『僕たちのゲーム史』とキャラクターとしてのプレイヤー
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『僕たちのゲーム史』とキャラクターとしてのプレイヤー

2019-07-23 23:22
    さやわか『僕たちのゲーム史』星海社新書 2012年9月

     本書はゲームが誕生して30年ほどになる時期を振り返り(著者は当時38歳)、「僕たち」の暮らしに根付いたゲームの歴史を記述する。もう7年も前なので記述は古いのだが、アプローチや学説史を掴む上では結構面白い。
     著者はその方法として、
    ・ゲームはボタンに反応するもの
    ・ゲームは物語の扱い方に向き合ってきた
     という2点に注目しながら書き記した。
     この点はあとがきでより深く明かされる。ゲーム論をいくつかの方法論(アプローチ)で検討する際に、①懐古、②印象論、③産業(売上、業界動向)、④原理(遊びとは何か)といった4点がある。
     一方、ゲームは現在でも容易に手に入り、実際にプレイできるものもあるのだが、著者は当時の人々が書いた文献から当たる方法を取ろうと試みた。/これは文献的アプローチというやつで、やればやるほどドツボにはまるやつである。
     本書の方法はある程度それに従った成果と言えよう。
    ※ちなみにこれと似たような方法論として製作側の意図を汲み取ろうとする「ゲーム夜話」さんもオススメ。

    ○ところで本書ではゲームに物語は必須ではないとして、物語を変化させることをゲームの定義に含めていない。
    「たとえば『テトリス』というパズルゲーム…この作品には全く物語性がありません。」本書p14
     しかしこの「ボタンを押して反応する」ことの意味はなかなか重要だ。
     ゲーム以外の物語は、大体が演者や作者がいてその物語を受容するものだが、ゲームの物語はそのように制作側がムービーで物語を強制したり強制イベントでキャラを殺したりすると、かえってプレイヤーから反発されクソゲー扱いされてしまう。ゲームにおける物語は基本的に体験型なので、主力で種を使ってたのに離脱するとかされたらキレてしまう。/でもさ、知ってたら使わないし、今更言ってる人はさすがにリアルタイムじゃないと思うのよ。散々探索にも時間をかけた上で離脱されるからキレる要素にもなったんだと思うんだけど(種は中盤くらいまで残して置く派)。

     ここで重要なことは、「ゲームはボタンに反応する」という定義である。これは物語に関わらず「ゲームはプレイヤーによって内容が変わりうる」ことを意味している。
     たとえば第一章では「スーパーマリオはアクションゲームではない」と題して記述されるが、それはマリオが「物語性を強調した」アドベンチャーゲームとして売り出されたことによる。
    テレビの中のマリオはあなたです。このアドベンチャークエスト(遠征)を完結できるのは、あなただけなのです。」本書p31→マリオの説明書より
     そして、他にもゲーム雑誌の記事から、「ロールプレイングの要素を含んだ、リアルタイムアドベンチャー」や隠し要素に裏技を満載したアドベンチャーゲームが強調されていることを紹介する(隠れキャラ、ボーナス満載ゲームなのじゃ どこにあるかは自分でさがそーね(これはアドベンチャーゲームなのだ) 本書p41『Beep』マリオ紹介記事)。著者はそれを可能にしたのは、フィールドを駆け回ることのできる「自由度」、ジャンプひとつで敵を避けたり足場を飛び越えたり、ブロックを下から叩いて探索することだとする。
     ここで強調されているのは、与えられた物語をこなす反射神経系のゲームではない。またマリオになりきるというロールプレイング要素だけとも言いづらい。プレイヤーが主人公となってゲームを体験する、という要素だ。実は本書ではこの「体験」と「プレイヤー」という要素を見ながらも、「物語性」をゲームの中にあるキャラクター劇に押し留めている。それは以下のような問題から見られるものだ。

