デレステ持田亜里沙試論
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デレステ持田亜里沙試論

2017-04-29 00:21
    A:モバマスとデレステが別物だということはよく言われている。明らかに異なる設定、違う物語、性格、背景が用意されていることは、モバマスと長く付き合ってきた担当Pであれば実感しているところだろう。しかし、それはどの程度違うものであり、そしてなぜ異なるのか。あるいは変わったからとしてそのアイドルに対してどんな意味を持つのだろうか、という点についての解釈は行われているのだろうか。
     というのも、あるキャラクターの解釈は、自分が付き合ってきた延長線で積み重ねていくものだからだ。異なる設定、違う物語が与えられた時、それを受け入れられる、受け入れられないと判断することも含め、そのキャラクターを連続したものとして判定を下していくことによって「異なる」「違う」という判定がくだされる。デレステはモバマスのあとに来ている。時間の流れとして、モバマス→アニデレ→デレステ→PSVRという拡大は間違いなくおこなわれており、同時に重要なことはライブその他の複数の層によってすでに単純な延長線だけでは捉えきれない中にひとつのキャラクターが折り重なっていることを前提としなければならない。担当Pが仮にデレステにおけるアイドル像を拒絶した場合もまた、それはそれとして、どのような順番で組み立てられたから自分は拒絶したのか、どういう層から与えられた物語、設定だから否定したのか、という理由が絡みつく。
     つまりモバマスとデレステが別物だという理由は、まず第一に「デレステから始めたプレイヤー」という層を想定しているからではないだろうか。異なる設定、違う物語は、モバマスの担当Pに与えられたものというよりは、デレステの新規のPに対して与えられたもの、あるいは最初から整理し直して、位置付けされ直して与えられたものである。なぜならデレステから始めたPにはそもそも延長線にすべき前提となるキャラクター(アイドル)像が存在しないのであり、異なる世界ということはつまり、接続されていない、モバマスとはリセットされたもの(しかし様々な条件は都合よく引き継いで叩き直された上で)としてキャラクターを位置付けている可能性がある。/常務が度々顔をだしたり、某リアルSSRアイドルさんが登場したりしたのも、そのためである。
     これはモバマスとデレステを同時に掴み取ろうとする場合、公式的には統一的なキャラクター像、キャラクター見解なるものを、あえて作り出すつもりはないのだろうと自分は考えているのだが、それを置くにせよ、モバマスとデレステが異なる場合、どの程度違うのか、ということを把握し、論じているものはそれほど多くはないようである。/というより、こういう厄介系のモバマス評論おじさんは大概記事を閲覧されないのだ。
     たとえば具体例として、持田亜里沙の前職がモバマスとデレステで保育園と幼稚園であったことは常々挙げられる。しかし、それが一体なんだというのだろうか? どんな意味を持つのか? 持田亜里沙のキャラクター像にどんな違いを与えているのか? これを論じたものは少ないと言わざるをえないだろう。
     極めてわかりやすい違いであり、そしてこれを解明することによりモバマスとデレステがなぜ異なる設定を持っているのか、ということが明らかになるかもしれないにも関わらず、持田亜里沙について論じられないのは、少々さびしいところがある。幸いにして、モバマス版の持田亜里沙を試論としてまとめた経緯があり、デレステ版をまとめることで、比較が容易になるだろう。

    B:デレステ版持田亜里沙の自己認識
    B-1:手法
     以前、持田亜里沙の試論にて行ったことは、持田亜里沙がどのような自己認識を持っているのかということだった。つまり、「先生」なのか「お姉さん」なのかということが曖昧であったこと、そしてそれは持田亜里沙が「子どもたちのために歌うおねえさん」という連続性が、はじめてのSR[ハロウィンクイーン]で一旦断ち切られたことにより、迷走したことによるものだと見た。本来初の大仕事であるはずのSRが、「先生」でもない「お姉さん」でもないアイドル像を求めてしまったことにより、持田亜里沙は「子どもたちのため」という点から、むしろ子どもたちを置いてもアイドルを選んできた自分を自覚していく物語に注目していった。そのことが「子どもたち」にも応えられるアイドルになる、というテーマである。/ただしこれはあくまで試論のひとつであり、統一的な持田亜里沙像を形作るものではない。
     実は保育士か幼稚園教諭か、という違いを追及したところで、それは持田亜里沙本体にたどり着く訳ではない。このような試論の手法を使うこと、つまりデレステ版の持田亜里沙の自己認識がどうだったのかということに注目していけば、明らかに異なる設定の違いが際立ってくるのではないだろうか。

