• 高校から文学が消えるらしいですね

    2019-10-07 23:2429
    ○学習指導要領の改訂で2022年度から、国語は論理国語、文学国語に分かれるそうだ。文学国語っていうのはだいたい分かるが、論理国語ってなに? ってことだが、これは大学入試のテストがその例として挙げられてる。これは高校の教育と入試テストを一緒に変えて勉強できるようにしようということだ。
     ただその文章というのが、当初は駐車場の契約書とか、学校の校則とかになっているそうだ。
     どうも最近の中学生はまともに日本語も読めないから、もっと文学じゃなくて実用文を読めという。
     それで、現場の先生方は困惑、文学をやっている大学のセンセイはブチギレ、その一方でリケイの先生は高笑いしている、ということのようだ。
     でも、学校で契約書や役所の広報の読み方を教え込ようとしたって、読めない子も読める子もバカにされてる気分になるだろう。契約書の読み方って高齢者の詐欺対策セミナーじゃないんだから。こういうのって日本語として読めても引っかかるわけで、契約書を教え込ませても別に使いみちないんじゃないかな。(漢字ドリルとか文法テストで良くない?)
     つまりどうせ文学なんか役に立たないから実用文を読めといっても、その実用文教育もそれだけじゃ役に立ちそうもない。なぜこんな上から目線の頭でっかちなリケイの論理が通ってしまったのか?
     そして、このハンロンしている先生方の話を読んでいると、なかなかおもしろいんですよ。これをみなさんに紹介しながら、文学や実用文について考えていきましょう。

    ○そもそも論理国語で扱う文章で、文学が論理的ではないと断じるのはともかく、契約書や校則にする必要はあるのか? 評論文や優れたエッセイだけで十分ではないか、と常識からいけば直感するだろう。
     そこで『国語教育の危機』(ちくま新書、紅野謙介)を取り上げてみる。これはすでに何回かやったサンプルやプレテストや、学習指導要領を読み込んでいくという本だ。
     そもそもこの本によれば、今度の学習指導要領は評論やエッセイを軽んじているわけではない。ただ「現代の社会生活に必要とされる実用的な文章」も教材とし、「同じ事柄について異なる論点をもつ複数の文章を読み比べ」、「それらを比較して論じたり批評したりする活動」が内容となっている。
     問題はこの「実用的な文章」が「異なる論点をもつ複数の文章」とどうつながるのか、という話である。いや、ぶっちゃけて言おう。このテストの解説を読むと、「実用的な文章」とはなにかしらの物語を必要とする文章としか考えられない。
     まず最初にこれが発表されたのは2017年5月。記述式の問題ということで話題になったという。
     問題1は架空の市が出した広報。問題2が例の駐車場の契約書だ。ところが、これらの問題には何か状況が設定されている。問題1は広報についての親子の会話、問題2は「シチュエーション・ドラマ」のように、「サユリさん」という主人公が管理会社から値上げを言われたり急に転勤を言われたりする。駐車場の契約書問題は「サユリさん」が値上げを言われたら、契約書の文面から文句言うにはどうしたらいいか、みたいな問題だったのだ。
     架空の高校生徒会校則の問題も取り上げてみよう。どうやら批判があって出したプレテストの問題1がこの「校則問題」なのだが、これも生徒会の会話が設定されている。
     しかもこのことは意図せずに設定されたものではない。架空の市の広報の問題では出題のねらいとして「題材について話し合う場面や異なる立場からの提案書などを検討する言語活動の場を設定することにより・・・」と、わざわざ立場だけでなく場面も必要であったことが記されてある。
     これはどういうことなのだろうか??

