持田亜里沙試論 追記
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持田亜里沙試論 追記

2017-03-13 23:18

    A:なぜキャラクタをいちいち整理せねばならないのか?
     本題に入る前に、また一度遠回りして話をしなければならない。というのも、俺が亜里沙Pを自称しにくいのと同様に、どうも見ていて明らかに亜里沙Pだよなぁと思われる人が「いや自分は……」と謙遜したり、「あまり詳しく知らないから」と言い出したりする例が(俺も含めて)なんとなく多いように思われるからだ(とはいえ、近年は減っているように思われる)。しかしキャラクター商売に関して、「よく知らないから付き合えない」ということで線引されるキャラクターとはどのようなものだろうか? そのようなキャラクター造形をした時点で、すでに商売としては失敗しているのではないだろうか? これは自分が亜里沙Pを軸にして見ているからそのように見えるからかもしれないのだが、他の担当Pは「このキャラクターはこうだ」といってむしろ公式にキャラ崩壊だと怒り出すような場合すらあるのに、亜里沙Pの場合は内部での動揺というか、「P自身が知らない」ということに対する恐れを抱いているような雰囲気すらある…あるいはあった。これは先取りしていえば、持田亜里沙というキャラクターが(というよりモバマスのアイドルが)実際のところ確定的でなく、常に語られ続けなくてはならないということと、特に持田亜里沙が何かで「ある」キャラクターというよりは何かで「ない」キャラクターである傾向が強い意味を持っていたということだ。持田亜里沙に何を見出すかはPの積み上げ次第であり、極論すればあらゆる見方が正しいのだが、しかし実際のところはそれらの差し引きによって生み出されている。/これは最初に書きつけた時点の見方だったが、改めて見てもそんなにおかしいものではないように感じられる。一見長々しく積み上げた物語がもっともらしく見えるのだけれど、その物語も一つの「持田亜里沙」として使い分けることができるはずだからだ。
     実際、キャラクタを整理し、考えることに何の意味があるのだろうか。モバマスにとってはその理解が総選挙で勝つために直結することはあるし、またそれ自体が楽しむ一環でもある。しかし、どこに位置しているかまで考えると総選挙からはみ出さなければならなくなる。ただ楽しむためならいちいち考える必要はない。しかし長く付き合っていけばいくほど、そこに追い込まれ、落とし込まれることはよくあるものだ。長期間に渡って情報が与えられない中で、それぞれのカードをつなぎ合わせて一本の線や物語を作ってみることもよくあることだ。そうでなければ飽きて辞めてしまう。
     ただキャラクターが好きで、それをまっすぐ買い漁って満足できるならそれがもっともよい。そうあるべきだ。キャラクター商売にいちいち追い込まれることはない。だが、整理できないほどに情報が次々と与えられていくという担当Pはおそらく少ない。いや、かつては自分自身、CDを二枚ずつ買ったりしてコードを入れていた時期もあった。だから、誰の何担当ではなく、全体としてモバPというものが漠然と渦巻いていた時期はあった。今もモバPの層はあるはずだ。しかし、おそらく、今は(移動可能であるにせよ)より重層的なものに分かれているようにも思われる。
     だから、今回の話も読める人は限られてくる。大切なのは、キャラクタを整理するということはそれが混沌としていてはっきりとは言えない、ということなのだ。持田亜里沙とはどんなキャラ? 「お姉さんで、元保育士で、明るくて、元気な……」しかし、それだけではない。しかもそこが自分がプロデューサーなのかどうかに関わる部分でもありそうだから困る、という訳だ。
     上の話は主に俺が考えていることだが、もしかして当てはまる亜里沙Pがいたら役に立つかもしれない。それ以外の人にはほとんど役に立たない話だろう。


    B:持田亜里沙の自己認識
    B-1:これまでの持田亜里沙の話について
     実はこの何キャラなのかという点を断じること自体が少々むずかしい。というのも、持田亜里沙が引き裂かれているテーマは二重三重にある。まず「先生」か「おねえさん」か。実はモバマスの初登場のNとN+からして主軸が「ありさ先生」と特訓後の「ありさおねえさん」に分かれている。この分裂はRの[ウサコちゃんと]でさらにはっきりし始め、前職の「保育の先生」と夢だった「うたのおねえさん」であったことが明確になってくる。/厳密には「ありさ先生」は徐々に後退し、「お姉さん」としての持田亜里沙が前面に出てくる。
     ここで考えるのは、アイドルサバイバルinテーマパークで登場したRのボス枠まで、いわゆる「天帝キャラ」がおそらく強調されていなかったということだ。これはイベント中にネタとして盛り上がったものを[ハロウィンクイーン]で導入したのであり、いわば二次ネタを役柄として演じてもらったということになる。このハロクイのもう一つの面、母性キャラについては、保育園の先生という役柄やN特訓前の時点でPを「子供っぽい」として、感じる面はあった。しかし、それはおそらく全体として持田亜里沙のあまりキャラクターが固まっていない状態の中では強調されていない面であっただろう。「母性キャラ」もまたSRで一気に押し出されてきたキャラクターだと言える。
     ここで「先生」「おねえさん」「母性キャラ」「天帝」のような、一つに統合しきれない属性が同時に盛り込まれ、消化しきれずに置かれる状態が生み出される。その属性がパンクしそうになった表れが、親愛度MAX演出における「○○くんが守ってくれるなら女王もいいかな…けどわたしはわたしらしいのが一番かな♪ありさおねえさん、ね♪」というイメージ統合の不具合の提起につながることは、以前の記事でも繰り返し述べたことだ。
     この属性の盛り込みに対する問題は、当初「天帝」(あるいは「母性」も?)が実は持田亜里沙本来のキャラクターイメージ原案には強調されていなかった(モバPの要望によって生み出された)ものと考えられる。ここに、アイドルとして欲望を引き受けきれ「なかった」持田亜里沙というキャラクターイメージがある。これまで数次にわたって持田亜里沙を論じた際、常にSRにて比較してきた訳だが、こうしてNからの構成で見ると、[ハロウィンクイーン]の問題提起が持田亜里沙を区切っていることに注目したい。
     この持田亜里沙に盛り込まれようとしたそれぞれの属性を見てみよう。前職の「保育の先生」は辞めた。夢だった「うたのおねえさん」にはなれなかった。子どもを寝かしつけるのは得意だが、「母性」と言われても母親ではない(胸も(ry そして周りから期待された「天帝」という女王の役は、自分でらしくない、と否定的な雰囲気を漂わせている。持田亜里沙に期待されている属性には実は「できるがそれそのものではない」「なりたいけど、なれなかった」という但し書きがついている。先生キャラ、お姉さんキャラ、母性キャラ、天帝キャラ……どれも彼女を表現しているが、彼女そのものではない。このことが持田亜里沙のキャラクター性を大きく位置づけている。
     ハロクイがそれ以後の統合しきれないイメージの出発点にあるとしてきたのが、これまでの俺の持田亜里沙の捉え方であった。