    ○本書では、第二章において、アドベンチャーやロールプレイングゲームはそもそも物語性を重視したゲームなのか、という提起をする。
     この2つのゲームはいずれも指輪物語の世界を下敷きにした『コロッサル・ケイブ・アドベンチャー』と『D&D』によるものだが、海外で親しまれたのは一人称視点のアドベンチャーゲームであった。一方、日本では『惑星メフィウス』などによりアドベンチャーゲームに三人称視点が導入される。
    「一人称視点のアドベンチャーゲームにあった、「自分自身が世界を探索する」(=探索もの)という要素は弱まり、アニメのような物語を眺めながら筋書きを自由に変えることこそが、ゲームの醍醐味になっていったのです。」本書p56
     そこで堀井雄二さんのドラクエが出る…前に、『ポートピア連続殺人事件』が出てくるのだが、ここでは本人のコピーとして以下のように載っている。
    独占スクープ! ファミコンに初のアドベンチャーゲーム登場っ!! ついにファミコンでも、アドベンチャーゲームが楽しめる! アドベンチャーゲームとは、キミが主人公になって、物語を体験するゲームなのだ。本書p67-68
     この作品はすべてのセリフが地の文ではなく、登場人物の言葉になっており、漫画のような展開にしてある。さらにドラクエでは、主人公が三人称視点になりながらも、一言もしゃべらず、鳥山明さんのイラストにより、漫画のような展開で物語性を強調する。
     筆者はこれを「物語を体験する」独自性として注目している。
     「物語」には筋書きがあり、プレイヤーが自分の意志のままに振る舞えるというのは矛盾している、だから、逆に「いかにも漫画やアニメのように「物語性の強調された世界」にプレイヤーを紛れ込ませるようなゲームを作り上げた(本書p71)」のだという。
     ここには海外では「指輪物語」というオープンワールドな物語世界が下敷きにあったのに対し、日本ではそのような物語世界の言及がない。/むしろドラクエは次第にドラマチックな物語を作りつつも、ドラクエ世界のオープンワールドを作るという方向にも進むし、日本はポケモンといい、それまで存在しなかったからゲーム世界から作り上げている感じがする。
     もう一つは、「物語を体験する」ことの意味だ。これについては後で考えよう。

    ○第三章。今度はシミュレーションゲームについて。筆者はシミュレーションゲームの面白さについて、光栄の襟川さんが『SLG解体新書』で語った発言を引いている。
    「シミュレーションとは、再現です。…自分が戦国時代に、あるいは三国志の時代、幕末に時代に生きているんだという感覚がコンピュータ上に再現されると言うこと。これが非常に大事な要素だと思います。/私はいつも「人間ドラマ」と読んでいるのですが、プレイヤーが演じる人間ドラマプレイヤーはその主人公であるということ、そのようなコンピュータゲーム世界を作り出すために非常に重大な要素は、キャラクター性だと思います。」(本書p91-92)
     ここの筆者の読み解きが重要だ。シミュレーションには史実に近く行うべしという歴史派、データを揃えればよいというデータ派、ゲームが面白ければよいというゲーム派がいたというが、光栄のゲームの面白さは「ゲーム派」に近く、「重要なのはプレイヤー自身よりも、キャラクターとしての歴史上の人物なのです。プレイヤーにとっては、織田信長などの歴史上の人物を「演じ」ながら、筋書き(=史実)とは違う結末へと物語を導くことが楽しみだというのです(本書p95)」。
     筆者はこれを堀井雄二さんと同じ「筋書きのある世界を体験するゲーム(本書p96)」という。ただこれはやや強引にも思われる。前項では「物語」とは筋書きがあるもので、プレイヤーが自分の意志のままに振る舞えるものではなかったはずだ。ところがシミュレーションゲームの面白さは「プレイヤーが本来の筋書き(=史実)とは違う結末へと物語を導くこと」だという。これはプレイヤーが自分の意志どおりに振る舞えることを指すのではないか?

