• 数字崩し 後編②

    2019-07-11 18:43

    (この一連のオハナシをさかきれん様の為に)

    「どこまで出る?お店。この辺りのにしとく?」
    「いや、会社の人と鉢合わせると気ぃ遣うから電車乗ろう。」
    「判った」

    会社帰りは良い。その後の酒飲みは尚良い。
    何が良いって服装を無駄に考える必要が無い。
    会社帰りだから着替えられないものね、
    だから私がやたら黒い服を着てても文句は無いでしょ。

    高校の知り合いの言葉を思い出す。
    学生の内はある程度便利だよね。
    だって制服デートが出来るでしょ。
    何を着ていくかあれこれ悩むのは土日だけで、
    平日にデートすりゃ何を着るかで悩む事も無いもんね。
    そんな事を言ってたあの友人は結局土日も制服デートをしたらしい。
    彼氏にも制服で来るように言って、

    「なんであんた学校でもないのに制服着て出かけるの」

    と母親から不思議がられてると聞いた時は笑いが出た。

    でもアンタの言った事は正しかったよ。
    あの日私に告白をしてくれた男と飲みに行くとなり、
    平日ならあれこれ服で悩む必要も無い。

    そう、そんな事で頭を無駄に疲れさせる余裕は無い。
    戸田君と、真正面から話し合うんだ。
    あの日に出来なかったやりとりを。
    もう随分と時間が経ってしまったけど、
    あの日しでかした私の罪に時効は無い。

    法が関与しない罪に時効などないのだ。

    取り敢えず生。
    ちほがそう注文しようとしたら戸田の声が先んじた。

    「俺カシスオレンジ」
    「あっ じゃあ私コーラ」
    「いいねぇ、ノンアルコールで開幕か。
     仕事で飲んでるって感じじゃなくて良いじゃない」

    注文を取り終わったお兄さんが遠ざかり、
    おしぼりで手を包む二人の目が幽かにすれ違う。

    「さっき生たのもうとしたけどさ。
     実は生そんなに好きじゃないの。
     でも働いてたら呪いの様な言葉があるじゃない。
     取り敢えず生、っていう」
    「判る。俺も苦手。」
    「ほんと?」
    「だからカシオレ頼んだ」
    「学生の頃に良く飲んだわ」
    「そうなんだよ、大学時代に飲みまくった奴がしょっちゅう頼んでさ。
     そのせいで俺もいつも飲んでたの。
     そしたら身体がカシオレの事好きになってさぁ、
     一番好きなお酒はカシスオレンジ。
     学生みたいな酒まだ飲んでんのかって言われる事もあるけどね、
     好きなもの飲んだ方が良いよ、人生一回しかないんだし。」

    一回しかない人生で、
    何のお酒を飲むかはそれぞれの自由だが、
    どうせなら好きなものだけ飲みたいじゃない。
    あの時は我慢して飲んでたんだ、
    飲みたい酒じゃなかったのに、
    なんて死んだ後に愚痴ったって、
    一体誰が聞いてくれるのかも分からない。

    学生時代を共有すれば暫く話題には困らない。
    理由は簡単な事である。
    級友の現状を一人ずつ確かめていくからだ。
    だとすればどうだ、少なくとも百人以上は該当者が出てくる。
    昔を懐かしみ、現状を訪ねる事が出来る該当者が出てくる。

    古森、安藤、亀井、藤安、金友、白藤、堀、西田、福田、
    あの時まだ学生服やセーラー服に身を任せていた級友達。
    中には少ししか話した事が無い人も居るけれど、
    そういう人に限って有名になってたりする。
    そういうのは毎回色んな所で会話の種にされて、
    その功績を本人には知られる事無く讃えられるのだ。

    だが、それらの会話は全てクッションである。

    「あのさ、アレ、覚えてる?」
    「え、どれ」
    「俺が昔西嶋に告白したの」
    「あー…そりゃあね…覚えてるよ」
    「一週間返事を待ってって言われてさ、しかも三回も」
    「うん、あったね……」

    クッションはもう役を果たした。
    あとはちほと戸田、当人同士の直接接触。

    「今だから言えるんだけどさ…ごめん、
     階段の下って、なんか怖かった?」
    「階段?」
    「そう、いつも階段の下に呼び出したよな。
     そこの雰囲気が悪かったのかなぁって、大人になって色々思う事もあるし」
    「いや、別にそんな事はなかった、全然!」
    「じゃあまだ俺がガキだったって事だな。
     しょうがない、まだ中学生じゃ」
    「いやちが、そうじゃないのアレは」
    「ん?」
    「私に度胸が無くて……付き合った事も無かったから、
     彼氏が出来るって言うのが想像出来なくてさ……。
     そういう状態になって良いのかも分からなくて、
     心の整理の時間が必要だったのよ、中学生女子には」
    「判る。子供には世界が変わるレベルの出来事だよな」
    「本当にそうだよ、だから告白してきた戸田君は凄いと思った」
    「…一週間じゃ心の準備出来なかった?」
    「あー……」
    「今のは言い方が悪かった、責めるような言い方だった、ごめん」
    「いや正直責められても文句言えないと思ってる」
    「いや、別に中学時代の事を今更悪く言うつもりはないんだ」
    「あのね、心の準備は出来てた。最初の一週間で。
     でもいざ戸田君を前にすると準備したものが全部ひっくり返っちゃったの。
     お客さんが来るから部屋の掃除したけど、
     訪問が近くなったら飼ってた猫が興奮して全部台無しになる感じ。」
    「それってあながち俺は悪くなかったって事?男として」
    「男の子として、かな」
    「そうかぁ」

    男の握り拳は時として物言わぬ威嚇になる事がある。
    戸田はその事を判っていたのかいなかったのか、
    常に開いてテーブルの上に投げ出しているそれは柔らかかった。

    「でもな、やっぱり色々気になった。
     三回目に一週間待ってくれって言われた時、
     断り辛いから毎回遠回しにしてるんだと思ったよ、流石に。
     けどいざもう言い寄らなくなると西嶋、凄く気まずそうなんだもんな。
     あれの真意だけ教えてくれないか、今になっても判らないんだ」
    「ユーコにね……怒られてね。
     あんた、そんな三回も告白の返事を先延ばしにするなんて!って。
     あーのときゃ凄く怒られたなぁ」
    「貝塚が?」
    「うん」
    「そんな事あったのか」
    「……ちょっとおかしな話してもいい?」
    「どんな?」
    「これまでの話を茶化す訳じゃないの。
     おかしな話なんだけど、でもね、なんて言ったらいいかな……」

    別に魔法がかかっている訳でもない親指を眉間に当てたちほを見て、
    戸田は真面目な声で、

    「真剣な話なんだな」

    と言った。
    それがちほにとっての追い風になった。

    「私ね、
     数字の交渉だと絶対に負けないの。」
    「……ん?」
    「やってみよう。今百円玉幾つ持ってる?」
    「え?百円玉?」
    「そう、私も出す。」