    B-2:アイドルと総選挙に対する位置付け
     少し先へ進もう。
     持田亜里沙が何キャラなのかまだ統合しきれないのだ、としよう。それはそれとして、モバマスでは誰もがみんな「アイドル」だ、ということが言えるかもしれない。しかし、それについても疑問がある。
     ひとつはB-1でN~ハロクイまでで「先生」と「おねえさん」という自己認識が中心であることを示したように、彼女自身が自分をアイドルだという認識をあまり示していないことだ。実は一箇所だけ、[ウサコちゃんと]共通スタジオセリフにて「(ウサコもアイドルになるウサー)…あは」という部分がアイドルと言及している箇所がある。持田亜里沙のアイドル認識は、実はステージに立って歌が歌える、テレビに出られるという意味で「うたのおねえさん」と似たようなものという認識しかないのではないのだろうか。当然だが、いきなりスカウトしてきて、アイドルを目指そうと言っても、アイドルが何なのかも彼女には分かっていない可能性はある。覚えておいてほしいのは、持田亜里沙の「アイドル」らしさはプロデューサーに委ねられているということだ。/[ウサコちゃんと]にはアイドルらしいおしゃれはPに教えてほしい、というセリフもある。
     たとえば[ウサコちゃんと]はアイドルサバイバルというイベントに参加し、そしてお仕事を経験しているため、急速にアイドル化が進行していく過程とも見られるのだが(「お仕事」という発言が増えPの指示で「おしゃれ」してきたことが語られる)、それにしても持田亜里沙は「アイドル」に対してどう考えているのかと言えば、[ウサコちゃんと]でのセリフ「うたのおねえさん夢だったの」に見られるように、「うたのおねえさん」の代用として「アイドル」を捉えている。
     このことに加えて、総選挙での圏外もまた彼女のキャラクター像へ付け加える要素になる。もし総選挙の順位に加わってアイドル化が急速に進んでいたとすれば、[うたのおねえさん]のようなSR化ということはそう進まなかったのではないか(つまりハロクイ路線が成功したということだから)。シンデレラガールという成功体験を得られなかった、あるいは圏内に入れなかったということは、外的にも「アイドル」としての成功経験を取り入れられなかったということだ。すなわち、「アイドルにもなれていない」あるいは、「アイドル」とは何かという規定が持田亜里沙の中で混乱した状態であったということが言える。
     すでに持田亜里沙が「うたのおねえさんの夢」の代用として「アイドル」を捉えていることは述べた。実際にSR[うたのおねえさん]には「うふふ、今日のありさお姉さんはみんなのアイドルですね~」というセリフがある。このことは「よい子のみんなのために頑張るお姉さんがアイドル」という自分の考えを改めて強化していると見て良いだろう。また、この特訓前では他アイドルを子どもたちに見立てて「ありさ先生」としてレッスンを行う自分を課している。ここには「先生」と「おねえさん」をやることによって「アイドル」を成立させている持田亜里沙像が見えてくる。これはハロクイでうまく引き受けられなかった持田亜里沙像を、「おねえさん」として敷き直すことによってもう一度やり直すという努力に見える。
     しかし、「先生」と「おねえさん」によって成立する「アイドル」は、「アイドル」そのものを志向していると言えるのだろうか? つまり本当の「アイドル」と呼べるのだろうか? それは彼女がハロクイで女王役を受け止めきれなかったことを出発点として、「うたのお姉さん」の代用としてのアイドル(自分の夢の代用)の余地を残してしまっているという意味を持つ。同時にファンやPの欲望・企画全体を受け止めるアイドル性には到達しているとは言えないのだと論じることもできよう。難しい言い方をしたが、ハロクイで言った心情と整合性が取れていないことには変わりがない、役のひとつだけど消化しきれていない、という矛盾を抱えていることに変わりはない。/予め言っておくと、「アイドル」がアイドルそのものを求めるものでなくてはならない、という訳ではない。しかしモバマスではスカウトして(つまり最初からアイドルそのものになる気が薄くて)スタートする物語である以上、そこに「プロデューサー」の要望・企画、アイドル像が大きな影響を与えるものになってくる。ところが、持田亜里沙の場合、ハロクイでそのアイドル像を一旦迂回した後、その回答を「私らしいのが一番」といった「おねえさん」のSR化に求めたという点が少しおかしいのだ。いずれにせよ、この時点ではハロクイとうたおねの統合は果たされていないということが言えるだろう。

    B-3:「わたし」を探して
     持田亜里沙は[うたのおねえさん]で一度「アイドル」の結論を出してしまったと言えるだろう。ところが、この段階では必ずしもそれらの統合は果たされておらず、またそれほど売れなかったことによって、別の物語を探すことになった。「アイドル」とは何かという点に関わるのだが、それはおそらく「わたし」に関することだ。すでに[浴衣祭り]などで飲むとはっちゃけるキャラクターは顔を覗かせていたが、同時にプライベートでプロデューサーとの関係を考えることになる。
     持田亜里沙にとって重大な一枚となるのは[パラダイスリゾート]だ。ここで持田亜里沙は「ありさ先生はお休み♪普通のお姉さんになっちゃいますよ~。」と宣言する。それだけではなく、お仕事で「○○さんには、どう見えます?先生じゃない…わたし」「ただの亜里沙でいられるビーチ、うれしかったです、○○さん♪小さい子は大好きでえすけど、たまには羽を伸ばして♪」と言い出すのだ。「先生」ではない役割を抜け出した「わたし」や「亜里沙」を見せつつ、やはりそうなることにはためらいがある彼女の思いが見える。/ここで重要なのは劇場の一幕だ。高橋礼子が引率というか、年長者だから自由にやっていい、と言って、役割から解放することで持田亜里沙が本気を出すのだが、このことはやはり「お姉さん」も「先生」もいつも役割を自然と課してしまう性格を示している。
     特訓後にも注目したい。「たまにはいいですよねっ。心の底からアイドル楽しむお姉さんになっても。」これもまた、持田亜里沙がどこかで役割を意識して行動してしまいがちな自分から解放されたものと見て良いだろう。持田亜里沙の中心点にある小さい子が好きで、「みんなのお姉さんになりたい」という思いは正直なものだが、同時にそれが「アイドル」をも求める「わたし」をしばしば隠してしまっている。それが、パラリゾでは解放されている、という解釈だ。
     「ただの亜里沙」「先生じゃない…わたし」というものやありのままの自分というものは一体なんなのか? 持田亜里沙にとって、「お姉さん」という言葉に込められた意味は「うたのおねえさん」という役柄だけではなく、子どもたちと遊びたい、楽しませたい、という正直な「わたし」そのものだ。ハロクイでも自然に言っていたが、持田亜里沙の自分に子どもと相対している「お姉さん目線」が刷り込まれているのだから、「先生じゃない」はいいとしても、「お姉さんでもないわたし」などあまり考えたこともなかったのではないか。
     しかし、子どもたちをすべてに最優先に考え、接する機会がほしいならアイドルのスカウトなどまず断って当然だ。持田亜里沙のキャラクター像にはそこに決定的に矛盾がある。保育士として働いているにも関わらず、目の前の子どもたちを振り切ってもアイドルのスカウトを受けてしまうという欲望、それもまた持田亜里沙の「わたし」だ。/「うたのおねえさん」の代用として見ていたのだとすると、「うたのおねえさん」の夢を諦めきれずに芸能界に飛び込んだとみる物語が有力だろう。実際、デレステはそれに近い物語を採用している。
     そして持田亜里沙のキャラクター性にとって、パートナーであるプロデューサーが何者であるのか、という点は必ず追いかけなければならない(実際の亜里沙Pではなく、セリフ・テキストにおけるPを持田亜里沙がどう位置付けているか)。これはC項に回す。

    B-4:積み重ねるお仕事
     次に入る前に持田亜里沙の仕事を整理する。

    N(初登場・初期稼働時2011年11月28日)
    R[ウサコちゃんと](アイドルサバイバルinテーマパーク 2012年4月26日)
    SR[ハロウィンクイーン](アイドルサバイバル ハロウィン編 上位報酬 2012年10月25日)
    R[浴衣祭り](ガチャ 2013年6月30日)
    SR[うたのおねえさん](STEPガチャ 2014年1月24日)
    R[パラダイスリゾート](夏本番!!ビーチバカンス 2014年7月31日)
    SR[甲斐のウサトラ](LIVEツアーカーニバル 戦国公演 天魔の乱 2014年11月7日)
    SR[ウサコちゃんとチアー](チーム対抗トークバトルショー 2015年4月22日)
    R[オータムコレクション](こころ色づく秋物語ガチャ 2015年9月30日)
    R[クライムI.C]SR[たのしく/にこにこクライマー](アイドルチャレンジ 目指せ山頂! 2016年7月22日)
    SR[クラッシールージュ](第11回ぷちデレラコレクション 上位報酬 2017年2月17日開始)

