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とまと船さん のコメント

パッと見で「言葉=ツール、道具」的な捉えかたをして読んどったのやけど、リウキさんとロランさんとのやり取りを見るに、テーマがかなり深いと感じましたのぜ。

ここでの「言葉」は、「語義」でいうと、下の辞書サイトの7番にあたる「意味、理性、ロゴス」ということなんやろうか。
http://www.weblio.jp/content/言葉

つまり、言葉は意味そのものであると。この世界は意味あるもので、それは言葉そのものと言えると。言葉を通して考え、感じる主体である我々は、その言葉(意味)の外でなく、中にあるものということやろうか。それでこそ、人生の中に目指すべきものや、意味や希望、安心が生まれると。

一方、「言葉」を「道具」と捉え、我々はその外にあって使役する立場とするなら、そもそもこの世界には意味がなくて、我々はただの偶然の産物に過ぎないかもしれない。それが、「この世界に意味など無いし、倫理も正義も悪も何もない」とする「虚無主義、ニヒリズム」に繋がるということなんやろうか。。
No.6
70ヶ月前
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デカルトの情念枚挙にあったとおり、不安の反対は安心である。  理性に向かう充実こそは希望であり、安心であり、安息である。  宗教道徳的に言えば、人間生まれたからには神仏の理性の賢き高みを目指さないわけにはいかない、さもなくば魂の安息などありえない、というわけであるが、その目指すべき神仏の物語である、神の神話や、仏の説話、に見られる論理形式とは、神や仏を寓意として人格化しさらに物語としたもの、といえる。  そして、ただしかし、以上の神仏・真実在はそのように神話や説話で語られるような人格では必ずしも無い、とも言えるのである。  数学においては∞と0がそれに当たる、ということは既に見たとおりである。  数にそうした神を見たピタゴラス同様、スピノザなどは、自然法則に神を見、アインシュタインが生涯追い続けた神とはそうした自然法則としての神だった。宗教では、唯一神アラーを人格でありつつも人格などは越えたものとし、その偶像化はもとより、その前提となる擬人化も許さないイスラム教などにその性格が強い。  「はじまりに言葉ありき。神は言葉なりき。」  ・・これは、ヨハネ福音書冒頭の一説だが、造仏を方便として真理を語る像法仏教を脱した、と言われる仏教宗派、真言宗はその名の通り、仏陀の言語であるサンスクリット語や梵字で語られる原語・真言のままの仏説自体を仏とし、鎌倉時代に生まれた日蓮宗は根本経典である法華経の言葉自体を本尊とし、禅は言葉の発語(阿)に対置される沈黙(吽)を重視する。  理性は論理・言語・言葉と共に、ロゴス:Logos、と言うが、それが何なのか、  「言葉とは何なのか?」  という問い自体にこそ、論理・理性、ならびに神仏の何たるか、を解く鍵はあるのである。  以上のように眺めると、言葉はそれそのもので価値であることがわかる。  希望は、充実は、そして安心は、言葉そのものにこそ、有ると言える。
ちょっと哲学したい気分になりました。