     ちょっと考えてみよう。
     わたしたちが実用文とか実用書とか読んでいるもので一番わかりやすい本は料理のレシピ本だ。実用書コーナーに置いてあるしね。レシピ本は論理、つまり手順がはっきりしている。してなきゃ作れない。じゃあ、レシピ本を読めない人ってどういう人か。料理をやったことがない人や、その料理の基本的な語彙に不足している人だ。
     おれが一人暮らしした時、ネットのレシピサイトを参考に料理を作ろうとした。ところがその時に分からなかったのが、あの…大さじ・小さじをはかるセットについてくる棒の使い方。そう、山盛りで入れるのか、すりきって入れるのか分からなかったのである。それからコリアンダー!ってなに?とか。こういう知識がなければレシピは読めなかったのだ。
     いまやレシピサイトを読むことすら敬遠され、動画を見て料理を作ることが流行っている。基本的な知識・語彙を持たなければ、レシピ本は読めないからだ。
     つまり、実用文というのは、ある目的を持った人がその文章に接してみて、初めて実用的になる文章なのだ。おそらく、実用文とはあるひとつの目的を持った人がいて、その立場に沿った事実を抽象化した文章だ。別に事実や論理が必ずしも正確に、的確に書いてあるわけではなく、具体的な目的を持った人が文章に接することで初めて「実用化」できる文章が実用文なのだ。
     これは契約書や校則も同じだろう。「サユリさん」が急に転勤を言われたので、駐車場を解約しなけりゃいけなくなった、だから解約金をどれくらい払うのかなどをそこで初めてしっかり読む。ある立場に立って、初めて実用文は実用的な意味を持つ。だから、「実用的な文章」には物語が必要なのだ。物語にはかならず登場人物、すなわち、ある立場を持ったキャラクターが出てくる。この場合、登場人物が実用文に対して批判的な人物や不利な立場であってもおかしくはない。ある立場の人物にとっては「実用的な文章」なのであり、その人物にとって不利であることと解釈が一定であることと矛盾はしない。
     国語で実用文が読めない人は「その」実用文を読む状況がないというだけで、読む状況さえ作れば読む。ヤンキーだってバイクの免許ほしけりゃ筆記試験やるし名前書けるようにがんばるっしょ。たぶん。

    ○さて、こうなったら実用文と物語を大雑把に二分してみよう。

    実用文:ある立場に沿って事実を抽象化した文章。ある立場に立つと便利で使い勝手がよい(意味は一定だが特定の立場にないと役に立たないことも多い)
    物語:空想的な登場人物を場面に設定して具体化できる文章。異なる立場の人物を登場させることができる(別に役に立つわけではない)

     評論やエッセイも物語に似た機能を持つ文章とは言えるので、はっきりと分かれているわけではないだろう。あえていうなら、実用文が事実の抽象化の方向があるのに対して、物語は空想の具体化の方向があると言える。実用書コーナーに置かれてるプログラミング言語なんか事実を抽象化した言語だと思うけど(詳しくないからごめんね)、もともと抽象的で空想的な存在を具体的に記述するためには物語の方が容易だ。
     ただこの抽象的な概念をどう扱うか、ということはとてもむずかしい。実用文の場合は抽象化されてゆくので読みにくいし、物語の場合は抽象的な存在を具体化してゆくわけだから単純な文章力が問われることになる。
     この点を、実は学校の先生も気にしている。『文學界』9月号では現役の先生方が座談会をやっているが、その中で「私の考える国語教育っていうのは、抽象的な概念を扱うことにあります。」と言って、身体論や哲学的な文章は高校1年生で扱ってきたと述べている。これは重要な指摘だ。
     この座談会では、実用文は具体的なものを具体的なまま理解するのはおかしい、低レベルだと批判的に語っているが、厳密に言えば、実用文はある特定の立場に立ったときのみ具体化する。つまり、先生方はある特定の立場の正当性に立って、「解釈の余地」なく「淡々と」教えるしかないのかと考えている。
     しかし、解釈の余地がなくても、自分に不利なら間違っていると訴えればよい。このレシピの作り方や書き方は妙だ、不足している、分からないと主張すればよい。というか、もう分からないから動画を見て料理を作っている時代なのだ。立場が異なれば実用文は実用性を喪う。このことを認めなければ論理国語に論理性はない。そして例のプレテストは予め証明していたのである。

