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  • 哲学随想を試しに書いてみる。45

    2015-07-21 18:3018
    言葉は希望である。
     それ自体が価値である。

     しかし、ではどうしてロゴスのプラトンは「国家」において、哲人の王国からミュトスのホメロスを排除しなくてはならなかったのか?

     それには、詩というものがさらに論理性を持って展開した形式である、
     物語、
     についての言及が必要になる。

     物語(StoryもしくはTail)とは「誰か(Who)」すなわち、人格(キャラクター)を扱う学問である文学、にカテゴライズされはするものの、その人格の論理構成は虚構(Fiction)も含み込み得るものであるため、飽くまでもノン・フィクションの人格(HeもしくはShe)を扱う歴史(His+Story=History)とは違い、そこに出てくる人格・キャラクターの実存・実在性が問題とはならない。
     それはすなわち、物語はそうした虚構のキャラクターの行為・営為が実存・実在性において真であるか偽であるかが問題ではないということであり、
     とうぜんながら、純然たる物語とは実在・事実に即して・・・

     嘘でも本当でもどうでもよい。

     ・・ということになる。
     それはテレビでも雑誌でも漫画でもネットでも、毎日毎日無数に生まれ来るところの「作り話」を思えば容易に知れることであるだろう。


     ただ、物語もその中心中軸がその主人公の人格(Who・Ego)、という一つの論理(ロゴス)の形式の一貫性において成立するミュトスである以上、主人公がたとえ誰にでもなれるような悪魔やジョーカーであろうと、多重人格者であろうと、ちょうど、前もって「自分は嘘吐きだ。」と断りを入れた「嘘吐き」の「嘘」がもはや本当の、嘘、ではない、という『嘘吐きのパラドクス』のように(そんな『嘘』のことを冗談、という)、そのことについて何らかの断りを入れないことには、物語として成立しえない。
     そうした断りを入れないものは欺く悪意があるものを虚偽、それが自覚されない場合で虚妄と言い、完全に規定・秩序(コスモス)を持たない叙述は単なる混沌(カオス)の呟き・独白に過ぎないものに堕すため、そうした「誰か」の真なる規定秩序・人格の論理に物語は支えられている、とも言える。
     物語の嘘とは嘘は嘘でも括弧付きの「嘘」である。

     真実とは、実存や実在のレベルにおける真実である、事実、のみを必ずしも示すわけではない。


     そして、哲人プラトンの詩人ホメロスら物語の語り部に対する批判の主題は、そうした規定の中の、とりわけ・・・

     無限者である神、

    ・・・の扱いについてのものに重点が置かれていたのである。
     物語の「語り」は「騙り」にも通じる。これを先の「嘘吐きのパラドクス」同様、文学の側の良識から逆説当為表現すると、

     文学者は嘘で真実を語らなければならない―

     と、なる。
     文学者はたとえ虚構や「嘘」であったとしても、実在や実存・現実性とは異なる位相における真実は語らねばならない、ということであり、
     これに背いたとき、文学者は詩人ホメロスたち同様、その知性や悟性の驕りによって、理性や本質・真実在にもまた、背を向けることになり、哲人の国家から追放されることになる。それは現代において物語に携わる者にしても同様である。
    (念のために補足すると、この『国家からの追放』とは、国家の何らかの権力が何らかの作品・危険思想を排除する、といったような現象的な話ではない。我々日本人のやまとことばにおいては古くは「国」家の、国(くに)=地(くに)、であり、そういう具合に、国、は大地の目に見え手に触れられるものの秩序のすべてを指すものであり、プラトンの『国家』もそうしたものであるのであってみれば、ここでいう『追放』とは、精神がそうした地上の秩序から遊離し、空想・幻想・夢想・妄想に迷い込み、そこから「現実」に帰ってこれなくなるような事態・事象を指すのである。)



     さて、では、詩人ホメロスのいかなる叙述が、無限者・真実在者としての神についてのそれとしてそぐわなかったのか?
     それは、神についての根源的存在論や、今なお世間において見られるそれについての謬見にもまつわることなので、また次回で慎重に扱っていきたい。
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  • 哲学随想を試しに書いてみる。44

    2015-07-05 07:4325
    以前、ロゴス(論理)に対置されるものとしてはミュトス(詩歌)がある、と言い、それは、ロゴスの哲人プラトンと、ミュトスの詩人ホメロスの対立から端を発していることも示唆したが、それについて再度述べておかなくてはならないだろう。

     先述した無垢に絡んで見てみると、無垢な子供はその持ち前の不安、に突き動かされつつ、極めて言葉、というものに飢えている存在である。そして、子供はまず言葉を理解するのではなく、学習するのだ、とも言ったが、本来的に直接的なその無垢なる欲求を満たす言葉の具体的な形式をこそ、詩、というのである。

     詩は、言葉の論理や意味などのみを必ずしも必要とはしない。
     それは韻律すなわち音感や、語感が掻き立てる感情・情念の上により立脚しており、そこで用いられる言葉の論理性はその隠し味のようなもの、つまりその必要条件のひとつであって、必ずしも十分条件ではない。

