• 哲学随想を試しに書いてみる。47

    2015-11-11 11:473
    さて、ここにきてようやく、前世紀において猛威をふるった無神論や唯物論、相対主義、現実主義、権威主義、加虐(被虐)主義…
     そして何より、
     それらのおおもととなった、
     虚無主義、
     の核心を語れる運びとなってきた。

     今こそ、ことの起こりとも言うべきニーチェの、


     「神は死んだ。」


     に向き合う時である。

     この有名すぎる命題…ニーチェの言葉で言えば箴言(しんげん)、は拝火教(ゾロアスター教)の開祖と言われるゾロアスターすなわち、ツァラトゥストラを主人公とした寓話形式で語られるニーチェの主著、
     「ツァラトゥストラかく語りき」(『ツァラトゥストラはこう言った』)
     に出てくる主題的命題なのだが、それが出てくる箇所を列挙すると以下のとおりである。



      ―1―

     「それにしても聖者は森の中で何をしておられるのです?」とツァラトゥストラはたずねた。
     聖者は答えた。「わしは歌をつくって、それを歌う。歌をつくるとき、わしは笑い、泣き、唸る。こうしてわしは神を讃えるのだ。
     歌を歌い、泣き、笑い、唸ることによって、わしはわしの神である神を讃える。ところで、あなたはわれわれには何の贈り物をしてくれるのかね?」
     この言葉を聞いたとき、ツァラトゥストラは聖者に一礼して言った。「あなたにさしあげるような何物があるでしょう!いまはあなたから何物も取らないように、わたしをさっそく立ち去らせてください!」こうしてこの老者と壮者とは、さながら二人の少年が笑うように笑いながら、わかれたのであった。

     しかしツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心にむかってこう言った。「いやはや、とんでもないことだ!この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。


     神が死んだということを。」


          (第一部 ツァラトゥストラの序説 超人と「おしまいの人間」たち 第二節)      



      ―2―

     あなたがた(民衆)のなかのもっとも賢明な者も、植物と幽霊のつぎはぎか、あいのこにすぎない。だがわたしはあなたがたに幽霊になれ、もしくは植物になれと命じるだろうか?
     いや、わたしはあなたがたに超人を教えよう!
     超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発してこう言うべきだ。「超人こそ大地の意義であれ!」と。
     わが兄弟たちよ、わたしはあなたがたに切願する。
     大地に忠実であれ、
     そして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、と。かれらは、みずからそれと知ろうが知るまいが、毒を盛る者たちなのだ。
     かれらは生命の軽蔑者だ。大地のほうで飽き飽きしている死にそこないの、みずからも毒にあたっている者たちなのだ。さっさとこの世を去ってくれればいい!
     かつては神を冒瀆することが、最大の冒瀆だった。


     しかし、神は死んだ。


     したがってこれら神の冒瀆者もなくなった。いまや最も恐るべきことは、大地を冒瀆することだ。究めることのできない者を設定し、そのえたいの知れない臓腑を、大地の意義以上に高く崇めることだ。

                                      (同上 第三節)


      ―3―

     あなたがたはまだあなたがた自身をさがし求めなかった。そこでたまたま、わたしを見いだすことになった。信仰者とはいつもそうしたものだ。だから、信仰するといってもたいしたことはない。
     いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見出せ、ということだ。そして、あなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。
     まことに、わが兄弟たちよ、そのときはわたしはいまとは違った眼でもって、わたしの失われた者たちを尋ね出すだろう。いまとは違った愛をもって、あなたがたを愛するだろう。
     そして、いつかは、またあなたがたがわたしの友となり、同じひとつの希望の子となる日がくるだろう。そのときは、わたしはみたびあなたがたを訪ねよう。大いなる正午をあなたがたとともに祝うために。
     大いなる正午とは、人間が動物から超人にいたる道程の中間点に立って、夕べに向かう自分の道を、自分の最高の希望として祝い讃えるときである。それは新しい朝に向かう道でもあるからだ。
     そのときは、没落する者も、かなたへ超えてゆく者として、自分自身を祝福するだろう。そのとき、彼の認識の太陽は、かれの真上に、天空の中心にかかっているだろう。


     「すべての神々は死んだ。


      いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う」―これを、いつの日か、大いなる正午の到来したとき、わたしたちの遺言としよう!―
     ツァラトゥストラはこう言った。

                  (第一部 ツァラトゥストラの教説 贈り与える徳 第三節)


      ―4―

     ああ、わが兄弟たちよ、わたしには誰のことでもわかりすぎるほど、わかっている。多くの人間が、わたしには透き通って見えてしまう。しかし透明だからといって、彼らを通り抜けることはできないものだ。
     人間たちとともに生きるのがむずかしいのは、口をきかないでいるのが、むずかしいからだ。
     わたしが自分でもっとも不当な態度をとっていると感じるのは、わたしの気にくわない人間にたいしてではなく、何ひとつわたしの関心をひいてない人間に対してである。
     だが、もしあなたが悩んでいる友を持っているなら、かれの悩みを休ませる憩いの場所になってやるがいい。それも、言うならば、堅い寝床、野戦用のベッドとなってやるがいい。それによって、あなたはかれにとって最も有益な存在となるだろう。
     また、もしある友が、あなたに何か悪いことをしたら、こう言うがいい。「あなたがわたしに対して犯したことを、わたしは、許す。しかし、同時に、あなたは、それをあなた自身に対しても犯したのだ。―どうしてわたしに、それを許すちからがあるだろう!」

