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品陀リウキさん のコメント

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品陀リウキ
>>8
とまと船さん、そうですね。倫理的には仏教の身口意、になるでしょうね。

 そして、精神性というのは極まる所では自分たちの個別性、というものが
無くなるので、そこにおいては自分たちは皆同じ言葉を使ってることになり
ますが、逆に感性的に個別性を持つほど、言葉も違ったものとなり、パラ
レルワールドの個々に孤独な世界を持つことになると言えると思います。

 実のところ、虚無主義は自覚されてないだけで、それと無縁である、という
ことはないと思います。むろん、自覚されないままに克服もされており、それ
を語るロゴスが現状の世界にはまだ現れていない、というわけで・・

 そういったわけで、というわけではないのですが、
>>9
 ロランPさん、虚無主義を相手にするにせよ、自分を相手にするにせよ、
相手の底を知らずに喧嘩を売っても絶対に勝てないですよw

 虚無主義の克服を目指した埴谷さんの『死霊』は手に入りましたか?
 あれを良く読めば解ると思いますが、虚無主義を覆そうとしたら、それ
こそ、この世界どころか、全宇宙の過去現在未来に現れる亡霊怨霊を敵に
回さなくてはならない事態も、まかり間違えばありますので、自分としては
不用意に虚無をつつくのは関心できません。
 虚無とは、ロランPさんの仰るような地球と人類、という自然と人間の
無思慮の現象的な関係の宿唖も超えた本当に厄介な問題なので、出来れば、
これまで同様、適度な距離を置いていた方がいいと思います。

 とりあえず、こっちはあのアリストテレスと喧嘩しようってんですから、
その横でさらに喧嘩を売られても困りますしw
No.10
70ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
デカルトの情念枚挙にあったとおり、不安の反対は安心である。  理性に向かう充実こそは希望であり、安心であり、安息である。  宗教道徳的に言えば、人間生まれたからには神仏の理性の賢き高みを目指さないわけにはいかない、さもなくば魂の安息などありえない、というわけであるが、その目指すべき神仏の物語である、神の神話や、仏の説話、に見られる論理形式とは、神や仏を寓意として人格化しさらに物語としたもの、といえる。  そして、ただしかし、以上の神仏・真実在はそのように神話や説話で語られるような人格では必ずしも無い、とも言えるのである。  数学においては∞と0がそれに当たる、ということは既に見たとおりである。  数にそうした神を見たピタゴラス同様、スピノザなどは、自然法則に神を見、アインシュタインが生涯追い続けた神とはそうした自然法則としての神だった。宗教では、唯一神アラーを人格でありつつも人格などは越えたものとし、その偶像化はもとより、その前提となる擬人化も許さないイスラム教などにその性格が強い。  「はじまりに言葉ありき。神は言葉なりき。」  ・・これは、ヨハネ福音書冒頭の一説だが、造仏を方便として真理を語る像法仏教を脱した、と言われる仏教宗派、真言宗はその名の通り、仏陀の言語であるサンスクリット語や梵字で語られる原語・真言のままの仏説自体を仏とし、鎌倉時代に生まれた日蓮宗は根本経典である法華経の言葉自体を本尊とし、禅は言葉の発語(阿)に対置される沈黙(吽)を重視する。  理性は論理・言語・言葉と共に、ロゴス:Logos、と言うが、それが何なのか、  「言葉とは何なのか?」  という問い自体にこそ、論理・理性、ならびに神仏の何たるか、を解く鍵はあるのである。  以上のように眺めると、言葉はそれそのもので価値であることがわかる。  希望は、充実は、そして安心は、言葉そのものにこそ、有ると言える。
ちょっと哲学したい気分になりました。