• ブロマガ撤退のお知らせ

    2020-10-01 00:35
    御無沙汰しております、けんいちろうです。

    この度、
    長年お世話になったこのブロマガから撤退する事に致しました。

    なんと言いますか、
    このブロマガの予想される推奨用途と、
    私の書いてる内容が合ってないんですよね。
    長らく見て見ぬふりをしていたのですが、
    この度ようやく向き合ってお店を畳む決意を致しました。

    これまでnoteにも同時更新をしていたので、
    10月以降はnoteのみの更新となります。
    noteでもまだ読み続けて下さる方は、
    以下のリンクから追いかけて頂けると幸いです。

    →涙鶴けんいちろう note←

    またtwitterでも様々な情報を発信してますので、
    (読んだ漫画レビューなど)
    宜しければそちらのフォローもお願い致します。

    →涙鶴けんいちろう twitter←

    このブロマガは十月一杯で閉じる予定です。
    長らく御愛読頂いた皆様、
    これからも別の媒体で活動するけんいちろうを何卒宜しくお願い致します。
  • 広告
  • シルトスを今日の別れに

    2020-08-20 19:07

    何かが欲しくなった時、
    人が満足を得る方法は二通り。
    一つは本当にそれを手に入れるか、

    もしくは錯覚するか。


    取調室のパイプ椅子、
    決して長時間座るべきものではない。

    過去何人もの尻がその上に乗ったおかげか、
    臀部を支えるクッションはもうヘタり、
    三時間も座れば尻が痛くなる。

    その点、十九日付で連れて来られた容疑者、
    植野はとてもやりやすい相手だった。
    取り調べを行う柴田の質問にもするする答え、
    その気弱そうな見た目と口調言動に、
    思わず柴田の方が気を遣う程だった。

    昨今、ネットを騒がせるのは『アオジソ』。
    『AOJISO(アオジソ)』は2030年代に田沼一鈴氏が開発。
    前時代的なバーチャルシステム、
    即ち手袋やゴーグルによるバーチャルシステムと違い、
    直接脳波に干渉してバーチャル体験が可能になり、
    より鮮烈な空間体験が出来ると話題になった。

    このアオジソは他者参入に寛容で、
    禁止事項と規定条項を守れば誰でもアプリを売り出せる。

    『スカイダイビング』、
    『トリプルアクセル』、
    『オランダの牧場でポニーに乗る』。

    様々なアプリが売り出され、
    自宅に居ながらどんな体験でも出来る時代となった。

    アオジソ界隈は今、はちきれんばかりの盛況具合。
    しかし未だ中には違法で売買される裏アプリも紛れ込み、
    アオジソの目下の課題はその取り締まりと言える。
    売春アプリや麻薬アプリ系統が草分け期に酷く蔓延ったが、
    今は随分とナリをひそめた。

    過去に裏アプリの氾濫で窮地に立たされた事もあるアオジソ。
    過激派、正義派達が大声でアオジソ廃止を提唱したが、
    アオジソ自体は非常に優れたシステムだった。
    『正しく善良に』利用する開発者達の功績もあり、
    今やアオジソに触れた事のある人類は全体の70%と言われる。

    (※正義派:
     2020年代初頭に起こった『コロナ災禍』の後、
     当時を振り返って出来た言葉。
     荒唐無稽な理由や感情論を前面に押し出し、
     極めて個人的な理論を主張する人間をこう揶揄する)

    だがなかなか治まらない問題がある。
    それが電子ドラッグ問題。

    電子ドラッグとは元々ネットスラングだった。
    主に音楽業界で使われていた過去があり、
    何度も繰り返し聞いてしまう麻薬のような作品等をこう呼んだが、
    現在の電子ドラッグは大麻などの薬物と同等に見られ、
    今や現行の法律が厳しく取り締まる。

    現在の電子ドラッグの定義としては、
    アプリ使用に深刻な中毒性が見られる事を前提とし、
    金銭面、使用時間面以外での要因によって、
    利用者の健康が著しく損なわれるものとなっている。

    例えばアプリの利用で摂食障害になったり、
    稀な例だが歩行不能や手指不動症等になったり、
    そうした影響を人体に与えるモノが今の電子ドラッグだ。
    金銭面と使用時間面が度外視されているのは、

    「課金が止まらない!これは電子ドラッグ!」
    「プレイが止まらない!これは電子ドラッグ!」

    と言った訴えが過去非常に多く、
    余りの馬鹿らしさに呆れられた結果に因る。

    今、柴田の目の前に座る植野。
    この男にも電子ドラッグ法違反の容疑がかかっている。
    その手は随分肉が少ないせいで骨の形が浮いていた。

    植野の取調べが始まった時、
    供述調書の下書きはするすると埋まっていった。
    柴田の質問に答える植野の言葉にためらいは無く、
    それが余りにも流暢なので書き取りの大道がしばしば、

    「すいません、もう一回言って貰えますか」

    と願い出るほど。
    植野がトイレに行きたいと言えばトイレに行かせ、
    喉が渇いたと言えば「何が良い?」とまで聞く。
    薄々柴田も植野が悪人ではないと判っていたので、
    取調べに置いては極めて温和な態度を取っていた。