     さて、このように並べた時に、自己に言及しているという点ではパラリゾから次に進む際に[オータムコレクション]に話を進める必要がある。しかし、オータムの話をすすめるためには、その間に飛ばすことになる[浴衣祭り][甲斐のウサトラ][ウサコちゃんとチアー]に触れる必要がある。このうち、浴衣に関しては他アイドルとの関連で触れておきたいため後回しにするとして、ウサトラとチアーは「それそのものではないが、役柄をしっかり引き受ける」という持田亜里沙らしさが発揮されている仕事であると言える。
     ウサトラではまさに武田信玄「役」をやるのだが、ここでは「お遊戯会より、ずっと本格的ね!」と役を課すことには慣れていても、演劇には無縁だったことが(おそらくは幼稚園のお遊戯でしか関わったことがない?)告白され、「落ちないように…支えて、○○くん。バレないようにね」と練習をしても乗馬はやはり苦手であることも告白される。(最近になって配布されたぷちデレラでも体力はあっても運動そのものは苦手だということが明らかにされた)これは持田亜里沙が女王「役」にやや遠慮を感じていたことの補完でもあるだろう。
     チアーではさらに、この間の水着や浴衣といった季節ものではない中では、「うたのおねえさん」らしくない初のアイドルステージ衣装を着ることとなる。同時にここでは「うたのおねえさん」と同じTV番組でありながら、トーク番組としての出演となっている。「元気な笑顔を見る事が、アイドルの幸せでしょ○○くん♪」など、「アイドル」としての仕事として差別化しているところから「ありさうさぎさん」というような自分を打ち出している。/しかしながら、それにしてはチアーのセリフはそれらを散りばめつつも漫然としている雰囲気が否めない。トーク番組のカードで「トークしますよぉ~」はさすがにない。
     こうした流れにあるのは、持田亜里沙が、「アイドル」としての仕事をポジティブに積み重ねているということだ。[ハロウィンクイーン]までの流れを、持田亜里沙のキャラクター性を盛り込む形で進行しパンクしたというものだとしよう(しかし本来は「アイドル」という仕事がキャラクター性そのものをいちいち揺さぶることにはならないはずだ)。持田亜里沙はそうして盛り込み過ぎたキャラクター性を、たとえばウサトラでは「演じる」(ハロクイのさらに側面である演劇性)という部分へ光を当て、チアーでは「TV番組」(うたおねと同じだが違うイメージのものとして)という部分に注目することで、仕事観をずらし、持田亜里沙の幅そのものを広げることで「アイドル」のイメージをある一定の固まったレールから緩めていく要素があった。
     しかし、ではそうした「アイドル」に関する積み重ねは本当に前段としては存在していなかったのだろうか。実は持田亜里沙を一旦定義付けしたうたおねの、その劇場第232話を見てみよう。ここで注目すべきは、横山千佳にウサコちゃんは歌わないのかと言われて「今のは私はアイドル!みんなの純粋な期待に応えてこそのアイドルよ…!」と意気込み、みんなに教える側だけでなく、結果的に自分を高めるレッスンになっていることだ。ここでは期待に応えるという形ではあるが(つまり自覚的ではない)、お姉さんではなく「私はアイドル」への萌芽が見られるのである。実は、SRの「お姉さん」をやりきったと同時に「アイドル」へと転換していく契機がうたおねに仕込まれていたとみるべきだ。

     R[オータムコレクション]は、そのような流れの中にあった。
     ここまでほとんど見た目ではなく、テキストに注目して述べてきたが、オータムに関してはイラストに鈍い自分でも言わなければならないだろう。特訓後のカードは持田亜里沙が初めて髪をおろし、男装ライクのファッションモデルのお仕事をする、というものだった。ここには二重三重に持田亜里沙の初挑戦が含まれている。
     もちろん外見的にはこれまでにも特訓後のパラリゾのサイドポニーなどがあったのだが、髪をおろしたのは初めてであること。次にモデルのお仕事の初挑戦ということだ。これが面白いのは、R[ウサコちゃんと]にて「○○くんが言う通り、先生おしゃれしてきたのよぉ?」「○○くん、今日の服どうだった?褒めてくれないと、ありさおねえさんもウサコちゃんもしょんぼりしちゃうかもよ?」など、それほどファッションにはそれほど自信がある訳ではない(初期Nを見れば分かる通り、エプロン姿のまま来ているくらいだから)ということだ。/[クラッシールージュ]でも証言しているが、メイクをきっちりやっていたら子どもたちと遊ぶとドロドロになってしまう訳である。つまり、モデルのお仕事というのは持田亜里沙にとっては子どもと遊ぶこととは対極のお仕事を意味している。
     /補足的に言っておくと、以前から指摘されていることだが、持田亜里沙は特訓前後でまつげが描き足される(後だと3本に増える)そうなので、メイク技術は元からあることは示唆されているのかもしれない。
     さらに加えるならば、メンズライク、いわゆる男性風のファッションへの挑戦だ。これが持田亜里沙の自己認識へどうつながっているのか。「今日のありさお姉さんは、カッコイイお兄さんっぽい雰囲気でモデルのお仕事ですよ~♪○○くんは、どっちのありさがお好み?」ここでは持田亜里沙が、やはり自分をあくまで「お姉さん」に置くことで「ありさ」を使い分けている様子が見られる。ハロクイでは女王の役に入ろうとしたがために難しかったキャラクターが、ファッションとして「ありさ(わたし)」を使い分ける。
     これを象徴するのは、「こころ色づく秋物語」ガチャのエピソードだ。その前編にて、持田亜里沙がメンズライクは何を参考にしたらいいのかと悩む他のアイドルを前に、「わたしたちは女の子で、アイドルですもの。無理に見た目だけ男性を真似ても、ファンは喜ばないんじゃないかな?」と発言する。「男性」を「求められるアイドル像」に置き換えてみよう。持田亜里沙が無理に見た目だけ「天帝」を一生懸命やっても、それは自分そのものじゃない。武田信玄役をやっても運動が苦手なだけに、馬に載ったら支えてもらわないとグラグラしちゃうみたいだが、それはそれで良い。「お姉さん」の目線は外せないけども、そこを残したままで「アイドル」に取り組んでもいい。
     「先生」と「おねえさん」によって成立する「アイドル」は、それ以外のお仕事は持田亜里沙にとって「アイドル」ではないのか、という余地を呼び起こしてしまうから大変なところがあった。その答えはとっくの昔に出ていたのだが、分かりやすい形で打ち出したのがオータムだったと言える。つまり、「お姉さん」が「アイドル」をやっているという話なのだ。
     オータムの発想は子どもたちと遊ぶ「お姉さん」を保持したまま、けれど役にキャラクター性を引きずられ過ぎないという意味で大きな転換点だった。多くのファン(モバP)にとってはある側面を要求するだけに過ぎないが、持田亜里沙はギャップを乗り越える必要があったのだろう。今まで向き合ってきた子どもたちだけでなく、「大きなお友だち」とも向き合わねばならなくなったこと、「お姉さん」だけではなく「先生」だけでもなく、「わたし」も求められていること。ハロクイでもすでに「Pが守ってくれるなら~」と述べていたのだが、そこからさらに踏み出している。ここにはプロデューサーの存在は必要がない。むしろプロデューサーの企画による動揺を受け止める素地を作ろうとしている、と考えられる。

    B-5:「ありさ先生」と挑戦
     「目指せ山頂!アイドルチャレンジ」ではオータムが乗り越えた到達、そしてデレステが乗り越えた到達を踏まえているため、モバマスにおいて持田亜里沙が前職で子どもたちにどう接していたのかが語られる機会となった。もちろん、すでにうたおねの劇場でも云々、と述べたようなことはあったのだが、たとえばレベルアップ演出。
     これとほぼ似たような話はデレステでも見られる。共通しているのは、持田亜里沙が前職で「子どもたちに聞かれたことにうまく答えられなかった」という話だ。先生失格というわけではないのだが、この話は持田亜里沙が「先生にはなれなかった」というエピソードを物語上で語り直されたという点で興味深い。「ありさ先生」とは何だったのか、ということを語り直すということだ。
     もちろんその経験はアイドルになろうとしている今も生きているのだが、答えられなかったものが「歩いて山に登る理由」ということも示唆的である。それは持田亜里沙自身が本当にやりたいこと(スカウトされたからアイドルになるのではなく、うたのおねえさんの代わりにアイドルをやるのでもなく、持田亜里沙だからアイドルをやる理由)を問われる構造にもなっている。夢だった「本当のうたのおねえさん」にはなれないし、それと似たようなお仕事はもう叶ってしまった以上、持田亜里沙がアイドルを続ける理由はPへの義理人情くらいしかない。「アイドル」のお仕事をしていく内にそれに惹かれるようになったとすると、これは持田亜里沙の物語を一歩拡張させることになる。モデルのお仕事ともなれば好きな子どもたちとのふれあいとも遠ざかり、アイドルを続けていけばそうしたお仕事も増えてくることも分かる。持田亜里沙がアイドルを続けるとしたら、「自分の力で登る理由」がどうしても必要だったのだ。
     より直接的なセリフもある。「私、子供たちがどう喜んでくれるかなって…ずっとそんなことを考えてきました。アイドルになる前も、なってからも…」「でも、今回のお仕事は違うんですよねぇ。子供たちのためじゃなくて、自分のために挑むお仕事でもあるんだなって!」これはアイドルが自分の望んでいた「お姉さん」に引き裂かれることの裏返しの回答でもある。自分の望む「お姉さん」を追求していくことは、逆に言えば「アイドル」から遠ざかるということになる。ファン(モバP)からウケが良い(売れる)はずの「アイドル」、それは自分の考える「お姉さん」とは異なっているかもしれない。だけど、そこにはまず前提として今のアイドルを選んだことそのものが「自分のために挑むお仕事」だったのではないか、という問題がある。
     このアイドルチャレンジで特徴的なのは、「ありさお姉さん」を抑えて生徒として教わりつつ、「ありさ先生」を克服するかのように挑戦する部分だ。「ありさ先生」は、幼稚園時代の思い出や経験を語りながら、少しずつ自分のために挑むことで「私自身」の経験を溜めていく。ここで重要なことは、持田亜里沙がファンに会うことやヘレンという師に教わることだ。これまで子どもたちに相対する意味での「お姉さん」や「先生」の意識しかなかった持田亜里沙が「私」という「アイドル」を意識するのはファンの存在があってのことだ。同時に、自分が生徒になってヘレンに問いかけられることで、持田亜里沙自身の「私」を鮮明にしていくことになる。
     たとえば登山レベルアップセリフ。「知らなかったことを学ぶ楽しさ…久しぶりでワクワクしてるんですよぉ」。これは持田亜里沙が自分の役柄からはみ出して挑戦する機会を逸していた表現でもある。いわば「お姉さん」「先生」にこだわりすぎて(やや誇張するならば「うたのおねえさん」になれなかったことにこだわりすぎて?)それ以外の自分に挑戦することをやや恐れていたとも言える。しかしそもそも持田亜里沙にとって、「うたのおねえさん」が理想の自分ではあるものの、「アイドル」を選んだのはやはりそこへの挑戦もあったのではないだろうか。「うたのおねえさん」の夢の代用というテーマは、同時に諦めきれない自分の夢への挑戦という意味を含む(つまり、直接的にうたのおねえさんになれるわけでもないことは知っていた。実際に[ウサコちゃん]でこそそれらしい衣装で「叶った」と言っているが、直後の[ハロウィンクイーン]ではそれらしくない役柄も回ってくるのだということを認識せざるを得なくなったのだから)。
     ※ヘレンとの関係はC項に回したいのだが、正直なところ、ヘレン論はヘレンPでないので語りにくい。だが、アイチャレに関してはヘレンの存在が極めて大きいと思われる。持田亜里沙はこれまで「子どもたち」に対して自分をセットしてきたのだが、ヘレンは「世界」に対して自分を挑戦してきているのだ(とりあえず確立しているとは断定せずにおこう)。関係性という意味では狭い持田亜里沙に対して、ヘレンは常にスケールがでかい(デカすぎる)ため、読んでおく必要があるが、ぶっちゃけ難しい。