     すべての大いなる愛、超人への愛は、このように語る。それは許しも同情も超えたところにある。
     ひとは自分の感情を抑えなければならない。感情に流されれば、やがて頭脳も流出してしまう!
     ああ、同情者のしたような大きな愚行が、またとこの世にあるだろうか?また、同情者の愚行以上に、大きな害悪を世に及ぼしたものがあろうか?
     およそ愛する者で、同情を超えた高みを持っていない者は、わざわいなるかな!
     悪魔がかつてわたしにこう言った。
    「神もまた、その堕ちる地獄を持っている。それは人間への愛だ。」
     ついこのあいだも、わたしは悪魔がこう言うのを聞いた。


     「神は死んだ。人間への同情の為に、神は死んだ。」―


     だから、同情には、くれぐれも油断をしてはならない。いまに人間にむかって重苦しい雲が同情から、押し寄せてくるだろう!まことに、わたしは天候を読むのに長けている!
     さらに、このことばもあなたがたの心に刻んでおくがいい。すべての大いなる愛は、すべての同情を超えているが、それは大いなる愛がその愛の対象をも―創造しようとするからだ。
     「わたしはわたし自身の愛をわたしに捧げる。そしてわたしとともに、わたしの隣人をも、わたしの愛にささげる」―すべての創造者はこう言う。
     すべての創造者は過酷である。―
     ツァラトゥストラはこう言った。

                                   (第二部 同情者たち)


     ―5―

     昨夜、私は庭の石塀ののそばで、古い話題をめぐって、五つとおりのことばが交わされたのを聞いた。そうした年取った、わびしい、率直な夜番たちの口から出たものだった。
     「かれは父親としては、子どもたちの世話を十分にみていないよ。人間の父親のほうがよっぽどましだ!」―
     「なにしろ年をとりすぎたのだ!もう子どもたちのことなんか、さっぱりかまわなくなった」
    ―と、もうひとりの夜番が答えた。
     「いったいかれには子どもたちがあるのかね?誰にも証明できない。かれ自身が証明しないかぎりは!わしはとうから思っているのだ、かれがそれをいちど徹底的に証明してくれたらなあ、と」。
     「証明だって?かれがかつて何かを証明したことがあるとでもいうのかね!証明するのは、かれには苦手だ。信じてもらうことが、だいじなのだ」。
     「そうだ!そうだ!信仰はひとを幸福にする。信仰してもらうこともだ!われわれだって、そうだ!」―
     ―ふたりの年寄の夜番、この光から遠い者たちは、たがいにこのように語り合った。そして悲しげに角笛を吹いた。これは昨夜、庭の石塀のほとりであったことだ。
     しかし、わたしの心臓は、大笑いのため身もだえした。身のおきどころがなくなって、まごまごしたあげく、ひどく腹の皮をよじらせてしまった。
     まったく、驢馬が酩酊しているのを見たり、夜番たちがあのように神を疑ったりしているのを聞けば、わたしは、笑いがとまらず、窒息して死ぬかもしれぬ。
     およそこんな懐疑は、とっくにかたづいてるはずではなかろうか?あんな古い、眠りこけた、白日の光を忌みはばかる事柄を、誰がめざまそうとするのか!
     古い神々は、もうとっくに、かたがついた。――それにしてもかれらは、めでたい、愉快な最期をとげた!



     神々は「たそがれ」て、亡びたのではない、――あれは嘘だ! そうではない、かれらは笑
    いこけて――死んだのだ。



     それは、神のひとりによって、このうえなく神らしくないことばが発せられたときに、起こった。、
     ――「神はただひとりである! あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない!」――
     年老いた、髭のある怒りの神、ねたみ深い神が、そう逆上して言った。

     そのとき、すべての神々は大笑いし、椅子を揺さぶって叫んだ、

     「神々はある。しかし、ただひとりの神などはいない。


      それでこそ神聖なのではないか?」



     耳のあるものは、聞くがよい。――

                               (第三部 脱落者たち 第二節)



       ――引用 : 『ツァラトゥストラはこう言った』 氷上英廣 訳  岩波文庫――



     整理の為に強いて表題のようなまとめを付けるとするなら、

     ―1―
     森に満ちる神性=精霊(アニマ)と、それにミュトス(詩歌)で接する詩人的な「聖者」への否定―

     ―2―
     大地・生命の意義としての超人の規定、および、大地や生命の逆である、虚空の幽霊や枯れ木のような迷妄・虚妄としての「神」の否定―

     ―3―
     無自覚、かつ無節操な信仰への批判、およびその超克と回帰として現れる、動物→人間のさらに延長上にある超人、の概念提示―

     ―4―
     (一神教の)神を殺す情念である同情、そして感情の批判、およびそれを超える創造の契機としての高き情念―愛、の提示―

     ―5―
     (多神教の)神々を殺す(一神教の)神の情念である妬み(ユダヤの神ヤーヴェの情念)および怒り(イスラムの神アラーの情念)への弾劾、および再び「たそがれた」信仰への批判―


     …といったところだろうか。さすがに根本命題だけあって、超人や永劫回帰、さらには多神教と一神教の確執および一神教への弾劾などニーチェの思想の極めて核心的な主題と関連付けられているのがよく解る。

     かなり引用が長くなったが、野暮を承知で解説すると、
     ニーチェの文章は、それ自体がひとつの逆説である。

     「ツァラトゥストラはこう言った(かく語りき)。―」

     という決まり文句は、詰まるところは聖人君子である孔子の「論語」における

     「子、曰く(し、いわく)。」―

     や、キリスト教の聖典、聖書の

     「主、給わく(しゅ、のたまわく)。」―

     仏典の

     「世尊、偈を説いて言もう(せそん、げをといてのたもう)。」―

     などなどといった、聖者の教説の前置きの決まり文句と同じものであり、それはそのあとの内容も含め、宗教的な教説の形式を取る・・以前に使った言葉で言えば、聖典の音律、韻律とも言える宗教的ミュトス(詩歌)の形を取った文体、とも言えるのだが、


