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とまと船さん のコメント

「いじめはなくなる。ただし、そのためにはいじめっ子、そして場合によってはいじめられっ子も変える必要がある」

ということやろか。
具体的にどう変えるかで言うと、記事のように、「尊敬・敬意の感情を有らしめ、真の愛情に導き、悪しき悪無限の関心・知性を断ち切る」

そして、これは理想や夢想に見えても、理想は理性であり、ヘーゲルによると、現実的なものは理性的であるからして、それは現実的になりうる(思考は現実化する?)。「敬意を持った愛を以ていじめはなくなる」と思考し考える(念じる)、自分に置かれた状況に照らして、その考えを現実に持っていこうとする思い、行動が大事ということやね。たしかに、「引き寄せの法則」ってあると言われているねっ!

>嫉妬、
> という、神殺しの感情

これはワイ自身、強く持っていて、それを強く自覚もしてるのぜ(だったら何とかしろと言われそうやけど(笑))。
嫉妬。。。劣等感もソレの一つやろか。上から目線への反発心、支配階級への反感。しかし、自分が支配階級になるには明確に力不足やし、大変すぎて責任で精神が潰れるやろ、という劣等感無力感。
そういうの強いから、ワイ自身共産主義やないけど、共産主義を生みだした人びとの思いには共感するところがあるのぜ。
No.1
69ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
いじめはなくなるものである。  さて、このいきなりの断言、定言を読者諸兄はどう捉えるだろうか?  やはり、いじめという問題にのっぴきならない思いを抱いている人には、単なる願望や希望と捉えられるかもしれないし、いじめ問題の根深さ困難さを知悉している人には単なるひとつの意見や主張と捉えられるかもしれない。  が、  はたして、前者の願望や希望はともかくとして、後者の「『意見』や『主張』、とは、では何か?」と返されたとして、それにはっきりと答えられる人はあまりいないのではないだろうか。  意見とは、意思や恣意の見解であり、主張は主体性の規定である主義の展開、だと言ってもあまりぴんとはこないだろうが、このように賤しくも、哲学、の名を冠して論考する以上、一応、冒頭の断言定言、つまりは断言、が  「決して、意見や主張ではない。」  とまず断わっておくのは、結構重要なことなのである。  では、この記事の題名、ならびに、冒頭の断言は何なのか?  その答えは、命題、である。  いじめはなくなるもので『ある』。  という具合に「~ある。」という存在動詞「ある(be)」による断言表現は命題の特徴である。たとえば、  哲学史上最古の命題は、哲学の始祖と言われるタレスの  「万物の根源は水で『ある』。」  というものなのだが、他にも有名な所では、  ソクラテスの、  「人生の目的は魂の世話をすることで『ある』。」  アリストテレスの、  「悪とは依存的なもので『ある』。」  デカルトの  「我思う。ゆえに我『あり(ある)』。」  ヘーゲルの  「およそ現実的なものは理性的で『ある』。」    ・・・などなどといったものも典型的な、命題、なのである。  世間においては、これらはよく何がしかの名言や上述のような、彼ら個々人の意見や主張、といったものと捉えられがちではあるのだが、  しかし、これらは、断じて、そうした意見や主張ではないし、ましてや、単なる願望や、思い込み、決めつけでもない。(後述するが、そうしたものは独断主義の観念定言、と言う。)  また、これはよく勘違いされることだが、命題はなにがしかの解答というわけでもなく、哲学者はこうした「~である。」という断言から、逆に疑問を展開して、考察を深めていくのである。  ある哲学者の真贋はある意味、こうした『ある。』をよくよく吟味すればすぐに解るものであり、この『ある。』