    B-6:「私」を使う
     [クラッシールージュ]は直接的にはオータムの発展系、そして経験的にはアイドルチャレンジを踏まえての存在となっている。このことの意味は重要だ。
     子どもたちにどう向き合うかを乗り越えて、アイドル化した持田亜里沙の到達のひとつである。その典型的なセリフが「いよいよ、ありさお姉さんが…いえ、私がランウェイで輝いてくる番ね。」という一人称の言い換えだ。持田亜里沙にとって「私」になること、もっと言うと「私」を使うということは、「ありさお姉さん」を捨てるということではない。それは「ランウェイを降りたら○○くんのありさお姉さんに戻るけど…」という点にも含まれている。これは持田亜里沙による「わたし」の使い分けであり、それを企画し、担保し、全責任を負っているのはプロデューサーだということだろう。
     これまで持田亜里沙は子どもたちと向き合うがための「お姉さん」を自分の本質と決めていた。しかしオータムやアイチャレによって、「お姉さん」を根底に置きつつも、「アイドル」を目指す、チャレンジする自分を大きく捉えることができるようになっている。それはこの間の積み重ねによるものが大きい。
     メイクをして特別な日に誰かと一緒に歩く、新しいお仕事をしてオトナの姿で出歩く。一方で、劇場を確認してもらえれば分かる通り、ウサコちゃんは確実に持ち歩いている。いつでも「ありさお姉さん」「ありさ先生」に変身することも可能なのだ。/ここでようやくウサコちゃんの存在がはっきりしてくる。当初、最初のRではウサコちゃんは「うたのおねえさん」の代用として意識されていた「アイドル」として語られていたために、持田亜里沙の初めてのアイドル発言がウサコちゃんのセリフになっていたくらいであった。しかし、パラリゾでは高橋礼子に預かってもらうことで「わたし」を解放することになり、ウサコちゃんがいないことでPを誘惑するようなセリフを言ったりすることもあった。いわばウサコちゃん不在によって「お姉さんでないわたし」の表現する傾向が強かったのだが、「わたし」がなんであるのかの輪郭がはっきりしてきたために、「ウサコちゃんを使うことでありさお姉さんになる」というネタが使えるようになったと言えよう。
     またメイクについてのセリフも見ておきたい。「メイクって自分のためでもあるけれど、人のためでもあるのよね。」こうした考え方には、持田亜里沙の全体を通じて誰かと向き合うことで自分を形成していく姿勢が見られる。それが子どもたちに大きなポイントを置いていたために「お姉さん」を根底に置いてきたのであり、「アイドル」としてはプロデューサーを信頼することで自己を形成したのであり、ファンや周りのアイドルとの関係の積み上げによってそれを補強していったと見るべきだろう。
     このような言い方をすればモバマスのアイドル全体に適用可能な話のように思われる。確かにそのとおりだ。おそらく何か違いを上げるとするなら、持田亜里沙の場合はその核になるキャラクター部分で公式に動揺があり、その責任を「亜里沙P」が少なからず負った部分があったと言える。
     「いつもは前にでるタイプじゃないけど、今は誰よりも目立ちたい!」というセリフについても注目すべきだ。持田亜里沙がキャラクターとして自分が挑戦するタイプではないことを再確認するテーマであり、それがこれまでのお仕事で変化してきたというセリフでもあるからだ。とりわけ、持田亜里沙の夢であったうたのおねえさん「ではない」お仕事のはずのモデル、ファッションショー(ぷちデレラコレクションは衣装で殴り合うので、これをゲーム化したものという設定)で目立つということは、オータムやアイチャレ登山などの経験を積み重ねなければここまで言い切ることは難しかっただろう。

    B-7:まとめ
     これまで述べてきたことは、追加されたぷちデレラの発言やエピソードにて集約的にまとめられている。すでにまとめているところもあるので探してじっくりと見ていただければ、あるいはぷちデレラに触れていただければおそらくわかりやすいだろう。

     持田亜里沙はどんなキャラクターか。結論的に言えば子どもたちに向き合ってきた「お姉さん」が、「うたのおねえさん」という自分の夢を諦めきれなかった女性ということになる。自分自身について、子どもたちが大好きな「お姉さん」という認識を根底に敷きながら、「アイドル」のスカウトを受けて飛び込んだという矛盾を言い表すとすれば、そのように位置づけることが出来る。より重要なことは、「お姉さん」も「先生」も、そしていまは「アイドル」も諦めきれ「ない」という部分である。持田亜里沙にとって、それらは積極的に盛り込んできたのではない。子どもたちのために、ファンのために、自分を見出してくれたプロデューサーのために、という接点の交差する中に、同じ一側面としての自分を生み出してきたといえるだろう。
     ただし、モバマスにおいては、カード一枚を切り取ってそれを受容しても何らの問題はない。簡単にいえば、「母性キャラ」として欲望をぶつけても、「天帝」枠として期待して切り取っても、それはモバPそれぞれが勝手にやっていることだから良い。
     ところが持田亜里沙の場合、そのキャラクター受容を担保するべき亜里沙P(つまりずっと追いかけているファン)自身に「お姉さん」であれば「子ども」らしく振る舞えば良いのか、「アイドル」であれば「頼れるプロデューサー」として振る舞えば良いのか、というロールプレイ上の動揺が常につきまとってきたと考えられる。今回のまとめではその動揺をキャラクタの分裂にあると見て、統合を果たすための整理を行ってきた。実際のところ、[クラッシールージュ]に至るまで持田亜里沙の物語は「ぷちデレラを出せるようになるほど統合されていく過程」だとも言えるだろう。しかしすでに述べたように、持田亜里沙にキャラクタを見出しているのは当然モバPの要求(プロデューサーとの関係)である。すると、これはどちらが先かという問題ではない。
     当然、ゲーム内のプロデューサーとの関係もまた、持田亜里沙とのキャラクター性に影響していると考えるべきだろう。以下をC項に回す。 