    酒の席で気を昂らせた大人達が愉快に声を重ねて騒ぐ。
    それに包まれ五月蠅いが二人で財布の中を見る。

    「五枚あった」
    「私三枚。じゃあこの残った唐揚げを取引しよう」
    「ええ、何が始まるの?」
    「いいから、但し条件があるわ。
     この交渉で私が勝ったら、ここの勘定は私が持つわ」
    「ええ?本当に?」
    「経費でも落とさない、私の懐から出す。
     じゃあ行くわよ。
     戸田君、この唐揚げにいくら出す?」
    「ええ?これって相手より高値を出したら交渉取れるの?」
    「そうよ」
    「じゃあ百円。」
    「私は二百円出すわ。」
    「じゃあ三百円。」
    「じゃあ私も三百円」
    「え……じゃあ四百円」
    「戸田君」
    「ん?」
    「二百円で引き下がってくれない?」
    「え」
    「二百円にして。それでこの唐揚げ、私に譲って。」
    「………」

    様々な声が辺り一面から聞こえる。
    酒で緩んだ人の口は良く喋る。
    けれどちほと戸田、二人の耳には届かない。
    きりっと開いた戸田の目を、ちほがじっと見つめて待つ。

    「……判った、二百円で良いよ。」
    「よし、じゃあこの唐揚げは私のものね。」
    「……?え、もう一回。」
    「じゃあこの餃子で。」

    餃子の次はたこわさの入った器。
    その次は戸田の手元の飲みかけのカシスオレンジ。
    三回やっても戸田は勝てない。
    ただ手元の五百円を出すと言えば良いだけなのに。
    最後に「判った、良いよ」と言ってしまう自分の口が不思議で、
    戸田が右手で自分の顎をこねる。

    「……どういうこと?」
    「百円とか二百円とか数字がかかってるでしょ。
     右とか左とかそういうものじゃ無理だけど、
     数字が絡む交渉だと相手は私の要求を通してしまうの。
     さっきの戸田君みたいにね。」
    「……上中さんが言ってた感覚って」
    「そう、この事よ。」
    「……でもこの前はこんな感じしなかった、
     あの時だって確かに交渉してた筈だよな?」
    「一回言うだけじゃ駄目なのよ。
     何回かゴリ押して要求する事で相手が折れるの」
    「……じゃあ何でゴリ押ししなかった?」
    「したわ」
    「いや、してないだろ」
    「したわ。あの中学生の時。
     階段の下で。三回も。
     一週間待ってって。
     それで戸田君、三回も良いよって言ってくれた。」

    もう何もかも。
    酒が誘発する言葉達は何もかも。
    戸田の耳には届かない。
    ちほの言葉しか聞こえない。

    「二回目のもう一週間待って、の時に気付いたの。
     数字が関連してるんじゃないかって。
     それを確かめたくて三回目も一週間待たせたの。
     あの日、家に帰って良い気分だったわ。
     お小遣いも上げて貰っちゃって。
     次の告白では戸田君とも付き合おうと思ってた。
     でも、そんなに全てが上手く行く筈ないよね。
     怒ったでしょ、あの時。三回も先送りにするなんて。
     しかも自分の力を確かめる為にだなんて。
     ユーコにしこたま怒られた。
     戸田君の気持ちを考えてないって。
     自分の事に夢中かって。
     ごめん、戸田君。
     自分の事で頭一杯で、試してみたくてしょうがなかったの」
    「……じゃああの後シュンとしてたのは」
    「あは、自分が最低だって思ったからねぇ、
     その時はもうこんな力使うもんじゃないって自責して、
     まぁ、もう懐かしい話だねぇ、こんなの」
    「…お互い思い違いしてたんだな。
     俺は別に怒った訳じゃなかった。
     さっきも言ったけど西嶋が断りにくいのかと思ってた」
    「……それが本当なら聞きたいんだけど、
     何で私に告白したの?私の何が良かったの」
    「うーん……本人に面と向かって話すのは正直凄く恥ずかしいけど」
    「それでも聞きたい」
    「輝いてた事かな」
    「かが……は?」
    「あの時の西嶋は凄かったよ。
     なんか自信満々って感じで生きてるように見えた。
     それが凄く良いなって思って。
     でも、俺が結局告白しなかった件以来、
     一気に元気なくなっちゃったんだよなお前。
     それが俺のせいかと思って、正直気が重かったよ、俺も」
    「それまで交渉で得意になってたのが一気に無くなったからね…。」
    「……西嶋、どうして今回は『ゴリ押し』しなかった?
     俺が相手だったからか?」
    「ん?」
    「だってゴリ押しすればもっと金引っ張ってこれたんだろ。
     営業はいくらで仕事を引っ張ってこれるかが大事だろ。
     どうしてだ。」
    「……相手が戸田君だって事もあるかもしれない。
     けどね、なんか最近駄目なの。
     力を使う気がしないの。
     こんなのズルなんだよね、
     私のズルで色んな人が私の知らない所で迷惑しててさ。
     なんか、実は今の仕事もかなり嫌になってきてるの。」
    「ズルじゃねぇだろ」
    「え」
    「ズルじゃねぇよ。
     持ってる力を使う事はズルじゃねぇよ。お前疲れてんだよ。
     ちょっと気分転換を積極的にした方がいいな。
     流石に仕事を変えろとか辞めろとか無責任な事は言えないよ。
     でも気分転換をした方がいい。
     人間の考え方なんて結構あっさり変わるもんだよ。
     楽しい事して、美味いもん食って、風呂入って寝ろ。
     頭がすっきりする事一杯やろうぜ。」
    「出来るかなぁ……」
    「水族館、行こう」
    「……誰が?」
    「西嶋が。」
    「……誰と?」
    「俺と。」
    「……デート?」
    「お前に告白した時、デート連れてくなら水族館って決めてた。
     好きな映画で水族館デートするシーンが凄く好きでさ。
     本当に楽しそうにデートするんだよ。
     別に付き合ってくれって言ってる訳じゃない。
     ただ、あの時西嶋を楽しませたかった。
     昔に出来なかった事を大人になって回収するのは野暮かもしれないけど、
     こういう人生の楽しみ方も悪くないだろ、きっと。
     どうだ、今度の休み、俺にくれ。」

    戸田君、それは、
    私の事、怒ってないってことですか。
    事実を知っても信じてくれて、
    その上で怒ってないって事ですか。

    ああ戸田君。
    私ねぇ、ずっと気がかりだったんだ。
    君がずっと怒ってるんじゃないかってね、
    私に三回も告白の返事を先送りにした事を怒ってるんじゃないかってね、
    その事をここ十数年ずっとずっと考えてきたんだよ。

    お前馬鹿なんじゃないのって笑ってくれていいよ。
    でも馬鹿だからこういう生き方しかできなかったんだよ。

    けれど今背負っていた大きな岩がようやく降ろせた。
    降ろすには遅すぎたかもしれないし、
    悔やむには長すぎたかもしれない。

    敢えて聞いてはいないけど、
    君はきっと私以外の女性とお付き合いをしたんだろう。
    恨み言を言うんじゃない、そっちの方が望ましいのさ。
    私みたいにグジグジした青春だったならそれこそ申し訳が立たないよ。

    ああもう何考えてるんだろ。
    身体が一気に軽くなった感動で、
    思考が正常に回らないね。

    「行く。」
    「お、マジ?」
    「行く……ねぇ聞いて。ちょっと泣きそう」
    「ええ、俺が悪かった?」
    「いや、私が悪かった……だから泣きそう」
    「西嶋は何も悪くないだろ。
     強いて言うなら俺達それぞれがちょっとずつ誤解してたってだけだ」
    「……戸田君、君、良い男になったねぇ」
    「おっ、お褒めに預かり恐縮です」
    「はは」