    ○そうなると、文学をわざわざ実用文や論理国語と切り分ける必要はやっぱりなさそうだ。
     文学には物語よりも抽象化されたテーマを扱ったものも多いが、実用文に比べてやはり登場人物と場面を具体的に描く比率は高いはずだ。そもそも「同じ事柄について異なる論点をもつ複数の文章」とあるが、これは実用文単体では異なる論点が立てられないから複数の文章を要するだけで、異なる立場の複数の登場人物が同じ事件を通して会話や行動を描いた文章をわたしたちは慣れ親しんでいる。
     これではますます文学国語と論理国語なるものを分けた理由が分からない。実用文が読めない最大の理由は、異なる立場を認めないからだろうネ。押し付けたがる理由も異なる立場を認められないからだろうと思うとなんか根が深い。

    追記:おおう……こんな論理性の低い記事にコメントがたくさん……。
     一応、見通しとして、今度の学習指導要領で文学国語と論理国語が選択式で分かれることと、それで文学をやらずに大学入試を受けることになるんじゃないか、とガチで高校や大学の先生方から危惧されていることです。おれが言いたかったのは、その批判してる教材や問題をみると無理して分ける必要ないんじゃね? やっぱり文学も必要じゃね? ということで、文学の必要性はともかくとして、教育方法についてはコメントが結構いろいろ言ってくれてますね。このあたり、やっぱりみんな国語教育を受けて溜まっているものはあるんだな。
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  • 死神探偵、夜歩く

    2019-10-01 21:35
    ○姉か国語の話を書こうとしていたのだが、どうもうまくいかないので、別の話を書こうと思う。

     図らずもブロマガと同じタイトルになった小説がある。横溝正史『夜歩く』金田一耕助ファイルである。
     恥ずかしながらミステリというか小説は、古典作品にもま~ったく疎いので、この手の作品も手を出したことがなかったが、まさかブログのタイトルが被ろうとは思いもよらなかった。そういうわけで読んでみました。
     この「夜歩く」とは夢遊病のことで、夢遊病のうちに殺人を犯していたのではないか、という疑惑を抱かせるところが小説のキモになっている。またくる病に首無し死体の入れ替わりなど、陰惨な殺人によって読者は犯人の真の目的がつかめず目くらましを食らう。
     ところでこの夢遊病をネタにした小説は、江戸川乱歩が大正時代の初期短編ですでに二編も三編もやっているようだ。というより、江戸川乱歩の雑誌の編集者を横溝正史がやっており、そのあたりの作品は当然フォローしていたのだろう。/このあたり、ミステリファンには自明過ぎるのだろうが分かりやすいミステリ史の本でもあるのだろうか?
     金田一耕助ファイルは何作か読んだし、いくつか映像化された作品も見た。(もとはといえば、ゆっくり文庫を入り口にしたものだったが、ニコ厨らしい入り方と言えるだろう。)

     しかし、おれの場合はやっぱり金田一耕助に死神探偵、という要素を見てしまう。本当に推理するだけで死体が増えるのはこの男くらいではないだろうか?

     「夜歩く」はネタバレしてしまうと、語り手が犯人という叙述トリックなのである。(叙述トリックってこれで良いんだっけ? あ、未読者は読む楽しみが減ってしまったねぇ)
     すると金田一はどこで犯人を狙っていたのか、となる。これは読んでいただかないと少々説明するのが難しいのだが、結論から言えば犯行時刻に凶器が金庫の中にしまってあるのはおかしい→犯行時刻か金庫が間違っている、というごく自然な推理で犯人にたどり着く。
     問題はここからだ。
     金田一は一度大惨劇を経験した一家を集めてこの推理を披露する。そして推理の流れで金庫に凶器をしまった息子に激怒した父親は、彼を問い詰め激高して憤死してしまう。そればかりではない。大騒ぎになる中で、犯人は最後の仕上げをしようと松の木に息子を縛り上げる。そして散々に平手打ちをして、二時間ドラマのラストのごとく自分の犯行と目的をしゃべった挙げ句、首を締めて殺害しようとする。金田一はそこへ犯人の肩を叩いて登場するが、わざわざ犯人の恋人を連れており、彼の犯行を予見していたのである。
     ちなみに、この息子はたしかに松の木に縛り上げられて平手打ちを食らっても仕方のなさそうなクズ野郎(犯人の恋人をレイプして精神崩壊させる)ではあるが、さんざんな目にあったせいで自分も精神が崩壊してしまう。推理しただけで二枚抜きかよ。