をいかに正しく扱えるか、こそは哲学に不可欠なひとつの才能とも言えるものである(もっとも『ある。』を正しく使いこなすにはそれに先立って、正しい考察が出来ていないといけないが)が、取り敢えずここで大事なことは、冒頭の  いじめはなくなるもので『ある』。  の『ある。』もそうした哲学命題の性格として発するものである、ということである。これは、現に虐めに苦しむ人達への希望のメッセージでありつつ、そうした、哲学的な希望の命題証明演習でもある、ということは、先に断わっておきたい。  (余談ながら、禅にも似た所があり、それを踏まえて表現をすると「いじめはなくならないものでは『ない』。」、となるのだが、本質的には同じことである。)  さて、肝心の本題、  いじめがなくなる、とは何であるか?  である。  それには当然、まず、  いじめ、とは何であるか?  を、考えなければならない。  いじめは何で『ある』(正)のか? とは、 いじめは何で『ない』(反)のか?  であり、それを考えれば、おのずと、  いじめが『なくなる』(合)とは何か?  が、導き出される。  これは、言葉遊びや言語ゲームでは、決してない。  単に、考える、ということの芯の芯の所を、むき出しもむき出しにしたまでのことに過ぎない。  それでは、考えてみよう。  まず、いじめ、とは、虐め、と書き、これについては、極めて興味深い先行者の考察がある。  その先行者とは、心理学者でかつ、哲学者でもあったエーリッヒ・フロムという人物だが、その考察の核心とは、もともと臨床用語のサディズムとマゾヒズム、つまり、虐めの「虐」の用いられる、加虐主義と被虐主義を、性欲を強調するフロイトの心理学の制限から解き放ち、哲学概念に深め、サディズムとマゾヒズムを単なる性癖や性的趣味ではなく、字義通りに、ism(イズム)すなわち、主義、として一般化したことにある。  主義、というと、たとえばよく言われるのは政治理念である、民主主義や独裁主義、  経済理念である、資本主義、共産主義、 ・・などだが、  これらは政治や経済といった、極めて現実的な事象の理念であるため、主義としては、派生的なものである。  派生、であるからには当然その根源、おおもとがあり、民主主義(そもそも原語デモクラシーは民衆政治を表し、主義を表すわけではなく、対義としては君主政治、があるも、奇妙なことに『君主主義』という言葉がないのだが、ここではその謎については省く)や資本主義の前提になる、より根本な主義は自由主義や個人主義がそれにあたり、共産主義の場合だとそれは全体主義や社会主義といった言葉が、字義上、それに相当する。  そして、自由にせよ、全体や社会を構成する個人にせよ、そのさらに前提になるのが、  自己、すなわち、「私」、「俺」、「僕」、「自分」、「儂」・・・などといった一人称名詞で表現される、   我(エゴ)  であり、それを主義、すなわち、主体や主格の規定、として表現される、  独我主義=エゴイズム、  である。   これは、自己主義、自我主義といっても何の差支えもなく、  「私は~」「俺は~」「僕は~」・・・  と、全ての一人称名詞でなんらかの思いや考えを言い表している全ての人は、  エゴイスト、自己主義者である。  当然ながら、それを前提としている以上、資本主義者も共産主義者も等しく自己主義者である。共産主義者の忌み嫌い憎む利己主義者は、自己に帰属する利益に拘泥する、  エゴティスト(利己主義者)であって、そのあたりはよくズレている。  エゴティストの主義であるエゴティシズム(自己中心主義・自己本位主義・利己主義)もまた、個人主義など同様、エゴイズム(自己主義・独我主義・自我主義)の派生に過ぎず、共産主義者が形の異なるエゴティストであることも、よくある話である。  このように、主義には派生とその本源や大本、遡及源があり、エゴイズムはそれ以上遡及できない根源的な主義、究極的な主義のひとつである。  