     ニーチェの文章の最大の、逆説、は、そうした神仏や神聖なものを語る筈の、教説、の形で、その当の、神、や、天、を否定することにあった。


     以前、このブロマガでは、虚無主義のことを、それに先行する懐疑主義と独我(自我)主義の流れにおいて、
     懐疑主義や独我主義では疑いえない、懐疑しえない、とされた、
     自我、
     すらも懐疑する、懐疑の盲信・狂信、ないしは盲信的・狂信的な懐疑である
     盲疑・狂疑である、
    (※この『盲疑』『狂疑』というのは筆者の造語)
     と表現したが、

     実の所、ニーチェに先立ち、感情や情念の領域にも干渉する詩歌・ミュトスの趣きを含んだ、文学、の形式で虚無主義を描出し尽くしたロシアの大文豪・ドストエフスキーの虚無がまだそうした全てを否定しつくす懐疑だったのに対し、
     ニーチェのそれは、そうした、神、や、天、という対象をもったことが異なっており、さらには、そこに救いや新たな可能性を見出せたりもするのである。


     存在論の基本中の基本、というより、言葉そのもののあり方として、

     ある、とは、ない、でないものである。
    (逆もまた然り。ない、とは、ある、でないものである。)

     これは、かつてヘラクレイトスの論理に既に現れ、ソクラテスの対話において実践され、学問の根本であるアリストテレスの矛盾論理を踏み越えた、ヘーゲルの逆説論理の弁証法で言うところの、

     対立者の同一、

     という存在論および本質論における、最大の逆説的根本命題でもあり、

     般若経の

     色即是空 空即是色

     に等しい表現でもあるのだが、


     この場合の大事な着目点は、
     これが狂疑や盲疑の混沌・カオスから一歩踏み越えた秩序・コスモスを導く、
     というところである。

     ニーチェの超人の意義を見ても解る通り、ツァラトゥストラは、神≒天、を「ない」、と言いつつ、その逆、つまり神≒天で『ない』ものである、超人≒大地、を、「ある」、と言っているのである。

     繰り返しになるが、ある、は、ない、でなく、ない、は、ある、でない。
     ある対象の否定とはその対象の対立者の肯定であり、
     ある対象の肯定とはその対象の対立者の否定である。

     哲学の命題は常に「~である。」という表現を取るが、その「ある」はこのように解さねばならず、畢竟、「神は死んだ」の「死んだ」もまた、この「ある」の裏返しの、
    「ない(死んだ)」もしくは「なくな(成)った。」として、解さなければならない。

     こうした弁証法的智見(※智見は意見の対義語)によらずに、感情や情念で「神は死んだ。」を解するのは、デカルトやキルケゴールが考究し指摘した、幼児期および老年期に特に顕著な情念である、不安、やその行き着く果ての感情を根こそぎ失う情念である、絶望、を契機(モメント)として虚無に向き合うことに等しいが、それは極めて危険なことである。
    (たとえば、先の敗戦直後の我が国・日本にこの「神は死んだ。」がどれほど蠱惑的に響きえたことか、は想像に難くない。)


     そしてなにより、神に代替される超人の意義がはっきりと、大地、つまりガイア、と語られていることから見ても、ニーチェが否定したかったのは、その逆の、天空(ウラノス)、つまり虚空の、それも大地と対立するのみならず、大地を「冒涜」し、「究めることのできない者を設定し、その得体のしれない臓腑を、大地の意義以上に高く崇めること」だったと言える。
     この天空、ウラノス、に対する大地、ガイア、とは、前回も考察したとおり、精神に対する物質(物体)、形而上的事象に対する形而下的現象、超自然に対する自然・・・といったものということができ、たとえば自然保護によく使われる「地球は生きている」とか、「地球に優しく」とかいったスローガンで用いられるときの『地球』の語のニュアンスもこれにかなり近い。

     カントの「物自体」や、現実主義や唯物主義でいうところの「現実」や「物」もかなりなところが、これである。

     つまり、大地とは感覚や経験で把捉されるものの総体であり、それは現象であり、現実であり、自然であるため、同じく自然物でもその骸である枯れ木などよりは、動物、で喩えるのが相応しく、だからこそニーチェの、超人、とは動物と人間の延長上にある(「人間が動物から超人にいたる道程の中間点に立って~」)のである。
     (ちなみにニーチェに先行する虚無主義の文学者ドストエフスキーは、『悪霊』において、新人、という言葉で同様のことを表現しており、
    作中人物キリーロフに、「ゴリラ(動物・類人猿)から神の撲滅まで」とこのあたりの事情を表現させている。)

     前回もいったとおり、大地・自然には善悪はなく、天空・罪性とは善悪二元そのものである。

     そのあたりで、同じく絶望を契機とした虚無を追っていたニーチェとキルケゴールでも見解が分かれるのだが、(キルケゴールは感性・習性を知性に飛躍させる罪性・霊性の観点から人間と動物を隔絶された存在と捉える)
     これこそは、ニーチェが虚無を、善悪の彼岸、と喝破した所以でもあるのである。

     霊性の次元の精神性・罪性・悪魔(シン)には善悪があるが、
     感性の次元の物自体・習性・鬼(もの)には善悪はない。

     よって、神の死、は必然的に人の人たる所以たる善悪=倫理の喪失をもたらし、自我が善悪の地平である罪性を前提として存在する事情により、必然的に、自我の喪失、をももたらし、
    超人間であるのと同時に超動物でもあるところの、超人、の概念を発見しつつもそれになることの出来なかったニーチェは、