    B-2:「先生」と「お姉さん」がはっきりと分かれているデレステ版
     デレステ版の持田亜里沙のカードはNとSR[うたのおねえさん]の二枚だけである。これらのセリフは、ホーム画面、ルーム画面、アイドルコミュ(メモリアル/特訓エピソード)によるものから見ることが可能だ。そこで持田亜里沙の自己認識として、モバマス版で行ったように自分をどのように読んでいるのかを、まずホーム画面とルーム画面からそれぞれ抜き出してみる。

     Nホーム画面。「ありさ先生ですよぉ。もう、覚えてくれました?」「先生とお姉さん、どっちが好きですか?どっちもできますよ」ウサコちゃんにもふもふしたいですか?あ…ありさ先生に?」。Nルーム画面。「ありさ先生の本気、見たいんですか?結構すごいんですよっ♪」「おうたが聞こえてきますね。ありさ先生も歌いたくなってきたなぁ…」「持田さんって…あ、私のことですね!ありさ先生に慣れちゃって」
     N+ホーム画面。「ありさ先生にも可愛いところはあるって、教えてあげる…♪」「ありさ先生が変身しちゃったー!って…園で話題になっちゃったらしくて♪」「ありさ先生が教えられることもあるのかな…?何でも聞いてね♪」。N+ルーム画面。「ありさ先生のこと、しっかり指導してね!○○くん」

     SRホーム画面。「いつもはお姉さんもレッスンを受けてますけど…今日はありさ先生です」「千枝ちゃん、とってもきれいな声~。ありさ先生にもっと聞かせて~」「○○くんも、ありさお姉さんのレッスン、受けてみる?」。SRルーム画面。「走り回っちゃダメですよ~。お姉さんとの約束ですっ!」「ウサコちゃんと遊びますか?それとも、ありさお姉さんがいいですか~?」
     SR+ホーム画面。「よい子のみんな、集まって~!ありさお姉さんとおうたの時間ですよ~!」「可愛いありさお姉さんになれてますか~?うふふ♪」「引っ張らなくても、ありさお姉さんは、みーんなのお姉さんですよ~」「○○くんもよい子です。ありさお姉さんの自慢です!」。SR+ルーム画面。「今は、このルームのお姉さん…できてますか?○○くん」「ありさお姉さんの前では、背伸びしなくていいんですよ。ほら、力抜いて」。

     以上を比べてみれば、SRこそ他アイドルへのレッスンするシーンがあるために、先生が顔を覗かせているものの、くっきりとNでは「ありさ先生」SRでは「ありさお姉さん」になっていることが分かる。これはモバマス版のNで少なくとも特訓さえすれば(アイドルの衣装さえ着て舞台に立てば)自分を「お姉さん」だと位置付けていたゆるい自己認識とはかなり異なっている(実はモバマス版ではR[ウサコちゃんと]でもうすでに「うたのおねえさん」の夢が叶ったと思ってしまっている)。デレステ版の持田亜里沙が、この「先生」と「お姉さん」に対する使い分けには強い感情を持っていることが見えてくる。
     また、Pに対してはすべて「○○くん」で統一してあることも注目すべきだろう。対Pに対しても認識が整理されているのである。
     注目しておきたいのは、Nにおける「どちらもできる」というセリフだろう。持田亜里沙がかなり強く使い分けを意識しながら、どちらもできるとして言葉にしているのは、「うたのおねえさん」に対する強い思いがあるからこそのアピールが見て取れる。

    Bー3:前職を語る持田亜里沙
     デレステ版持田亜里沙のもう一つの特徴は、前職とのつながりをよくよく口にすることだ。以前にも「少し泣く持田亜里沙」というテーマで論じたことがあったが、モバマス版との違いで言えば、この前職とのつながり、重みがかなり違う。
     ホーム画面ルーム画面以外に、親愛度上昇で見られるセリフや、コミュでも泣いている子どもたちを歌で仲直りさせるなど、とにかく子どもたちとのつながりを感じさせるものが多い。具体的には親愛度上昇のセリフを見ていこう。