    「販売したアプリの名称は?」

    と柴田が尋ねた時、
    植野が答えたのは『三郎丸二丁目2-7』。

    「住所じゃなくアプリ名称を聞いたんだけど」
    「アプリ名称が三郎丸二丁目2-7なんです」
    「え?」
    「はい……」

    狭そうな肩を更に狭くした植野が言うには、
    実家の住所をそのままアプリ名称にしたらしい。

    略称・愛称は『三郎丸(さぶろうまる)』。
    アプリ形態は『味覚型』で、
    代金と引き換えに味を提供する。

    アプリ内で提供されていたのは以下の品目。
    ハンバーグ、
    ミートローフ、
    ラザニア、
    そして目玉商品のカレーの合計四点。

    アプリ三郎丸は起動すると平成初期型の一軒家が現れる。
    植野の生家を完全に再現したその家に入ると、
    一人の老婆が「おかえり」とお出迎え。
    その老婆が「今日は何が食べたい」と尋ねてくれる。

    「このおばあちゃんは誰だ?」
    「僕の実のおばあちゃんです。
     この家で実際一緒に住んでました。」

    転勤族の父親、母親は植野を生む際不幸に遭った。
    子供の植野が家に帰ると、出迎えるのは祖母だった。

    「最初は自分でリアルに作ってたんです。
     でもカレーもハンバーグも、
     どうしてもおばあちゃんと同じ味になりませんでした。
     そこでレジネスを友人に教えられました。
     レジネスってアレです、味覚システムの一つで。
     三年間素人技術でいじくりまわして、
     初めておばあちゃんのカレーが再現出来た時は嬉しくて、
     その日のうちに友人を五人も家に呼びました。」

    その友人達もカレーの味を気に入り、
    その後も連日カレーを食わせろと訪れたと植野は言う。

    「それから調子に乗って作ったのが、
     ハンバーグ、ミートローフ、ラザニアです。
     おばあちゃんの手の込んだ料理ってのがこの四つで、
     あとはまぁ、そうめんとかラーメンとか、
     おばあちゃんには悪いと思ってましたが、
     子供らしく作ってとせがんだのが、
     結局この四つなんですよ。」

    カレーだけだったレパートリーも四つに増え、
    友人達は更に足繁く植野の家に集う。
    中には来訪し過ぎて嫁から小言を言われる仲間もいた、
    そう植野は笑いながら柴田に話す。
    その様はとても犯罪者の振る舞いではない。
    まるで地元の幼馴染と昔話を話しているようだった。
    取調べに同席した大道は後にそう語る。

    「中森ってやつがある日言ったんですよ、
     これ、売り出してみようぜって。
     僕は最初冗談かと思いました。
     でも他の皆もやってみろよって言って、
     ええ、すっかり舞い上がっていたんですよ。
     だってアイツら来る度に旨い旨いって言うんですよ。
     それじゃあちょっと遊びでやってみるかって、
     それで本腰を入れたんですよね。」

    植野は3Dデザイナーに有償で依頼し、
    かなり精巧な実家と亡き祖母の姿を用意した。
    そしてレジネスからの味覚データの抽出、
    各メニューの値段設定、
    食品3Dの形成、
    アプリサーバーへの申請、
    課金制度の各手続き。
    一つ一つの作業がパズルを組み立てるようで、
    当時はとてもウキウキしていたと説明する植野。
    そう喋る顔も笑っているぞと柴田は敢えて教えなかった。

    「カレーが二百円、
     ハンバーグは二百五十円、
     ミートローフ二百円、
     ラザニアは珍しいから三百円かな?
     そうやって値段を考えてる時ワクワクしました。
     これ本当に売れるかな、って。
     アプリ申請したのは山海月(やまくらげ)っていう所で、
     同じような味覚提供サービス専門のアプリです。
     商店街みたいに店のガワ(見た目)が連なって、
     バーチャルでそこを練り歩いてお店を決めるんですよ。
     オシャレなイタリアンとか本格派中華とか、
     それっぽい店の3Dモデルが並んでる中、
     その一番端っこにいきなり僕の実家がポツンと現れて。
     ええ、そこが一番借料が安かったんで。
     開店当初は散々からかわれましたね、
     なんか、いきなり民家が現れた(笑)って」

    植野は笑ったがアピール的にはそれが強かったみたいだ。
    軒並み『店』である事を主張するガワの中、
    一つポツンと急に現れた民家が一つ。
    なんだなんだ?と興味本位に入ってみれば、
    狭いが温か味のある家屋の中、
    幾らでも甘やかしてくれそうなおばあちゃんが出迎えてくれる。

    「今日は何が食べたい?」
    「え、あのえっと」
    「カレーが今日はおいしいよぉ」
    「あ……じゃあそれで」

    そうやって注文する初見の客も多いと言う。
    そこまで植野に喋らせていた柴田が口を開いた。

    「……こう言っちゃあなんだが、
     随分狭い家だったみたいだな」
    「当時珍しい平屋でした。一階しかないんですよ。
     友達の家に行くと当然のように二階があって、
     それが本当に羨ましかったです。
     うちも一応一軒家だったんですけどね。
     買ったのは僕が生まれた後で、
     それまで母の持病の為に結構お金かかったようで。
     母は最後によく私を産めたなと思いますよ。
     かなりの負担を覚悟してたでしょう。
     その後三人になって父は家探しの時、
     ひたすら中古物件を探し歩いたって言ってました。
     三人しかいないから平屋にしたかは……どうだか。
     結局父も家に居ない人間だったので、
     あの広さで、十分っちゃ十分でした。」

    狭い、
    本当に狭い。
    3Dで作られた植野の生家の廊下は人一人通れるのがやっと、
    二人通るならお互い半身にならねばぶつかり詰まる。
    『データ』を食べる際に通される部屋も窓無しの四畳半。
    お世辞にも豪邸とは言えない貧相な構えだが、
    その地味さと下手に飾らない素朴さが多くの客に、