     ひとつの物自体、ひとつの自然、ひとつの動物、ひとつの現象、と化し、
     発狂することになったのである。


     皮肉なことに、ニーチェはその人生の顛末でもって、デカルトの自我、とキルケゴールおよびキリスト教の教説の人間と動物の隔絶の自明、を覆し、


     そのことでもって、われわれ近現代人・人類・人間、に大地を踏みしめせしめたのである。






     さて、神や自我を代償に大地を踏みしめた近現代人の展開・発展・活躍はその後の歴史や現代の世情のおおいに語るところであるが、ここで残る問題は、
     そもそもの神の死の発端・契機である、

     森の神性=精霊(アニマ)の死、
     および、

     悪魔がツァラトゥストラに告げた、一神教の神Godを殺した情念 ―同情―
     と、

     その一神教の神Godが多神教の神々Deitiesを笑い死にさせた情念 ―妬みと怒り―
     であるが、
     
     精霊(アニマ)の死、については過去の記事で人類最古の物語の主人公にして人類最初の自然破壊者であるギルガメシュ、や現代の「ギルガメシュ叙事詩」といえる映画「もののけ姫」の生みの親である宮崎駿氏などを引き合いにして論じたのでそれを参照して頂くこととし、

     あとの二つの考察はまた次回に持ち越すこととしたい。
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  • いじめはなくなるものである。 ―ちょっと本気の哲学随想番外編1―

    2015-10-01 21:3624
    いじめはなくなるものである。


     さて、このいきなりの断言、定言を読者諸兄はどう捉えるだろうか?

     やはり、いじめという問題にのっぴきならない思いを抱いている人には、単なる願望や希望と捉えられるかもしれないし、いじめ問題の根深さ困難さを知悉している人には単なるひとつの意見や主張と捉えられるかもしれない。

     が、

     はたして、前者の願望や希望はともかくとして、後者の「『意見』や『主張』、とは、では何か?」と返されたとして、それにはっきりと答えられる人はあまりいないのではないだろうか。
     意見とは、意思や恣意の見解であり、主張は主体性の規定である主義の展開、だと言ってもあまりぴんとはこないだろうが、このように賤しくも、哲学、の名を冠して論考する以上、一応、冒頭の断言定言、つまりは断言、が
     「決して、意見や主張ではない。」
     とまず断わっておくのは、結構重要なことなのである。


     では、この記事の題名、ならびに、冒頭の断言は何なのか?


     その答えは、命題、である。


     いじめはなくなるもので『ある』。
     という具合に「~ある。」という存在動詞「ある(be)」による断言表現は命題の特徴である。たとえば、
     哲学史上最古の命題は、哲学の始祖と言われるタレスの
     「万物の根源は水で『ある』。」
     というものなのだが、他にも有名な所では、

     ソクラテスの、
     「人生の目的は魂の世話をすることで『ある』。」
     アリストテレスの、
     「悪とは依存的なもので『ある』。」
     デカルトの
     「我思う。ゆえに我『あり(ある)』。」
     ヘーゲルの
     「およそ現実的なものは理性的で『ある』。」
     
     ・・・などなどといったものも典型的な、命題、なのである。

     世間においては、これらはよく何がしかの名言や上述のような、彼ら個々人の意見や主張、といったものと捉えられがちではあるのだが、
     しかし、これらは、断じて、そうした意見や主張ではないし、ましてや、単なる願望や、思い込み、決めつけでもない。(後述するが、そうしたものは独断主義の観念定言、と言う。)
     また、これはよく勘違いされることだが、命題はなにがしかの解答というわけでもなく、哲学者はこうした「~である。」という断言から、逆に疑問を展開して、考察を深めていくのである。

     ある哲学者の真贋はある意味、こうした『ある。』をよくよく吟味すればすぐに解るものであり、この『ある。』をいかに正しく扱えるか、こそは哲学に不可欠なひとつの才能とも言えるものである(もっとも『ある。』を正しく使いこなすにはそれに先立って、正しい考察が出来ていないといけないが)が、取り敢えずここで大事なことは、冒頭の

     いじめはなくなるもので『ある』。

     の『ある。』もそうした哲学命題の性格として発するものである、ということである。これは、現に虐めに苦しむ人達への希望のメッセージでありつつ、そうした、哲学的な希望の命題証明演習でもある、ということは、先に断わっておきたい。
     (余談ながら、禅にも似た所があり、それを踏まえて表現をすると「いじめはなくならないものでは『ない』。」、となるのだが、本質的には同じことである。)




     さて、肝心の本題、
     いじめがなくなる、とは何であるか?
     である。

     それには当然、まず、

     いじめ、とは何であるか?

     を、考えなければならない。
     いじめは何で『ある』(正)のか? とは、 いじめは何で『ない』(反)のか?
     であり、それを考えれば、おのずと、

     いじめが『なくなる』(合)とは何か?

