、むしろ使わないでください。かえって後で編集しにくくなりますから。……あ、それから、撮影する角度や位置に関しては、脚本に完全に準じてください。杉田さんの意思やアイデアが介入する余地は認めません。一切ね」
     確かに、早苗が書いた脚本には、無駄に念入りかつ詳細なカメラワークまで記されてあった。ますますもって、俺は監督としてではなく雑用係その二として召集されたんじゃないかという疑念が膨らむ。
    「ちなみに、スイッチの強度に関しては、あたしが念入りにチェックしておいたんで大丈夫です」
    「いや、ほんまにチェックしてたんかよ!」
     馬鹿みたいなやり取りをしていると、ちょうど良いタイミングで吉峰と徳永が帰ってきた。というよりは、空が晴れたので慌てて帰ってきたというのが実情だろう。
    「うっは~、ほんまに晴れたねぇ!」
     でっかいマイクをいとも簡単に背負ってきた吉峰の後を、
    「ちょ、ちょっと、マイクを持たせて、よ! また、おれが、悪者に、なってまうやん!」
     丸腰で追いかけてきた徳永が、俺の顔を見るなり、爽やかな笑顔を浮かべてこう言った。「でもさ、急に、晴れるやなんて……もしかすると、月川さんの、おかげかもね!」
     なんだか心情を見透かされているような気がして、すかさず彼から目線を逸らす俺。
     そこからほんの少しだけリハーサルめいたものを行った後、我々はすぐに本撮影の準備に入った。いつまでこの天候が持つのかなんて、早苗の上機嫌がいつまで持つのかくらいわからなかったからだ
     カメラを手にした俺が、その照準を役者連中に合わせる。立ち位置は、裸眼状態になった田中育枝の真横だ。この構図だと他の二人の表情があんまり映し出せないのだけど、脚本にそう書かれてあるからには仕方がない。意見するにも、あいつは空の上にいる。
    「……監督、何をしているんですか?」
     横目で俺を睨みつけてくる田中育枝。
    「何って……俺はいつでも準備OKやぞ」
    「だったら、号令をかけてください」
    「号令?」
    「監督が号令をかけなきゃ、撮影は始まらないでしょうが」
    「号令ってのは……ひょっとして、ああいうやつか」
    「ええ、ああいうやつです」
     つまり彼女は、口にするのも恥ずかしいあのフレーズを、俺に要求しているらしい。
     いつの間にか、周囲にはちょっとした人だかりができていた。彼らは皆一様に、物珍しそうな顔つきで我々の撮影風景を見物している。まぁ当然といえば当然の事態だったけど、まさかこの状況であのフレーズを口にしろっていうのか? 俺はここの在学生じゃないけど、それでも精神的苦痛が大きすぎるってもんだぞ。これでは雑用係どころか、完全に罰ゲーム係じゃないか。
     ……とはいえ、真剣な表情で代理監督を見つめてくる在学生五人がいる以上、俺は覚悟を決めるしかなかった。
    「じゃあ、いくぞ」
     意を決した俺が、やけっぱち気味の大声で号令を発する。それはすなわち、監督としての初仕事であった。「それでは、『シーン1』……スタート!」
     
     太陽が照りつける中、たくさんの学生がたむろしている奥旅亜大学のキャンパスで、三人の男女が歩いていた。

     “太陽が照りつける”というには、まだいささか心もとない日差しだったけど、これくらいはさすがに先代の鬼監督だって許してくれるだろう。もとより、わざわざ天候待ちまでしてやった代理監督としては、一切苦情を受け付けないつもりだ。

    (三人は、横一列になって歩いている。位置関係としては、右から順番に苗子(なえこ)、和太(かずた)、佳奈(かな)。カメラは常に、苗子の右側から撮影する形でよろしく。苗子の横顔をだいぶアップで撮ってほしい。一緒に歩きながらの撮影になるけど、手振れはなるべく抑えるように。なお、各人の歩き方や表情や仕草については、現場で監督が指示する予定。みんなはそれに従うこと)

     なんだか、業務連絡まで混じっているようなト書きである。これを見る限り、どうやら先代の鬼監督は、現場でかなり細かい指示を出すつもりだったようだ。もちろん、代理監督にはそんな権限なんてこれっぽっちも与えられていなかったけど。
     ちなみに、この『苗子』とか『和太』とか『佳奈』とかいうのは、映画内におけるそれぞれの役名ってことらしい。今は田中育枝が代役を務めているけど、本来月川早苗が演じるはずだったヒロインは、『苗子』。徳永和哉が演じているのが『和太』。里見華奈子が演じているのが、『佳奈』。……いちいち説明するのも恥ずかしいくらい、役者の名前をそのまま反映しているネーミングである。きっとものの数十秒で思いついたに違いない。
     あいつは昔から、どうでもいい設定や世界観にはひたすら凝るくせして、肝心の部分は意外に淡白だったりする、なんとも気まぐれなクリエイターだった。
     