    N「保育園を辞めるとき、子供たちを泣かせてしまって……。アイドルにならなきゃ、申し訳ないですね。」「LIVEってたくさんの人に会えて、笑顔をもらえるんですね!アイドルの道を選ぶこと、迷ったんですけど。でも……これなら、大丈夫そうです!実は泣かせてしまった子供たちに、もう一度会いたくて。今度は、ステージで歌って踊るありさお姉さんを見せてあげたいんですっ!」
    N+「あまり知られてないかもしてないですけど……保育士のお仕事ってすっごく大変なんです。それでも、好きだったから続けられたんです。笑って泣いて大きくなる……子供たちの助けになるのが、大好きで。でも、アイドルなら……。もっとたくさんの人の助けになれますよね、たくさんの人に笑ってもらいたいですっ♪」

    SR「先生をしていたのは、それほど昔のことではないのに……今、懐かしく感じているんです。きっと、アイドルとしての日々が濃密だからですね。」
    保育士を辞めたとき、アイドルになるって決意をしたのに、やっぱり寂しくて、少し泣いたりもしたけれど……。でも、今は幸せです。たくさんの笑顔に囲まれて、私も自然に笑顔になっちゃうんです。ふふっ♪今の私なら、幸せな歌を、たくさんの人に届けられると思うんです。まずは○○くんに……。聴いてくれますか?」
    SR+「ありさお姉さんですよ~!小さい頃から憧れだったうたのお姉さんのお仕事ができるなんて、夢みたいです……。でも、ありさお姉さんの憧れは終わりません!アイドルになって、憧れが増えちゃいましたから♪全部に手を伸ばしたい!大人なのに、全然諦められないんです。諦めなければ、夢は叶うってこと、○○くんが教えてくれたから!」

     以上を見ていくと、本当に驚かされる。Nでは子どもたちを泣かせてしまったことにつづいて、SRでは自分も泣いてしまったことを語っている。NでもSRでもデレステ版の持田亜里沙は「子どもたち」のことを考えてアイドルをやり続けてきたことが、繰り返して語られているのである。こうした前職の経験がアイドル持田亜里沙に強烈に染み付いていたという物語が、実はモバマス版ではほとんど示されていない。だからこそ持田亜里沙は簡単に[ハロウィンクイーン]に乗れたのであり、しかしそこから矛盾を感じ、様々な仕事をやりぬいて「私」としてアイドルになることができたのでもあった。
     ここではデレステ版の持田亜里沙が「子どもたち」のためにアイドルにもなる、という物語性がストレートに獲得できている。本来、目の前の子どもたちのために今の仕事を辞めてしまうことは、子どもたちを泣かせることであり、自分も泣いてしまうことだった。ところが、Nの直後に[うたのおねえさん]を得ることによって、デレステ版の持田亜里沙はストレートに「子どもたち」のためのアイドルという物語を矛盾なく続けることができてしまっているのである。
     キャラクター内部の矛盾があるかどうか、という部分に注目する時にこそ、実は持田亜里沙にとってのデレステとモバマスの違いがはっきりと表れてくる。

    Bー4:責任感と矛盾のない自己
     以上を踏まえれば、デレステ版の持田亜里沙像をより正確に書くことが出来るだろう。その第一のテーマは責任感だ。実はコミュのスカウトこそ公園Pの口車にあっさりと乗ったものの、持田亜里沙の口の端々からのぼるのは「子どもたちを置いてやるからには良いアイドルにならなければ」というものだ。上記親愛度上昇でも「アイドルにならなきゃ、申し訳ないですね。」などと言ってみたり、N+ルーム画面では他にも「アイドルにも責任は感じますけど…ちゃんと背負って歩きます」といったセリフがある。こうした持田亜里沙像はモバマス版からはほとんど見られないと言って良い。
     そして、SRでも担当してきた子どもたちのことを気にするセリフが多く、明るくてやさしく、そして真面目な印象が伺える。/モバマス版に責任感がないという訳ではなく、率先して引率してくれるが、物語としてここまで背負っている感じではない。
     それが「子どもたち」のためにアイドルになる、という自己認識につながっている。持田亜里沙がやりたかったこと、夢は「うたのおねえさん」なのだが、それは泣いている子たちのためにもなるんだ、と思わなければ、やりきれなかったのではないだろうか。たとえばここで[ハロウィンクイーン]などが挟まれたらどうだったろう。
     したがってデレステ版の持田亜里沙には、アイドルになる上で、そしてこのさきもアイドルを続けるうえで、自己認識と物語に矛盾が存在していない。あるいは存在していたとしても、それは最初から背負って入ってきているものである。そのような意味で、確かにまったくデレステとモバマスは異なっていると言える。
     物語やキャラクターにとって、矛盾や欠損というものはそれを克服する過程、回復する過程を目標とするため、むしろ設定されていることの方が多い。それがないということは、簡単にいえば、デレステ版の持田亜里沙は筋が通り過ぎているのだ。何のためにアイドルをやるのか、なぜアイドルを続けるのかがはっきりとしている。「先生」にも「お姉さん」にも最初から持田亜里沙はなれるのである。/すでにモバマスで経験済みだから、簡単にカードも追加することが出来た。
     しかし、SSRなど、デレステでのもう一段階上のアイドル化のための物語のための動力が、実はここで失われている、と言ってもよい。「うたのおねえさん」が叶ってしまった以上、物語自体はここで完結してもおかしくはないのである。もちろん可能ならもっと手を伸ばしても良いが、どうしてもやらなければならない理由はないからだ。