     が、導き出される。

     これは、言葉遊びや言語ゲームでは、決してない。
     単に、考える、ということの芯の芯の所を、むき出しもむき出しにしたまでのことに過ぎない。



     それでは、考えてみよう。

     まず、いじめ、とは、虐め、と書き、これについては、極めて興味深い先行者の考察がある。
     その先行者とは、心理学者でかつ、哲学者でもあったエーリッヒ・フロムという人物だが、その考察の核心とは、もともと臨床用語のサディズムとマゾヒズム、つまり、虐めの「虐」の用いられる、加虐主義と被虐主義を、性欲を強調するフロイトの心理学の制限から解き放ち、哲学概念に深め、サディズムとマゾヒズムを単なる性癖や性的趣味ではなく、字義通りに、ism(イズム)すなわち、主義、として一般化したことにある。

     主義、というと、たとえばよく言われるのは政治理念である、民主主義や独裁主義、
     経済理念である、資本主義、共産主義、 ・・などだが、
     これらは政治や経済といった、極めて現実的な事象の理念であるため、主義としては、派生的なものである。

     派生、であるからには当然その根源、おおもとがあり、民主主義(そもそも原語デモクラシーは民衆政治を表し、主義を表すわけではなく、対義としては君主政治、があるも、奇妙なことに『君主主義』という言葉がないのだが、ここではその謎については省く)や資本主義の前提になる、より根本な主義は自由主義や個人主義がそれにあたり、共産主義の場合だとそれは全体主義や社会主義といった言葉が、字義上、それに相当する。

     そして、自由にせよ、全体や社会を構成する個人にせよ、そのさらに前提になるのが、
     自己、すなわち、「私」、「俺」、「僕」、「自分」、「儂」・・・などといった一人称名詞で表現される、
      我(エゴ)
     であり、それを主義、すなわち、主体や主格の規定、として表現される、
     独我主義=エゴイズム、
     である。
      これは、自己主義、自我主義といっても何の差支えもなく、
     「私は~」「俺は~」「僕は~」・・・
     と、全ての一人称名詞でなんらかの思いや考えを言い表している全ての人は、
     エゴイスト、自己主義者である。

     当然ながら、それを前提としている以上、資本主義者も共産主義者も等しく自己主義者である。共産主義者の忌み嫌い憎む利己主義者は、自己に帰属する利益に拘泥する、
     エゴティスト(利己主義者)であって、そのあたりはよくズレている。

     エゴティストの主義であるエゴティシズム(自己中心主義・自己本位主義・利己主義)もまた、個人主義など同様、エゴイズム(自己主義・独我主義・自我主義)の派生に過ぎず、共産主義者が形の異なるエゴティストであることも、よくある話である。


     このように、主義には派生とその本源や大本、遡及源があり、エゴイズムはそれ以上遡及できない根源的な主義、究極的な主義のひとつである。

     こうした、独我主義(egoism:エゴイズム)のように、派生元としてそれ以上遡りえない究極的に根源的な主義は、他には、


     神秘主義(mysticism:ミスティシズム)
     独断主義(dogmatism:ドグマティズム)
     懐疑主義(scepticism:スケプティシズム)
     虚無主義(nihilism:ニヒリズム)


     ・・があり、
     我々人類の思想史・精神史の潮流は、基本的に


     神秘主義 → 独断主義 → 懐疑主義 → 独我主義 → 虚無主義


     という歩みを歩んできた。

     そして、何ぴとたりとも、たとえ、生まれたばかりの赤ん坊や、自我を失った狂人であろうとも、この5つの究極的に根源・本源的な主義からは逃れえない。

     これらの主義の変遷は人類の歩みであるのと同時に、一個の人間がその人生で歩む変遷でもあるのである。これら5つの主義は、人類史のみならず、一人・一個の人間の中にもまた、すべからく併存しており、例えば、ある人を「虚無主義者だ。」とか「エゴイストだ。」とか言うときでも、それはその人の虚無や自我の面が前面に出ているに過ぎず、他の主義も常にその人格の内部に併在し、眠ったり秘匿されたりしているのである。




     さて、ここで先のエーリッヒ・フロムの考察した、臨床用語由来の、派生的な主義である、加虐主義(サディズム)と被虐主義(マゾヒズム)に立ち返ってみよう。
     この二つの対になる主義を、フロムはその著作『自由からの逃走』では、上述の虚無主義、のひとつの派生形である、
     権威主義、
     の文脈および派生において、論じている。

     つまり、主義の派生としては、

     虚無主義→権威主義→{被虐主義⇔加虐主義}

     であり、いじめ(虐め)の元である、加虐主義と被虐主義は、本質的・根本的に同じものであり、いじめっ子とは、加虐主義者であるのと同時に被虐主義者であり、より根本的には、権威主義者であり、虚無主義者でもあるのである。

     あのヒトラーの台頭の地盤ともなった権威主義および、ニーチェを発狂させ、依然として我々近代人の宿唖ともなっている虚無主義の問題には、今回はこれ以上は立ち入らないが、フロムの指摘で最重要と思われる考察をこの文脈においてひとつ提示すると、
     それには、

     尊敬、

     という感情の問題が挙げられる。

     これは、敬意、と言い換えても良いが、虚無主義においては完全に欠落するとともに、虚無主義の対極である神秘主義において、もっとも顕著な感情である。(神秘主義つまり宗教の立場においては、尊敬や敬意がさらに甚だしくなった感情として、尊崇や崇拝、というものがあるのは周知のとおりである。)
     虚無主義の在り方を端的に示したものとして有名なものは、ニーチェの、

     「神は死んだ。」

     であるが、
     こうした立場が、神を拠り所とする善悪の問題のみならず、このような、敬意や尊敬の感情を置き捨ててしまうのは当然と言えば当然すぎる流れと言える。


     まだ論じ詰めないといけない課題は多いが、
     核心的なことを言うと、


     いじめ、即ち加虐主義(被虐主義)はこの尊敬つまり、尊びや敬いの感情の欠落から生じる。

     虐め、とは、尊敬の欠乏である―



     もう少し、フロムの考察からこの辺りを補足すると、
     これは「自由からの逃走」の後に成されたフロムの、愛、についての考察をまとめた著作、
     『愛するということ』における、愛の4つの要素、に関わる事柄を挙げなければならない。