    苗子「今日も良い天気やなぁ!」

     勢い良く横の二人の方を振り向く苗子。
     二人も大きく頷きながら答える。
     
    和太「そうやな、すがすがしい気分になるわ」
    佳奈「やっぱり、太陽の光を浴びるってのは、実に気持ちがええもんやで」
    苗子「それにしても、この大学って、ほんまに良いところやなぁ!」
    和太「ああ、食堂のメニューは充実してるし!」
    佳奈「キャンパスの設計はお洒落やし!」
    苗子「なおかつ、教授や職員の方々も、全員が親切やもん!」

     ……あのぉ、『うちが撮影OKやと言えば、OKやねん』なんて強気なことを言っていたらしいわりには、いきなり露骨に撮影場所に媚を売るような台詞が入ってるんすけど、脚本家さん。
     そういえば、気まぐれなクリエイターは昔から、押さえるところはきちんと押さえておくという、意外に慎重な部分も兼ね備えている女性であった。
     
     ふと立ち止まる三人。
     
    苗子「ああ、そうそう。今日はこれから何する?」
    和太「そうやなぁ……あ、カラオケでも行こうか?」
    佳奈「ええねぇ! 最近行ってないし!」
    苗子「それよりさ、最近あんたらうまくいってるん?」
     
     唐突すぎる! ていうか、全体的に会話がぎこちなさすぎる! まるで中学一年生の英語教科書みたいに不自然な台詞運びだ。……もっとも、それは最終シーンを見た時から抱いていた感想でもあるけど。
     余談になるが、三人の演技は素人目から見てもなかなかのものだった。予想外だったのは、普段はあんなにたどたどしい口調の徳永が、いざ撮影が始まると実に流暢に喋れているという点であった。もしかすると、本番にめちゃくちゃ強いタイプなのかもしれない。
     さらに里見からも、のびのびと演じているような印象を受ける。少なくとも、緊張している様子はまったく窺えない。まぁ、こいつは普段から演技をこなしているような女だろうから、当たり前といえば当たり前なんだろうけども。
     いずれにしても、あの早苗が自分の映画の役者として認めたんだから、二人とも演技に関して何らかのアドバンテージは存在するのだろう。そういうところも抜け目のないクリエイターだったからな。
     ……そして、田中育枝である。
     この眼鏡娘がかなり緊張しているってことは、ファインダー越しにでもはっきりと伝わってきた。他の二人に比べて、台詞のトーンも明らかに抑揚に欠けている。早い話が棒読み気味だ。
     まぁ、無理もない。元々彼女は、演者になるつもりなどまったくなかったはずである。そういう意味では、ヒロインの代役を名乗り出た彼女自身が、現状に一番戸惑っているのかもしれない。
     それでも、田中育枝は、忠実に再現しようと頑張っていた。
     ――月川早苗の、自信たっぷりで、一方では強がっているかのようでもある、語り口と仕草を。
     
    佳奈「え、わたしら? ……まぁ、一応うまくはいってるで」

     ちょっと照れたように頭を掻く佳奈。
     
    和太「そういう苗子ちゃんはどうなん? うまくいってるんけ?」

     意地悪そうな笑みを浮かべながら尋ねる和太。
     
    苗子「うまくいくも何も、うちには恋人自体がおらんもん……」

     複雑そうな顔で俯く苗子。
     
     どうやら、和太と佳奈は付き合っているという設定のようだ。つまり、一組のカップルと苗子の三人で歩いているという構図らしい。なんとも寂しいヒロインである。
     
    佳奈「でも、苗子に彼氏がおれへんってのも、おかしな話やなぁ!」
    和太「そうそう、こんなに美人やし!」
    佳奈「勉強もできるし、料理も洗濯も掃除も完璧にできるし!」
    和太「性格も真面目で優しいしなぁ! ほんまに理想の女性やで、苗子ちゃんは!」

     痛い! 痛すぎる! 
     この脚本を自分の部屋で一人で書いている早苗の姿を想像すると、ムカつくどころか切なくすらなってしまうな。

     そして和太が、カメラの方を向いて問い掛ける。

    和太「こんな女性と付き合えたら、さぞかし幸せやろうなぁ。……そう思わへん?」

     いやいや、観客に問い掛けるなや。こっちまで恥ずかしくなってまうやんけ。
     ……とはいえ、ここで責められるべきはけっして徳永ではない。彼は脚本のト書きに則った演技をしているだけなのだ。ややぎこちない笑顔から察するに、きっと徳永だって内心は俺と同じ思いなんだろう。