    C-1:内部と外部
     B項でデレステ版の持田亜里沙を見てきた。この持田亜里沙像から感じられるものは、「子どもたち」のためのアイドルという真っ直ぐで責任感もある女性、というイメージでよいだろう。実を言うと、あまり取り上げなかったのだが、Pに対してもなでなでしてくれてうれしいだとか、特別な存在であるということを一応アピールをしているのだが、デレステ版の持田亜里沙は「子どもたち」と前職の経験を軸にしてアイドルに入ってきたため、Pとの物語がなくても通用してしまう。いなければアイドルになっていないのだからさすがにそれはないのだが、持田亜里沙そのものが不安定であり、常に揺さぶられ続けてきた存在であるモバマス版に比べて、デレステ版は非常にすっきりしていて分かりやすい。
     モバマス版はそもそも幼稚園教諭だったということも最初は明らかではなかった(初出はSR[うたのおねえさん]時であり、およそ2年と数ヶ月後に判明したことになる)。したがって子どもたちのため、という感覚は持ち込みようがなかったはずである。/モバマス自体がそんなに重い設定の人はそれほど多くは……あ、いや……三重……いや……。
     しかし、以前から述べているように、こうしたデレステの前職の経験、その物語を持ち込むやり方は、山頂アイチャレに活かされている。むしろモバマスはまっすぐに整理されていないからこそ、こうした新たな影響を持ち込み、付け加えることで、矛盾をたたき台にして物語を新しくしている。ここで考えるべきなのは、前職の経験が持ち込まれていることや責任感のあるなしが大きな違いなのではなく、あえて矛盾を抱え込んで物語を描いているかどうかにテーマを見るべきなのではないか。
     たとえばデレステでは、持田亜里沙の外見にとってもっとも重要な初期装備である「ウサコちゃん」が、3Dではつけられないまま実装されて現在にまで至っている。そしてデレステ全体で考えてみれば、デレステの曲すべてが「子どもたち」が喜ぶものとは限らないのであり、ここには明らかにコミュやセリフから外れた部分での、いわば物語外の矛盾を抱えている。というか、抱えざるを得ない。/なんでも、どんな曲でも踊れるということは明らかにおかしい。怖い曲を踊ったら泣かれてしまうことだって考えるはずだ。/だからこそ、せめて物語上はストレートにアイドルが可能なものを設定しなければならなかったのではないだろうか。

    Cー2:モバマスにおける矛盾
     モバマスでのSRという大きな初仕事が、どちらかと言えば「先生」や「お姉さん」ではないものとして設定されたことは、持田亜里沙にとっての求められるアイドルがキャラクター性から発していなかったことを意味していた。つまり外部のネタを、内部の物語に持ち込むことでファンの獲得を狙ったのだが、実際はむしろ矛盾を抱える形で走らざるを得なくなったと言える。しかし、これは逆にモバマスのアイドルという物語が、もともと持っているはずの本質的なキャラクター以外を求められ、揺すぶられることで動くものであると言える。
     先日もモバマス総選挙のセリフを見比べてみながら考えていたのだが、第1回選挙の持田亜里沙像は、現在とはかなり異なっている。