     愛、という人間の持ちうるひとつの最高の徳、については、古来よりも、若きソクラテスが巫女ディオティマとの対話で解き明かそうとしたり、自然哲学者エンペドクレスがその元素論において、元素を引き付け合わせる動因(逆に元素を離れ合わせるのは憎・争い)としたりし、デカルトもその情念論における根本的な感情のひとつとして論じたりもしているのだが、
    フロムは、愛の感情(情念)・・つまり受動的な面に着目して語ったデカルトとは逆に、その「みずから踏み込む」能動的な面に着目し、
     その能動的性質として、4つの要素、すなわち、

     配慮 ・ 責任 ・ 尊敬 ・ 知

     を挙げる。

     ここから、尊敬、が欠け、
     相関のある配慮や知にも欠陥をきたしたものが、
     所有欲や支配欲であり、
     加虐主義(サディズム)である。

     実はいじめ、すなわち虐め(加虐主義⇔被虐主義)とは、
     欠陥を持った愛情であり、関心であったのである。


     いじめっ子のいじめられっ子に対する仕打ちは、その始まりや本質としては、幼児や高等動物が虫や小動物を痛ぶる行為と同じものとして始まるが、いじめっ子も一個の人間であるのに違いはないため、その行為はその継続と共に、そうした虚無に基づく敬意の欠落や、配慮や知の欠陥が進展し、それに並行して、自覚非自覚を問わない悪意を帯びる。
     悪意は知性とも深いところで大きな関係があり、
     幼少時の神秘主義を脱した知性の、独断主義と懐疑主義の狭間を行き来する知性と相まって、
     悪無限、
     という状態になると、いじめっ子はもういじめをやめることが出来なくなる。

     いじめっ子がいじめられっ子をいじめるのは、いじめられっ子を知る為である。
     が、その知性にはいじめられっ子を一個の人格として尊敬する敬意がなく、その人格の発展への配慮もない為、畢竟、それはいじめられっ子の人格の破壊にしかならない。
     が、
     人格、というのは、幸か不幸か、有限にして無限なる魂、や無限の精神、というものの存在を基盤としている為、その有限な身体とは違い、限りなく無限に近い苦痛や苦悩を味わうことにはなっても、究極的には壊れることがない。

     かくして、いじめっ子もいじめられっ子も、共に地獄へ落ちる。
     いじめっ子は永遠に亡者を加虐し続ける地獄の鬼であり、いじめられっ子は永遠に被虐され続ける地獄の亡者である。

     仏教的には、それを救えるのはあの路傍の地蔵菩薩さまだけなのだが、
     しかし、ここまで存在論的に見てきたのならば、
    もう、

     いじめを解消する方法論も、明らかである。




     虐めを無くすには、


     いじめっ子(あるいは、いじめられっ子にも)に、尊敬・敬意の感情を有らしめ、真の愛情に導き、その悪しき悪無限の関心・知性を断ち切ることである。


     むろん、そう簡単にはいかないだろう。

     これには、加虐主義と被虐主義のみならず、
     それに先立つ権威主義、さらには、
     何よりも手ごわい虚無主義の、
     克服と、
     正しい懐疑主義が、必要となる。

     が、平たく言えば、懐疑主義が敵とする独断主義を乗り越え・・・
     と、いうより、決めつけや思い込みによらずに、尊敬や、敬意、というものを考え、本当の愛情・・愛情という言葉に抵抗があるのであれば、友情や、それに至らない隣人愛、というものに辿り着ければ済む話でもある。

     それを無自覚に、自然にしてる人は、それを考え、自覚し、自らが当たり前にしていることを人もできるように教え、伝えなければならないし、
     それが出来ない人は、それに敬意を以て向き合い、学び、考え、それを自らのものとしなければならない。

     尊敬・敬意という感情の欠落は、近現代人の業病であり、その欠落は多くの場合、

     嫉妬、

     という、神殺しの感情で埋められてすらもいるが、これにも打ち克たなければならない。


     こうしたことを現実的・具体的に成すには、課題も多いだろう。
     これを夢想・理想、と思う人もいるだろう。

     が、夢想はともかく、理想は理念であり理性であり、
     冒頭で挙げたヘーゲルの命題を今また引くなら、

     およそ、現実的なものは理性的である。


     この理性と現実の逆説と、関係性を考えることが出来るなら、理性的な思い、つまり考えは、現実となる。
     夢想や幻想と違い、理想は具体的で、現実となりうる。


     ある人間、目の前の人への尊敬・敬意をもたらす、その人の尊厳、さらには尊厳自体、そして、それを知りえない関心や、不完全な愛がもたらす知性の堂々巡りとしての、悪無限を、自らの置かれた現実に見出し、
     それにそれぞれがその身でもって、具体的な方策を施せたなら、



     いじめはなくなるものである。
  • 哲学随想を試しに書いてみる。46

    2015-08-09 21:1428
    物語は前回も見たとおり、詩や歌の延長上にあるひとつのミュトスであるため、そこで求められるのは論理や真理性よりも、ある人格のありありとした感情や情念の確からしさであり、その真理性は虚構を以て真実を語る(騙る)「嘘吐きのパラドクス」的な逆説表現としてあるものだった。

     しかし、そんな物語(Story)がその論理性や真実性を深め、実在した人物を語る物語になると、それは「歴史物語(History)」となり、人格として神を語る神話(Myth)と共に、次元の異なる論理構造を獲得するようになることもまた、以前に示唆していたが・・

     詩人ホメロスは、「イーリアス」や「オデュッセイア」など、そうした神話を背景とする、歴史物語をその竪琴の音に乗せて語る、吟遊詩人だった。
     その立場は我が国における、仏法説話・無常観を背景とし平家の盛衰・源平合戦を「平家物語」として琵琶の音に合わせて吟じた琵琶法師たちの立場に同じである。

