キャラクター化と物語問題 メモ 3
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キャラクター化と物語問題 メモ 3

2018-04-06 21:43
    A:前回のつづきです。やればやるほど無学非才が暴露されるのですが、前回は「キャラ/キャラクター」が「身体」をラインにしていること、そしてその理由が作品/作者の関係の中で身体を前提にしているのではないかと書きました。
     キャラのレベルとして消費すると、作品から離れるので作者のことは本来無視されます。そうすると逆に「キャラ」のレベルでは「作者」が喚び出されることも難しくなるはずで、基本的には「作者」を仮定できる作品でなくては呼び出せません。そしてその場合、「キャラ」は常に「キャラクター化」しているはずなのです。ところが作者が仮定しにくい作品…モバマスの「キャラ」とか…が不遇だとか、優遇されてうれしいとかを投げる場合、複数の作品にまたがっているにも関わらず、キャラクターを人間らしくある「身体」を仮定すると同時に、「身体」のようなものを仮定した「作者」らしきものを消費者は喚び出します。おそらくそれが「運営」や「公式」や、あるいは「千川ちひろ」といった存在です。/考えてみれば、作者には作品に対して責任がありますが、それは身体のレベルであって、本来「身体」のレベルではありません。
     さて、「キャラクター化するキャラクター」と自分が言う場合、この「身体」のラインはとても大事になります。つまり、すでに「キャラ」という、いわば身体を持たないイメージが大量に溢れており、まあ確かにこれらだけでも十分にprprできるわけですよ。ツンデレとか妹とかだけでもイメージが湧いて萌えて消費できる、みたいな。ただこうした「キャラ」は実体化しても、適切に人間らしさを持たないと、単なる化物みたいな造形にしかなりません。そこに「身体」を与えていくためにはおそらく物語を必要とし、それによって「身体」を得ていくことを「キャラクター化」といいます。
     これらの「キャラクター化」を意識的に、自分から、つまり溢れている「キャラ」を自ら物語っていくことで自分の身体に「身体」化していくキャラクターを「キャラクター化するキャラクター」と呼んでいい、と思います。しかし、実際は身体と「キャラ」がズレを生じ、物語れば物語るほど落差やギャップに苦しむことになります。この解決自体が物語過程になっていることに注意していいと思います。

     これをもう少し前の段階から考えてみます。
     「キャラ」のレベルで自足できると伊藤剛氏が言っていたように、「キャラ」のレベルで消費することはおそらく可能です。しかし、それでは消費者というか、読者やプレイヤーは「キャラ」のレベルだけで消費するのか。あるいはしていないとしたら、なぜ、どこのラインでそうするのでしょうか? これはさしあたり思いつく「二次創作」と「ゲーム」の二つを挙げます。前回もお話しした通り、創作するためには「キャラ」を別の作品/テクストに編み込んでいく必要が出てきます。二次創作者の作品における身体化…「キャラクター化」がここで起きます。またゲームは、同一作品内でキャラクターが別のルート、別のエンディングをたどることにより、毎回のプレイによって繰り返し「キャラクター化」が図られます。特に後者のテレビゲームの普及は、消費者が単に「キャラ」のレベルで自足するだけでなく、物語を繰り返す「キャラクター」消費を促したと考えられます。
     ドラクエ4コマのように「キャラクター化」(つまり物語することで「キャラ」の身体をその作品に位置づけること)するゲーム漫画は、ある意味ゲームのリプレイです。/たとえばレヌール城で何度も聞き返す王の霊のネタを取り上げたとして、これ自体がプレイした時に出てきたイライラとか笑いとか、ネタになるな、っていう部分をキャラに託すわけですよね。/すると、「キャラ」のレベルでの自足というのは、あらかじめ繰り返しプレイ可能なキャラクターが配られているという漠然とした前提を具えているのであって、やはり読者やプレイヤー、すなわち消費者はキャラクターを物語とセットで消費しているのではないでしょうか。
     すでに述べた通り、都合よく「キャラ」のレベルでの自足と「キャラクター」レベルの消費を切り替えるだけなら、「キャラ」批判と「キャラクター」批判を使い分けるし、作品批判のように作者と切り離すことも可能のはずです。しかし、明確な作者が存在しないはずの(つまり複数にまたがって使われている)「キャラ」に「キャラクター」を見出すとき、そこには物語が働いているとしか考えられません。それを作り出しているのは実際のところ、仮定されている「作者」ではなく、個々のプレイヤー、つまり消費者が物語をして「キャラクター化」を行っている訳です。
     各作品、ゲームでもアニメでも漫画でもラノベ(つまりキャラクター小説)でも、繰り返し使われる同じ「キャラ」に対し、消費者はその「キャラ」の「キャラクター化」である作品を見てプロの物語技術を学びます。あるいはゲームのように、自ら物語をして「キャラ」を「キャラクター化」します。俺が「キャラクター化」と呼ぶこの消費とは、弾力性のある「キャラ」というイメージを身体化する物語作業のことで、大体良いでしょう。/ただし、最近は作品そのものに触れる前から反応できるようになりました。ゲーム実況など、自分で物語する技術が失われてしまう可能性はありますね。