    苗子「……もうその話題はええやん!」

     苗子が和太と佳奈の前に移動する。

    佳奈「ていうか、和太は苗子のことをちょっと褒めすぎちゃう? 自分の彼女の前でさぁ!」
    和太「そ、そんなことないで! 佳奈かって、めっちゃ優しくて綺麗やで!」
    佳奈「ほんまにぃ?」

     両手を絡ませ、イチャイチャし始める和太と佳奈。
     その様子を見て、苛立ったような表情になった苗子が、大声をあげる。
     
    苗子「早く、カラオケに行こう! な! 今すぐにさ!」

     和太と佳奈の両手を引っ張り、再び歩き出そうとする苗子であった。

     ……これで、『シーン1』は終了だった。少なくとも、脚本上ではそこで文字が途切れていた。
     編集時に困らないようにと、俺が長めにカメラを回し続けていると、
    「……監督、何をしているんですか?」
     徳永と里見の手首を握ったまま固まっている田中育枝が、さっきと同じように横目で睨みつけてきた。
    「え? いや、撮影してるんやけど……」
    「監督の号令がないと、あたし達も演技を止めれないでしょうが」
     おいおい、またかよ。
    「はいはい……カット、カット!」
     うんざりしながらお決まりの文句を口にする俺。その途端、役者三人は糸が切れた操り人形みたいに肩を落とした。同時に緊張の糸だって切れてしまったのだろう。弛緩しきった空気が周囲に漂う。
     わざわざスケジュールを合わせて、なおかつ天候待ちまでしたわりには、拍子抜けするくらい簡単に撮影は終わってしまった。実際のところは、何回かNGが出て撮り直したりもしたのだけど、それでもほんの十五分程度の撮影だった。まぁ、大学のキャンパスでグダグダと短い会話をするっていうだけのシーンなんだから、当然っちゃあ当然の結果だろうけど。   
     なんにしても、たった七シーンしかない映画のわりには、一シーンが短すぎるような気がする。このままでは、十分にも満たない映画になってしまうんじゃないか?
     それから俺達四人は、デジタルビデオカメラを噴水前のベンチに置いて、撮影したばかりの映像を確認してみることにした。何故五人ではないのかというと、残り一人、つまり吉峰は少し離れた場所で自分が撮った音声を確認していたからである。やっぱり、根は生真面目な女の子のようだ。
    「……まぁ、だいたい脚本通りに撮影できていると言えるでしょう」
     映像を見終わり、少しだけ沈黙が場を支配した後、田中育枝はポツリとそう呟いた。「お疲れさまです、皆さん。本日の撮影は、無事終了しました」
     自然と、周囲の野次馬から拍手が巻き起こる。そんなに大した撮影でもなかったのにな。
    「杉田さんも、お疲れさまでした」
     スタッフ同士でねぎらっている中、助監督が今度は俺の顔をじっと見つめながら話し掛けてきた。そういえば、いつの間にかまた眼鏡をつけている。仕事の早い女だ。
    「いや、お疲れさまなんは君らの方やろ。俺はただ、脚本に従ってカメラを回してただけやで」
    「ああ、そうでしたね。じゃあさっきの発言は撤回します」
    「ほんまに撤回するんかよ……」
    「それでは、次のシーンの脚本を配ります。皆さん、あたしの近くに集まってください」
     眼鏡娘が手際良く自分の鞄から数冊のファイルを取り出し始めた。今回は青いファイルである。どうやらシーンによって色を変えているらしい。ご苦労なこった。
    「……うん? 次はカラオケのシーンやないんか?」
     しぶしぶ受け取った脚本に軽く目を通した俺が、素朴な疑問を口にする。会話の流れからいって、てっきり『シーン2』はカラオケで歌う場面だと思っていたのだけど。
    「恐らく、そんなシーンは必要がないのでカットしたんでしょう」
    「いやいや、そんなこと言ったら、この『シーン1』かって必要ないんとちゃうの?」
    「あたしに質問するのはお門違いってもんですよ」
     勝ち誇ったような表情を浮かべながら、田中育枝はこう付け加えた。「その辺については、脚本を書いた本人にでも訊いてください」
    「本人、ねぇ……」
     俺は思わず天を仰いだ。
     ……厳密に言えば、空を睨みつけてやった。