    「知らない場所だけど、
     なんか帰ってきた気分になった」

    と口々に好意的な感想を言わせ、
    ほどなくしてアプリ三郎丸は連日盛況となった。

    事情聴取の最中、
    植野が頼んだのはアクエリアス。
    それを一口飲んだあと辺りをキョロキョロと見渡したが、
    何かに諦めたように手の甲で口をぬぐった。

    「ティッシュか。すまんな」
    「いえ、大丈夫です。
     それでどこまで話しましたっけ……。
     ああ、お客さんの声を聞きたくて玄関にノート置いたんですよ。
     鉛筆ツールでかけるやつ。
     そしたら皆、美味しかったからまた来ますって、
     殆どそういう好意的な感想ばかりでした。
     それを読むと不思議なもので、
     おばあちゃんの料理が手を加えた訳でもないのに、
     もっと美味しく感じるようになったんです。」
    「ふーん、それから?」
    「それから……自分でも実際に食べたくて、
     台所に立って何度も作ったんですけど、
     やっぱり同じ味にならなくて……。
     それがもう嫌になって自炊もしなくなって、
     スーパーやコンビニ、外食してたんですけど、
     どれも物足りないと言うか、
     アプリの中で食べるおばあちゃんの味に勝てるものが無くて……」
    「それで、そこまで痩せたか。」

    柴田の声は極めて温和だったが、
    それを聞いた植野は机の上の両手を急いで隠した。
    違います、僕じゃないです。
    まるで大人に疑われてそう焦る子供のように。

    「……アプリ三郎丸。
     ここ一か月で各地の病院に緊急搬送された人間、
     そのうち134人がそのアプリの名前を口にした。
     一人残らず栄養失調、体はガリガリ、
     辛うじて口にできるのは水、
     他は『不味くて』食う気になれないらしい。
     植野、今のお前もそうなんじゃないのか。」

    柴田から見た植野の両腕が内に寄る。
    きっと机の下で手を擦り合わせているのだろう。

    現状、
    電子ドラッグ規制の大半が後手に回る形となっている。
    あからさまな『代物』が蔓延る黎明期が去った今、
    アプリ利用者が心身に異常を来たし、
    それを受けて後天的に電子ドラッグだと認定するしかない。

    植野の三郎丸もその一つで、
    サービス当初はただの人気アプリに過ぎなかったが、
    そのデータの精巧さ、言うなれば、

    『現実よりも美味すぎる味』

    を提供され続けた人間が摂食障害を起こし、
    その症状を引き起こす患者の多さからやむなく、
    『電子ドラッグである』と法律から認定されてしまった。

    三郎丸事件と呼ばれるこの騒動、
    容疑者だった植野は事態を粛々と受け止め、
    アプリの停止を素直に受け入れ、
    摂食障害になった患者達を一人一人訪れ頭を下げた。

    幸運な事に、
    倒れた患者達はその後誰一人植野を起訴しなかったので、
    『容疑者』植野は『犯罪者』植野にはならず、
    『一般人』植野にまた戻り、日常へと帰っていった。

    しかし取調べの最中、
    植野もまた摂食障害を引き起こしていると判り、
    カウンセリングなどの結果、
    三郎丸で使われていたデータに触れる事は一切禁止となった。

    警察側が諸々データを証拠物件として引き上げる際に、
    三郎丸のデータ諸々は『危険データ』として全て没収、
    また一から作り直さない限りは、
    植野は『今はもう無い我が家』のデータにもう二度と関われない。

    引き上げ当日、
    居合わせた柴田に植野がおずおずと近寄った。

    「どうした?」
    「あの、柴田さん」
    「うん」
    「最後に一度だけ、いいですか」
    「データか?ダメだよ、
     お前もうあのデータを食べるなって言われてんだろ」
    「食べません!
     食べるんじゃなくて、
     最後におばあちゃんの姿を見たいだけなんです」

    もし人間が誰かを黄泉(よみ)に送る時、
    こんな声を出すのだろう。

    柴田の他、合わせて三名。
    植野を含めて計四名。

    警察側の立会いのもと、
    もう二度と日の目を浴びないであろう、
    夕焼け空のバーチャルデータが目を覚ました。

    決して豪華と言えない一軒平屋。
    表面の塗装が剥がれた玄関ドア。
    それを植野が開くと、
    家の奥から両手をエプロンでふきふき、
    笑顔で顔の皺が更に寄った老婆が出迎えてきた。

    「おかえり、今日は何が食べたい?」
    「ばあちゃん」
    「カレーが今日はおいしいよぉ」
    「ごめん、ばあちゃん。
     俺、なんか悪い事をしたみたい。
     ばあちゃんに食わせてもらった御飯で、
     悪い事をしちゃったみたいなんだ」
    「さ、何食べる?」
    「最初はばあちゃんの美味しいカレー食べたかっただけなのに、
     ごめんばあちゃん、俺もう、
     ばあちゃんのカレー食べちゃいけないんだって。
     身体に悪いからって医者に言われたんだ。
     ごめんばあちゃん、
     ばあちゃんのカレー世界一凄いのに、
     世界一美味しいのに、
     ばあちゃんのカレーがニュースになっちまったよ。
     俺が調子に乗っちゃったのかなぁ、
     ばあちゃんのカレーのせいで大勢の人が弱ってるって。
     ごめんばあちゃん、こんなつもりじゃなかったんだよ。
     俺ばあちゃんのカレーがまた食べたかっただけなのに。
     ごめんばあちゃん  」

