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品陀リウキさん のコメント

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品陀リウキ
そうですね、文才については、今ある「解りやすい」文学を飽きるほど
食い尽くすか、その基盤が古いものにあることに気付くかして、古典の
意義を見出して、それにあたる困難に耐えながらもそれに向き合う楽し
みも見出さないことには、どこまでいってもどんぐりの背比べになるで
しょうから、いかにそうした動機を得るかは難しい問題ですね。

 大事なことは、各人が各様の自分自身・自己を持っている、という
こと の自覚、であり、首猛夫も己自身の99%を行動的(積極的)二ヒ
リスト、と言い、泣きじゃくる赤ちゃんのように、否定の為の否定を
しているのだ、と認めてはいるのですが、残りの1%には、そうした
デカルトのエゴ、の大義があり、その勧めをしていることは明らかに
なってくると思います。
 文学の動機にせよ、困難に惹かれる、自己、というのには、現代社会
が求めてるレベルの「自己」である消費者・労働者、としての「自己」
など は簡単に超えて欲しいものですが、今はまだそれより上位にある
と思われ る、国民、としての「自己」を認めるかどうかで野党議員先生
方が駄々をこねているような時代状況ですからね・・

 単なる駄々ではない赤ちゃんの慟哭、というのは埴谷さんの話にも
あったとおり、多分に無限の問題を孕んでおり、それは一つ間違えば、
この世の有限性に囚われそれに一生涯拘泥し、それを叩き続ける、
ヘーゲルが
 悪無限、
 と指摘した状態に陥ることがあり、その端的な現れは以上のような、
地上の現実に即した政策を一生懸命に練る与党先生方に、それが地上的
すなわち有限的である、という一事をもって永遠・無限に噛みつき続け
る野党議員さんの根性にも現れてたりするものですが、これはいわば、
無理数や円周率という疑似永遠を求める行為と言えます。

 「諸悪の根源は母の愛」という格言もありますが、「母の愛」が
正しい善なる無限を殺していないか?「母の愛」と言いつつ単なる
卑小な自己愛に堕していないか?
 ・・・は、そもそもの問題提起すらも憚られてほんとうに難しい
ですね。

 ロランPさん、
 下手な提起の仕方をして女性を敵に回したら、冗談抜きでラブ
ライバー相手の時の比でない荒れ方をするのは火を見るより明らか
過ぎるくらい明らかですので、このことはそれこそ危険物どころか
核物質を扱うくらいの慎重さで取り扱って下さいよ?

 まあ、人間というのはそんな低次の自己愛も高次の自己愛として
の博愛も常に混淆していますから、その対立を見たときにいかに
それを解消して高みに導く一言を発せるか・・
 そこにこそ、その男の真価は問われる、
  てなところなんでしょうかね。