     実際、一説にはホメロスもまた、平曲語りの琵琶法師たち同様、盲目だったという話があるが、そこで注目すべきなのは、それが同時に文盲であることも意味し、記録に残る我が国で最古の語り部・稗田阿礼や神謡を語るアイヌのエカシ(古老)と同じく口誦文学の立場に彼もまた立っていた、ということだ。(ソクラテスもまた、彼自身はこのように文字を用いた文章は遺さなかった口誦の哲人だった。)

     イーリアス、平家物語、古事記、アイヌの神謡・・・
     今でこそあれらの物語は文字・文章や書物として残っているので、それに慣れ過ぎてしまった現代人の我々には思いもよらないのだが、古代に物語に携わっていた彼ら文盲の詩人たちは、当然、それらの長い長い物語を暗記し、暗唱していた。

     われわれ現代人には驚異的、という他ない能力、記憶力であるが、それもそれらが唄、であったからこそ可能であったことといえる。
     唄にかき立てられる感情や情念のリズムは体に慣らされ習わされることによって、頭だけの記憶力などは軽々と凌駕する。

     そうした習性に成る観念的精神的実体は個人の領域では、
     習慣、
    といい、
     それが集団のものとなり継続されるならば、
     慣習、
    となり、そこにさらに自覚や向自有・歴史性が伴えば、
     伝統、
    となるのだが、


     その、ある感性を的確に呼び覚ます習性、そして人格を以て語る文学の形式によってこそ、
     詩人は神の在り方も見誤りうるのである。


     プラトンは「国家」において、ホメロスら詩人たちの語りを師である哲人ソクラテスに批判させるのだが、最初に槍玉にあがるのは、全能の主神ゼウスと、その祖父や父であるタイタン(巨人・titan)の、天の『神』ウラノスや(一説には)時の『神』クロノスとの逸話である。

     「天地(あめつち)初めて開けしとき―」・・の一句で始まる我が国の神話同様、
     カオス(混沌)から最初に分かたれ生まれたコスモス(秩序)である、
     天―ウラノス、と、地―ガイア、
     という、神(deity)以前の巨人(titan)より、ギリシャのオリュンポス神話は始まり、全ての神々はその二柱のコスモス・タイタンより生まれるところにギリシャ神話の特色があるといえるのだが、
     ここで大事なのは、

     「天地初めて開けしとき―高天原に成れる神の名は、天御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は―…」
     と続く日本神話同様、
     天(ウラノス)や地(ガイア)は、神、とは異なる概念(ここでは、カオスに対置されるコスモスや巨人タイタン)として語られており、それは決して神そのものではない、ということである。
     天御中主神は天という存在の絶対的根拠ではあっても、天そのものではない。天そのものを含み込みなお余りある何かである。

     この、神(deity:複数形deities、本義上複数形の有り得ない一神教の神god、とはやや趣きを異にする多神教の神)と、
     天地そのものであるのみならず、大地(ガイア)に足を付けている限り無限の力をふるうともいう、巨人(titan)、との分別は、
     そもそも神が、
      善、
     という概念の絶対的根拠でもある、という、きわめて重大な本義的命題にも関与する。

     ゆえに、ソクラテスは神々を代表する主神ゼウスが父であるタイタンのクロノスを「殺す」逸話を「たとえ本当のことであっても、思慮の定まらぬ若い人たちに向けてそう軽々しく語られるべきではないと思う。」という具合にしてまず、詩人ホメロスらを批判するのである。
     これはとりもなおさず、本来的に神話が寓話などとは違って、決してたんなる子供向けの話などではなく、大人や老人の為のものであることすらも暗示するのだが、
     問題は、

     善の根拠としての神、

     である。
     詩人(文学者)は「嘘」で真実を語らねばならず、神は善の根拠であるのが真実な為、善の根拠として神を語らない詩人の「嘘」は「嘘」でも物語でもないただの、嘘、であるからもはやそんな詩人は国家(現実)から排除されるしかない―

     プラトンとソクラテスの結論は集約するとそういうことであるが、
     ここは素朴に考えてみて欲しい。

     まず、道徳の説くところでは、神とは崇敬すべきものである。
     神とは善良なものである。

     『・・・が、その神の中でもとりわけ尊い主神ゼウスは、父クロノスを『殺し』ている。(実際には殺したわけではないが、どんなことをしたかは、ソクラテスの良識に倣い、ここでは伏せる。)そして主神となったのちも、いろんな人間の女性に言い寄っては妻ヘラの怒りを買ったり、その女性たちを不幸にすらしている。
     主神がそんなものだから、その他の神々も好き勝手なもので、人を不幸にしたりもしてるのみならず、ホメロスの『イーリアス』に至っては人間たちの裏で暗躍して人間たちで代理戦争すらしてるではないか。
     神とはそんなものなのか? ならば神を崇敬なんてできるのか?
     こんな神のどこが善良なのか?』

     ・・・・・と、
     この『』こそは神にまつわる道徳律の影より生じる、極めて凡庸にして通俗的な無神論の典型的な思考経路なのであるが、おおかたの人には共感を禁じ得ないのではないだろうか。
     ここで、
    『神は勝手気ままだ。なら己も勝手気ままに生きよう。必要なら父だって『殺せ』ばいい。』
     ・・・と思うならこれまた極めて通俗的にして凡庸なる悪の道が始まるのだが(おそらく現在のギリシャの経済危機もこの悪と無関係ではない)、

     しかし、共感しつつも、
    『いや、とは言っても、無神論とはなにかとても怖いものなんじゃないだろうか?神さまは我が儘に見えるけど、ひょっとしたら、人間とは違うルールが神さまにはあり、人間には悪く見えるけど、本当は善いことをしてるのかもしれない。人間には悪いことに見えても、神さまが悪いことなんかするはずない。神さまは善いことをしてるはずだ!善いもののはずだ!』

     ・・・・・と、いう具合におおかたは心の平衡を取るのではないだろうか?

