参考:日本語と持田亜里沙
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参考:日本語と持田亜里沙

2017-05-11 21:22
    A:これかぁ、と思った本を紹介。持田亜里沙試論の参考になるからです。
     「日本語とジャーナリズム」って本を読んでいたところ、「日本語は関係性の中でのみ成り立つ言語だ」みたいな論が紹介されていて、これは面白そうだなぁと思い、片岡義男「日本語の外へ」を読んでみる。すると、これがすごく面白いんですよ。多分もうすでにあれこれ書かれていたのでしょうが、なるほどと思ったので。
     日本語は英語(他言語)と比較したとき、主語がなくても成り立つくらい、自由である。それはなぜか。日本語には具体的な関係の場が予め存在しており、その場の性質によって自分や他者が常に変化するから、主語はその具体的な場によって変わる。逆に言えば場によって常に自分を変えなくてはならない(もうひとつ言っておくと、その自分と他者との関係は常に上下関係である、そうだ)。/つまり、他者が子どもたち相手ならば「ありさ先生」であるし、テレビの前のみんななら「ありさおねえさん」である。もちろん、プロデューサーが相手ならば、「アイドル/私(ただし、持田亜里沙の場合は「ありさお姉さん」)」になる。
     こういう考え方なんですよ。
     実は最初に取り上げた「日本語とジャーナリズム」は、このような具体的な関係の場をあらかじめ想定して繰り入れている日本語は、それ自体が自己中心的な言語であり、客観的な事実を伝えることが極めて難しい言語だ、というところから論じている本なんです。それは持田亜里沙試論に関しても悩んで苦しんだ部分と一部折り重なっているところはありました。だって具体的で分かりやすい関係性が魅力でウリのはず(先生とかうたのおねえさんとか)のキャラクターが、ある意味ではそこを否定されて、混乱させられてしまったところから、どうやって自分は持田亜里沙を伝えていけばよいのか……そこから出発したものですから。/これも全部主観的な見方なんですが、あらゆる主観を肯定したいがための試論ですからね、あれは。