こうした、独我主義(egoism:エゴイズム)のように、派生元としてそれ以上遡りえない究極的に根源的な主義は、他には、  神秘主義(mysticism:ミスティシズム)  独断主義(dogmatism:ドグマティズム)  懐疑主義(scepticism:スケプティシズム)  虚無主義(nihilism:ニヒリズム)  ・・があり、  我々人類の思想史・精神史の潮流は、基本的に  神秘主義 → 独断主義 → 懐疑主義 → 独我主義 → 虚無主義  という歩みを歩んできた。  そして、何ぴとたりとも、たとえ、生まれたばかりの赤ん坊や、自我を失った狂人であろうとも、この5つの究極的に根源・本源的な主義からは逃れえない。  これらの主義の変遷は人類の歩みであるのと同時に、一個の人間がその人生で歩む変遷でもあるのである。これら5つの主義は、人類史のみならず、一人・一個の人間の中にもまた、すべからく併存しており、例えば、ある人を「虚無主義者だ。」とか「エゴイストだ。」とか言うときでも、それはその人の虚無や自我の面が前面に出ているに過ぎず、他の主義も常にその人格の内部に併在し、眠ったり秘匿されたりしているのである。  さて、ここで先のエーリッヒ・フロムの考察した、臨床用語由来の、派生的な主義である、加虐主義(サディズム)と被虐主義(マゾヒズム)に立ち返ってみよう。  この二つの対になる主義を、フロムはその著作『自由からの逃走』では、上述の虚無主義、のひとつの派生形である、  権威主義、  の文脈および派生において、論じている。  つまり、主義の派生としては、  虚無主義→権威主義→{被虐主義⇔加虐主義}  であり、いじめ(虐め)の元である、加虐主義と被虐主義は、本質的・根本的に同じものであり、いじめっ子とは、加虐主義者であるのと同時に被虐主義者であり、より根本的には、権威主義者であり、虚無主義者でもあるのである。  あのヒトラーの台頭の地盤ともなった権威主義および、ニーチェを発狂させ、依然として我々近代人の宿唖ともなっている虚無主義の問題には、今回はこれ以上は立ち入らないが、フロムの指摘で最重要と思われる考察をこの文脈においてひとつ提示すると、  それには、  尊敬、  という感情の問題が挙げられる。  これは、敬意、と言い換えても良いが、虚無主義においては完全に欠落するとともに、虚無主義の対極である神秘主義において、もっとも顕著な感情である。(神秘主義つまり宗教の立場においては、尊敬や敬意がさらに甚だしくなった感情として、尊崇や崇拝、というものがあるのは周知のとおりである。)  虚無主義の在り方を端的に示したものとして有名なものは、ニーチェの、  「神は死んだ。」  であるが、  こうした立場が、神を拠り所とする善悪の問題のみならず、このような、敬意や尊敬の感情を置き捨ててしまうのは当然と言えば当然すぎる流れと言える。  まだ論じ詰めないといけない課題は多いが、  核心的なことを言うと、  いじめ、即ち加虐主義(被虐主義)はこの尊敬つまり、尊びや敬いの感情の欠落から生じる。  虐め、とは、尊敬の欠乏である―  もう少し、フロムの考察からこの辺りを補足すると、  これは「自由からの逃走」の後に成されたフロムの、愛、についての考察をまとめた著作、  『愛するということ』における、愛の4つの要素、に関わる事柄を挙げなければならない。  愛、という人間の持ちうるひとつの最高の徳、については、古来よりも、若きソクラテスが巫女ディオティマとの対話で解き明かそうとしたり、自然哲学者エンペドクレスがその元素論において、元素を引き付け合わせる動因(逆に元素を離れ合わせるのは憎・争い)としたりし、デカルトもその情念論における根本的な感情のひとつとして論じたりもしているのだが、 フロムは、愛の感情(情念)・・つまり受動的な面に着目して語ったデカルトとは逆に、その「みずから踏み込む」能動的な面に着目し、  その能動的性質として、4つの要素、すなわち、  配慮 ・ 責任 ・ 尊敬 ・ 知  を挙げる。  