     実際、キリスト教の神は極めて善性の性格の強い神で、それゆえに畢竟、審判の神となり、その一見して苛烈にして理不尽にも見える裁きもいかに深い理由があるか、そして何より、善、というものがいかに困難なものか、を説き明かし、その過程で背徳の悪魔すらも見出さざるを得なかった神なのだが、


     実のところ、そうした神話というものが、存在や本質、絶対者・無限者・真実在などを、文学が主題とする人格の形を以て語られた、ロゴスかつミュトスの形式なのだと看破できたのなら、そうした涜神の誘惑のほとんどは解消するものなのである。


     そもそも全てのおおもとである混沌・カオスは善でも悪でもない。
     ならば、そこから分かたれ生じる、
     天(ウラノス)=精神・形而上性そのもの、も、
     地(ガイア)=物質・形而下性そのもの、も、
     さらにはいまだ神ならざる神以前の
     時(クロノス)ら巨人=無限に限りなく漸近するがいまだ有限の人格的極大者、もまた、
     善でも悪でもあるはずがない。

     ウラノス(精神もしくは空間の総体そのもの)は霊性や罪性の話で見たように、善悪二元そのものであるし、
     自然、の異名も持ちうるガイア(物質もしくは物体の総体そのもの)にはそもそも善悪がない。
     クロノスもまた、神ならざる巨人である以上、その程度の振れ幅が極大だったとしても、ごく普通の人間同様に善悪の混淆であり、のみならず「彼」の場合は『父殺し』のみならず、『子殺し』までやってのけている。


     よって、ゼウスの『父殺し』は比喩のうえでも、実質の上でも『父殺し』であって、父殺しではない。むしろ、逆説的善の「悪」ですらある。悪の智である謀略・奸智の女神メティスはヘスティア・ハデス・ポセイドンらゼウスの兄弟神たちがクロノスにされたように、ゼウスに飲み込まれてしまうが、善の智である知恵・叡智の女神アテナとして生まれ変わる。父であったとしても、悪は討たねばならず、それによってゼウスは善なるものになっていたということで、それは単なる力の巨人(titan)から善なる神(deity)への飛躍でもあった、ということでもある。ゼウスの父への罪も罪に違いはないが、それはこの世に悪とともに善もまたもたらしたアダムとイヴの原罪のような罪だったと見るべきだろう。

     以上のことが原型となる、すべての神々の「悪事」を敢えて皮相に喩えて言うなら、それは人間の悪行になぞらえた神々の隠喩的存在論にすぎないもの、と言うべきである。
     むしろ、悪や醜聞に食いつく心性を見越され、そうした神語りに我々が食いつかされているとすら言ってもいい。感情移入という技法は決して現代大衆文学の専売特許ではないのである。
     神や神を語る者は、やはり、侮れない。

     純粋な無時間空間は幾何学空間のように静謐で、時間的変化はないが、現実の空間は自然によるにせよ人為によるにせよ、目まぐるしく移り変わる。
     絶えずウラノス(空間)がその息子クロノス(時間)によって『殺され』ているから我々の現実世界に時間が流れ、世界に絶えず変化が起きているのだ、と言えるし、そのクロノスをゼウスが『殺し』たから、その後、無秩序に新たに神が生まれないし、(日本と違い、ギリシャの神はデュオニソスやプシュケーなど、よほどの理由が無い限り新たには生まれない)現代的時間観の平行世界・世界線・時間線のごときものも生まれないのだ、とも言える。
     それは、日本列島を産んだ伊邪那美命が火神・迦具土神を産んだ時に『死んだ』為にもうそれ以上日本列島に新たに大きな島は生まれず、火神による火山によってのみ、時折にぽつぽつ新たな島が生まれる・・という事情に同じである。
     

     以上のように、神が『殺され』『産まれる』ということには、例外なく、何らかの世界や精神概念の欠損と再生、更には飛躍を伴っている。
     神は常に世界の在り方変わり方と共に在り、かつ、それに先立っているのである。

     結局のところ、無限者たる神の営みは人間の有限な感情を刺激しつつもそれを超え往くのだ、と見なすしかないのだが、神の人格化により可能になる感情の印象、およびその強調誇張がその語りにおいてどうしても重大な意味・意義を持たないではおれない物語に携わる詩人や文学者にはそれが困難なのであり、ともすればそうした涜神につながる嫉妬や、喪神の絶望、というもっとも強烈で空虚な感情にすら時として訴えかけ、時にはその嘘に真実を覆い隠させてすらしてしまうのが、詩人の限界であり、その語りの弊害であり、
     のみならず、感情・情念の限界なのでもあるのである。
     (こうした無自覚な感性と習性の悪を、反省と歴史をもって克服するのが先の、
      伝統、
      というものである。)


     そして、詩人が煽るそのもっとも強烈にして空虚な感情たる、嫉妬と絶望こそは無神論のみならず、虚無主義の根本情念である。
     虚無は時として、自我、という我々にもっとも身近で基本的な秩序すらも食い尽くすことは既に指摘したとおりである。
     とうぜん、それが現実の最たるものであり、地上秩序そのものである国家の脅威とならないわけもないのだから、

     やはり、「嘘」で真実を語らない詩人・文学者が追放されるのにもそれ相応の理由はあったのである。