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品陀リウキさん のコメント

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品陀リウキ
 とまと船さんコメありがとうございます~
 明らかに素戔嗚尊の八岐大蛇退治は贖罪ですよね。

 八岐大蛇が呑み込むはずだった姫の名は櫛稲田姫(クシナダヒメ)と
言って櫛のように整えられた稲田、を意味することからも、天の田んぼ
の畔をめちゃくちゃにしてしまった素戔嗚尊が地上の田んぼにそうした
ことをする祟り神・八岐大蛇(=大洪水)と戦い鎮める、ということは
見事に符合してますしねー

 このあたりの話は、古代から続く環境破壊とそれによりもたらされる
因果応報としての厄災とその克服、という人類最古の物語「ギルガメシュ
叙事詩」やあの「もののけ姫」(「もののけ姫」の舞台も出雲のある、
タタラ製鉄の本場、中国地方)にも繋がっていく深淵なテーマなのです
が、その大国主命に引き継がれた「生太刀」に当たる後の三種の神器の
ひとつ、草薙の剣である「天の群雲の剣」がその森を殺した人間への
祟り・八岐大蛇の尻尾を切り裂いたときに出てきた、ていうことにも
やはり深い意味があるんでしょうね。
No.5
73ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
無垢な子供の精神力というのは、知性の大人のそれとは違い、どこか生命力的である。  生命的である、ということはすなわち、草木が萌える、といった「萌え」の字義どおりに、生物的であり、さらには動物的である、ということである。  キルケゴールなどは、キリスト教的思考の伝統から、人間と動物の間にははっきり線引きをしていたので、無垢を動物の本能性や習性に比することは最低限に止めていたのではあるが、  そこをさらに踏み込み・・・  生命の平等の観点から、幼児の無垢の状態を、人間の知能と動物の本能の中間の状態、とみなすことへの是非、  ・・・を、問題提起として提示すること、くらいならば許されるのではないだろうか。  事実、無垢には知能という概念の深浅についての対立項といえる、  賢明と愚劣、  などは決して当てはまらない。  無垢な幼児を愚劣だ、とみなし怒り苛立つ人はそこのところをしっかり知っておかなければならないだろう。  無垢にあるのは、ただ、  純粋か不純か、  だけであって、それゆえ無垢なものの認識に理解、というものは実は無く、ただ、そこには学習、があるのみである。  動物の習性や本能どうよう、  無垢は無知なのである。  刑法における刑罰の対象外を規定する「責任能力の有無」なども、ひとつの根拠はこれである。量刑や刑罰は対象の善悪の有無を前提とするが、善悪は前回の原罪を経た無垢の帯びる理智を土台とするものである以上、善悪以前、すなわち理知以前の無垢の行為の悪を測り量刑することは不可能なのである。  そこは善悪の彼岸の領域である。  善悪の及ばない領域で荒ぶる、不純の極みの無垢をこそ、鬼、と言う。  ちょうど、荒ぶる無垢の神・素戔嗚尊が高天ヶ原から追放されたように、鬼はその善悪を量られることはなく、裁かれることもなく、人間や神の領域からただ追い払われ、退治されるしかない。  そこが、悪心によって堕落し神に裁かれコキュートスに繋がれた堕天使である、悪魔などと鬼が異なる根本である。よって、鬼は善でも悪でもないから罪に染まることもなく、それを清める罰もまた意味がなく、どころか、地獄で刑吏をやったりもする次第になったりもするのである。  無垢の地平は、知性の地平の対立項である賢明か愚劣か、によってではなく、純粋か不純か、という対立項で示される、と先に言ったが、その地平とは、キルケゴールの指摘によれば、  霊性の地平、である。  霊性の霊、とは知性や理性では到底捕えがたい領域ではあるのだが、これまたキルケゴールの指摘では、それは  肉と精神、の中間者・媒介者もしくは止揚統一、  として見出される。むろん、この肉、とは「キリストの受肉」などでいう時の、肉、である。  一方で、魂は物質と精神の中間者・媒介者もしくは止揚統一であり、やはり知性や理性の領域をはみ出し、霊性の領域にかかる。    「三つ子の魂百まで。」とか、「人間三才までは神のうち。」などという我が国のことわざはだいたいそうした無垢と霊性との関係性を端的に捉えているのである。  子供、もしくは、知性の領域から脱落する老人、において至る無垢、すなわち霊性においては、神・天使・悪魔・鬼・仏などは実存主義や観念論の実存認識が実存を捉えるのとさして変わりのない「実存」と言え、知性理性がそうした霊性認識に対し驕ることは決して褒められたことでもない。(平たく当為表現すれば、青少年も中壮年も幼児や老人に対し驕るべきではない、というだけのことである。)  そうした神魔鬼仏の霊性(無垢)の領域から、原罪・罪によって人は知性の領域に至り、人となることは前回に見たとおりだが、  ここで、人が知性の贖罪を前に見るか、後ろに見るか、  それにより死に至る病、絶望・虚無への道を歩み出すか否かが、決まる。  前回は、無垢(霊性)から見た智(知性)こそが不安なのだ、という結論だったが、  今回は、無垢が無知であることも踏まえて逆に、    智(知性)から見た無垢(霊性)が虚無なのだ、  と、言わなければならない。  虚無とは、もはや罪・原罪に阻まれ帰ることのできない無垢に対する、知性の後ろ向きな憧憬なのである。
ちょっと哲学したい気分になりました。