    人は自分が抱えている幸福に飽きる事がある。
    とても不思議な話だ、その幸福では満足できなくなるのだ。
    要因は様々ある。本当に飽きてしまったりもするし、
    第三者から幸福の不完全性を指摘されて飽きる事もあるし、
    その幸福が誰かの不幸の上に成り立っている事を知って怖くなる事もある。

    この世に完全な幸福など無い。
    自分がその幸福を許し続けるしかない。

    けれど罪はまた別だ。
    罪からの解放を得るには他人に許してもらうしかない。
    自分がそれを諦める事が出来るものではない。

    十数年の時を越えて許されたちほのそれは、
    戸田からすると取るに足らない出来事だったかもしれない。
    許すに値しない事柄だったかもしれない。

    しかし罪の捉えようは十人十色。
    どんな罪を背負うかも、その人次第なのである。

    ちほは自分の交渉の力で自分なりの幸福を手に入れてきた。
    だが戸田の一件がそのしこりになっていた。
    大口の案件を幾つも取って人生が楽しくてしょうがないちほ。
    色んな噂を社内で流されるもそんな事は気にも留めなかった。

    だがある日に取引先から理不尽な恨み言を言われてしまう。
    それと時期を同じくして、社内の先輩の営業の愚痴も耳に入り、
    噂とはまた別の負の感情がちほの中に流入する。
    それは戸田少年の件と似ていたのかも知れない。
    ずぐずぐと心を冷やし、力を使う事も躊躇ってしまう。

    けれど大人になった戸田の言葉でちほは救われた。
    ちほが自分で選んで苦しめられていた罪はもう無い。
    不思議なものだと思う、こうやって救われる場合もあるのだ。

    戸田と水族館へ行く約束をしたちほは、
    また営業の仕事も精を出し始める事だろう。


    ――――――――――――――――――――――――
    けんいちろうです。
    年に二回程、「もうダメか」と思いつつオハナシを書くのですが、
    今回がまさにそれでした。こんな時に。

    このオハナシはある方が誕生日の時に悪い夢を見、
    誕生日位良い事があっても良いじゃないと私が勝手にリクエストを聞いたものです。
    それがこんなに長引く事になるなんて思ってもみなかった。

    少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
    けんいちろうでした。


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  • 数字崩し 後編①

    2019-07-04 12:09

    営業はあくまでメリットを伝えなければならない。
    相手の会社にどんな利益が起こるかを説明しなければならない。

    買い手はよく話を聞かなければならない。
    相手がどんなに焦って話していようとも、
    焦ってものを買わせようとしても、
    その乱暴な調子に合わせて踊っては馬鹿を見る。

    営業側がどんなに熱くまくしたてても、
    買い手は氷の様に冷静さを保たねば理不尽な金を払うだろう。

    その点、戸田という社会人は極めて冷静だった。
    ちほがあれこれと説明する言葉をじっと聞いて、
    相槌も無駄には打たずに腕を組み続ける。
    瞬きをあまりしない眼で資料を見つめ、
    時々ちほに視線を送り、
    そんな戸田相手に説明しているちほは心臓が痛かった。

    ちほは新入社員ではない。
    もう入社から七年が経つ。
    場数も踏んで愛想笑いも上達し、
    声の抑揚のつけかた、話しを畳み掛ける頃合い、
    一通りの営業としての振る舞いを身につけると共に、
    商談中に変に緊張しない胆力を養ってきた。

    だが今回の相手は事情が違う。
    大酒飲み、遅刻魔、几帳面、超低姿勢。
    商談相手の性格種は様々あれど、よもや、

    『過去に告白を三度も先送りにした相手』

    なんて珍妙なステータスを保持している相手はいなかった。
    だが眼前の戸田社会人はそれに当てはまる。

    「……というシステムなのですが」
    「ちなみにこの3ページ前の」
    「あ、はい」
    「この部分ってこっちでメンテナンス出来るんですか」
    「それはですね」

    責められてはいない。
    質問されているだけ。

    その筈なのに、ちほの胸にグッと圧がかかる。
    戸田の声が、眼が、ちほに向けられる度に咎められている、
    あの日の自分の過ちを咎められているように錯覚してしまう。

    「――という諸々の削減を考慮して、
     これ位のお値段になりませんかね。」
    「そうですね、えっと……」

    ちほ、どうした、ちほ。
    いつもならお前、そこでいや、ちょっと、とか、
    こちらも十分なシステムを御提供してるので、とか、
    相手の値切りに対抗する言葉を吐いているだろう。

    「うーん………」

    ちほの脳裏にかつての記憶がよみがえる。

    セーラー服で通った中学校。
    何度も上り下りした階段に、
    その下の隅っちょの薄暗さ。
    そこで二人きりになった戸田少年と、
    「一週間待って」の言葉に、
    「判った、一週間ね」の返事。

    目の前の戸田社会人は随分大きくなった。
    首には中学時代に見なかったネクタイも付けている。
    精悍な顔立ちになったが、
    あの日の面影が確かに残る。

    「判りました、そのお値段で、一旦検討を……」

    それはちほが吐いた事の無い言葉だった。

    恐かった。

    交渉を続けこちらの値段をゴリ押し、
    終いに戸田から、

    「判りました、一週間待ちましょう」

    という言葉を、

    いや、違う。
    一週間なんて話はしてないじゃない。
    お金の話だ、幾らでこのシステムを売買するかの話で、
    時間の類の話なんてしてないじゃない、
    微塵も、かけらも。

    戸田『君』に階段の下の隅っちょに連れていかれた。
    それはもう十年以上前の話になるとちほも判っている。
    だけど十年経っても心が気まずさをちゃんと覚えていた。
    額縁に入れて保管していた絵のような新鮮さ。
    何をそんなに大切に覚えているのと他人は指をさすだろう。
    けれど何を保存するかなんて、本人でさえ戸惑う事がある。
    こと、思い出に関しては。

    「駅までですか。どうやってここまで来ましたか?
     タクシー?それなら帰りは車で送りますよ。」

    貰える行為は拒むべからず。
    無闇な遠慮は険悪の種。

    駅までと言っても車で10分ほどの距離。
    しかし10分は600秒もある。
    変な話題さえ出さなければ、
    車と言う密閉空間に息苦しい雰囲気が立ち込める可能性は薄い。

    車中の会話は「びっくりしたよ」の戸田の先手で幕を開けた。
    人生が重なれば重ねる程それぞれの道が分岐するのは仕方ない。
    紅茶に落としたミルクの雫がじわじわと滲んでいくようなもの。
    けれど拡散しきったミルクの一部同士が偶然カップの中で再会する。
    ミルクは喋らないけれど、
    人間は昔を懐かしむ。

    「中学時代でまだ会ってるやついる?」

    ハンドルを掴む戸田の手はしっかりしていた。
    男の手だった。

    「ユーコとは結構会うよ」
    「ユーコ?」
    「貝塚ユーコ。」
    「ああ、貝塚か。結構背が高かった、あの」
    「今陶芸家やってんだ」
    「陶芸?俺には全然わからない世界の事やってるんだな」
    「戸田君は?」
    「んー、金友と安藤は大学出ても結構遊んでたけどなぁ。
     二人とも結婚して子供も出来たから最近は全然。
     やっぱり家庭持つとそっちを優先しなきゃな。
     こっちから声かけるのも遠慮して、全くしてないな」