    ○さて、ここまで見てくると、日本のゲームが物語性の重視をしてきたことや筆者がそれをキャラクター劇を中心に見出そうとする意味がなんとなく分かってくるように思われる。
     それは日本ではプレイヤー、すなわち個人が主体となって物語を紡ぐという考え方が非常に苦手なのだ。自分がストーリーメーカーとなる意識という感じだろうか。探索(アドベンチャー)ゲームの一人称視点の「わたし」はプレイヤーという個人である一方、指輪物語やポートピア連続殺人事件のキャラクターである。だからこそ、アドベンチャーゲームと称されたスーパーマリオでは、「マリオはあなたです」と書かれたのだ。
     しかし日本での物語とは大体与えられるもので、「自分の意志のままに」どころか、自分が動かせるものとは思われてこなかった。というのも、おそらく日本における物語(特に私小説)とは心の描写であって、何か行動して達成するものではなかったからだ。/ミステリなどは例外だろう。推理小説は事件を解決し、犯人や犯行事実を明らかにする。推理アドベンチャーはここにつながるが、こうした推理ものには名探偵などのキャラクターがつきものである。
     だから日本のゲームは主体的なプレイヤーとなってゲームをプレイすると同時に、ドラマチックな物語を、「キャラクターとして」体験することが強調された。
     ーここまでは推測ー

    ○このように、プレイヤーもまたキャラクターであるということに目をつけると、ゲーム内の物語に囚われずにプレイヤーが物語(?)を紡いでいることが理解される。実は本書にもそれは見られる。プレイヤーがゲーム内のキャラクター劇とは別の体験を語ることだ。ただし、それはキャラクター劇とはまったく異なるものなので、ドラマチックな物語性とはかけ離れているのだが。
     たとえば、著者はFF7の発売された1997年を切断線として強調しているが、それ以前からFF路線を批判的に見ている人はいた。取り上げているのは1991年10月4日号『ファミコン通信』の鈴木みそ氏の四コマ漫画。ここではⅡのヨーゼフが勝手に岩の下敷きになって死んでしまうことを指して批判しているそうだが、あっ、わたしも先だって取り上げましたね……種泥棒を……。ここで重要なことはプレイヤー自身がプレイ体験に基づいて文句を言っていることだ。
     これと同時に「ドラクエ4コマ劇場」のことについても触れておこう。このような作品群は必ずしもドラクエの物語をそのまま漫画化しているわけではない。投稿者の場合はおそらくプレイ体験からキャラクターを相対化して、ダンジョンでの苦労やキャラクターの謎、なぜあいつはあんな場所で再会したのかとか、なぜあんな道具を持っていたのかとか、そういう点を見ていく。これは筋書きのあるキャラクター劇とは必ずしも言い難く、やはりゲームのプレイヤー視点がなければ起きにくい二次創作である。
    *実際に、プレイヤーをゲームのキャラクターとして登場させるゲームもある。
     本書のポケモンがコミュニケーションのゲームである、という解明も重要だ。ポケモンはシリーズが変わるに連れて、アバターを色々と変更できるような仕組みを導入したはずだ。単純に物語の主人公、というだけではなく、キャラクターとしてのプレイヤーを意識している。
     ポケモンは単純にコミュニケーションを取るのではなく、自分をゲームのプレイヤー(というキャラクター)としてバトルしたり交換したりできるようにさせたのである。もはや本名を知らなくてもプレイヤー同士でやり取りをすることは、ポケモンの世界では当たり前である。/身内にポケモントレーナーがいるからよく理解できる。普段は引きこもりだったのに……。
     ひと夏かかって友達同士で協力して図鑑を完成させたりすれば、ひとつの物語である。これを筋書きがあるキャラクター劇と変わらないとは言えまい。多分。

     本書が示したのは、日本のゲームが物語性を重視していることと同時に、その物語性というのが実はそれまでの日本の物語とはかなり異なっているのではないか、という疑問だ。プレイヤー自身の体験や主体性に注目して、心の動きよりも試行錯誤して行動する物語はゲーム「的」小説と呼ばれているような気がする。すでに誰か言っている気もするが……。
     なおこの点に注目すると、実は異世界転生をはじめとするなろう小説などの物語が、これらのゲーム的小説に連なると言えなくもない。前回やや意地悪な観方ばかり提示したので、なぜ異世界転生が流行するのかについて再論してみたくもある。
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