ここから、尊敬、が欠け、  相関のある配慮や知にも欠陥をきたしたものが、  所有欲や支配欲であり、  加虐主義(サディズム)である。  実はいじめ、すなわち虐め(加虐主義⇔被虐主義)とは、  欠陥を持った愛情であり、関心であったのである。  いじめっ子のいじめられっ子に対する仕打ちは、その始まりや本質としては、幼児や高等動物が虫や小動物を痛ぶる行為と同じものとして始まるが、いじめっ子も一個の人間であるのに違いはないため、その行為はその継続と共に、そうした虚無に基づく敬意の欠落や、配慮や知の欠陥が進展し、それに並行して、自覚非自覚を問わない悪意を帯びる。  悪意は知性とも深いところで大きな関係があり、  幼少時の神秘主義を脱した知性の、独断主義と懐疑主義の狭間を行き来する知性と相まって、  悪無限、  という状態になると、いじめっ子はもういじめをやめることが出来なくなる。  いじめっ子がいじめられっ子をいじめるのは、いじめられっ子を知る為である。  が、その知性にはいじめられっ子を一個の人格として尊敬する敬意がなく、その人格の発展への配慮もない為、畢竟、それはいじめられっ子の人格の破壊にしかならない。  が、  人格、というのは、幸か不幸か、有限にして無限なる魂、や無限の精神、というものの存在を基盤としている為、その有限な身体とは違い、限りなく無限に近い苦痛や苦悩を味わうことにはなっても、究極的には壊れることがない。  かくして、いじめっ子もいじめられっ子も、共に地獄へ落ちる。  いじめっ子は永遠に亡者を加虐し続ける地獄の鬼であり、いじめられっ子は永遠に被虐され続ける地獄の亡者である。  仏教的には、それを救えるのはあの路傍の地蔵菩薩さまだけなのだが、  しかし、ここまで存在論的に見てきたのならば、 もう、  いじめを解消する方法論も、明らかである。  虐めを無くすには、  いじめっ子(あるいは、いじめられっ子にも)に、尊敬・敬意の感情を有らしめ、真の愛情に導き、その悪しき悪無限の関心・知性を断ち切ることである。  むろん、そう簡単にはいかないだろう。  これには、加虐主義と被虐主義のみならず、  それに先立つ権威主義、さらには、  何よりも手ごわい虚無主義の、  克服と、  正しい懐疑主義が、必要となる。  が、平たく言えば、懐疑主義が敵とする独断主義を乗り越え・・・  と、いうより、決めつけや思い込みによらずに、尊敬や、敬意、というものを考え、本当の愛情・・愛情という言葉に抵抗があるのであれば、友情や、それに至らない隣人愛、というものに辿り着ければ済む話でもある。  それを無自覚に、自然にしてる人は、それを考え、自覚し、自らが当たり前にしていることを人もできるように教え、伝えなければならないし、  それが出来ない人は、それに敬意を以て向き合い、学び、考え、それを自らのものとしなければならない。  尊敬・敬意という感情の欠落は、近現代人の業病であり、その欠落は多くの場合、  嫉妬、  という、神殺しの感情で埋められてすらもいるが、これにも打ち克たなければならない。  こうしたことを現実的・具体的に成すには、課題も多いだろう。  これを夢想・理想、と思う人もいるだろう。  が、夢想はともかく、理想は理念であり理性であり、  冒頭で挙げたヘーゲルの命題を今また引くなら、  およそ、現実的なものは理性的である。  この理性と現実の逆説と、関係性を考えることが出来るなら、理性的な思い、つまり考えは、現実となる。  夢想や幻想と違い、理想は具体的で、現実となりうる。  ある人間、目の前の人への尊敬・敬意をもたらす、その人の尊厳、さらには尊厳自体、そして、それを知りえない関心や、不完全な愛がもたらす知性の堂々巡りとしての、悪無限を、自らの置かれた現実に見出し、  それにそれぞれがその身でもって、具体的な方策を施せたなら、  いじめはなくなるものである。
ちょっと哲学したい気分になりました。