     今作ではおそらく推理の時点ですでに犯人が分かっており、あとは確保するだけで十分だったはずである。もちろん証拠がない、と言い張れば逃げ切れるかもしれないが、二度目の事件で入れ替わったお静(犯人の恋人)が実は生き残っており、金田一と磯川警部は彼女を確保していた。彼女の存在が犯人にとって最も重要だったので、彼女をたてに関係者に証言を迫れば犯人は折れていたはずである。
     それをしなかったのは、金田一があえて関係者を一堂に集めて――閉鎖空間にいるわけではない――犯人の自滅を誘発して証言を待つ、むしろ新たな犠牲者を生み出しても、関係者を利用して追い詰めるスタイルを取っているからだ。
     このような謎を明らかにする上で、犠牲を黙認(むしろ利用)してしまうタイプの追及スタイルの探偵を指して死神探偵と呼ぶべきではないか。おそらくこれは推理ではなく、追及のスタイルなのだろう。
     実はこうした追及を金田一は別作品でも行っている。今は金田一耕助ファイル1となっている『八つ墓村』からして、「犯人には目星がついているが、あえて別の人物を捜索させ、犯行を誘発することで犯人にミスをさせる」という手段を取っている。いやそれ、絶対死にますよね? 絶対誰か死にますよね? というか実際死んだ。犯人も死んだ。/厳密には色々違うかもしれないが、だいたいこれに近いとおれは思う。
     『八つ墓村』の場合は犯人がある種の権力者であり、うまくやらなければ言い逃れてしまう、ということがあったかもしれない。しかしそれ以上に、犯人よりもその村全体や家全体が魔物を生み出したことを、金田一は逆に利用している節がある。とってつけたように(犯人個人が)恐ろしい殺人鬼でした、実際ぼくはテンヤワンヤでした、みたいに言ってるけど。
     こう考えると死神探偵という評価は意味合いが変わってくる。金田一にとってはたたかうべき相手とは殺人犯ではなくて村や家が生み出した謎という魔物なのであり、魔物とたたかうには自らが死神になる他あるまい。金田一は殺人犯であろうと魔物に与する側でなければけっこう寛容な態度を取り、逆に魔物を生み出す側にいれば残虐な最期を迎える可能性があろうとそれを見過ごしてしまう(気がする)。ただし、これは金田一が常に謎を個人的な殺人事件として認識せず、村や家という魔物、全体の解明に挑んでいるためである。「事件」だけなら警察だけでよいのだろう。

     というようなことを考えていたら、少し解説してくれている本を見つけました。『乱歩と正史』……!(講談社選書メチエ、2017年、内田隆三)ただこの本、なんというか一般人には難しくって読みにくいのと江戸川乱歩のことが大半を占めているので、直接は参考にならないかもしれない。
     ここでは金田一耕助シリーズがいわば死神探偵スタイルを取るようになったもっとも大きな横溝正史の体験が丁寧に検討されている。それは個人的動機による殺人事件とそれを個人の探偵が暴く探偵小説が自由には書けないという戦時中の統制と検閲……この体験が重要だったようだ。つまり、戦争中に体験した個人を厳しく律したり制限したりすることで生まれる苦痛や狂気を、村や家が生み出す魔物として連続殺人の動機に変換しているというわけである。/このとき、集団が生み出す狂気が重要であって、復員兵のように個人としての戦争体験者が即犯行主体になるわけじゃないって指摘は面白いなと思った。
     ところで夢遊病者のミステリはどのくらいあるんですかいのう。誰かカウントしてたら教えて下さい。

    追記:何かミステリの歴史がわかりそうなものをと思って『ミステリーで読む戦後史』(古橋信孝、平凡社新書、2019)を読んでみたがどうも完全に狙いがハズレ。まあ、イマドキ何か振り返るとなると初心者にはリストがあるとありがたいか。

     ただ面白いのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』ってやっぱりマジで探偵小説だったんだ!? どちらの本でも書いてあるからマジなんだなあ。あれ探偵小説なんだ……。
  • 真面目な配信者は報われない 『配信勇者』

