ジョナサン・デミ『羊たちの沈黙』1990 背後にある暴力の連鎖
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ジョナサン・デミ『羊たちの沈黙』1990 背後にある暴力の連鎖

2018-06-10 04:02
    『羊たちの沈黙』が金字塔的傑作と呼ばれるのは、今に続くシリアルキラー&サイコサスペンンスもののゴッドファーザー的作品であるからだ。原作小説でメインとなっているのは心理描写で、これは普通は映画では使いにくいはずだが、この作品では要所要所できちんと描写されており、画面に緊迫感を与えている。それを支えるのは言うまでもなくジュディ・フォスターとアンソニー・ホプキンズの名演である。これを私が公開当時見たときには、最先端のサスペンス映画に見えたが、いま見るといい感じに古びてはいるが、時代を超えた名作の雰囲気がする。


    さて、この精巧に練られた映画のストーリーには、ある通奏低音がある。それは、「暴力」である。しかし、ここで言う「暴力」は、この映画に出てくる二人の犯罪者が画面上で犯す犯罪のことを指すのではない。そうではなく、バッファロー・ビルの犯人を追うクラリスと、犯人が同じように持つ過去についての暴力である。まず、ジュディ・フォスター演じるクラリスの父親は、彼女が子ども時に二人組の泥棒に殺されている。また、クラリス自身も父親の死後預けられた親戚の家で、子羊が虐殺されるのを目撃してトラウマになっている。クラリスが追うバッファロー・ビルの犯人は幼少期に虐待を受けており、それが元で人格を壊し、自身の変身願望を叶えるために女性の皮膚を切り抜いて衣服を作ろうとしている。


    アメリカという国はタフな国である。みながみな自分の権利を主張し、それを人に認めさせようとする。そして、人によってその実現のさせ方が異なる。教養のある大人がほかの大人に対して自分の権利を主張する場合、これは主に言語や法律を通じて実現されるだろう。ところが、暴力を通じてそれを無理やり実現させようとする人間もいるわけだ。教養のない、または貧しい大人や、あるいは暴力によってしか自分の権利を得ることができない立場にある人間。また、大人が無力な子どもに対するときも、その大人が教養あろうがなかろうが、往々にして暴力が振るわれることが多いわけだ。


    この物語に出てくる人物は、みな何がしかの暴力を受けてきている。だが、クラリスは受けた暴力を暴力で返すのではなく、社会的に昇華しようとしている。反対にバッファロー・ビルの犯人は、暴力の犠牲者であり、自身もまた暴力に呑まれている。この二人は対照的な立場にあるわけだ。だが、そのことを知るのはレクター博士のみである。クラリスは最後、すんでのところで犯人を射殺する。だが、彼女にとってそれがトラウマとなった様子はない。いま自分が対処できる暴力よりも、無力であった幼い自分が見た暴力の光景のほうが、彼女にとってはより恐ろしいものであり続けているのである。


    昔は、この映画の題名がクラリスの個人的なトラウマに基づく言葉である「羊たちの沈黙」となっていることに違和感を感じていたが、今となってはその意味がわかる気がする。とはいえもっとも、silenceは「沈黙」と訳すべきではなく(羊がしゃべるわけではない)、「静かさ」の意味なので、「静かな羊たち」とでも訳すべきだ。まあこれだと締まりがないのだが。


    とにかく、アメリカという国に偏在する暴力、それがこの物語自体を生み出しているのは確かだ。バッファロー・ビルの犯人の動機、クラリスのトラウマ、レクター博士に屈辱を与えるチルトン医師、そうしたものが見事に織り合わさって、一つの光景を生み出している。それがこの映画に比類ない統一性を与えていると言える。

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