    C:持田亜里沙とアイドル、プロデューサーとの関係
    C-1:前提 
     これまで見てきた持田亜里沙の自己認識を考えた時、そこには子どもたちとの関係が太く繋がれていることに気づく。つまり、子どもたちを教える「先生」、子どもたちを楽しませる「お姉さん」。それが持田亜里沙の自己であり、テレビに映る自分の夢だった「うたのおねえさん」以外は、持田亜里沙が他人との関係を前提として自分を設定していることがある。いわゆる母性キャラにしても「いい子いい子」をする相手の子供扱いする対象(P)がおり、女王役(天帝)もファンの要望とともに守ってくれるプロデューサー(いわばナイト役?)の存在を前提として成立させようと努力している。
     持田亜里沙が本当の自分だと思っていた「お姉さん」とは関係性の中から生み出されるものだといってよい。「先生」「お姉さん」という自己認識には、それを教える「子どもたち」が大前提として存在していなければならず、持田亜里沙の自分が相対的なものだという可能性を含んでいる。
     そこで考えられる「アイドル」とは何なのか。まずファンとの関係がある。またそこには「お姉さんアイドル」と「大きなお友だち」という関係が成り立つ。それ以前に、もっとも近い関係のプロデューサーという存在が持田亜里沙の自己認識に影響を与えていると見てよいだろう。持田亜里沙がゲーム中で亜里沙P(これは当然ゲーム内のプロデューサーのこと)をどのように扱っているのかを考えなくてはならない。C項では、持田亜里沙が関係の中でPや他のアイドルをどう扱っていたのかを見ていく。

    C-2:プロデューサーへの呼び方、扱い方
     持田亜里沙はほとんどプロデューサーに対して「くん」付けをしているが、N特訓前は「プロデューサーさん」「○○さん」呼びだ。これに対してN特訓後は「プロデューサーくん」「○○くん」呼び。特訓前が「ありさ先生」、そして特訓後が「ありさお姉さん」というように、持田亜里沙は当初から使い分けをするタイプであるキャラクターであったが、プロデューサーに対する呼びかけからある程度それがはっきりしていた。つまりPに対する関係の意識が自分の意識の使い分けにつながっていたのだと思われる。
     ところで、そのような目線で見ようとするといきなり[ウサコちゃんと]でつまずくことになる。ここでは「○○くん」呼びをしながら「ありさ先生」が現れ、その「先生」が「今後は先生としてじゃなく、おねえさんとしてみてほしいな?」(特訓前)などと言ったりするからだ。「さん」呼び、「くん」呼びでの切り分けではあまり役に立たないようである。
     順を追って見ていこう。[ハロウィンクイーン]では「○○くん」呼び。特訓前では「○○くんの前では、先生じゃなくておねえさん、ねっ?」というセリフがある。これは上で紹介した女王役を敬遠するようなセリフをセットとして考えた方が良い。持田亜里沙はPを頼る場合に、自己を「おねえさん」として規定する傾向にある。では、持田亜里沙にとって、「先生」と「おねえさん」の違いはなんなのだろうか?
     [浴衣祭り]ではこれまでと逆転的な傾向がある。実はこれまで「先生」と「おねえさん」は、お仕事(特訓後)では「おねえさん」を前面に押し出してきたのだが、「お姉さん」をプライベートでPを誘う側として持ち出し、「ありさ先生」が特訓後に登場しているのである(「ありさ先生は、○○くんに、かつがれてばかりですねぇ」という、あっさりしたものだが)
     [うたのおねえさん]でも「くん」呼びは実は変わらない。そして、ここで極めて重層的なのは、Pに対して「先生」として「○○くんったら意外と子供っぽいところも…うふふ」などと子供っぽいところを見つけている点と「○○くんはありさお姉さんだけのプロデューサーですからねぇ♪」と言って頼りにしている部分だ。実はこの点を考えると、ハロクイで「先生」と「おねえさん」を分けようとしたところから、その統合が試みられようとした形跡が見えなくもない。
     [パラダイスリゾート]の呼び方は久しぶりに「さん」呼びが出て来る。とりわけ重要なのは、持田亜里沙がまず「ありさ先生はお休み♪」と宣言し、「今日は子供扱いなんてナシね。○○さん、遊んでくれる?」「○○さんには、どう見えます?先生じゃない…わたし」「ただの亜里沙でいられるビーチ、うれしかったです、○○さん♪」(いずれも特訓前)と語っている部分だ。この点から見られることは、持田亜里沙が、大人や子供という関係に無意識の内に気にしてしまうということだろう。「先生」「おねえさん」という自分を言うためには、相手が「子供」だったり、あるいは相手の「子供」っぽい部分を見つけてしまったり引率したり「しなければ」ならない。実は「くん」呼びというのは、「おねえさん」である自分を保つためにプロデューサーに無意識に子供っぽさを求めてしまう部分があるということだ。それはある意味ではロールプレイを前提としなければ通用しない。別にプロデューサーは持田亜里沙を子供扱いしたことなど一度もないと思うのだが、持田亜里沙にとって「先生をお休みして遊ぶ」ということは自動的に「自分が子供になって遊ぶ」ことになる。現に関係性がすり替わっているセリフとして、特訓後には「○○先生、わたしがやりすぎちゃったら、叱ってね♪」というものまで現れてくる。
     [甲斐のウサトラ][ウサコちゃんとチアー]はアイドルでの経験を溜める意味で重要なのだが、Pへの関係ではそれほど大きな変化はないように思われる。また[オータムコレクション]にしても、パラリゾ以来のプライベート風の特訓前にも関わらず「くん」呼びは変わっていない。このことはオータム自体は「おねえさん」である自分を保つという部分では変わっていないカードだからということが言えるだろう。ただし、そこにはプロデューサーが選んだファッションによって自分を担保したい、というセリフも特訓後には見られる。
     アイドルチャレンジのカードでは、遠足とは違う、自分への挑戦がメインのため、プロデューサーへの目線も子供扱いから変化が見られるようだ。[クライムI.C]の親愛度MAX「私、遠足の引率ばかりだったから…大人の○○くんと登るのは新鮮な気持ちです。」/各種クライマーシリーズ。特訓前。「先生のお話を聞いて、ノートに写して…うふふっ、今日は私が生徒さんですねぇ。」こうした発言からして、持田亜里沙が、立場や役割に自分を置いて意識するキャラクターであることが再び現れてくるのだが、クライマーシリーズでは、それを新鮮に楽しむ気持ちがいきいきと描かれている。とりわけプロデューサーとの関係では、Pを「大人」として捉え、つまり自分が「先生」でも「お姉さん」でもない人間として見つめていることがはっきりと分かる。改めて見てみると、クライマー特訓前でこそ自分を「生徒」だとか「お姉さん」だとか言っているのだが、驚いたことに特訓後のクライマーでは自分を「お姉さん」と言っているセリフが一つもない。プロデューサーのお弁当を分けるのに、「私のでよければどうぞ、食いしん坊の○○くん♪」と言っているところか、おにぎりになりきって「オイラを食べて元気になるんだ!」と言っているくらいだ。加えて、ここにはプロデューサーが何者かというと、頼れるPだとか、先生だとか、自分が何も知らない「子供」と考えてPを「大人」として捉えている…とかいう視線はもう特訓後にはない。一緒に登山を楽しむ仲間として歩いているに過ぎないのだ。
     [クラッシールージュ]がそのような過程にあるとすると、かなり違った見え方がある。そもそも特訓前での「感想は…○○くんの目を見たら、全部わかったわ♪」なども、今までの持田亜里沙からすると、異なるセリフだ。Pに感想を求めたりPのセンスを要求するキャラから、一歩踏み出している。一方で、特訓後では「セクシーでカッコいい私は、○○くんが引き出してくれたのよ」など、プロデューサーに頼っているような言葉も見られる。これはどう考えるべきか。それは「ありさお姉さん」というもっとも自分に近い持田亜里沙に関しては、自分でチャレンジしていこうという面と、一方では「セクシーでカッコいい私」といった自分では見つけにくい「私」についてはプロデューサーを信じよう、という面だろう。これはハロクイでの困難を乗り越えるひとつの答えだと言える。