     ちなみにここまでは00年代の到達点として、いくつか評論が生み出されていたわけですから、その後の展開を見るに創作者が意識的に作品化していたと考えられます。/……まあだから僕が不勉強なだけなんですけどね。

    B:ううーん。そうか、いやでも、まさかな。
     えーとですね。「キャラ/キャラクター」という分類は伊藤剛氏の発明なのですが、ここで「キャラ」のレベルで自足するってことを考えると、ある作品のキャラクターを「キャラ化」すること、と考えられますね? つまり「キャラ/キャラクター」と分けることは、ある作品から切り離されたレベルを発明することであり、ある作品によってのみ生き生きと人間らしさを生み出せるレベルを発明することであった訳です。
     めちゃくちゃ飛ばしているのでもう少し。「キャラ」のレベル、とか、そこでの自足、と当然のように言っていますし、その例示として二次創作から言っていたんですが、ぶっちゃけ二次創作は創作じゃないですか。だから自足すると言っても、自分の作品へと転化しているんですよね。二次創作を使って「キャラ/キャラクター」という分類を導き出そうとしても、その過程はどちらも創作なんだから、これは「キャラクター」を作る作業です。ここには原作の人間性ある「キャラクター」を捨象して、一旦二次創作に使いやすい「キャラ」のレベルにプールする、という「キャラ化」が行われていると仮定しましょう。すると、我々は創作する態度(物語すること)は、「キャラ化」を経て「キャラクター化」することだ、と決めつけることができます。
     これは、「キャラ/キャラクター」分類によって、作品の登場人物が社会的な影響や作者の思いを自在に語ったりあるいは読み取ったりできる存在ではなく、ある作品/テクストに従属させられている「キャラクター」になった、と指摘してよいでしょう。このことから、作品から作者が身体を仮定される「作者」となり、作者の気持ちは読み取れなくなり、テクストは歴史性を帯び、「キャラクター」にならざるを得なくなりました。逆に言えば、大量の「キャラ化」によってプールされた「キャラ」から適当な「キャラクター」を使って物語ることは非常に簡単になったとも言えます。
     これはフィクションのキャラクター自身さえもキャラ化とキャラクター化を頻繁に行うようになった背景です。およそこれまでは「キャラクター」と言えば身体がラインになっていましたし、今もそれはそうですが、それは作品においてのみそう、というだけです。容易に「キャラ」に転化してしまいますし、作品の中ですらキャラ化したり、キャラクター化しようとして失敗したりします。

