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品陀リウキさん のコメント

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品陀リウキ
キャラ崩壊はやり過ぎると「原作レイプ」とか言われて怒られる
から、節度とユーモアが肝心ですよね。

 そして色欲・性欲もまあ、盛り上がりやすい話題ですけど、
やはり節度を守らないと、話の品位を落としますから、虚無とは
また違った方面で危険ですねw

 ただ、このブロマガの最初で既に言った通り、「全ては哲学」、
「全ては哲学の考究対象」ですから、扱って扱えないこともないし
それに意義や価値だって見出せないなんてことも、断じてないんで
すよね。
 ただ、ソクラテスにしてもなにかの議論で
「性欲。あれほど、気違いじみた欲求というのもない。」
 と言ってますので、そういう警句も当然拝聴した上になるでしょ
うがw

 実際、性欲色欲というものをその心理学の中心に据えたのは、
知ってのとおり、フロイト、ですが、彼が性欲のメタファーとして
蛇、を挙げたのもべつだん、俗説で言われてるとおりに男のナニに
似ているから、というわけだけでもなく、実はその蛇、というのは
かのアダムとイブを誘惑して知恵の実を食べさせた蛇、だったりし
ます。
 別名を善悪を知る実、という知恵の実を食べ、この世に善悪の概念
を招いてしまうという原罪を犯した二人が最初にしたことは自分たち
の身体を木の葉で覆い隠すことでしたが、このことはすなわち、この
世で最初に悪、と見做されたことが、裸を晒すこと、であり、それを
「いじりあうこと」がいわば原罪の次の罪であり、それが性欲の起源、
となり唆した蛇とまた繋がるわけなんですね。

 初めてのチョメチョメw、を各自に思い出して頂いたら実感できる
と思いますが、性欲、というのは無垢を失う罪悪感、霊性の次の段階
である罪性、とは不可分なのでありますw
 それを土台に、まあR-18風俗文化やエロ二次創作の動向も虚無と
の関係でかなりな部分が説明が尽くし、実際にそういう存在なのだと
も言えますが、ほんとに真面目に語るのがこっ恥ずかしい話題なので
なんとも扱いが難しいですねw やっぱりw
No.18
70ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
デカルトの情念枚挙にあったとおり、不安の反対は安心である。  理性に向かう充実こそは希望であり、安心であり、安息である。  宗教道徳的に言えば、人間生まれたからには神仏の理性の賢き高みを目指さないわけにはいかない、さもなくば魂の安息などありえない、というわけであるが、その目指すべき神仏の物語である、神の神話や、仏の説話、に見られる論理形式とは、神や仏を寓意として人格化しさらに物語としたもの、といえる。  そして、ただしかし、以上の神仏・真実在はそのように神話や説話で語られるような人格では必ずしも無い、とも言えるのである。  数学においては∞と0がそれに当たる、ということは既に見たとおりである。  数にそうした神を見たピタゴラス同様、スピノザなどは、自然法則に神を見、アインシュタインが生涯追い続けた神とはそうした自然法則としての神だった。宗教では、唯一神アラーを人格でありつつも人格などは越えたものとし、その偶像化はもとより、その前提となる擬人化も許さないイスラム教などにその性格が強い。  「はじまりに言葉ありき。神は言葉なりき。」  ・・これは、ヨハネ福音書冒頭の一説だが、造仏を方便として真理を語る像法仏教を脱した、と言われる仏教宗派、真言宗はその名の通り、仏陀の言語であるサンスクリット語や梵字で語られる原語・真言のままの仏説自体を仏とし、鎌倉時代に生まれた日蓮宗は根本経典である法華経の言葉自体を本尊とし、禅は言葉の発語(阿)に対置される沈黙(吽)を重視する。  理性は論理・言語・言葉と共に、ロゴス:Logos、と言うが、それが何なのか、  「言葉とは何なのか?」  という問い自体にこそ、論理・理性、ならびに神仏の何たるか、を解く鍵はあるのである。  以上のように眺めると、言葉はそれそのもので価値であることがわかる。  希望は、充実は、そして安心は、言葉そのものにこそ、有ると言える。
ちょっと哲学したい気分になりました。