    2019-09-03 21:40
    原作:大崎崇人/作画:育朗『配信勇者』(全2巻)マッグガーデン

     さてこの漫画、打ち切りである。
     この漫画はファンタジー世界にネット技術が入って動画ブームがやってきたという設定なのだが、本来魔王を倒す聖剣を持つ主人公のゼイン&ククは底辺配信者コンビであり、動画配信で成り上がろうとするも毎回失敗するという物語なのである。
     なんでつまらない動画のメイキングを漫画化するんだよっ……! それじゃつまらない漫画にしかならねぇじゃねぇか!
     というわけで、一見するとある種の見えてる地雷ではあるのだが、こういう作品はキャラクターが良ければ面白いはずである。ところがこの主人公のゼインくん、どうも傍目には誠実な聖剣の使い手というより完全にチンピラの残念な子で、聖剣の精霊・ククがそれにバシッとツッコめているとは言い難い。
     しかし、この作品、2巻から登場するヘルヘイトたんがかわいいので、そこから急速に面白くなった瞬間にクソリプ戦争(ガチ)が起きて打ち切りとなった。

     さてこの漫画、ヘルたんが聖剣チャンネルに加入する他にも、見ていると気づく。この世界、明らかに魔王軍以外の魔物と人間とが共存しているということである。じゃあなんで戦ってんだよこいつら
     そう、この世界はなんだかおかしいのである。おかしいのに、ゼイン&ククはがんばってついていこうとしている。そこが問題なのである。

     そもそもゼインくんは最初にチンピラで残念な子だがと言ったが、動画配信だけでは食べていけないからとバイトをやり、バイトリーダーに上り詰めるくらい真面目である。最初の評価と逆転してしまうが……。
     そう考えれば、ゼイン&ククの動画がクソ動画である理由もなんとなく気づく。彼らは「人間たちに注目してもらおうことでお金をいっぱいもらう」ことを目標にしているくせに、動画のシメで「魔王軍はぶっ潰すから首を洗って待っていやがれ」とやってクソ動画にしてしまうのだが、これは聖剣の担い手として最終的に真面目に魔王軍をぶっ潰すことを目的にしているからである。/結局、ゼイン&ククの動画って魔王軍にしかアピールしてないから、魔王軍しかフォロワー増えない気がするんだよなあ。ヘルたんだって基本喜んでるの魔王軍だし。

     この世界がどうおかしいのかだんだん分かってきただろう。
     魔王軍を倒すことが人間へのアピールになってない、ということである。四天王とかいうのもマジで魔王軍サイドしか知られていないということである。人間は人間サイド、魔王軍は魔王軍サイドでしか面白がられてない。(魔女とかVTuberみたいなやつとか、どっちでも見られる系はあるみたいだが)
     だから、どれだけコツコツ真面目に魔王軍を倒しても、マジで誰にも認められないし、仕方ないから動画配信を始めたけど、魔王軍サイドしか(場所の特定とかクソリプを残すためにしか)見てないのである。当然、人間サイドが聖剣の使い手をクソみたいに軽視しているのはゼインくんの口から語られる。
    なんなんマジで… /一応オレ達はスゲー聖剣の担い手とそれを導く精霊なわけじゃん 伝説の再来なわけじゃん? /それなのに世間は聖剣なんて遠い昔のおとぎ話くらいの認識 /言ったところで変なヤツ扱いだし 歴史弱いヤツは知らないくらいだし /市役所に行ってなんか手当ないか聞いてみたりしたが サラッと突っ返されたし /近くの村のガキどもにはバカにされるし /バイトの面接には4ヶ所落ちたし /なんなんマジで!!
     この報われなさは動画配信とは別の地点にあることに注意されたい。(バイトの面接に落ちたのは魔王軍退治に時間を割くため)
     そしてさらに問題なのは、この報われない世界にゼイン&ククが過剰に適応して、動画配信者になってしまうところなのだ。ネタバレになるが、最終話でゼインくんが配信勇者と呼ばれるようになったのも、これはつまり、初めて人間サイドに(勇者として)認知されたということに他なるまい。/こっそり言っておくと、ゼインくんも実はバイト仲間の一部に理解されてはいたということが最終話で分かる。
     そういうわけで、怒涛の2巻打ち切り最終話が意外とまとまりになっているという事実を告げて終わりにしたい。