 ほんとうに女性とは女としても母としても限りなく手ごわいものですw
No.11
72ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
物語は前回も見たとおり、詩や歌の延長上にあるひとつのミュトスであるため、そこで求められるのは論理や真理性よりも、ある人格のありありとした感情や情念の確からしさであり、その真理性は虚構を以て真実を語る(騙る)「嘘吐きのパラドクス」的な逆説表現としてあるものだった。  しかし、そんな物語(Story)がその論理性や真実性を深め、実在した人物を語る物語になると、それは「歴史物語(History)」となり、人格として神を語る神話(Myth)と共に、次元の異なる論理構造を獲得するようになることもまた、以前に示唆していたが・・  詩人ホメロスは、「イーリアス」や「オデュッセイア」など、そうした神話を背景とする、歴史物語をその竪琴の音に乗せて語る、吟遊詩人だった。  その立場は我が国における、仏法説話・無常観を背景とし平家の盛衰・源平合戦を「平家物語」として琵琶の音に合わせて吟じた琵琶法師たちの立場に同じである。  実際、一説にはホメロスもまた、平曲語りの琵琶法師たち同様、盲目だったという話があるが、そこで注目すべきなのは、それが同時に文盲であることも意味し、記録に残る我が国で最古の語り部・稗田阿礼や神謡を語るアイヌのエカシ(古老)と同じく口誦文学の立場に彼もまた立っていた、ということだ。(ソクラテスもまた、彼自身はこのように文字を用いた文章は遺さなかった口誦の哲人だった。)  イーリアス、平家物語、古事記、アイヌの神謡・・・  今でこそあれらの物語は文字・文章や書物として残っているので、それに慣れ過ぎてしまった現代人の我々には思いもよらないのだが、古代に物語に携わっていた彼ら文盲の詩人たちは、当然、それらの長い長い物語を暗記し、暗唱していた。  われわれ現代人には驚異的、という他ない能力、記憶力であるが、それもそれらが唄、であったからこそ可能であったことといえる。  唄にかき立てられる感情や情念のリズムは体に慣らされ習わされることによって、頭だけの記憶力などは軽々と凌駕する。  そうした習性に成る観念的精神的実体は個人の領域では、  習慣、 といい、  それが集団のものとなり継続されるならば、  慣習、 となり、そこにさらに自覚や向自有・歴史性が伴えば、  伝統、 となるのだが、  その、ある感性を的確に呼び覚ます習性、そして人格を以て語る文学の形式によってこそ、  詩人は神の在り方も見誤りうるのである。  プラトンは「国家」において、ホメロスら詩人たちの語りを師である哲人ソクラテスに批判させるのだが、最初に槍玉にあがるのは、全能の主神ゼウスと、その祖父や父であるタイタン(巨人・titan)の、天の『神』ウラノスや(一説には)時の『神』クロノスとの逸話である。  「天地(あめつち)初めて開けしとき―」・・の一句で始まる我が国の神話同様、  カオス(混沌)から最初に分かたれ生まれたコスモス(秩序)である、  天―ウラノス、と、地―ガイア、  という、神(deity)以前の巨人(titan)より、ギリシャのオリュンポス神話は始まり、全ての神々はその二柱のコスモス・タイタンより生まれるところにギリシャ神話の特色があるといえるのだが、  ここで大事なのは、  「天地初めて開けしとき―高天原に成れる神の名は、天御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は―…」  と続く日本神話同様、  天(ウラノス)や地(ガイア)は、神、とは異なる概念(ここでは、カオスに対置されるコスモスや巨人タイタン)として語られており、それは決して神そのものではない、ということである。  天御中主神は天という存在の絶対的根拠ではあっても、天そのものではない。天そのものを含み込みなお余りある何かである。  この、神(deity:複数形deities、本義上複数形の有り得ない一神教の神god、とはやや趣きを異にする多神教の神)と、  天地そのものであるのみならず、大地(ガイア)に足を付けている限り無限の力をふるうともいう、巨人(titan)、との分別は、  そもそも神が、   善、  という概念の絶対的根拠でもある、という、きわめて重大な本義的命題にも関与する。  ゆえに、ソクラテスは神々を代表する主神ゼウスが父であるタイタンのクロノスを「殺す」逸話を「たとえ本当のことであっても、思慮の定まらぬ若い人たちに向けてそう軽々しく語られるべきではないと思う。」という具合にしてまず、詩人ホメロスらを批判するのである。  これはとりもなおさず、本来的に神話が寓話などとは違って、決してたんなる子供向けの話などではなく、大人や老人の為のものであることすらも暗示するのだが、  問題は、  善の根拠としての神、  である。  詩人(文学者)は「嘘」で真実を語らねばならず、神は善の根拠であるのが真実な為、善の根拠として神を語らない詩人の「嘘」は「嘘」でも物語でもないただの、嘘、であるからもはやそんな詩人は国家(現実)から排除されるしかない―  プラトンとソクラテスの結論は集約するとそういうことであるが、  ここは素朴に考えてみて欲しい。  まず、道徳の説くところでは、神とは崇敬すべきものである。  神とは善良なものである。  『・・・が、その神の中でもとりわけ尊い主神ゼウスは、父クロノスを『殺し』ている。(実際には殺したわけではないが、どんなことをしたかは、ソクラテスの良識に倣い、ここでは伏せる。)そして主神となったのちも、いろんな人間の女性に言い寄っては妻ヘラの怒りを買ったり、その女性たちを不幸にすらしている。  主神がそんなものだから、その他の神々も好き勝手なもので、人を不幸にしたりもしてるのみならず、ホメロスの『イーリアス』に至っては人間たちの裏で暗躍して人間たちで代理戦争すらしてるではないか。  神とはそんなものなのか? ならば神を崇敬なんてできるのか?  こんな神のどこが善良なのか?』  ・・・・・と、  この『』こそは神にまつわる道徳律の影より生じる、極めて凡庸にして通俗的な無神論の典型的な思考経路なのであるが、おおかたの人には共感を禁じ得ないのではないだろうか。  ここで、 『神は勝手気ままだ。なら己も勝手気ままに生きよう。必要なら父だって『殺せ』ばいい。』  ・・・と思うならこれまた極めて通俗的にして凡庸なる悪の道が始まるのだが(おそらく現在のギリシャの経済危機もこの悪と無関係ではない)、  しかし、共感しつつも、 『いや、とは言っても、無神論とはなにかとても怖いものなんじゃないだろうか?神さまは我が儘に見えるけど、ひょっとしたら、人間とは違うルールが神さまにはあり、人間には悪く見えるけど、本当は善いことをしてるのかもしれない。人間には悪いことに見えても、神さまが悪いことなんかするはずない。神さまは善いことをしてるはずだ!善いもののはずだ!』  ・・・・・と、いう具合におおかたは心の平衡を取るのではないだろうか?  実際、キリスト教の神は極めて善性の性格の強い神で、それゆえに畢竟、審判の神となり、その一見して苛烈にして理不尽にも見える裁きもいかに深い理由があるか、そして何より、善、というものがいかに困難なものか、を説き明かし、その過程で背徳の悪魔すらも見出さざるを得なかった神なのだが、  実のところ、そうした神話というものが、存在や本質、絶対者・無限者・真実在などを、文学が主題とする人格の形を以て語られた、ロゴスかつミュトスの形式なのだと看破できたのなら、そうした涜神の誘惑のほとんどは解消するものなのである。  そもそも全てのおおもとである混沌・カオスは善でも悪でもない。  ならば、そこから分かたれ生じる、  天(ウラノス)=精神・形而上性そのもの、も、  地(ガイア)=物質・形而下性そのもの、も、  さらにはいまだ神ならざる神以前の  時(クロノス)ら巨人=無限に限りなく漸近するがいまだ有限の人格的極大者、もまた、  善でも悪でもあるはずがない。  ウラノス(精神もしくは空間の総体そのもの)は霊性や罪性の話で見たように、善悪二元そのものであるし、  自然、の異名も持ちうるガイア(物質もしくは物体の総体そのもの)にはそもそも善悪がない。  クロノスもまた、神ならざる巨人である以上、その程度の振れ幅が極大だったとしても、ごく普通の人間同様に善悪の混淆であり、のみならず「彼」の場合は『父殺し』のみならず、『子殺し』までやってのけている。  よって、ゼウスの『父殺し』は比喩のうえでも、実質の上でも『父殺し』であって、父殺しではない。むしろ、逆説的善の「悪」ですらある。悪の智である謀略・奸智の女神メティスはヘスティア・ハデス・ポセイドンらゼウスの兄弟神たちがクロノスにされたように、ゼウスに飲み込まれてしまうが、善の智である知恵・叡智の女神アテナとして生まれ変わる。父であったとしても、悪は討たねばならず、それによってゼウスは善なるものになっていたということで、それは単なる力の巨人(titan)から善なる神(deity)への飛躍でもあった、ということでもある。ゼウスの父への罪も罪に違いはないが、それはこの世に悪とともに善もまたもたらしたアダムとイヴの原罪のような罪だったと見るべきだろう。  以上のことが原型となる、すべての神々の「悪事」を敢えて皮相に喩えて言うなら、それは人間の悪行になぞらえた神々の隠喩的存在論にすぎないもの、と言うべきである。  むしろ、悪や醜聞に食いつく心性を見越され、そうした神語りに我々が食いつかされているとすら言ってもいい。感情移入という技法は決して現代大衆文学の専売特許ではないのである。  神や神を語る者は、やはり、侮れない。  純粋な無時間空間は幾何学空間のように静謐で、時間的変化はないが、現実の空間は自然によるにせよ人為によるにせよ、目まぐるしく移り変わる。  絶えずウラノス(空間)がその息子クロノス(時間)によって『殺され』ているから我々の現実世界に時間が流れ、世界に絶えず変化が起きているのだ、と言えるし、そのクロノスをゼウスが『殺し』たから、その後、無秩序に新たに神が生まれないし、(日本と違い、ギリシャの神はデュオニソスやプシュケーなど、よほどの理由が無い限り新たには生まれない)現代的時間観の平行世界・世界線・時間線のごときものも生まれないのだ、とも言える。  それは、日本列島を産んだ伊邪那美命が火神・迦具土神を産んだ時に『死んだ』為にもうそれ以上日本列島に新たに大きな島は生まれず、火神による火山によってのみ、時折にぽつぽつ新たな島が生まれる・・という事情に同じである。    以上のように、神が『殺され』『産まれる』ということには、例外なく、何らかの世界や精神概念の欠損と再生、更には飛躍を伴っている。  神は常に世界の在り方変わり方と共に在り、かつ、それに先立っているのである。  結局のところ、無限者たる神の営みは人間の有限な感情を刺激しつつもそれを超え往くのだ、と見なすしかないのだが、神の人格化により可能になる感情の印象、およびその強調誇張がその語りにおいてどうしても重大な意味・意義を持たないではおれない物語に携わる詩人や文学者にはそれが困難なのであり、ともすればそうした涜神につながる嫉妬や、喪神の絶望、というもっとも強烈で空虚な感情にすら時として訴えかけ、時にはその嘘に真実を覆い隠させてすらしてしまうのが、詩人の限界であり、その語りの弊害であり、  のみならず、感情・情念の限界なのでもあるのである。  (こうした無自覚な感性と習性の悪を、反省と歴史をもって克服するのが先の、   伝統、   というものである。)  そして、詩人が煽るそのもっとも強烈にして空虚な感情たる、嫉妬と絶望こそは無神論のみならず、虚無主義の根本情念である。  虚無は時として、自我、という我々にもっとも身近で基本的な秩序すらも食い尽くすことは既に指摘したとおりである。  とうぜん、それが現実の最たるものであり、地上秩序そのものである国家の脅威とならないわけもないのだから、  やはり、「嘘」で真実を語らない詩人・文学者が追放されるのにもそれ相応の理由はあったのである。  
ちょっと哲学したい気分になりました。