    B:当初、自分は「持田亜里沙が「~でない」アイドル、キャラクターだ」という位置付けをしました。この位置付け、あるいは迂回した議論をしたことには、いくつかの段階があります。
     まず究極的な目標としては自分は持田亜里沙さん、というか亜里沙てんてーにCG取って声もついて大活躍してて、もっと言うとCGとかは大げさな話で、自分が何もしないでもみんな喜んでいるような状態で「良かったね」って言って終わりたい(あるいはフェードアウトしたい)わけです。でもそれはちょっと無理です。
     段階を下げますね。
     それは放っておいても持田亜里沙が登場するかどうか分かる状況にないからですし、当然ですがそう簡単には声もつかなけりゃSSRも来ないからです。しかも2度も上位報酬いただいている優遇で、すべて総選挙圏外だから、今のまま大活躍はちょっと無理ですし、何もしないで楽をすることも無理だからです。これは事実です。
     そのうえで困難なことは、じゃあそれはそれとして、一見優遇されていながら、どうして持田亜里沙を広げにくいのか。あるいは持田亜里沙の魅力をストレートに語りきれないか。自分は持田亜里沙を語りたいが、なぜそこに正面からの突破が難しいのか、それが試論を行った理由でした。迂回した議論を持ち出したことは、本当に日本的なのですが、周囲の亜里沙Pらしき人たちもまた、不思議と亜里沙Pと言い出したがらない現象をわかりやすくしたいという思いもありました。
     次の段階です。これまでに右往左往した持田亜里沙試論をまとめてみます。
     持田亜里沙というキャラクターはもともと「先生」や「お姉さん」という自認を持っているキャラでした。しかし、それは本来子どもたちとの関係を前提としているものでした。だからアイドルの道を選んだ以上、それとは異なる仕事を始めれば、そこで揺さぶりが起きることは当然ありえます。ありました。それが[ハロウィンクイーン]です。特に問題だったのは、これが持田亜里沙にとって初めての上位報酬、初めてのSRだったことです。それがセリフにもこれは私らしいのか、という自認を揺さぶるものとして現れてきました。持田亜里沙はそこから「アイドル」としての自覚を高めることで、「先生」や「お姉さん」という「子どもたち」との関係を前提とした自己から、より幅の広い「ファン」との関係を前提とした「みんなのアイドル」を目指します。
     実はアイドルになることは、持田亜里沙と子どもたちとの関係の断絶を含んでいるのではないか、という提起を含んでいました。[うたのおねえさん]でいくら低年齢のアイドルと組んで「ありさ先生」という自己を再び供給しても、それは本当の「幼稚園の先生」ではない。このことが本当に自覚的に取り入れられたのは、デレステのコミュを待たなくてはなりませんでした。こうして子どもたちを置いてしまったのでは、という揺らいでしまう「私」を、「プロデューサー」との関係を一応の支えにしながら、持田亜里沙は成長しようと考えます。「先生」でも「お姉さん」でもない「私」を引き出してくれた(ある意味では子供たちから引き剥がしてしまった)Pとの緊張感の中に持田亜里沙はいます。これがアイチャレを通じて、[クラッシー・ルージュ]によって到達した持田亜里沙像です。
     ところがモバマスの中ではPとアイドルの関係は、直接的に影響があります。ということは「~でないアイドル」との関係の中にあらかじめ組み込まれているプロデューサーは、同時に「~でないプロデューサー」という存在になります。「プロデューサー」は「先生」に対する「生徒」でもなければ「お姉さん」に対する「子ども」としても振る舞うことも本来はできません。ゲーム内Pは持田亜里沙を揺さぶっていることがすなわち、持田亜里沙にとってふさわしい仕事をきちんと与えられているのか(きちんとプロデューサーとして仕事をしているのか)、という物語性を帯びています。また外的にも総選挙で圏外を取り続けているという事実が、「アイドル」を支える「プロデューサー」としてきちんと出来ているのか、という自認を揺さぶります。これ、言っている意味分かりますかね? なんで亜里沙Pが正面突破をなかなかしにくかったのか、という理由の解明につながると思うんですが。
     以上が、試論でやりたかったことの主なまとめです。
     こう考えてみると、非常に持田亜里沙が日本語的な世界の中で、関係性に揺さぶられたあいまいな「私」を使い分けながらもたたかっているキャラクターだということがわかります。その一応の結論として、今回の総選挙で持田亜里沙が打ち出したアイドル像が「みんなのアイドル」です。何度も繰り返しますが、これはちょっとヤバいです。誰に対してなのか、という関係性がめちゃくちゃ広いですよね。「育ててくれた」と投票コメントでは言っていますが、ぶっちゃけそこまで育ってないです。それは上からも下からも、おとなもこどももおねーさんも、誰からも愛されるアイドル、という存在です。それもう国民的アイドルでしょ。まだ一歩引いたとしても、アニデレやデレステでPが増えた中で、持田亜里沙を全員のPが「アイドル」として認識しているのかどうか?
     ここで言えることは、持田亜里沙の突破可能なアイドル像が示された。しかし、持田亜里沙は本当に「みんなのアイドル」であるのか。Pがすべきことはそのイメージと事実の差をきちんとつかむこと、そして近づけることの2つ。/では自分はとても亜里沙Pとは言い難いが、持田亜里沙を「みんなのアイドル」にするための条件整備くらいは可能ではないか。

    C:なぜ自分がいちいち自分に対してPと言い難いと留保をつけるかというと、モバマスの世界はたぶん日本語的な世界だからです。
     モバマスはP同士の関係によって作られた密度の濃い世界です。総選挙ではアイドル同士の関係、P同士のアピールで投票を促していくため、つながりを作ことがとても重要です。総選挙ではもうソロのたたかいはあまり得策ではないです。投票券が限界まで課金してもそれほど入手できないためです。するとですよ、関係やつながりが作れない子、それによって予測ができないでしんどい思いをしている子にとって、ソシャゲの世界に居場所はありません。回りくどい言い方をしましたが、これは俺がぼっちだという意味です。
     そして持田亜里沙はそういう関係やつながりがけっこういろいろと断ち切られながらも自分流の何かをがんばって見つけてきたキャラクターであります。その言葉はまだ完成してません。いくらなんでも「みんなのアイドル」は広すぎる気がするし、デレステで言っていた「大きなお友だち」はちょっと気持ち悪いのではないか。
     今後、持田亜里沙を広げていくためには、持田亜里沙を「みんなのアイドル」に出来る限り近づけていく、あるいはさらによい言葉を見つけていく、そのあたりにカギがある。持田亜里沙がしっかりとした目標(今はあまりにも大きすぎる気がしますが)が出来ましたので、つながりや関係をつくることは他の亜里沙Pがやってくれるでしょう。
     そのためにも、関係を作れない子でもさしあたりなにかしらの整備自体は可能なのではないかと考えられますね。たとえば情報源、データの整備については、関係性の構築とは無関係に作ることができます。多分。
     話は終わります。
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