     たとえば、これは文化人類学的なアプローチなのだが、次のような情景を思い浮かべて欲しい。

     ニューギニア・アフリカなど、いわゆる南方の未開社会・部族社会ではその言語は恐ろしく多様で、それこそ、集落・部族ごとに全く体系の異なる言語があり、ひとつの地域に数十・数百の部族に数十・数百の言語があることなどざらなのであるが、さて、そんな所に突然放り込まれたとしたら、さてどうするか?
     当然、もっともそうした状況に順応しやすいのは無垢なる子供である。
     先にも言った通り、子供はその未発達な知性や理性のみでは言葉とは向き合わない。

     文字通り体でもって、言葉を身につける。

     知性の認知や理性の理解の能力で大人に到底及ばない子供ではあるが、感性に基づく感覚や習性に基づく学習の能力は逆に、大人の方が子供に到底及ばない。学習の学、学ぶ、とは「まねぶ(真似ぶ)」である。子供はまず言葉の口真似から初め、その言葉の使われる状況やその言葉のもたらす事態に体で文字通りにぶつかっていく。他者に試行錯誤で投げかける言葉の必然の帰結のひとつとして、時には喧嘩もし、その言葉を発することで生まれる状況や事態を直接に生きることで、それらの言葉を文字通りに血肉にし、身につけていく。そしてそうしたことは、特に異言語に放り込まれずとも、普通の赤ちゃんが普通にやっていることでもある。

     異言語や初めて知る言葉は、その意味より先に、その音感や訛り・イントネーションの味わいの妙がまず心に染み入り、それがその当人の口で発声されたり、書かれる文字として手に馴染んだりして、繰り返し繰り返しその体に味わわれること(すなわち、習性)によって、その心にも刻まれていくものなのだが、とうぜん、先述の詩と、そしてそれを歌う歌唱もまた、その体を使って言葉を血肉にすること、に含まれる。
     歌唱の韻律や調律は学習・習性の習、習う、にかかる単純な繰り返しの妙についてのルールで、たとえば、京都の人の「~どす。」、大阪の人の「~や。~やで。」、九州の人の「~ばい。~たい。」といった語尾に典型的な地方訛りも本質としては、そうしたものであり、ミュトスである。

     詩歌・ミュトス(Muthos)とは、以上のように基本的には感性と習性による言葉との向き合い・付き合いなのであり、詩歌の神ムーサ(Musa)に仕えるホメロスと、そして全ての詩人・歌い手の立場もこれなのである。一方、「最も賢き者はソクラテス。」と哲人プラトンの師に神託を下したとされるのは、知恵、即ち、理知・論理(Logos)の神・アテナであった。

     言葉、にはこうした合反するミュトスとロゴスの性格が常に同居していることを知っておかなくてはならない。同じく言葉に立脚するも、詩人の立場はミュトスであり、哲人の立場はロゴスである。
     そして、日常言語・会話においても、言葉自体を感性的に楽しみ合っているなら、それは詩歌を口にしていることであるし、言葉の意味をもって何らかの事象を伝達し合っているなら、それは哲理を口にしていることである。ミュトスとロゴスは自覚され、どちらかが捨象されない限りは、ほぼ常に混合されている。

     ミュトスなしにロゴスは無いし、ロゴスなしにミュトスもまた、無い。
     ミュトスとロゴスをひっくるめて言葉、なのである。
  • 哲学随想を試しに描いてみる。43

    2015-06-22 14:5318
    デカルトの情念枚挙にあったとおり、不安の反対は安心である。
     理性に向かう充実こそは希望であり、安心であり、安息である。

     宗教道徳的に言えば、人間生まれたからには神仏の理性の賢き高みを目指さないわけにはいかない、さもなくば魂の安息などありえない、というわけであるが、その目指すべき神仏の物語である、神の神話や、仏の説話、に見られる論理形式とは、神や仏を寓意として人格化しさらに物語としたもの、といえる。
     そして、ただしかし、以上の神仏・真実在はそのように神話や説話で語られるような人格では必ずしも無い、とも言えるのである。

     数学においては∞と0がそれに当たる、ということは既に見たとおりである。

     数にそうした神を見たピタゴラス同様、スピノザなどは、自然法則に神を見、アインシュタインが生涯追い続けた神とはそうした自然法則としての神だった。宗教では、唯一神アラーを人格でありつつも人格などは越えたものとし、その偶像化はもとより、その前提となる擬人化も許さないイスラム教などにその性格が強い。

     「はじまりに言葉ありき。神は言葉なりき。」

     ・・これは、ヨハネ福音書冒頭の一説だが、造仏を方便として真理を語る像法仏教を脱した、と言われる仏教宗派、真言宗はその名の通り、仏陀の言語であるサンスクリット語や梵字で語られる原語・真言のままの仏説自体を仏とし、鎌倉時代に生まれた日蓮宗は根本経典である法華経の言葉自体を本尊とし、禅は言葉の発語(阿)に対置される沈黙(吽)を重視する。

     理性は論理・言語・言葉と共に、ロゴス:Logos、と言うが、それが何なのか、

     「言葉とは何なのか?」

     という問い自体にこそ、論理・理性、ならびに神仏の何たるか、を解く鍵はあるのである。

     以上のように眺めると、言葉はそれそのもので価値であることがわかる。



     希望は、充実は、そして安心は、言葉そのものにこそ、有ると言える。