    と、いうことは。
    という事は戸田君、君はまだ独身なのかい。

    待てちほ、西嶋ちほ。冷静になれ。
    これは「君は結婚してないの?」って聞いて、
    「いや、俺も結婚したから事情が判るんだ」とか言われ、
    会話の罠にスポーンと嵌る間抜けな塩梅になるんじゃないかい。

    「戸田君は結婚とかどうなの」

    罠かもしれないのに仕掛けてく。

    「俺だけしてないんだよね。
     だからあいつら自分が飲みたい時に俺に連絡してきやがって。
     お前独身だから暇だろ?飲もうぜ、なんて。」
    「あはは、言われてるね」
    「西嶋さんは?」
    「あー私は」

    勘繰るな。何も勘繰るな。
    これは自分が聞かれたから問い返してるだけ。
    ただの言葉のラリーゲーム。
    ここで私が独身だと答えたからって、
    今が車の密室二人きりだからって、
    変な意図は皆無なはず。

    独身の男女が二人きりで車に乗って、
    お互い結婚してるかと聞いたくらいで何かあるなら、
    この世はもっとデンジャラス、うかつに送迎も出来やしない。

    聞かれたから聞き返しただけ。
    中学時代の知り合いだから気兼ねが無かっただけ、
    他の話題が見当たらなかったから続けただけ、
    ハンドルを握ってるからそこまで気が回らなかっただけ。

    だけ、だけ、だけ、って。

    『だけ』って『少ない事』を表す言葉。
    なのになんでこんなに一杯言ってるの。
    だけだけ、だけだけ、
    『だけ』も積もれば山になる。

    「結婚とかそういうのは、まだ」
    「そうかー。働いてると、やっぱりなぁ。
     そっちはどう、忙しいの?」
    「私これでも営業成績トップなんだぜ」
    「ええー!?凄いね、一位?」
    「一位一位」
    「なんとまぁ、こりゃ今回は手加減して貰ったんだな」
    「え?」
    「上中さんがな」

    上中さんは先程まで同席していた方である。
    戸田の上司、これまでの折衝担当の方。

    「西嶋ちゃんにいつも勝てないって。
     いやらしい話だけど、お金の事ね。
     今日はこっちの条件飲んでくれたじゃん。
     それで手加減して貰ったんかなって」
    「別にいやらしい話じゃない。
     社会に出て働く以上はお金の事考えなきゃ。
     金の採算とか効率とか考えずに働いてる人、
     馬鹿だと思ってるもん、私。
     無闇に経費かけてお金使って、
     そのお金は誰が引っ張ってきたのかって話よ。
     私達営業でしょ?
     営業は会社を養わなきゃいけないのよ。
     この日本で生きていれば誰もがお金は欲しいし、
     それを隠して生きていける訳がないわ。
     だから別に隠す様な話でも無いし、
     別にお金の話はいやらしい話じゃない――あーごめん、
     私最近調子悪くてさ。
     懐かしい顔に会ってちょっと口が揺るんだわ……」
    「いや、俺の方も悪かったよ。ごめんな」
    「そんな、私が」
    「西嶋、御菓子は何が好き?」
    「へぇ?」
    「おかし、おかし。」
    「なに急に」
    「いいから」
    「え、羊羹」
    「ようかん?渋いな」
    「なに?お歳暮に送ってくれるの?」
    「次また訪問でこっちに来る時にお茶請けで用意しとくよ」
    「マジ!?」
    「まじまじ」
    「とらやのが良い、おもかげってやつ!」
    「とらや、おもかげね。判った覚えとく」
    「やったぁ」

    車は回り道をしていない。寄り道もしていない。
    移動時間は大体十分だった筈。
    でももっと長いようにちほは感じた。

    助手席から腰を上げドアを締め、
    下がる車の窓に顔を近づけた戸田君の目が、
    ああ、この人はもう大人になったんだな、
    と思わせる形をしている、動きをしている。
    もう少年の様に一点を焦げるほど見つめるそぶりは失ったのだろう。
    周囲の車にキョロキョロと注意を払ったあとに、

    「西嶋、変わってないね」

    と言った。

    「戸田君も変わってない」

    ちほもそう返事をした。

    「じゃあまた、とらや、おもかげね。」
    「そう、とらや、おもかげ。宜しくね」

    車、そして電車。
    電気は技術を便利にする、
    技術はどんどん早くなる。
    車と電車がちほと戸田君をどんどん引き離す、
    もうお互いの影すら見えない距離になる。
    また、それぞれの仕事に戻って今日も定時まで働くのさ。
    だって、それが社会人。

    でも定時を過ぎて、残業も片付ければ自由になる。
    すかさずユーコに連絡を入れたちほの指。
    今日戸田君に会っちゃった。
    それだけ送ると相手からも「どこで」の返事。
    場所、経緯、車の会話。
    大盤振る舞いで教えるちほに、

    「偶然って怖いね」

    とユーコの返事。
    怖いのだろうか。

    「良い機会だから二人で飲みにでも行きなよ」

    と畳み掛けるユーコ。
    じゃあユーコも来てよ、そうちほが泣きついてみる。

    「ヤだよ」

    の三文字だけ送られてきて、
    そこから何をちほが送っても「ヤだよ」だけしか返ってこない。

    男と二人で飲みに行った経験はある。
    営業をしてたら様々な局面がやってきて、
    それを大胆に飲み込んできたのがちほという女だった。
    だが、

    「昔に告白された男と大人になってから二人で飲む」

    という事は経験が無い。
    前者と後者では全く違う、条件が跳ねあがって雲の上。

    ずっとユーコも心のどこかで考えていてくれたんだろうな。
    私が男とろくに付き合いもしないで、
    寧ろ遠ざけて人生を生きてきて、
    気付けばもう三十も手前の社会人。
    今じゃ何が原因かもよく判らないけど、
    戸田君の一件はかなり強い。

    許されてない。

    許されてないんだ。

    三回も告白の返事を先延ばしにした事を、
    この十余年、一度も許されていない訳だし、
    こちらから許しを請うたことも無い。

    もうそんなの忘れればって誰かが言うかも知れないが、
    忘れたところで罪が消える訳じゃない。

    「じゃあもういいでしょ。
     こんなに長らく罪を抱えて生きてきて、
     それを精算出来る相手が届く距離にきたんだもの。
     ちょっとやそっとの傷を覚悟で臨んでみたらいいでしょう。
     酒の席で距離を詰めて、相手の懐に入り込み、
     あの時の罪を許してもらえますかって、
     そう聞いてみれば良いでしょう。
     図々しいと思われたって結局許されたいんでしょう。
     なら勇気を出してみせなさい。
     戸田君にごめんなさいと言う機会なんて、
     これを逃したらきっと金輪際あり得ないよ」

    苦しみでちほの精神が分離していたのかもしれない。
    心の何処からかそう語り掛ける誰かがやってきて、
    つぅ、とちほの背中を押した。

    二回目の折衝は金曜日、昼の過ぎ。
    虎屋のようかんというのは結構な値段がする。
    『おもかげ』という種類も例に漏れない。
    羊羹がこんなにするとは思わなかったと戸田に言わせたちほは、
    「やったぜ」とニッカリ笑ってフォークを握る。