    C-3:プロデューサーとの関係性
     C-2では持田亜里沙とプロデューサーの関係を洗い出しながら見てきた。自己認識というものよりもある程度すっきりした形で出てきたのではないだろうか。
     これらはあくまで「ゲーム内の亜里沙P」との関係を意味している。要求や要望を出しているモバPと同一のものではないし、また総体としてそれらが捉えられるものではない。しかし、一方ではこれらが持田亜里沙というキャラクターに動揺を与え、持田亜里沙が頼りにしたい「亜里沙P」のロールプレイにある程度の影響を与えたこともあるのではないだろうか。
     持田亜里沙にとってプロデューサーとは何かという問題は、キャラクターを作る上で重要になってくる。
     これはモバマスに拡張可能なテーマだとも思うのだが、要するにそれはモバマスのアイドルのキャラ付けに、モバPが承認を与えるという形でPとして関わっていくということである。クレームや感想を送るといったより直接的な意思表明もあるだろうが、ボーダーの数字が上がること、ガチャの売り上げが上がることによってそのキャラクターの押し出し方、キャラクター造形は叩き直されていく。おそらくは総選挙の順位もまたそこに付け加わっていくことだろう。
     ところが、持田亜里沙の場合はハロクイにおいてもうたおねにおいても、モバPの要望によってキャラクター性に動揺が与えられたものの、それ自体が人気にそれほどつながらなかったということがある。上位報酬、単独ガチャという機会を与えられたにも関わらず、持田亜里沙は総選挙で結果を出すには至らなかった。これはモバPの要望(ただし二次ネタだが)がキャラクター造形に影響を与えて、好まれる「持田亜里沙」像(ハロクイ)が提示されたものの、実際はそれほどウケなかった。そこで改めて単独ガチャ(うたおね)で方針の再修正を計ったものの、それでもウケなかった。/とりわけうたおねに関しては総選挙2ヶ月前だと考えれば……。
     このことは持田亜里沙にとって、要望(企画)を出すプロデューサーと、それを受け取るファンとをより相対的に見なければならないという意味を持つ。「子供っぽいプロデューサー」とは「うたのおねえさん」にとってはつまり教える側や「ファン」的な存在であり、そこが持田亜里沙は「亜里沙P」のファン性と、「頼れるプロデューサー」との両面性を見ているということである。/[クラッシールージュ]で強調したテーマは、そうしたファン(モバP)からの要望と「無関係に」私が考えたアピールに自信を持つと見ることができる。
     「亜里沙P」はそのような両面性をある意味では押し付けられている。プレイヤーは「ファン」としての足を強く持っている限り、カードに関しても「子供っぽいP」「頼られるP」(あるいはパラリゾ特訓前やオータム特訓前のプライベートでの「大人の○○さん」)を楽しめばよい。しかし「プロデューサー」として意識を強く持とうとすると、このような両面性が実際にはファンであるモバPにアピールできていない(総選挙に勝ってないとか、再登場が遅いとか、そういう不満をそのように転換している)と考えるため、「頼られるP」という点ではロールプレイしにくくなってしまう。そのため過度に「プロデューサー性(結果を出したい・証明したい)」という感情を持ちやすかったのではないだろうか。/対比的に、いわゆる母性キャラ属性持ちの他アイドルと持田亜里沙を比較して、こうした両面性、ないしは多重性が強調されているかは見ていただきたい。おそらくはそれほど強くないだろう。
     その場合、亜里沙Pの行動は持田亜里沙とプロデューサーのこうした両面性を、どちらが「亜里沙P」的には正しいのか(「天帝」と「おねえさん」/「子供っぽいP」と「頼られるP」)という話にはならずに、全体として整合性を取ろうとする傾向がある。一例としてモバマス版とデレステ版では幼稚園出身と保育園出身で世界線が明白にズレていたりするのだが、そこへクレームを付けたという話はあまり聞かない。キャラ崩壊を運営に提起するよりもむしろ、延々としたキャラクター解釈を行う。モバマスでは常々行われるのだが(これもそのひとつだと思うが)、持田亜里沙においては特にそれ以前の話が多いため、厳密に結論が出せるものではないということが言える。
     ただし、冒頭の文章で亜里沙Pに対するこのような見方を過去形に記述したのは、デレステによる流入によって持田亜里沙像がこうした流れを一度整理し直された面があるものと見る。またすでに述べたように、最近の持田亜里沙のキャラクターが、Pからの独立を一面では置いていることもその一端と言えるだろう。繰り返し言うまでもないが、「Pから独立した私」を含む持田亜里沙は、Pが必要なくなったという訳ではない。[クラッシールージュ]でランウェイを降りたら「○○くんのおねえさん」というようにPとの信頼関係は必要であり、多面的なものとして立ち現れているという話だ。「亜里沙P」自身が持田亜里沙に対して、自分が分かる範囲でできればよい、という部分を徐々に受け止めつつあるという物語を想定すべきだろう。

    C-4:持田亜里沙と他アイドルとの関係性・劇場を主軸に
     実際のところ、ヘレン、高橋礼子、佐々木千枝などの他アイドルで、触れざるを得ないと思った点については触れてきた。持田亜里沙のキャラクター性が「先生」にしろ「おねえさん」にしろ、そしてそれ以外の「私」になるにしても、他の人々との関係によって相対的に決めていく以上、その接点によって現れてくるからだ。
     ただし、それらをすべて網羅的に追いかけることは、重要だが今後の課題としたい。そこで、簡単にはシンデレラガールズ劇場を主とした追いかけを行う。/ただし、この場合はヘレンの話がすっ飛んでしまうのだが……。
     劇場で注目したい関係といえばまず129話「オトナの夏祭り」。いわゆる飲酒回なのだが、持田亜里沙がのんべぇキャラになってしまった始まりだ。片桐早苗が冒頭から酔っ払って、その介抱をしていたが、松本沙理奈にビールをすすめられて飲んでしまい、絡み酒に、というものだ。早苗さんの酔っぱらい相手の扱いにも「慣れてる」という発言から、飲まなければ大丈夫のようだが、上からすすめられると飲んでしまう。おそらくこの当時、それほど持田亜里沙がどういう立ち位置か決められていなかったと思うのだが、持田亜里沙はぷちデレラでも「お酒は少しくらいなら、付き合えますよ」と言っていることから、自分から積極的に飲む方ではないようだ。これは586話「アキといえば?」では、すでに飲んでいた訳なのだが、直前のチーム月見酒などでもより上の年齢の先輩アイドルに誘われて飲んでいる。21歳で毎日子供たちとの仕事をしてきた人なら深酒したくないのは自然だと思うが、一方でお酒が入ると先輩アイドルにも「沙理奈ちゃん」呼ばわりしてしまうことにも抵抗があるのかもしれない。
     21歳という年齢が微妙に高いことから、「先生」「お姉さん」というキャラクターを強化して、意外と先輩アイドルに対する関係が作れていないこともそうだ。チーム対抗トークバトルショーの劇場499話はほとんど和久井留美がかわいい話であり、744話のヘレンもそのままである。むしろ129話にしても当初は引率しますという話であり、うたおねに付随した232話「誰のレッスン?」は三人の低年齢アイドルに先生として出て来るパターン。直近の855話でもオトナとしての姿を見せていることが多い。
     唯一と言っていい違う劇場回は高橋礼子が出て来る357話「ウサコは知ってるウサ」である。ここでは礼子が「私がみんなのおねえさんだから亜里沙ちゃんも遊んできていいのよ」として、持田亜里沙の「先生」も「お姉さん」も解放している。逆に言えば、それくらい持田亜里沙にとっては染み付いたキャラクターとして見るべきだということだ。
     855話の佐々木千枝との劇場は、持田亜里沙のキャラクター性を表面的にも分かりやすい形で示している。「やっぱり亜里沙さんだ!」というタイトルには二重の意味がある。いつもと違う雰囲気の持田亜里沙を見つけて(やっぱり亜里沙さんだ!)と佐々木千枝が思い、最後にウサコちゃんを取り出すことで「でも中身はいつもの亜里沙さんだ」というオチがつく。これは実は「外見も」やっぱり持田亜里沙であり、中身でもやっぱり持田亜里沙なんだという二重の意味ということである。前者の方がより重要だ。「先生でもお姉さんでもない」オトナの女の人もまた、持田亜里沙であることをわかりやすく示している。/これが難しいのは、持田亜里沙のセリフ上では「私」の方が「外見(外皮)」のオトナの女性であり、「お姉さん」の方が「中身(佐々木千枝の言うところの)」であるということだ。実質的には、使い分けているという方が正しいかと思われるが、それは佐々木千枝側から見ると「先生・お姉さん」の持田亜里沙の方が正しいことになる。どちらも間違いではないところが重要だ。
     このようにして見ると、やはり最新話はとっつきやすく持田亜里沙を表現している。ぜひ参照されたい。