    柴田は悟った。
    3Dデータに向かって謝る植野を見て悟った。

    俺は今この男の祖母の死を見ている。

    この男、
    植野にとって祖母の記憶は他の何よりもまず御飯だった。
    アプリ三郎丸はあくまで偶発的な代物に過ぎず、
    植野はただ、
    この世に残った祖母の残り香を拾い集めてただけなんだ。
    この貧乏臭い家も、たった四品のメニューも、
    全てが植野にとっての祖母だったんだ。

    そうか、
    俺達はこの男からデータを取り上げるんじゃない。
    この男の祖母を殺すんだ。
    この男の愛した祖母を殺すんだ。

    この男は今から、
    祖母の二度目の死を受け入れなきゃならないんだ。


    注文データが入力されない植野の祖母はずっと笑っている。
    ああ、多くの客人達もこの笑顔を見たのだろう。
    その客達が残した言葉達も永の別れを悟ってか、
    今はただ玄関の隅で開くノートの上で、

    静かにシルトスを踊るだけ。


    (※シルトス‐SyrtosまたはSirtos
     ギリシャの民族舞踊のある種の包括的な呼び名。
     踊り手が手を繋いで列になり踊る。)


  • くべさだ追い

    2020-08-14 20:55

    実家への帰省は年に二回、
    それも合わせて一週間と決めている。
    夏に三日、冬に四日。
    合わせてきっちり一週間。

    当然親は愚痴を言う。
    そんなに早く帰って何するの。
    もっとゆっくりしていけよ。

    それを大学の友人に話すと、
    幾人かは同意をしてくれる。
    いずれも実家に居たくない友。
    異口同音に「親が嫌いだから」と言う。
    「帰るだけお前は偉いよ」とまで言う有様。

    だが、
    自分は親が嫌いな訳ではない。
    嫌いなのは土地の方。

    進学する時に選んだのは県外の高校。
    地元を離れて寮暮らしをする為だ。
    親は反対、祖父母は眉をしかめ、
    幼馴染のひばりには三回泣かれて一回叩かれ、
    二回もバカと言われた。

    そうして高校進学の際に受けた非難の数々。
    だがどれもこれも安いもんだった。
    腕一本を切り落とされた訳じゃなし。
    おかげで五体満足で十五年住んだ村どころか、
    県からも無事に脱出する事に成功する。

    大学もそのまま東京目指して進学し、
    ますます実家からは遠ざかる事に成功したが、
    親の子供である事が実家との縁を断ち切らせない。
    妥協した結果が年二回、計一週間の形になった。

    夏に実家に帰るのはいつも休みのアタマ。
    八月に入るとすぐ帰ってすぐ戻る。
    嫌な事を最初に片付け、
    あとはゆっくり楽しむ魂胆。

    だが今年は珍しく、
    九月の終わりにもう一度帰る事になった。

    県外の高校に出る際、
    二回もバカと言ってきた幼馴染のひばりだが、
    あいつも決してバカな奴じゃない。
    一緒の高校に行かないかと誘いもしたが、
    その結果が先程説明したものだった。

    ひばりの名前は美空ひばりから。
    母方のおばあちゃんが好きだからだと昔に聞かされた。
    そのおばあちゃんは軒並み男を生んだ為、
    初めて生まれた女孫のひばりに出番が回った。
    ひばりのお母さんも頓着が無い人で、

    「悪い人の名前じゃないから良いんじゃないの」

    と変な軋轢も無く決まったらしい。

    俺とひばりは隣の家に住んでた同級生という事もあり、
    中学を出るまでは毎日のように遊んだ。

    そのひばりから連絡が来たのは今年の夏の終わりかけ。
    それのせいで今年の『帰省の掟』は崩れた。
    送られてきたのは、

    『入院した
     三か月だって』

    という短い文章だった。

    その文章が頭の中でチリつきながら、
    今夏二回目の帰省の電車の中で紫色の座席に身を預け、
    当の電車はいよいよ目的地に着いてしまった。
    下車した後はいつも駅からバスに乗るが、
    今回は予め母から迎えに行くと連絡が来たので、
    ロータリーで待っていると青色の車がやってきた。

    「よっ、おかえり」

    この夏、母にそう言われるのは二度目の事である。

    「まぁ、びっくりだわ母さんも。
     ひばりちゃんね。」

    母が会話の切り出しでそう言ったのだろうが、
    こちらが返事を返さなかったので会話はプツリと切れ、
    それ以上続かなかった。

    女で三か月と聞けば、すわ妊娠かと思いもするが、
    ひばりの場合はそうではなく余命が三か月という事らしい。

    「ひばり、」
    「え?」
    「なんで判ったの」

    こちらから切った会話の糸口を、
    こちらから繋ぎ直す。

    「病気のこと?」
    「そう」
    「なんか急にバタって倒れたらしくてね、
     それで念の為詳しく検査したらぁ……」
    「助からない?」
    「もう触れない所まで広がってるって」
    「……それであと三か月も?」
    「薬で伸ばせるんでしょ」
    「そっか」
    「まだ二十歳なのにねぇ」

    こちらから振った会話はそう続いた。
    この母との会話は本当に親子ならではと言える。
    ちぐはぐのようで伝わって、
    主語と述語の配置もぐちゃぐちゃ、
    お互い言葉を挟むタイミングも滅茶苦茶。
    父はよくこの会話を聞いて苦言を呈していた。
    もっと綺麗に日本語をしゃべりゃあ、と。

    「どうする?」
    「ん?」
    「このまま病院行く?」
    「いや、一回家運んで。
     それから自転車貸して」
    「自転車?自転車で行くつもり?」
    「車だったら待たせたり呼んだり面倒だから」
    「自転車の方が面倒でしょうが」