    「じゃあこの案件はまとめた最終資料の通りに」
    「はい、諸々了解致しました」
    「ふー、戸田君さぁ」
    「お?」
    「今日、仕事遅いの?」
    「いや、定時で帰ろうと思えば帰れる」
    「そっか……」
    「西嶋、この後直帰?いったん会社帰るの?」
    「いや、もうデータだけ送って直帰」
    「この後飲まない?」
    「   よし、受けて立とう!」
    「いや、決闘申し込んだ訳じゃないんだけど」


  • 数字崩し 中編

    2019-06-28 19:58

    (このオハナシを引き続き、さかきれん様の為に)

    男とは、
    決して約束を違えない生き物。
    何かの漫画でそう読んだ。
    テレビのドラマもそう言った。

    しかし思い返せば事情は違う、
    約束をお願いしたのはちほの方。
    一週間を三度も伸ばした、ちほの方。

    その日一日ちほはそわそわしていたが、
    いつもの階段下の隅の廊下を踏む事は無かった。
    戸田君は一度もちほに声をかけずに帰ってしまい、
    ちほの脳味噌が過去の検算を始める。

    あれ、実は一日早かったのかな。
    確か水曜日の約束の筈だったんだけど。
    でもこの前ベッドから落ちて頭を打ったし、
    もしかしたら木曜日だったのかもね。

    けれど木曜日になっても音沙汰無し。
    金曜日も同じく声の一つもかけられず、
    土曜日に思わず仲の良いユーコを呼び出した。

    「そりゃ酷い話だよ、アンタが」

    ちほと戸田君の恋愛事情を四百文字以内で説明する。
    だって長々言うのも照れくさい。
    簡潔に要点を絞って説明すると、
    ユーコからの評価は「酷い話」という高得点。

    「告白の返事を一週間待ってくれって、
     私だってそんな台詞の一つや二つ言ってみたいよ」
    「大丈夫、いつかユーコも言える日が来るから……」
    「かーっムカつくコイツ、調子の良い事言いやがって」
    「ご、ごめん」
    「それで一週間後にもう一週間待ってくれ?」
    「はい」
    「その更に一週間後にもう一週間待ってくれって?」
    「はい」
    「お前どんだけ酷い女なんだよ」
    「そうかな」
    「そうでしょ。
     アタシ絶対アンタとは一緒にファミレス行かない、
     いつまで経ってもメニュー決められないやつじゃん」
    「き、聞いて聞いて、二回目の後には大体決めてたの!
     戸田君と付き合おーかなーって思ってたの!」
    「じゃあそれ本人に言ってやれよ」
    「えー……アタシから?」
    「かーっ、マジこの女腹立つ」

    一週間待たされて、もう一週間待たされて、
    そんでオマケにもう一週間待ってとか、

    「二つ買ったらオマケで付いてくる安物商品かよ、哀れな」
    「ゴメン何言ってるのか判らない」
    「あのねぇ、そんなに延び延びにされたらネガティブになるでしょ、
     戸田君だってこう思ってるに違いないよ。
     三回も延ばすなんてきっと断りの言葉を言うのが辛いんだろうな、
     じゃあもう言い寄るのはよしとこうって」
    「えーそうかなー。ユーコは人の心を読む力でもあんの?」
    「じゃー何で土曜になってもお前は告られてねーんだよ」
    「それは……」
    「そもそも何?何様?三回も先延ばしにするって。
     男を待たせる悪い女にでもなってみたかったの?」
    「そんなんじゃない!悪い女なんかなりたくない」
    「じゃーなんでよ」
    「それは……」
    「アタシも追い詰めて問い詰める趣味は無いからこれ以上言わないけど、
     告白の返事を三回も先送りにされた人の気持ち考えてみ?」

    慙愧に絶えない。
    忸怩たる思いである。
    自分の力を証明したくて身勝手だった。
    正直に言おう、戸田君の気持ちを考えてなかった。

    冷静さが脳内で裁判を起こさせる。
    被告人ちほ、自らの能力を確かめたくて男心を弄ぶ。
    判決は陪審員の全会一致で有罪。
    判決理由は以下に記述。

    「お前がそんな事をされたら許せるのか。無理だろ。」

    有罪、嗚呼有罪。ごめん戸田君。
    こんな女を好きになってくれて申し訳ない。

    罪悪感が勢いづいてちほはその日の帰り道、
    ユーコに自分の不思議な交渉力の事を話した。
    最初は馬鹿にしたような顔をしたユーコだったが、
    試しにやってみた交渉で百円玉をちほに七枚取られて信じるしかなかった。
    ちほは別にお金は欲しくなかった。信じてくれる誰かが欲しかった。
    でも七百円は返さなかった。

    「お前この事他にも話したか?」
    「ユーコが初めて」
    「いいか、誰にも話すんじゃねぇぞ。
     こんな事が他の誰かに知れたら……」
    「NASAにでも連れてかれるかな。
     それともメンタリストダイゴの、あっ、メンタリストチホ?」
    「馬鹿。下手したらお前吊るしあげられるぞ。
     そんなセコい力を持ってるなんて知れたら、
     下手すりゃ誰もお前に近寄らなくなる。」

    人間てのはそうしちゃう生き物だよ。
    その言葉を話すユーコは大人びていて、
    ああ、私はきっとこの子と一生友達でいるんだろうなとちほは思った。

    それから中学校卒業の証書を貰うまで、
    戸田君がちほを呼び出す事は無かった。
    階段下の隅っちょは苦い思い出が残ってしまう。

    ちほからは戸田君に話しかけなかった。
    ねぇ、あの時の話だけどさ。そんな語り出しも微塵も無い。
    ただ怖かった。
    自分に寄せてくれていた好意が今どんな形になってるのか。
    それはまるで小学校の頃に男子がかくした御飯の入れ物みたいだった。

    御飯の入れ物というのは中身が入っているものだった。
    ただそれは箒とかが入っているクラスの掃除箱の上で発見され、
    開けた時は放置されてかなりの時間がたっていたのか、
    タガメをバラバラに解体して煮詰めたような色になっていた。
    それを人並みの隙間から覗き見てしまったちほは不幸だった。
    だが匂いが届かない位置に居た事は幸運として良い。

    食べ物は放っておくと腐る。
    きっとあんな風に、戸田君の心もなっちゃってるのかな。
    人間である以上幾らでも妄想する事は出来る。
    ただ、それを確認するとなると相当の勇気がいる。
    ちほには充てれるだけの勇気が無く、
    見えない戸田君の心が『身体』という蓋の中でどうなってるのか、
    考えるだけでも恐ろしかった。

    戸田君の心の変化はちほにとっての幻なのかも知れない。
    だが確かめる勇気も無いので真実なのかも知れない。
    そんなちほは他の男子と極力関わらず中学時代を過ごした。
    戸田君の目が怖かったのだ。

