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哲学随想を試しに書いてみる。22
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哲学随想を試しに書いてみる。22

2014-12-18 21:10
    命は、やはり、心に比べれば、いくぶん現象的である。
     そもそも心というものが、現象というものから遊離しているのだが、命は現象性のもっともよく現れるところ、自然、をその展開の場とする。

     三島由紀夫が対峙した戦後の生命至上主義、とでも言うべきものを、逡巡しつつも肯定し、そうした自然と命に、時代の行きがかり上とはいえ、真っ向から取り組まなければならなくなってしまった作家に、かの高名なアニメーター、宮崎駿氏がいる。

     その子息、宮崎吾郎氏の『ゲド戦記』での「命を大事にしない奴なんて大嫌いだ!」という先の三島由紀夫の立つ瀬を無くす迷セリフや、盟友・高畑勲氏の『かぐや姫の物語』における、虫愛づる姫君と化したかぐや姫の描写などは、ある意味で、それらに先立った駿氏の思索の残骸ともいえる。
     そのおおもととなった、駿氏が漫画版の「風の谷のナウシカ」や、「もののけ姫」で直面していた、命と自然を巡る思索とは、おそらく、割腹して果てるしかなかった三島の思索にも比肩しうる、抜き差しのならないものであった筈である。

     さて、その宮崎氏の命を巡る思索のひとつの集約点は、漫画版「ナウシカ」の主人公ナウシカの想像を絶する苦難と絶望の果てに発せられた言葉に見いだされる。
     すなわち、

    「命は闇の中に瞬く光だ!」

     である。
     この発語に込められた、決意や覚悟や祈りにすらも似た含意は、こう言っては、ほんとうになんではあるが、先のご子息のそれとは、それこそ天地の隔たりが、ある。

     先に命は自分のものであって自分のものではない、と言い、それでは何のものかと言えば、自然のもの、としたわけだが、その発語の前にナウシカの言った
    「私たちの命は私たちのものだ!」という時の命とは、当然、あのナウシカの言う「私たちのもの」だから、他者に与えるものだったり、自ら絶ってしまうものだったりもする、命であろう。心は、動植物の本能同様に、命の流れを決める。その点に関していえば、ナウシカもナウシカがその語を言い放った墓所の番人や王蟲、さらには「もののけ姫」の精霊の化身、シシ神もまた、変わらない。

     命の自由を求めて墓所の番人を殺すナウシカも、シシ神を殺すエボシ御前も同じである。
     それは、闇=死に抗う光としての、生物の本能を更に脱し、己の命を己のものにせんとする「ものを知るところのもの」…心、の業と言っていい。

     聖書などでは知恵の実を食べたアダムとイヴの楽園追放、の寓意として語られるが、世界最古の物語・ギルガメシュ叙事詩の主人公、ギルガメシュ王が森の神フンババを殺した時に、親友エンキドゥの死とともに背負った宿業でもある。

     前に死を知ることが動物と人間を分かつ、と言ったが、その派生として命の概念を知ることがあり、命を自然の支配に預ける動物の本能から、心や魂の自由に命の在り方を委ねる知能への移行、すなわち、人間の、自然からの独立、が人類最初の物語であったことは、必然、というほかはないだろう。


     ただ、宮崎氏の場合、ギルガメシュ王の場合とは異なり、自然からのみならず、「命を守る為には命を捨てねばならない。」の三島の脳裏にも確実にあったであろう・・・
    先の大戦において、

     あの特攻隊員たちが見せた、侍の自己犠牲、

    からすらも命を独立させねばならなかったこと、
     ・・・そうした坂口安吾の堕落論を覚悟の上で生き延びねばならない、という・・・ちょうど、二重に自殺して生き延びねばならないというような、底無しの苦悩の上に命を捉えなければならなかったことこそが、氏を氏たらしめ、現在的な命の在り方の難しさをも成り立たしめているのである。
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