    母はそれ以上何も言わずにいてくれた。
    親父や祖母への挨拶も適当に荷物を放り、
    自転車の鍵をいつもの場所から取り出した。
    母には「何時に帰る?」と聞かれたが、
    「わからん」と言ってペダルを踏みこんだ。

    自転車でおよそ時速15キロ、
    横目で抜けていく地元の風景だが、
    今日はどこか熱がある様に見える。
    特に大人達がどこかせわしなく、
    それを嫌って出て行った事を思い出す。

    病院の駐輪場から表口へ、
    ひばりの入っている病室番号を訪問者リストに書き、
    看護婦さんの説明を聞いて院内を移動する。
    病院独特の香りに昔打たれた予防接種を思い出しながら、
    ただ思う、ああ、どうしてこんな事になってるんだっけ。

    ひばりから二行の文章が送られてきたあと、
    当然こちらも返事をした。
    「なにが?」としか打てなかった。

    余命三か月なんて言葉がこれまで身近にあった事は無い。
    一昔前のドラマの再放送で耳にするか、
    それか医療モノの漫画の中で読むしかなかった。
    死ぬまでのカウントダウンが決まっているなんて、
    そんなドラマチックな事に人生そうそう巡り合わない、
    そういうもんだと思って生きていたんだ。
    だからひばりから「三か月だって」と伝えられた時、
    「妊娠か?」と答えなかっただけでも褒めて欲しい。

    なにが?と送った返事の後に、
    ひばりから送られてきた文章には、

    「私の命。九月の三十日に会いに来て」

    とあり、
    俺はそれに従って帰ってきたんだ。
    勿論心の中は冷静でいられる筈も無い。
    九月三十日は『くべさだ追い』の日でもあるんだ。

    礼儀と思い、
    病室のドアをノックして、

    「ひばり」

    と一声かけて中に入った。

    腰から下に布団をかけ、
    背もたれに上半身を任せるひばりはいつも通りだった。
    見るのが怖い程痩せている訳でもなく、
    思わず足を止める程肌の色が変わっている訳でもない。
    八月の頭に会った時と全く同じ姿に見えた。

    「よっ」
    「迷わなかった?」
    「この病院の中の事言ってる?」
    「そう」
    「はは、迷う程複雑じゃない。」
    「まぁ、いらっしゃい。
     夏に二回も会うなんて久しぶりだね。」
    「まぁなー……」

    ひばりの顔色が心を惑わす。
    いつも通りの顔付きで泣いても無いし冷静だからだ。
    あと三か月で死ぬ人間がこんな顔をするのだろうか。

    「三か月か?」
    「その言い方、まるで妊娠してるみたい」
    「ああいや、でも妊娠はしてないだろ」
    「判らないよ」
    「えっ」
    「うそうそ、アタシが誰と子供作るのよ」
    「いや、まぁ」
    「もって三か月だって。
     若いと逆に早いって先生に言われた」
    「そうか」
    「ねー、嘘みたいだよね。
     今から三か月だと、十月、十一月、十二月。
     下手したらソウ君が冬帰ってくるのに間に合わないから、
     こうやって無理やりお呼びしたワケよ」
    「仕事はどうした」
    「あと三か月で死ぬのに仕事なんてしてられないでしょ。
     良い人達ばかりだったんだけどね、会社。
     でも事情説明してもう辞めてる。
     そもそもこうして入院してるから、
     もう何もかも無理なんだけど」

    まだこの土地の子供だった俺がひばりと遊ぶ時、
    周りが流行りのゲームや性別『らしく』遊んでいたのに、
    俺達二人ははいつも将棋を指して遊んだ。
    男の子達が誘いに来ても、
    女の子達が誘いに来ても、
    二人だけで頭を突き合わして将棋を指した。
    俺もひばりも特に将棋がうまい訳でもなかったのに、
    今思えばお互いよく飽きずに続けたと感心する。

    ひばりは負けが濃厚になっても絶対参ったとは言わず、
    終盤に粘られて俺の方が逆転負けした事が何回もある。

    聞きたくなかった、
    そのひばりの口から「もう無理」だなんて。

    「ねぇ見てみて」

    何を取り出すかと思えば、
    ひばりは鉢巻を一つ取り出して目の前で伸ばした。
    まるで綺麗な蛇の抜け殻を見せびらかす子供のよう。

    「私もついに貰っちゃった」
    「へぇ、見せてみ」
    「やぁだ、だめ。
     そんな事言って取る気でしょ。」
    「とらねぇよ」
    「だめ!ソウ君も知ってるでしょ、
     そういう祭なんだから」

    俺はこの地元が嫌いだ、村が嫌いだ。
    この村はおかしい。
    年に一回、九月の終わりの祭で村はおかしくなる。
    その祭をずっとやってるこの村が嫌いなんだ。
    要するに、本当に嫌いなのは祭の方。

    俺がこの世で一番嫌いな祭では、
    たかが鉢巻一つを取られただけで、
    取った相手と結婚しなければならない。
    それを誰もおかしいと言わないし、
    きっと思ってすらいない。

    全てはこの太色村に伝わる慣例行事、
    『くべさだ追い』と村の人間は呼んでいる。

    くべさだ追いはその昔、
    村を救った神『くべさだ』との勝負で勝ち、
    一人の女が嫁いだ事が由来だと言われている。
    その勝負と言うのがくべさだの鉢巻を奪う事で、
    他の男が誰も奪えなかったのに、
    その女が最終的にくべさだから奪ったという。
    くべさだ自身は女の神だったが、
    彼女の人間性に惚れこんで嫁にしたもんだから、
    今に伝わるくべさだ追いにもそれは反映されている。