    俺の事は三度も拒絶したのに他の男とは仲良くするのか。
    そんな事を思われてしまうのが怖くて。

    「アンタいい加減に戸田の事忘れな。」

    高校に進学しても男に近寄ろうとしないちほ。
    同じ高校に進学していたユーコがをそれを見かねた。

    「アタシが見てきた奴らなんて、
     もっと酷い理由で別れたりしてるんだよ。
     それに比べりゃ可愛いもんよ、三回も先送りにしたとか。
     それにそもそも付き合ってないんじゃん。
     なーにを気にする事があるの?
     アンタが戸田のチンポをちょん切った?」
    「なにそれ……」
    「してないでしょ。もう忘れなって」
    「あの時はさんざん私の事最低って」
    「あーもーそりゃ悪かったって!帰りにアイス奢るから!」
    「トリプルが良い」
    「かーっ、またかよ、お前アタシに何個アイスの玉奢らせるんだよ」

    過去は忘れるべきものかもしれない。
    都合の悪い記憶は蓋をするべきなのかもしれない。

    でも夢に見る程なんだ。
    気が付いたら中学のセーラー服着ていて、
    放課後にあの階段下の隅っちょにポツンと立って待っている。
    来ない戸田君を延々と待って、
    窓の外はサッカー部の誰かを待ってる女子が背中だけ見えている。
    その子も結局部活終わりの彼と帰って、
    自分だけがずっと階段の下で待っているのだ。

    「アイス美味い」
    「キャラメル味好きなんだな」
    「粘っこいのが好き」
    「ふーん。いいもんだろ」
    「え?」
    「美味いのはいいもんだろ。
     あのね、女は幸せな事しないと綺麗になれないんだよ」
    「あはっ、急になに」
    「その力、交渉のやつ。
     もうめっきり使わなくなったけど、折角だから使いなよ。」
    「えー…やだよ」
    「昔は『地上げのちほ』とまで呼ばれた女が何言ってんだ」
    「それやめてよ、凄く嫌だったんだから」
    「別に今すぐ使えって訳じゃねぇよ。あのな、将来営業やりな。」
    「えーぎょう?A行?なんのこと?」
    「A行じゃない、え・い・ぎょ・う。仕事だよ仕事。
     アタシ兄ちゃんと十歳離れてるんだけどさ、
     営業の仕事の事ちょくちょく聞くんだよね。
     兄ちゃん、話が上手いから判らない事でも結構聞くんだけど、
     営業はお客さんと交渉すんのよ。それで売る際の値段とか決めんの」
    「…あっ……」
    「そうそう、それだったら誰も文句言わないでしょ。
     そもそも交渉するのが前提の仕事なんだから何も悪くないし。
     上手くいけばお金も稼げて気持ちいいでしょ。
     な。折角だから幸せな事に使おうぜ。
     その力は持ってて間違いじゃないって思えよ。」

    その言葉にユーコがこう付け足した。
    いつまでも暗い顔してる友達なんて見ててやるせないだけだ。
    ごめん、と思うと同時にありがとうとも思った。
    何があろうともこの女だけは生涯友と呼び合おう。
    そう誓ったちほはそれまで熱心ではなかった勉強に手を付けた。

    「ユーコは大学どうするの」
    「んー陶芸の専門かな。
     ほら、うち親が両方やってるのに兄ちゃん、継ぐ気無いから。
     アタシがやんなきゃうちの工房つぶれちゃう」
    「ユーコが、やりたい事なの?」
    「言いたい事はなんとなく判るよ。
     でも寧ろ親から独立する為に陶芸やる感じかな。
     きっかけは当然親だけど、そこから如何に離れた事出来るか。
     それが生涯の目標。」
    「いいね、それ」
    「そっちは結局どうなのよ」
    「経済学部かな。物流とか色々学ぶ。」
    「ほーん、良いんでない。でもさアンタ」
    「ん?」
    「いや、やっぱりいいわ」

    ユーコが口を途中で閉じた。男の事だった。
    結局高校に入ってもちほの男への敬遠は無くならなかった。
    思う事は種々あれど、ここまできたらしょうがない。
    ユーコがそれ以上男の話題を出す事は無かった。

    大学の合格通知を受け取り、
    高校の卒業証書を受け取り、
    企業の内定通知を受け取り、
    大学の卒業証書を受け取り、
    ちほはいよいよスーツに腕を通して社会に出る準備が出来た。

    「いよいよだね」
    「うん、交渉の練習も色んな人相手にやったからね!」
    「練習もなにもアンタは絶対に…まぁいいか。
     話下手なのは営業として致命的だからね。しっかりやりな。」
    「おうよ!」
    「アタシの口調さすがに移ってきたね」

    男の噂はとんと聞かない。
    人間とは近くに寄らないと喋れない、触れない、関係できない。
    いや、ちほは大学でサークルにも入ったのだ。
    男友達も出来た。楽しく会話をする事もあった。
    ただそれまで男子を、正確には恋愛を避けていた弊害か、
    相手がそのような雰囲気を醸し出すと逸早く察知し、
    自らその相手と距離をおくのだ。

    それでも接近を挑んで来る骨のある男もいた。
    なに、何で避けるの。俺君の事が好きなんだ、付き合ってくれよ。
    若さに任せた恋愛戦闘力で迫る同じ学び舎の学徒。
    ほかに好きな奴がいるの?いないの?じゃあ何で?
    なんで俺じゃ駄目なの。絶対大切にするから、嫌な思いはさせないから。

    けれど一から理由をちほが話すと厄介になる。
    戸田君の事を説明しなければならないし、
    不随事項として自分の交渉力の事も話さねば納得するまい。
    なのでちほはいつも、

    「今はそういう事、考えられないんです。ごめんなさい」

    と頭を深々と下げてきた。
    ずっと繋がり次ぐけていたユーコにもちほの恋愛事情は届かない。
    当然の事だ、無い袖を振る事は出来ない。
    ユーコもユーコで全ての察しがついていた。
    もうここまで来ると何も言う事は無い。
    なにせこのやりとりは中学生の頃からやっている。
    およそ八年だ。八年もだ。
    たまに思い出すように男の事を聞いてみていたユーコだったが、
    大学を卒業する事にはそれもすっかり絶えていた。

    ちほの心はすっかり恋愛恐怖の苗床になっていた。
    巣食い、根を下ろし、摘出は難しい。

    だからせめて会社での営業仕事で幸せを感じて欲しい。
    そうユーコは祈っていた。

    神に耳があったのか、
    それともちほの努力が実ったか、
    会社に入ってから本格的に営業職になったちほが覚醒した。

    折衝に持ち込めばかならず仕事を取ってくる。
    しかもかなりの金額でデータを見た上司が二度見する。
    二度見した上に目薬指して、それでも金額は変わらない。

    「お前、これどうやって取ってきた?」

    と上司の問いに、

    「いやぁ、頑張っちゃいましたね!私が!」

    とちほが返す言葉は力が籠っている。
    なにはともあれ、高校の時分にユーコの助言が結実した。

    まさに水を得た魚。
    これまでちほは砂漠で暮らしていたのかも知れない。
    飲み屋で仕事の愚痴を話す声がちらほら聞こえる中、
    ちほは喜々として仕事の話をユーコに聞かせていた。