    D:帰結
     当初は試論として予定していたのだが、予定よりも大幅に狂ってしまった。ほぼ全カードに触れたことは良かったのだが、これ以上手を広げたり整理したりして進めていくには、まずどう管理すべきかを考え直さなくてはならない。他アイドルについても必要最低限しか触れられず、イベントやユニットについても、記憶の許す程度という有様だったので、とにかく一通り触れたという意味で一旦メモとして出すことにした。/必要があってまとめようとしたこととはいえ、気づけばこんなに…。
     とりわけキャラクターの整理として重要なのは、持田亜里沙が「アイドル」なのかどうかという点だが、そこについて、ある程度の物語を作れたことは良かった(こういうのはぷちデレラやデレステのコミュでまとまって読めるはず)。が、それらを解釈することはもはやあまり重要ではない。これ以上は特に何か構成する必要もないだろう。



    追記(3/16):新規にて記事を建てようとしたが、思ったよりも面白くなかったため、繰り入れることにした。さらに長文の記事となるが、分けてもあえて読む人はいないと判断する。

    持田亜里沙試論 担当P化アピールについて

    A:モバマスにおけるプロデューサーとは?
     モバマスではプロデューサーは、「ファン」であり「プロデューサー」でもあるというアイマスの系統に即した意味付けを持っている。これはシナリオ上そうなっているという意味に留まらない。というのも、モバマスでは実際のアイドルの活躍度、シンデレラガールズ内でのトップアイドル……すなわち「シンデレラガール」か否かを「ファン」自らが人気投票によって決め、それを「プロデューサー」がアピール合戦を行って戦略を立てるという形で参加できるようになっているからだ。しかもその結果が今後の展開に実際に反映されることになる。
     しかしながら、そもそも稼働当初からこの「プロデューサー」が機能していた訳ではない。総選挙が最初から存在していた訳ではないし、確かCD化も「人気キャラ」が投入されていくという形が当初の入り方だったはずで、ただただ「ファン」として受け取ることが正しいモバPのあり方だった。「プロデューサー」気取りで悩むようになったのは、総選挙が始まってから、その後の展開にボイスがつき、再登場期間などを整理していく中で、担当Pとして特定のアイドルを集中的にアピールしたり注目したりすることを覚えて以後のことだ。
     このような担当P化が深く進めば、誰でも自分の担当アイドルを連打して押し出して総選挙などに臨みたいに決まっているだろうが、それは差配しようがない。当然そこは販売企画として成立する(早い話が売れる)かどうかにかかっている。そして今回の総選挙の推されるキャラクターの傾向と投票行動はおそらくこうなるだろう。すると地盤を固めつつも、こういう押し出し方をしなければ……「プロデューサー」的に考えるほど、そういう見方をしがちではないか。これではやはり面白くない。したがって、運営のゴリ押しなるものを疑って気勢を上げるよりも、ぐっと堪えるか忘れるかしてひたすら「ファン」として考える方が楽しめる。/大雑把にまとめると、これも肯定的な受容が多く見える一要因である。
     このような経路をたどれば、モバマスにおけるプロデューサーは、「ファン」と「プロデューサー」という両面性を持つと言いつつも、「ファン」的な側面が本質的なものだと言えるだろう。それはコミュでBADを拒否するという点からも明らかではないか。「プロデューサー」的な視点というのはBADコミュ以前に、トップアイドル(とアイドルマスター)を共に目指すPとアイドルという関係が成り立つのだろうが、「ファン」目線として考えるならば、ややいやらしい言い方をすればこのアイドルに金を落としたいかどうかと見る。何しろモバマスでは、気に入らないアイドルどころか、気に入ったアイドルまで取引して手放し、買い戻すこともできるのだから。
     ただし、だからといって「プロデューサー」としての側面が消え失せる訳ではない。ことに総選挙を重視する担当PにとってはそうではないPに比べるとどのように現れるかが重要となる。そのアイドルが嫌われないようにするために、出番に気を配ってほしいと思って公式に意見するのはもちろん、キャラ設定が崩壊しないように解釈を積み重ね、アピールを文書や画像でまとめることもよく行われている。総選挙のアピールも当然そのひとつだろう。/しかし、もちろんそれだけでは勝利に結びつく訳ではない。また、以前から話しているように、モバマスには敗北の物語が与えられることはほとんどない。
     モバマスの設定上、おそらくアイドルたちは「ファン」も「プロデューサー」も必要としている……とは言える。言えなくもない。
     かつてはモバPは同じ「ファン」からスタートしたと言えるだろう。しかし、担当P(あるいは複数担当などもいただろうが)と化す過程で、アイドル同士の競争がそれぞれのPにも影響を与える。アニデレ、デレステと新しく人が流入してくれば、それらのPはすでに与えられた環境の中で生きていることがはっきりしている。もはや総選挙の必要がないPも多い。そのため、同じモバマスのキャラクターと言えどPは一様ではなく重層的だ。そこに「ファン」や「プロデューサー」という両面性を持つと言えども、当てはまらないPの方が多い。しかし、モバマスのプロデューサーに「ファン」的な要素だけでなく、アピール行動を取る人々がいる理由はおそらくそこに根がある。
     今回、持田亜里沙を取り上げる上では、モバマスの流れを追いかける必要がある。上記記事はすべてモバマスの流れであり、参照されたい。

    B-1:持田亜里沙を支えるのは「子供たち」か「ファン」か「プロデューサー」か
     持田亜里沙を「プロデューサー」との関係で捉えるとき、非常に苦労し、困難を感じたのは、その「プロデューサー」が何者なのかがつかめなかった部分にある。[ハロウィンクイーン]にせよ[うたのおねえさん]にせよ、設定上「プロデューサー」自身が企画しているのだから、持田亜里沙が困惑しているとしたら「プロデューサー」の責任があるなどと考える。しかし、自分という個人の感覚に当てはめてみると、多くのモバPや亜里沙Pとはかなり隔たりがある。/たとえば「母性」という受容のスイッチが俺には一向に入らないことについては以前から話したが、これは「ファン」的側面、あえて言うならキャラクターに預けてしまう感覚のようなものを指すのではないだろうか。ここを持田亜里沙で重視しないのは明らかにおかしいのかもしれない。
     しかしこれらはまず、持田亜里沙が多数の側面を持つのと同じように、「プロデューサー」にも「ファン」やさまざまな担当Pがいる(つまり亜里沙P以外も)と考えればよい。はたして「プロデューサー」の中に担当P以外の誰が一人のアイドルのすべてのカードを網羅的に収集し、整理するだろうか。だがそれ以外の「プロデューサー」が発信されたアイドルを受容してイベントカードからフロントにそのまま慰留して楽しんだり、総選挙で投票行動を行ったりすることは全然ありうる話だ。/また大前提として、公式の存在を忘れてはなるまいが、ひとまずそれは置いておこう。
     今回、「プロデューサー」に両面性があると考えた場合、持田亜里沙は設定上その二つの面を主に見ているということになる。そこで「ファン」としてのP、「プロデューサー」としてのPというように書き分けてみよう。ところがここで、持田亜里沙とはなんだったのかを前回のまとめから拾い上げてみると、「先生」や「おねえさん」……特に子どもたちの「お姉さん」になりたかったことから、Pに対しても「子供っぽい」面を見出していることが分かる。これは「ファン」「プロデューサー」とは厳密には違う存在といえるのではないだろうか。
     もちろん、外側からすればキャラクターを受容する「ファン」とそのファンへ投票を促す「プロデューサー」という二つの役割でしかモバPは存在しようがない。しかしキャラクター設定として見た場合は、アイドルに対するファン、アイドルに対するプロデューサー、そしてお姉さんに対する「みんな・子どもたち」という存在の仕方は十分にありうる。ここには持田亜里沙のキャラクターの設定上、どうしても二つだけではPの捉え方が収まりきらないことを示している。設定上、「亜里沙P」は両面的というより多重的にならざるを得ない。
     すると、ここには持田亜里沙の核になる部分、支えとなる部分は、Pの何の面に頼っているのか、というテーマが生じる。「ファン」か、「プロデューサー」か。それともまったく別の、たとえば「お姉さん」を成り立たせてくれる「子供」としてのPか(いや、Pは子供ではない)。実は前回で確認したように、持田亜里沙の物語においては「ファン」がアイチャレで実際に登場したり、Pの「子供っぽい」面がしばしば強調されたり、もちろんPの「プロデューサーを頼りにしている」という部分をセリフが語られたりしている。テキストに明確に記されているということは「亜里沙P」もまた統一されよと言っているのではなく、その時々で持田亜里沙の支えとなっているPは違うという表現のように見える。
     しかし、モバマスにおける「プロデューサー」の実体は、金を落としてボーダーを明らかにし、人気投票によって順位を決める「ファン」的側面が、数字という形であまりにもはっきりと出やすすぎた。ファンの姿がアイチャレでようやく接近して語られたことを思い出してみると、持田亜里沙にとってもこの「ファン」が支えであったというよりは自らのギャップを作る要素であったことを示している。同時にそれは「頼りになる」と「子供っぽい」の間で動いている「プロデューサー」という点からも、あまり支えになったとは思えない。
     Aのまとめたテーマにおいても、モバPの「プロデューサー」的な側面がアイドルを支えるという構造は、そもそもモバマスにおいては成り立ちにくい。これはモバマスにはそもそもPとアイドルの物語はほぼ成立しないのではないか、ということにも由来するが、それはモバPが「ファン」的であって「プロデューサー」ではないということを意味している。