    C:前置きが長くなりましたが、わたモテの修学旅行編に進みます。
     キャラ化とキャラクター化は何が違うのか、整理しておきましょう。
     もこっちはすでにある「ビッチ」「キャバ嬢」という浮遊するイメージを自分に定着させようとしてあれこれモテるために努力します。これが自分の身体と合わないために、怪我をしたり、恥ずかしい思いをしたり、とにかく失敗をします。またラノベアニメなどのカッコよくてうまくいった映像を自分にトレースしようとしますが、これも失敗します。これらは直接アニメのキャラクターが存在しますが、いずれももこっちが「キャラクター化」して自分に結びつけようとしたものです。/おそらく、厳密には「キャラ化」の過程が一旦存在する、と見てよいと思います。
     これに対し、「ヤンキー」「コオロギ」など次々と現実の存在に対して名付けをしていくことは、強烈な「キャラ化」の意識と言えるでしょう。この意識が強烈なのは、本来現実の人間は付き合いが長ければ色んな側面がある存在だな、と感じ取って修正していくのに対し、むしろ呼び続けて止めない点にあります。すでに挙げた二点もそうですが、もこっちは最初につけたあだ名……というより半ば悪口のような「キャラ付け」をなかなか変えません。/もっともこれらの議論は牽強付会に過ぎるかもしれません。もともとイメージで相手に取り組むという姿勢は、人間誰しもあるものですから。ただ「キャラ化」とイメージで思い込んで接する、という点で大きな違いは、フィクションと半ば理解しつつあえて態度を続けるところがあるかもしれません。
     具体的に見てみましょう。修学旅行編以降。
     まずヤンキー(吉田茉咲)に対してです。
    (見た目がヤンキーだしきっとニコチン切れだな…ほんまゴミクズやで…)(喪73)「清水寺で土下座して動画晒されるのは……ヤンキーだし……」「や…やっぱりヤンキーだから高い所好きなの?」「やっぱり金とか好きなんだね ヤンキーって成人式にキラキラの袴着たり卒業式に金色の刺繍のイメージあるもんね」(喪74、以上・8巻)
     いや~…ひどいっすね! これのひどいところは、後半の発言では喧嘩売ってない(つまり、一部褒めてる)ところです。分かるのは9巻。
    (でもヤンキーっていいよな ぼっちでも悲壮感ないし 他人に合わせず生きていけるし)(喪82・9巻)
     そして、ヤンキーに憧れてお父さんのタバコに火を点けて火傷をし、登校中に吉田さんとゆりちゃんに話をするんですが、先生に聞かれてパクられます。このように、もこっちの「ヤンキー」に対しては「キャラ化」と「キャラクター化」が行われていることが分かりますね。ここで注意してほしいのは、現実の人間とは違うんだな、というズレを意識することがなく、むしろ自分が修学旅行で「真面目で大人しい班長の黒木さん」と思われていると勘違いしていることです。/むしろゆりちゃんや吉田さんにはバカだとかイカれた奴だと思われています。
     その後も吉田さんには、なぜか軽口を叩いて連れていかれたり、ゲーセンで連れていかれたりします。
     修学旅行編以来では、絵文字(内笑美莉、うっちー)というキャラ付けもすごいですね。ちなみに、もこっちは修学旅行以後、うっちーに対してほぼ関心を失っています。どちらかと言うと身体が美人さんなので、体育祭などで見に行ったりしますが、自分からアクションを起こしに行くことがあまりありません。チョコもお返しですしね。
    まさか下の毛そろえようとした所 絵文字に見られてたなんて…… せっかく処女で友達からハブられてそうだから仲良くしてやろうとしたのに…(喪80・9巻)
     修学旅行の最終日、ふたり部屋で、心理テストでうっちーが処女になる選択を選んだから偉そうにしていたら……というワンシーンです。ここでは「処女」や「ぼっち」にキャラ性が置かれているというより、もこっちにとっては「ビッチ=非処女」にキャラ性が置かれていると考えます。要はキャラのレベルなるものは、自分が好きな…もこっちであればモテる人格としてのそれがあればよいので、違うなら特に深めないのでしょうか。
     このように考えれば、もこっちがうっちーを深追いしなかったり、あるいはゆりちゃんにほとんどキャラ付けとも言うべき名前を付けない理由が見えてきます。一旦「キャラ化」を経て「キャラクター化」が行われるので、「キャラ化」に値しない人物には関心が持てないんですね。