    「それで結局先方がその値段で良いですって!」
    「へー、良かったじゃん。ちゃんと力が通用するみたいで」
    「本当、商談決まった時がマジきもちーの!」
    「おうおうよしよし、あ、すいませんジントニック」
    「コーラ下さい!」
    「営業でコーラ頼む奴はアンタくらいよ」
    「お客さんの前ではまっずいビール飲んでるもん!」
    「まぁ楽しくやれてそうで何よりだわ。」
    「ユーコの方はどう?壺は売れてる?」
    「壺だけ作ってるみたいな言い方すんな。
     まぁね、ぼちぼち売れてるよ。生きていける位には。」
    「アタシがどこかに売りさばいてあげようか!高値で!」
    「いや、いいよ。」

    追加されたグラスを傾けユーコが語り口を薄く解く。
    この業界はさ、自分の気持ちと値段が一致しないものなのよ。
    これは良く出来た、文句無しって作品が売れなかったり、
    なんか調子悪かったけど得意先に持ってってみるか、
    ってのが高値を付けられたりもする。

    「作り主の感想なんて値段が付かないのよ。
     買い手の自己満足に、値段が付くの。
     本当、変な世界だとは思うけど、
     今更足抜けしようとも思わないしね。
     だから今は自分の納得だけ求めて作ってる。
     こういう話、父さん達とも話した事無いけど、
     もしかしたら私が子供の時から同じ事を思ってたのかもね」

    値段は買い手の自己満足。
    その言葉を聞いてちほには踏み込めない領域だと悟った。
    ちほの売る物にはれっきとした『価値』がある。
    それに対する『妥当な値段』がある。
    その周りを綱引きするように高くしたり、安くしたり。

    流石に、『自己満足』に値段を付けるというのは、戸惑う。

    棲み分けは大切な事である。
    あなたはあっち、わたしはこっち。
    お互いの場所で楽しくやりましょう。

    「ねぇちほ、その後どう?」
    「ん?」
    「随分と良い顔をするようになったよ、あの頃に比べて」
    「いやぁノってるからね、心も肌も!見て!」
    「その輝いてる肌に惹かれる男は、」

    という言葉が発火点、
    瞬間的に爆発した沈黙がちほの顔毎固めてしまう。

    まだ早かったか。
    いや、もしかしたらもう「早い」も「遅い」も、
    ないのかも知れない。

    けれどこれで良いのだ。
    ちほが今の人生に幸せを感じているなら。
    もう、金輪際二度と男の話題は振るまい。

    それからまたちほは企業戦士となる。
    営業に出向いて話してまとめあげ、
    高い値段で落としてく。

    社内の営業成績もメキメキあがり、
    同期は愚か先輩方の成績も喰ってしまっていた。

    人間とは口があり、心がある。
    心で思った徒然な事をつい口にしてしまうもので。

    余りの若さに営業成績、
    社内の幾人かはそれを『不釣り合い』とみなしてしまった。
    面白くないのである。
    彼らの中に下らなく染みついた古臭い『順序』という考え方が、
    あらぬ噂を流し出す。

    「西嶋の成績どうよ」
    「いや、今期も凄い事になってる」
    「うひゃー、流石だねぇ。」
    「まぁ上手くやってるんじゃないの」
    「だろうな、あの成績だと」
    「いや、違う違う」
    「え、なによ」
    「知らねぇの?噂よ噂よ。客に上手い事取り入って、
     それで商談で値段負けてもらう代わりに別日に会って」
    「え、それって」
    「いやー、実際どうなんだろうねぇ。だって数字が異常だし。
     そういう事で商談決めてましたと言われても、
     はぁやっぱりね、と思っちゃうでしょ」
    「んー、そういう事?」
    「まぁ本当かどうかなんて会社としては良いんでしょ。
     金引っ張ってくる営業が一番偉いんだから。
     だからと言ってねぇ、手管選ばずってのは、
     いやいや、強かだよぉ、西嶋は。」

    西嶋の成績の秘訣は枕営業。
    そう言えば商談の殆どの相手は男性だった。
    これはアイツもなかなかやるねぇ。

    そんな声が大きくなって、
    西嶋本人の耳にも届き始める。

    しかし鼻で笑ってしまう。
    何せ西嶋本人は男と同衾した事は愚か、
    手を繋いだことも碌にない。
    恋愛経験知がきれいさっぱりゼロの西嶋の耳に、
    枕営業の噂は戯言もイイところだった。

    (言ってなさいよ、その間に私はもっと仕事を取ってくる。
     しかも高値で取ってくる。
     数字を取ってくる営業が一番偉いんでしょう?
     だったら私がこの会社で一番偉くなってやる!
     私の力ならそれが出来る!)

    ちほが敵を認識したのも初めての事であった。
    燃えに燃えたちほは増々客先へ伸ばす足を忙しくする。
    それに比例するように様々な噂が更に流れた。

    悪い事には、ちほがプレゼン資料を作るのがさほど上手くなかった事だ。
    ある時先輩の営業が『補佐』という名目で同行した際、
    ちほが出した資料の出来に眉をしかめた。
    酷いという出来では無かったが、
    高値の商談を毎回取り付けられる内容のものにはまるで見えない。
    しかしその商談の最後に客は、

    「しょうがない、その価格で良いよ」

    と言ったのだ。
    まるで狐に摘ままれたようであった。

    「あれは絶対何か裏がある、話術も普通の営業レベル、
     一体なんで高値の商談が取れてくるのか全く分からない。」

    と周囲に吹聴する先輩の営業。
    更に下品な噂までもが飛び交うが知った事ではない。
    仕事をすればするほど成績があがる、年収が上がる。
    社会の理不尽と楽しみを天秤にかけた時、
    楽しみの皿が音を立てて地面を叩くのだ。
    ちほは噂なんぞに気を留めている暇が無かった。

    あくまで、噂、には。

    「いや、もう勘弁してくれよ」
    「え」

    そう言われたのは得意先の一つ、
    金属成形機械を売っている会社の担当だった。

    「引継ぎとかないの?」
    「え、あの、なんのことですか?」
    「ここの担当が変わるとかさ。
     だって結構御社に払ってるよ、良い額を。
     いや、判ってるよ、御社のモノが良いって事はさ。
     でもやっぱり払える金額とのバランスってのがあるでしょ。
     ここ数年西嶋さんからシステムを何度も買ってるけど、
     毎回うちが負けてるじゃん。
     いや、話し合って決めてるからこんな事言うのも可笑しいと思うけど、
     西嶋さんが相手だとなんか、それでいいや、って言っちゃうんだよ。
     そうだよね、何回も俺そう言ってるよね?」

    間違いなかった、
    この担当の人には何度もちほは世話になっている。
    過去四回の商談で全部ちほの要求を通してきた。

    「俺も上に言われるんだよ、何でこの値段で通したって。
     その度に、いやこれはこういうシステムで、
     とても良くてって頭下げながら説明すんの。
     いやぁ、肩身が徐々に狭くなってくるんだわ。
     一回他の若いのに担当を代わってみろって言ったけど、
     代わりに上から怒られるのは嫌です、なんて言いやがった。
     だからねぇ、システムは買うよ。
     でも営業を変えてくれないかねぇ、
     もしくはさぁ、今度こそこっちの値段、飲んでくれよ。西嶋ちゃん」