    くべさだ追いでは村に住民票を持つ成人、
    その中でも未婚の者達が参加者となるが、
    それぞれが持った鉢巻を奪い合う形の祭となる。
    鉢巻を奪われた人は奪った相手と強制的に結婚、
    しかも各々の性別を問わない決まりになっている。

    要するに女同士でも男同士でも結婚出来る。

    それだけではない。
    法律では三親等以内の結婚は禁止されているが、
    くべさだ追いの結果はそんな法律おかまいなし、
    相手が誰だろうが関係ない、
    それこそ親子であってもそれが許される。

    無茶苦茶だとは思わないか。
    無茶苦茶なんだ。

    その事に気が付いたのは中学に入りたての頃。
    余計な事をよく喋る大人達から祭の事は聞かされてたが、
    学校での性教育を受けているうちに違和感を感じ、
    色々調べて村の外での結婚の常識が全然違う事を知った。

    男同士、女同士では結婚出来ないし、
    三親等以内の血縁では結婚出来ない。

    世間で「してはいけない」と言われる事は、
    これまでの長い時代の結論であるし、
    それに反する事はその長い考証を無視する事だ。
    なのに『していい』とするこの村は、
    おかしい。

    そのおかしさを俺はひばりに説明し、
    高校受験で一緒に県外へ出ようと持ちかけた事がある。
    しかしその結果帰ってきたのが「バカ」という言葉で、
    結果俺は一人でも村を出る道を選んだ。

    ひばりなら一緒に『正常』な側へ来てくれると思ってた。
    でも来てくれず、
    余命があと三か月で、
    俺の嫌いな祭りに初めて参加出来ると喜んでいる。
    ひばり、今俺が何を考えているか判るか。

    「陽子さん、今年は誰と結婚するんだろ。」
    「ああ、あの人。また離婚したの。」
    「そりゃするでしょ。
     昔っからずっとそうだもん。
     二十歳の時から数えて十二人。
     祭で結婚と離婚の繰り返し。
     男の方だって判ってやってるんだよ、
     離婚されるけど皆鉢巻取りに行って、
     それで陽子さんも拒まないもんだから結婚しちゃう。
     カッコいいよねぇ。」
    「はは、なにが」
    「そうやって毎年結婚する陽子さんも、
     陽子さんの鉢巻奪いに行く男達も。」

    陽子、木村陽子はこの村でも一二を争う嫌な女だ。
    ひばりが言った通り成人後に毎年祭で結婚し、
    毎年一週間足らずで離婚する。
    それを十二年も繰り返していてまともな女じゃない。
    その女の鉢巻を奪いにいく男達もまともじゃない。
    大学の記念受験みたいに易々と結婚離婚しやがって、
    ひばり、それをカッコイイと言うのか、お前は。
    お前いつからそんな頭のおかしい事を言う女になったんだ。

    「陽子さんみたいな生き方も羨ましいけど、
     まぁ、私は無理かな。
     もう無理かな。
     やっと貰えた鉢巻だけど、
     病院に押しかけてきてまで奪うなんて、
     私にはそんな人いないからね」

    それに祭が始まるのは夜の九時。
    病院は消灯時間。
    面会時間なんてとっくに切れる。
    それでも会いたいなら正面玄関ドアをぶち破るか、
    壁を登って窓を壊すか。どちらにしろ物騒な事になる。
    それを厭わずやるとすれば相当御執心だと判る。

    「昔にそんな人が居たらしいよね」
    「そんな頭がおかしい奴がいるの、この村だけだ」
    「外の世界にはいなかった?教えてよ。
     あの日からいつもいつもこの村の事がおかしいって言うけど、
     外の世界には『おかしい』人が一人もいないの?
     そんなつまらない世界なの。
     どうなのソウ君」

    時間は判らないがもう空が段々暗くなり、
    夜の九時が近くなる。

    「東京には女を好きな女もいないの?
     男を好きな男もいないの?」
    「いや、それはいると思う」
    「兄弟姉妹で結婚しないの」
    「それはしないだろ法律上」
    「じゃあ好き合わんの」
    「いるか?そんなの。この村だけだ」
    「いいやいるね、皆口に出してないだけ。
     この狭い村で起こる事が広い外で起らない筈が無い。
     今まで言わなかったけど、
     外もここもそんなに変わらないでしょ。
     ただ許してるか許してないかだけ、違いなんて。
     ソウくんがここを出て行く時私に言ったよね、
     この村がおかしいからこの村が嫌いだって。
     でもどうだった、外に出てみて。
     この村、やっぱりおかしかった?
     それとも外の世界の方がおかしかった?
     別に責めてるつもりじゃないんよ、
     ただ知りたいだけ。
     教えて、どうだった外で暮らして、外を見て。
     教えてソウ君。」

    ひばりの言葉達はせっかちなそぶりを見せなかった。
    我も我も、押すな押すなと足早にもならず、
    行儀良く一つ一つ自己紹介でもするように喉を鳴らした。

    それを出すひばりの唇も至極落ち着いたものだったが、
    「別に責めてるつもりじゃないんよ。」
    そう言ったひばりの口は我慢できずに震えだしていた。

    俺が村を出て五年、
    外の世界と村と比べてどうなの、などと。
    こんな問い詰める様な話し方をしたのは初めてだ。
    村に帰ったら必ず会う間柄だったものの、
    交わす会話はいつも遊びや趣味、あと学校の友人の事ばかり。
    それを、まるで今まで我慢してたとばかりに言うひばりに、
    俺の方も遂に来たかと口籠った。

