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ロランPさん のコメント

さっそくお邪魔します。
言葉には力があるってのは、ある教師の受け売りでわたしもりかいしましたが。

もし、言葉がなかったら、今の世界を作る上で、
物の定義とか、物事、事象に意味を持たせることって出来てないんですよね。

本当、言の葉は、すごい力を持っています。

そして、言葉は、相手に思いを伝えるために
とても重要なツールです。
言葉がなければ、神とか、魂とか、ひとりの人間がそれを知ってたって、相手に伝えられません。

人間が、ここまで発展したのは、言葉という
共通認識を、得ることが出来たからなのかな?と思います。
No.1
70ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
デカルトの情念枚挙にあったとおり、不安の反対は安心である。  理性に向かう充実こそは希望であり、安心であり、安息である。  宗教道徳的に言えば、人間生まれたからには神仏の理性の賢き高みを目指さないわけにはいかない、さもなくば魂の安息などありえない、というわけであるが、その目指すべき神仏の物語である、神の神話や、仏の説話、に見られる論理形式とは、神や仏を寓意として人格化しさらに物語としたもの、といえる。  そして、ただしかし、以上の神仏・真実在はそのように神話や説話で語られるような人格では必ずしも無い、とも言えるのである。  数学においては∞と0がそれに当たる、ということは既に見たとおりである。  数にそうした神を見たピタゴラス同様、スピノザなどは、自然法則に神を見、アインシュタインが生涯追い続けた神とはそうした自然法則としての神だった。宗教では、唯一神アラーを人格でありつつも人格などは越えたものとし、その偶像化はもとより、その前提となる擬人化も許さないイスラム教などにその性格が強い。  「はじまりに言葉ありき。神は言葉なりき。」  ・・これは、ヨハネ福音書冒頭の一説だが、造仏を方便として真理を語る像法仏教を脱した、と言われる仏教宗派、真言宗はその名の通り、仏陀の言語であるサンスクリット語や梵字で語られる原語・真言のままの仏説自体を仏とし、鎌倉時代に生まれた日蓮宗は根本経典である法華経の言葉自体を本尊とし、禅は言葉の発語(阿)に対置される沈黙(吽)を重視する。  理性は論理・言語・言葉と共に、ロゴス:Logos、と言うが、それが何なのか、  「言葉とは何なのか?」  という問い自体にこそ、論理・理性、ならびに神仏の何たるか、を解く鍵はあるのである。  以上のように眺めると、言葉はそれそのもので価値であることがわかる。  希望は、充実は、そして安心は、言葉そのものにこそ、有ると言える。
ちょっと哲学したい気分になりました。