    屈辱ではない。もっと他の何かだ。
    とにかく驚いた。大きな驚きが全てを押し流す。
    相手の目を見たままぽかんとちほは口を開けて固まってしまった。

    「……なんてね、ごめんごめん、俺何言ってんだろ。
     いいよ、判った、西嶋ちゃんにも面子があるもんな。
     今回もいいよ、その値段で」
    「いえ  あの  すいません、そちらの値段で」
    「えっ!いいの!?」
    「あ はい いつも有難うございます」
    「あはっは!ほんとぉ!イヤー助かる、
     今度は社長になんて言い訳しようか悩んで胃の中丸コゲだったんだ、
     ごめんねぇ西嶋ちゃん負けて貰っちゃって!
     今度いつ予定空いてる?飲みに行こうよ!」

    余程嬉しかったのだろう、
    相手の担当の笑い声は耳を痛くするほどだった。

    会社に帰ったちほは肩からするんと鞄を降ろし、
    そのまま誰に何を告げるでもなく自販機へと向かった。
    飲みなれたコーラで両手を冷やしながら歩いていると、
    喫煙所から声が聞こえる。

    「西嶋が」

    聞こえた自分の名前に足が止まり、
    喫煙所のドアを横切らず、少し手前で立ち止まった。
    両手にコーラ、みるみる缶に水滴が付いてくる。

    「うちの会社にいる間はもうダメだな、きっと」
    「いやいや、そんな事無いっすよ~、
     木口さんが本気出せば余裕で抜けますって!」
    「はは、ダメダメ。俺仕事は手を全く抜かないもん。
     だから前は数年ずっと営業成績トップだったんだよ。
     西嶋、本当どうなってんだろうなー、わっかんねぇ。」
    「実際凄いですもんね、あいつ」
    「うーん……前はさぁ、娘にね?
     パパが営業一位だよ~っていうと、
     うわぁ~パパすごいね~!いちば~ん!
     って喜んでくれたんだよ……。
     それが今じゃパパとお風呂入りたくないって」
    「ははは」
    「笑い事じゃねぇよ、この辛さ判るか?」
    「スンマセン、判らないっす」
    「ふぅ……しょうがねぇ、負けてるもんは文句言う資格がない。
     こういう世界はどんな手使っても一位になった奴が一番偉いんだ」
    「色んな噂聞きますけどね、西嶋」
    「そんなの関係ない、数字取れたら良いんだ。
     噂が沢山ある有能と、噂の無い無能。
     会社としてはどっちがいいと思う?」
    「どっちもどっちじゃないですか」
    「馬鹿、有能な人間が良いに決まってるだろ。
     今の所法に触れてるような噂は聞かないし、
     会社に損を出さない限りは西嶋が一番なんだよ。」
    「はぁ」
    「しかしなんだアレ……一人だけ次元が違うんだよなぁ。
     あれはきっとそういう星の元に生まれてるんだよ。
     アイツがこの会社に居る限り俺は二度と一位になれないね」
    「そんな事言わないで下さいよ木口さん~。
     木口さんは俺の憧れなんすから」
    「気持ちだけ受け取っとくわ」

    乾いた笑い声が聞こえる。
    幽かに聞き取れる程だ。
    笑いの終わりを聞き取らず、ちほは踵を返して場を後にした。

    ちほは久しぶりに『他者の都合』というものに思考が及んだ。

    ちほと言う存在がこの会社で営業をやっている限り、
    どこかで割りを喰っている人間が何処かに居るのだ。

    当たり前の話だ。
    交渉とはそういうものだ。
    勝負とはそういうものだ。

    どちらかの条件を飲めば片方が割を喰い、
    誰かが勝てば誰かが負ける。

    その日のビールが祝杯に変われば慰めの酒にもなるのだ、
    それが世の中というものなのだ。変えようがない。

    だけど違うじゃない。
    私の『コレ』は、違うじゃない。

    努力をした覚えも無い、試行錯誤した覚えも無い。
    ただ気付いた時から『そう』なるようになってた、
    数字を交えた交渉で私に勝てた人間は居なかった。

    神様が贔屓したんだ。
    気紛れにこんな力を与えたんだ、きっと。

    世の中には色んな人が居る。
    神がかり的な能力、と呼ばれ詐欺師扱いされる人達もいるけど、
    きっとそのうち何人かは本物で、
    本物でも表に出ずにひっそりと暮らしている人達もいっぱいいる筈。

    だって私ですら『持ってるん』だもん。

    もしかして私、
    『そういう人達』の中で暮らすべきだったのかな。
    『一般の人』に混ざって生きるべきじゃなかったのかな。

    この力を使っちゃいけなかったのかな。
    だってコレ、ずるだもんね。凄いんだよ。
    恋する男の子意志だって曲げられちゃうの。
    とんでもないの、実はロクなもんじゃないの。

    それまで会社でイキイキと働いていたちほに、待ったがかかった。

    実の所、ちほの営業としての能力は以上と断じれる。
    子供のかけっこに金メダリストが混じってるようなものだ。

    だが勝負の世界は非情。
    負けた者が幾ら「ずるい」と言っても仕方ない。
    弱い状態を持つ彼らが悪い。
    背の高いバレーボール選手に敵側の選手が

    「ずるいから身長減らせ!」

    と言ってる場面を見た事があるだろうか。
    または想像出来るだろうか。まず無いだろう。
    人生とは配られたカードでしか勝負出来ない。
    裏を返せば、配られたカードなら使って良い。
    むしろ使わなければ文字通りの持ち腐れになる。

    だがちほは性根が優しかった。
    過去の戸田少年の事も思い出してしまい、
    徐々にだが営業成績を落とし始めた。
    相手が「じゃあその値段で」と言ってもあろうことか、

    「あ、もうちょっと値下げしますか…?」

    なんて事を口に出す。
    言われた方もあっけにとられる様が傍から見ていて面白いのだが、
    ちほの心情は深刻なものがあった。

    そんなある日、
    向かう予定の担当からこんな連絡を受けた。
    転勤で関西の方に行かねばらないので今後自分では対応できない、
    引き継ぐ社員を紹介するので次回の商談で顔合わせをしたい、との事。

    「いや、ごめんねぇ。
     もう僕は西嶋ちゃんにお金貢ぐ事ができなくて」
    「貢ぐってそんな(笑)」
    「でも引継ぎの奴はかなり仕事も出来る奴だから。
     色々やりとりもスムーズに行くんじゃないかな。
     たしかねぇ、西嶋ちゃんと同い年だったと思うよ。
     ごめんね、ちょっと今別件で遅れてて……お、来たかな?」

    足音が聞こえる。
    チューブ状の廊下が反響を大きくし、
    誰かが段々と近づいてくるのを教えてくれていた。

    ガチャ、と遠慮のない音で開いたドアから、
    引継ぎと紹介された男が現れる。

    「すいません遅れまして、
     今後担当させて頂く戸田です」
    「こんにちは初めまして西嶋と言います」
    「……」
    「……戸田……戸田君?」
    「………あっ」
    「ん?あれ?二人とも知り合い?
     いやーこりゃ良かった、知り合いなら更に円滑に話せるでしょ、
     じゃ戸田、ここ座って、ホラ突っ立ってないで。
     資料前もって送ってたけど今回はこのシステム導入予定で、
     え?所で二人、どこで知り合ったの?
     中学校?え、中学校?へぇーっ、こういう事もあるもんだねぇ!
     神の巡り合わせってやつかな?
     はぁはっはっはっは!

     えーとそれじゃあ早速だけど、この基幹部分の――」