    D:ところで、このように見ていくと、わたモテがもこっちの「キャラ化」と「キャラクター化」を通して見ていく物語であることが分かります。
     たとえば吉田さん。吉田さんはヤンキーという「キャラ化」をしたことで、ディズニー好きであるとか、かわいいキャラ物が好きとか、そしてそれを指摘されると暴力を振るうことでますますキャラクター性を強化されました(つまりキャラクター化が進んだ)。そのため、そこから外れた行動を取り始めるともこっちが修正しようとしたり、ヤンキー同士でその「キャラ」が異なっていても指摘されることがほとんどありません。
     具体的に示します。
     喪98のヤンキーと相合傘して、会長と帰る回です。ここでは、帰り道に車が水たまりを跳ねて会長にかかりそうなところを、傘を出して吉田さんが護ります。そこでもこっちが(こっちの方がいい子なのに)(こいつが暴力ヤンキーだって分からせないと)と、修学旅行で殴られたことを話したり、なんとかして株をあげようとコンビニでコーヒーを買ってきたりします。
     また遠足回では、「ヤンキーはディズニー好き」という「キャラ」が崩れ、一人だけはしゃぐ吉田さんが、他のヤンキー仲間とケンカして合流します。しかし、この話で「ヤンキーがディズニー好きではない」と指摘されることはありませんでした。
     他の人も示しましょう。
     もこっちが「コオロギ」と呼んで蛇蝎のごとく嫌う小宮山ですが、喪89では体育祭で弟を撮っていたことを指して盗撮犯呼ばわりまでしています。その上、目の前でデジタル万引きを指摘されて逆ギレしたスマホを置き忘れ……という中で、小宮山は普通に返してくれます。
    (……なんだ? いい奴ならいい奴でむかつくな… こいつは私以下のゴミくずであってほしいのに……)
     この言いようです。ややキャラクターとしての位置づけは「ヤンキー」に比べると弱いのですが、嫌っていた相手が即復讐する、といったいかにも漫画めいた行動を取らないだけで、「いい奴(?)」と認定してしまい、それを修正する考え方は分かりやすいでしょう。/ただここでは小宮山のキャラをゴミくずにもう一度修正しようとかはしないですね…。
     そして重要な点は、このもこっちの見方はどこから供給されているかと言うと、おそらくネットやラノベアニメといったすでにある「キャラ化」され、「キャラクター化」してある物語です。現実の人間に合わせてイメージを修正するのではなく、自分が当てはめた「キャラ」からズレる度に、合わせるよう強要するか、できずに怯えて距離を取ります。
     おそらくもこっちはかつてそれが出来ていたのは、エロくていい匂いがして、何でも自分の話を聞いてくれるゆうちゃんだけでした。それが、今はいくつかのアテ(弟・今江会長・ゆうちゃん)などを確保していく中から、ヤンキーにキャラを強要して締め上げられたりしてきた……と考えられます。
     この時、問題があるとしたら、読者もまた、どっぷりともこっちの見方、ネットやラノベアニメ、またゲーム漫画によって生み出されてきた「キャラ化」「キャラクター化」のプールに浸かって、物語を見ていることではないでしょうか。現実の人間や現実の事態に合わせてイメージやキャラクターなるものを修正していくのではなく、「俺や私がイメージした「キャラ」に合わない」から、キャラ崩壊している、という見方です。

    E:しかし、この見方は浅薄であり、わたモテは勝手なイメージ、勝手な「キャラ」によって自分や他人を位置づけるために失敗してきたもこっちを、かなり丁寧に描いています。最新回もなかなか興味深いですね。まこっちに借りた少女漫画を読みながら、
    (すっげー定番だな……地味系女(という設定)がイケメンに好かれて… こういう漫画のせいで私みたいな本当の地味女が高校生活に変な憧れをもつんだよ……
     結局ブスが沢山のイケメンに囲まれるなんて実際はないからな……)
     とキレキレに言います。/ちなみにその直前には、まこっちと食べたいキバ子を遠目に「少女漫画でイジメてた女が主人公と仲良くなるのが大嫌いだから読まなくなった」とこれまたキレキレなことを言います。
     調子に乗っていた高校前の自分に対する発言ですが、第1話では「私程度でブスだったら、ガチのブスに失礼」などと言っていたことも思い出すと良いでしょう。ここでも「地味系女(という設定)の美少女キャラ」と「本当の地味女である自分」と対比させ、やや「キャラ化」していることに気づきましょう。もこっちは自分を「本当の地味女」などと言っていますが、1年生の自己紹介から盛大にスベり(大きな紙を持って短い自己紹介をするという訳の分からないやつ)、友達を作れないまま2ヶ月経って出遅れて、その後もどんどんコミュニケーション不全気味になりました。ハンカチの代わりにパンツで汗を拭いてビリビリに破くし、Gを足で踏むし、2年生以後も自己紹介を失敗して「黒木さん状態」という流行語をつくり、地味というより触れてはいけない「例のあの人」呼ばわりされていたんですが、おそらくモテるかモテないか、少女漫画の主人公かそうでないか、という基準でみると「地味系設定の美少女」と「本当の地味女」というキャラになるのではないでしょうか。
     そして……おそらく困ったことに、もこっち以外もなんか似たような?発想で見てない?ということが再確認できた最新話でした。まあ多かれ少なかれ、人間はイメージで他人を見ていくのですが、多分、もこっちが3年生でもう一山あるとしたらこの辺かもしれないですかね。
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