    この村はおかしいと逃げ入った外側の世界は、
    実のところ村の中と同じ位おかしい世界だった。

    やる事は違えど住んでるのは同じ人間と言う生き物。
    外の方が広い分だけ住む人もやる事も多種多様で、
    「そこにいけばまともな世界がある」という期待は、
    所詮子供の絵空事だったと言って良い。

    結局自分の思い描いていた「まともな世界」は、
    よくよく考えると潔癖な理想をさらにろ過したようなもので、
    人間と言う多様な生き物が作る社会にそれを求めるには無理がある。

    素直に言えたらどんなに楽だったろうが、
    変な意地が自尊心を煽り、
    くすぶりたくもない葛藤を二年も抱えた。

    一言いえば済む事だった。
    外の世界も結局おかしい所だったよ、
    どうやらこれが世の中という物らしい、と。

    ひばりは恐らく俺よりずっと早く判ってた。
    実際に外に出た俺がいつそれを言うのか待ってたんだ。
    けれども余命三か月、避けようの無い期限が迫り、
    こうして言いたくもない言葉を言ってるに違いない。
    こんなに言葉が震えるひばりを見た事が無い。

    いつかこんな日が来るとは思っていた。
    どこか心の準備は既に出来ていた。

    ひばりにこんな事を言わせ、
    挙句自分の恥も最早隠せず、
    自分のかっこ悪さを諦めながら俺は遂に、

    「外もここもそんなに変わらない」

    とひばりに言った。
    するとひばりは、

    「そうでしょ。バカ」

    とだけ言い、
    ふっと窓の外を見た。

    五年振りに言われたバカという言葉が、
    俺の背中の上にドンとのしかかって言葉が出ない。
    バカの重さに耐えるので精一杯だ。

    「気付いてれば五年多く一緒に居れたのに」

    おっしゃる通りで。
    ひばりがバカだけでは足りぬと追撃を出した。
    おかげでこちらは肺腑が引き裂かれたように息がしずらい。
    このままでは陸の上だと言うのに窒息するぞという間際、
    もう一度ひばりが、

    「バカ」

    と言った。
    けれどそれは初撃のバカと違って柔らかな響きを纏い、
    息苦しい俺に呼吸を許す様な寛容さがあった。

    俺の肩から力がスーッと抜けて行った。
    それまで背負っていた重い荷物をようやく降ろせたような。
    そうか、もうひばりに変な意地も見せなくて良いからか、と、
    そう自分の心の中でも言語化してみると、
    帰る度に抱いていたこの村に対する嫌悪感も、
    不思議と波が引くように静かになった。

    「かっこ悪い所を見せるのが嫌だったんだ。」

    重荷が解けると、不思議と喋るのも楽になる。
    それまで言えなかった言葉も溢れ出る。

    「俺が間違ってたって言いたくなかった。」
    「そんな事でかっこ悪いと思わないし」
    「そうか?じゃあもっと早く言ってりゃ良かった」
    「そうだよ、バカ。
     そしたらもっと帰って来てよって私も言えたのに。
     もうちょっと長く居てよって言えたのに。」
    「ひばり」
    「なに」
    「結婚してくれ」

    拗らせていたややこしい意地が晴れた後、
    心に残ったのは簡単な足し算だった。

    村を出てもよこしてくるひばりの連絡。
    帰省すれば必ず会う仲。
    余命三か月。
    くべさだ追い。
    この日に帰って来て。
    今まで聞いてこなかった質問。

    難しい事は無い、
    全ての断片を簡単な足し算にかけた時、
    まるでこの先何年もかけて消化する出来事を、
    今日のこの日に一気に精算しようとする輝きが見える。

    ひばりの目を見ると驚きの色は見えない。
    予め想定してないと出せない顔色をしている、
    言い換えれば結婚を申し込まれた人間の見せる冷静さではない。

    「だめだよソウ君、
     私あと三か月で死ぬんだから。
     そんなのでバツ一つついても嫌でしょ」
    「離婚と死別は関係ないだろ。
     それにお前言ったよな、陽子さんの事カッコいいって。
     離婚歴がいくらあろうがそんなの関係ねぇんだよ。」

    ゴト、と椅子が一歩前に出る。
    ひばりの手には鉢巻、隠す様子も無い。
    手を伸ばせば、そら、届く。

    考えなかった訳ではないのだ。
    帰りの電車の中の時間は沢山あった。
    下らない意地が簡単な足し算をかく乱していたとはいえ、
    余命幾ばくもない幼馴染が会いに来てと言うならば、
    それはそういう事かと微塵も思わない訳がない。
    そういうドラマを見た事もあるし、
    そんな場面に心を打たれた事もある。

    「俺と結婚してくれ」

    そう言ってひばりの握っている鉢巻の端をついに握った。
    それをゆっくりと引っ張る。
    まだ時刻は夜の九時ではない。
    今この村に住民票も置いてない。
    俺がこの鉢巻を奪ったとて祭の掟上、意味はない。

    けれども意味がある。
    この鉢巻をひばりから奪うのは、
    いわばプロポーズの儀式のようなものだ。
    この村では誰もそうして結婚してきた。
    そう、この村では。

    「だめ。だめだって。
     それにこれも渡せない。
     もし私を密かに好きな人がいて、
     今夜ここにコッソリやって来てくれたらどうするのよ。
     折角来たのに鉢巻無いんじゃガッカリもいいとこでしょ」
    「誰が来るんだよ」
    「そりゃ知らないよ」
    「もう来てるだろ」
    「誰が」
    「俺をお前呼んだだろ」