    ウサコ「ヤァヤァ○○クン、ワタシを選んでくれてアリガ…」ちょっ、ありさ先生がマジメにやってるんだから最後まで聞いてよぉ!」

     上記のような持田亜里沙のセリフは、おそらく現在ではほとんど出てこないものではあるだろう。そもそもウサコちゃんの扱い自体がかなり限定的であるし……「先生」から「みんなのアイドル」を目指すという決意をしていることは、すでに述べた通りだ。持田亜里沙というキャラクター自体が、モバマスの中で数年がかりで変化してきたと言って良いだろう。これはモバマスが根本的に内部のキャラクターを変化させ、物語を積み重ねることをよしとしてきたゲームだから(あるいは亜里沙P自身がそうなってでも売れてほしいと思ったから?)と言えるだろう。
     これと対比するならば、デレステは出発点として予め出来ないこと、そして越えられない壁や矛盾を想定しつつ動いてきたことははっきりしている。デレステにおける矛盾とはC-1上記で述べたように、ひとつは外見的な衣装が統一であるため、重要な「ウサコちゃん」がつけられないことはもちろんだが、物語上[ハロウィンクイーン]で発したような「これは自分とは違うかもしれない」という疑問などはどんな曲でも踊れるように設定されていることで最初から封じられてしまっていると言える。

    Cー3:保育士と幼稚園教諭の違い?
     さて、ここで保育園と幼稚園の違う理由に触れてみる。といっても、保育園と幼稚園が現実にどのくらい異なるかではなく、持田亜里沙の背景的にどのように異なって使われているのか、ということである。
     これまでに考えてきたことは、そもそも保育園と幼稚園という明らかな違いがあるが、実際にどのくらいデレステとモバマスでは異なるのか、という違いを書いてきた。これをそれぞれ当てはめて見ると、デレステ版の持田亜里沙は「子どもたち」をしっかりと意識したまま、お互い泣いて保育士を辞め、アイドル業界に入っていき、モバマス版の持田亜里沙はそのような背景はそれほど強く語られず(実はSRでも劇場でウサコちゃんを置いたままオルガンを弾いていたとか、そのくらい)、どちらかと言えばふわふわした決意でスカウトされた印象を与えているということだ。
     B項では責任感と付けたが、過去の物語が持田亜里沙のアイドル観と直結しているデレステ版からは、保育園を辞めて別れることに重みが感じられる。一方で、モバマス版では過去があまり語られないということや、明るくて元気な性格を形成した印象があるため(子どもパワーに付き合う劇場回などもあり)、幼稚園勤務は子どもたちとの楽しい時間だった、というイメージが中心的である。/率直に言えばデレステ版の持田亜里沙には水着だのへそ出しだのは着させることに抵抗がある感じもするのだが(まあN+が足が結構出てるからね)。
     決定的に違う点で言えば保育園が0歳から通う福祉施設であるのに対し、幼稚園が教育施設ということだ。本来、先生とするならどちらも幼稚園でも問題ないはずなのだが、デレステ版で保育園を採用したのは、こうした「子どもたち」に対する背負い方を検討した可能性がある。
     デレステ版持田亜里沙は、きわめて整理された形で自己の認識を「先生」と「お姉さん」でより分けているが、「子どもたち」に対する問題から考えるとむしろそこを外してはならなかったのではないだろうか。保育士資格と幼稚園教諭免許状。どちらも「先生」であるには違いない。しかし自己の認識として考えた場合、「子どもたち」から離れる責任を背負うと考えるならば、実際の教育施設で働いていた先生という立場よりも、むしろそうではない方が強い意思に変わる。
     デレステ版の持田亜里沙にとって、先生でもお姉さんでもあるのではなく、むしろ何かではないのだとしたら、それこそが前職の保育園という立場に他ならない。

    D:まとめ
     デレステとモバマスの設定上の違いは、物語の外部か内部かに矛盾の有無を見出すものではないか、という提起にまで論を進めた。
     ここで一旦持田亜里沙論としてもまとめておきたい。ひとつはデレステ版の持田亜里沙が「ありさ先生」と「ありさお姉さん」の2つの自己をはっきりと使い分けが出来ているということだ。そしてその土台となっているのは、前職の保育士の経験、「子どもたち」に対する責任感であり、「それでもアイドルはより多くの人を幸せにできる」という物語を矛盾なく掴み取っていることが現時点では言えるだろう。/何しろ実際のところ、二枚だけなので、今後どうなるかはわからない。
     このことは保育士と幼稚園教諭の違いにまで検討した場合、「~でない」の論理が強く働くために付与された可能性があると言えるだろう。
     ところでこうしたデレステが矛盾のない物語を整備している理由は、誰もが共通したステージに立てるようにするためだとして、考えている。したがって物語上はない矛盾が、むしろ物語外で起きやすいことは見ておく必要がある。これを暫定的な結論としたい。(2017:04:29:21:50)
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