    B-2:[クラッシールージュ]にみる「ファン」と「プロデューサー」
     実際、何が持田亜里沙のキャラクター性を支えているのかという話では、設定の上でもいろんな要素があるとは言えても、どれが核になるとは言いにくい。設定上、「先生」「お姉さん」には「子供たち」を前提にしなければならないということを繰り返し述べているが、[クラッシールージュ]があえて子供たちとは遊べないメイクのカードであることを考えれば、そこまで前向きな形でたどり着いたと受け取ることになる。ここでは[クラッシールージュ]の到達から考えてみることにしよう。
     [クラッシールージュ]が特徴的なのは「○○くんのありさお姉さん」もやめて「私」になること(もちろんそれを見出したのも「プロデューサー」なのだけれども/「セクシーでカッコいい私は、○○くんが引き出してくれたのよ」)をセリフで語っていることだ。「子供たちのお姉さん」をやめ、「○○くんのありさお姉さん」をやめてランウェイに登壇する。
     この関係を整理しておくと、「○○くんのありさお姉さん」という「○○くん」とは実は「ファン」的側面に近い。当たり前だが「プロデューサー」的な見方であれば、企画によって魅力を引き出して売り込むことを中心的に考える。だから持田亜里沙にとっては、いつもと違う「私」ということは、いつもとキャラが違うけど見慣れていない「ファン」のみんなは許してね、という見方になる(劇場も中身はちゃんとありさお姉さんだから大丈夫、という内容だった)。逆にランウェイに上がる「私」を支えているのは誰かというと、「目指すのはランウェイで最も輝く私…そうよね、○○くん」というセリフに象徴されるように、トップアイドルを目指すために企画する「プロデューサー」的側面と言えるだろう。
    /これを象徴するようなやり取りをいくつかツイッタやネット上で目にする機会があった。「亜里沙Pはカッコイイ系の亜里沙先生は嫌がるのでは?」という心配をされていたことがあったのだ。これはむしろ逆で、[オータムコレクション]で髪下ろしやメンズライクのファッションを通過していたことや、ぷちデレラが追加されたこととも相まって「プロデューサー」は基本的に歓迎であった。オータムを知っているPは分かるとしても、やはり見慣れていない「ファン」の方が戸惑ったのではないか。同時に「プロデューサー」が新しい企画を立てても「ファン」が喜ばなければ無意味であるが、おそらくそこは杞憂だと思う。
     もちろん[クラッシールージュ]は持田亜里沙自身の「私」というテーマと、この企画自体を上位報酬に持ち上げてきた公式の意図があることは言える。しかし、Pとの関係で言えばこうした両面がフォローされている点に持田亜里沙のポイントがある。特訓前がPの「ファン」的側面へのアピールと考えれば、むしろ持田亜里沙は意図的にモバPの「ファン」的側面と「プロデューサー」的側面を掴み取ろうとしているキャラクターへ変貌していると言えなくもない。

    C:持田亜里沙からみる「担当P化アピール」
     上記のまとめを再構成することはしない、と述べた。だからここでは、ABにしたがって、持田亜里沙がなぜモバPの「ファン」的側面と「プロデューサー」的側面の両面を意識的に捉えようとしているのか、というところへ絞り込んでいきたい。設定として「先生」や「お姉さん」を再度論じることはひとまず上記でまとめてある。
     ここで「プロデューサー」的側面と繰り返しているが、改めて「プロデューサー」的側面とは何を指すのか。そして[クラッシールージュ]で持田亜里沙がそこにアピールしたとはどういう意味を持つのだろうか。
     「プロデューサー」的側面とは、モバマスではとにかく総選挙で他のモバPへアピールするための意識だと言ってしまおう。B-2で述べたように、いくら髪を下ろして、「カッコイイ私」なる持田亜里沙を新規SRで描き下ろしたとしても、それが実際にファンにアピールされなくてはあまり意味がない。ただし大事なのは、それ以前の問題として、持田亜里沙はそれまで本当にトップアイドル=シンデレラガールを目指すのかどうか、という問題があったことだ。「うたのおねえさん」という夢を叶えてしまい、デレステでも[うたのおねえさん]が追加された以上、実は持田亜里沙というキャラクターの目標は、夢の代用としてではあるが一定の達成を見ている。[クラッシールージュ]が「プロデューサー」的側面へのアピールとして大きいのは、すでに取り上げた通り「最も輝く私」を子供たちとも関わりのない舞台で宣言したところにある。つまり、これはそもそもの動機づけなのだ。
     そのことがいわゆる「ファン」的側面に与える影響とは何か。
     ここではモバPの「ファン」と「プロデューサー」が両面的であり、どちらか片方しか存在していないという訳ではないことを考える。総選挙というファン投票で一番望ましいのは、特定のPになっていないモバPを担当Pになってもらって、いわば同志として一緒に広げてもらうことである。つまりその担当にただ投票する「ファン」から「プロデューサー」になってもらうことだろう。/ここでは総選挙に力点をおいて強調ばかりしているが、モバPの「プロデューサー」にとって一番喜ばしいのは仲間が増えること、担当Pになってもらうことで間違いない。担当P化がモバPの「プロデューサー」的なテーマだ。
     何よりもやはりぷちデレラコレクションはファッションショーという設定のイベントでもある。「うたのおねえさん」で満足したというイメージが固まりやすいキャラクターから、より高みを目指しているという訴えは、「ファン」の獲得とともに「ファン」からの移行も促すと言えるだろう。そもそも「カッコイイ私」を持田亜里沙に最初から求めている「ファン」はおそらくいない。「先生」で「お姉さん」、甘えさせてくれる彼女がアイドルとしてチャレンジするという展開、普段と違う一面というイラストに惹かれるものだろう。
     持田亜里沙は[ハロウィンクイーン]の経験がそもそも特殊であり、Pの声に応えるという形で仕事を引き受けたものの、そこでキャラクターとのギャップを受けた面がある。そこから仕事を積み重ねる中で、アイドルとしての蓄積を重ねてきた。そのことが、「ファン」と「プロデューサー」との違いを見ながら「あなたも私のプロデューサーになって!」というアピールにつながっている、と考えられる。

    D:モバマスではそもそもPとアイドルの物語はほぼ成立しないという話をした。だとするならば、「プロデューサー」的側面などという話、そして担当P化へのアピールなどという話は一番バカげている内容になるのではないだろうか。
     まったくそのとおりだ。
     「プロデューサー」同士で票を取り合っているファン投票というのはいったいなんなのだろうか? 総選挙がすべてではない、というPが大勢いることも無理のないことである。
     しかし、おそらく「ファン」で居続けるには、追い込む要素がモバマスには多すぎる。可能なのはそれを緩和することだ。持田亜里沙の場合、それは上で述べたことが役に立つだろう。


    追記2(4/17):微妙に伸びていると思ったら、話題にしてくださった方がおられたんですね。実際のところ、整理する、と意気込んだものの、カードチェック、まとめだけでかなりの時間を要したことや、はっきり言って「これで持田亜里沙の魅力を語ることになっているのか…」という苦しさを覚えた関係で、完全には清書しないまま公開した経緯があります。またナイーブな気持ちになっていたこともあって、総選挙後は全部持田亜里沙記事は消そうと思って(最後の持田亜里沙論というのも書いて)いたんですが、いろいろと考える一助になったならもうしばらく残しておこうかな……。
     いくつかコメ見ても、それぞれの受け止めの方が整理されているように思いました。やっぱりね、自分がどう思うかなんすよ(多分)。
     俺がいま一番困ったなーと感じていることは、亜里沙先生が「みんなのアイドル」って言ってることで、そりゃ「みんなのアイドル」に育てたプロデューサーと言ったら、「みんなのプロデューサー」じゃないとなぁと勝手にハードルを上げてしまっているところです。/亜里沙Pにはがっつり深入りしているのにしっかり兼任Pな人も多い印象がある。
     総選挙については結果がどうあれ色々書いていきますが、なるべくポジティブに語っていきたいところです。
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