    もう少し力を入れて鉢巻を引っ張ってみたが、
    今度は反対側から強い反発力を感じた。
    ひばりだ、ひばりも負けじと鉢巻を引っ張っている。

    「でもソウ君、もう住民票ここにないじゃん」
    「確かに無い」
    「まだ九時にもなってない」
    「ああ、まだだ」
    「ルール違反だよ」
    「ルールを守らないやつらなんてこの世にごまんといる」
    「あはっ、いきなり性格変わったような事言って」
    「ひばり、」
    「なによ」
    「お前が知らない間に他の誰かと結婚するなんて……」
    「……するなんて?」
    「……もっと時間が欲しかった」
    「しょうがないよ、ソウ君が村を出て行くもんだから」
    「それは、俺が悪い」
    「そうだよ」
    「俺が悪かった、許して欲しい」
    「難しいなぁ」
    「ひばり」

    手から腕、腕から肩、
    力を込める筋肉をさらに増やして求めるは鉢巻一つ、
    しかしその鉢巻がどうにも取れない、奪えない。
    相手は女、しかも余命三か月、筋骨隆々な訳でもない。
    本当に余命三か月七日と疑う力でひばりが鉢巻を握り締める。

    更に力を込め、
    それこそ酔っぱらった旦那が妻に暴力を働くように、
    俺が全身で引けばひばりから鉢巻は奪えるだろうが、
    そうしたら握り締める腕に取られて、
    ひばりがベッドから落ちてしまう。

    「ひばり、手を放せ」
    「駄目って言ってるでしょ」
    「ひばり」
    「ダメダメ」
    「俺とは結婚したくないか」
    「だってソウ君バカだもん。
     今日だって私に三回もバカって言われた」
    「今のを含めて四回だ」
    「でしょ。ダメ。」

    肩甲骨のやや下の筋肉まで締めてみるが、
    それでもひばりとの綱引きに勝負がつかず、
    ならなんで俺を呼んだんだとさえ思えてくる。
    もしかして最後に俺にバカって言いたかっただけなのか。
    いや、その可能性もありうる。
    最後に好きな相手に会いたかったとかそんな考えは、
    俺の夢見た妄想だったのか。

    ひばりの目はずっとこちらを見ているが、
    その奥を覗いてみても何を考えてるのか全然読めない。
    誰だ、瞳の奥に心があるなんて言ったやつは。
    但し日本語はサポート外ってちゃんと書いとけ。

    「ひばり」

    最後に名前を呼んで鉢巻に一層力を込めたが、
    余命三か月とは思えぬ力で握り返され、
    俺は何か底知れない執念のようなものをひばりに感じた。

    そうか。
    今日、俺を呼んだのは仕返しだったか。
    すまんひばり、
    村を出ず五年多くお前の傍に居れば、
    もっと早く自分の気持ちに素直になれたかも知れないのに。

    手、腕、肩。
    全てに込めていた力を徐々に抜き、
    俺の指から鉢巻の全てが離れた。

    ひばりの顔は見れなかった。
    結婚を断られた男がどんな顔をすればいいのか、
    断った相手がどんな目で俺を見るのか、
    恰好悪くて仕方がない。

    もうそれ以上何も言えず、
    取り繕う言葉も無く、
    ただ情けなく、最早見栄も虚栄もない。

    「悪かった、おばさんによろしく言っといて。」

    結婚の申し込みを断られた後に、
    よもや世間話の続きをする図太い神経も無かったので、
    情けなさをただ背負いこんで椅子から立ち、病室を出た。
    そろそろ面会時間も終わるだろう。

    パタ、パタと自分の足音が廊下に二つ響いた時、
    部屋の中からパンパンパンパンと近づく高い音が聞こえた。
    何かが割れている訳ではない、
    それはひばりの履いたスリッパが勢いよく床に当たる音だった。

    「このバカ!!!」

    何事かと思って出たドアに振り返ると、
    間も無くスリッパを履いたひばりが凄い剣幕でドアから現れ、
    今日一番の大声で俺を罵倒するではないか。
    これでひばりからバカと呼ばれるのは、
    本日通算五回目。

    「何にも判ってない、何にも判ってない!
     結婚してくれって言っといて、
     アンタ一体なにしてるの!?
     このバカ!!!」

    一体何が始まるのか。
    突然のひばりの激しい振る舞いに呆気にとられ、
    止まった足が棒立ちに。

    「そんなにナヨナヨしてんじゃないわよ、
     私と結婚したいんじゃないの!?
     私を他の誰にも渡したくないんじゃないの!?
     だったらそれなりの覚悟で来なさいよ、
     もうこっちを殺す程の気概できなさいよ!」

    ああ、詰め寄ってくる。
    俺の幼馴染が、見た事も無い顔で。

    「私が教えてあげるソウ君、
     プロポーズはね、こうやるのよ!!!」

    少し細くなったひばりの腕が胸倉を掴んで来て、
    のしかかる重圧で俺が後ろに倒れると、
    そのまま一緒に折り重なるようにひばりも倒れ込み、
    病院の廊下に二人分の鈍い音が響いた。

    「私と結婚しろ!!!
     もう最後までこの村から出るな!!
     私が最後に見えなくなるまで……、
     私と結婚しろ……!!バカ、
     こうやってやるんだよ、判ったかバカ……!」

    ひばりの大きな叫び声と、
    幾つかの大きな打撃音。
    それに呼ばれて廊下に連なる病室群から、
    いくつもの顔が覗いていた。
    その中にいた一人の老婆がただ一言、

    「そういうもんだよ」

    と呟いた声が聞こえ、
    あとは幾つも落ちてくるひばりの涙を顔で受け止めるしかなかった。


    あと数時間で祭りが始まる。