涙の貰い物
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涙の貰い物

2016-10-22 09:38

    鼻から牛乳、
    出した事ありますか。

    うちのねぇちゃんは目から牛乳を出した事があります。

    そして、未だに。


    「ただいま……。」

    今日の帰り道、
    弟の俺は会社を辞めようと思った。
    今年に入って三回目。
    こう、夜の帰り道のアスファルトが死刑台へ続く絨毯に見えた。
    もう精神的にヤバイ。
    ただいまが言えただけでも良しとしよう。
    多分ただいまが言えなくなったら、本格的にヤバイ兆候だ。

    「母さんタダイマ…。」

    ご飯を求めてリビングのドアを開いた。
    母はいなかった。

    「おかえり。」

    姉がいた。

    「ご飯は?」
    「………食べる。食べたい。」
    「疲れてるな。
     よし、レンジでチンしてきてあげよう。」
    「いや、別に自分でやるし…。」

    俺はそういいつつ腰を椅子の上に取り合えず下ろした。
    ねぇちゃんは俺の目の前にあるサランラップのかかった皿を手に持った。
    中には肉じゃがが入っていた。
    分離した油が、白く表面に浮いている。
    大丈夫、温めればアレは溶けるから。
    幼い頃は、あれが油だと知らなかった。

    「どうせ立ち上がれないくせに。」

    ねぇちゃんはそう言って皿を持って台所へと行ってしまった。
    悔しいとも思わなかったし、
    情けないとも思わなかった。

    ただ疲れてる。
    肩に矢が四五本刺さってるようだ。

    カチと音が聞こえた。姉がレンジのドアを開けた音だろう。
    バンと音が聞こえた。姉がレンジのドアを閉めた音だろう。
    ブーンと音が聞こえた。
    レンジが俺の為に頑張ってくれてるのだろう。

    「大丈夫か。」

    見えない矢が刺さっている俺の肩に、
    ねぇちゃんの手がぴったりとフィットした。

    「駄目かもしんね。」
    「そうか、駄目かもか。」
    「ああ、駄目かもしれね。」

    サバサバしているのがねぇちゃんだ。
    「大丈夫だよ」とか、そんな根拠の無い励ましとかは絶対に言わない女。
    自分が言われて嫌な事は他人にも言うな。
    それが我が家の家訓で、ねぇちゃんはその家訓を堅く守って育ち、
    今のようなねぇちゃんになった。

    ペロパロパロピー、と電子レンジが誰かを呼ぶ。
    俺、反応してやりたいが元気が無い。
    母、多分今は風呂に入っていて電子レンジに構えない。
    父、今現在神奈川に単身赴任中で留守。
    ねぇちゃん、

    「はいはい。」

    ねぇちゃんは電子レンジに構ってやれる。

    「ほら、肉じゃがおたべ。」

    ねぇちゃんの手が机の上に皿を置く前に、
    フライングで肉じゃがの匂いが鼻腔に侵入してきた。
    そそる。食欲をそそる。
    皿を置いたねぇちゃんは、俺の横に座った。

    箸。
    手に取る。
    見つめる。肉じゃがの肉を掴む。
    口に運ぶ際にまた鼻の中に匂いが入ってきて、
    口の中で控えめに広がる味と、いい協奏を作る。

    「…………はぁーーーー……。」

    長い溜息だと自分でも思った。
    口の中に残る肉じゃがの汁を下で舐めて改めて思うが、
    母の肉じゃがは美味しい。
    最後の晩餐に食べたい。
    それほどまでに俺はこの目の前の料理を愛している筈なのに、
    二口目をつけようと、箸が出ない。

    ねぇちゃんが俺の横から立ち上がって、
    台所に向かった。

    『尚、日本人の死傷者はいません。
     それでは、次は秋葉原で起こった通り魔事件の』

    テレビがそんな事を必死にノイズ。
    疲れている俺の耳にはノイズにしか聞こえない。
    ごめんね、ニュースキャスター。
    でもきっとアンタの頑張りは他の誰かの心に届いてるよ。きっと。

    ズリッと横で音が鳴ったのは、ねぇちゃんが椅子を引いたからだった。
    コトンと音が鳴ったのは、ねぇちゃんが水の入ったコップを机に置いたから。

    そしてねぇちゃんの手はコップを握ったままで、
    その置いた動作を無碍にするように、
    座ると同時に口へと持ち上げた。

    ねぇちゃんの目を見る。
    開いたままだ。
    ねぇちゃんの口を見る。
    今にも水をコップから飲みそうだ。

    久しぶりだな、と思った。

    ねぇちゃんは昔、よく目から牛乳を垂れ流していた。
    ねぇちゃんが牛乳を飲む。
    ごくんと喉を通る。
    次の瞬間に、つつつーと白い液がねぇちゃんの目から垂れる。
    舐めてみると、それは牛乳だと驚きの事実。

    姉が喉に通した飲み物は目から垂れる。

    結局、何処に目へと通じる摩訶不思議バイパスがあるのか判らなかった。
    よくねぇちゃんは給食の牛乳を持って帰って家で飲んでた。
    ねぇちゃんが小学二年生の時に、
    母が学校の先生に

    「牛乳だけは家に持って帰らせてください」

    とお願いしたのだと言う。
    毎度、給食時間の度に目から牛乳を垂らして、
    「やーい牛乳妖怪!」と苛められてたねぇちゃんへの、母なりの最低限の心遣い。
    それでも牛乳だけが給食で出てくる液体ではない。
    汁物が出てきた時は男子によく冷やかされたそうだ。

    一回だけ堪忍袋の緒がブチリンコと切れたねぇちゃんは、
    給食のスプーンを片手に男子に踊りかかったらしい。
    現場を見てないので全ては聞き伝えだが、

    「アンタの目も、このスプーンで穴を開けて口と直結させてやろうか!
     砂場のトンネルみたいにしてあげるわ!!」

    と隣のクラスの先生の口から牛乳が吹き出る台詞、
    加えて、襲い掛かった男子の頬にざっくりとスプーン。
    今はどうだか知らないが、昔の給食スプーンは先端が尖っている。
    刺さったのが頬でよかった。
    目だったら、今頃くり貫かれている。

    この事件は母の陳謝で終わりを告げたが、
    小学六年生の時にねぇちゃんは目をきつく瞑りながらだと、
    目から液が垂れない事実に気付く。
    以降、ずっとその飲み方を遵守してきたのだが、

    今、ねぇちゃんの目は綺麗に開いている。

    俺はねぇちゃんの顔をじっと見ていた。
    ねぇちゃんはコップから口を離すと、俺に顔を向けた。

    ごくり、とねぇちゃんの喉が水を通した。

    する、するりとねぇちゃんの目から透明な液が垂れてきた。

    スッと、
    立ち上がったねぇちゃんの目の切れ端と頬が、
    俺の目の切れ端と頬に重なった。

    ねぇちゃんの匂いはあまり好きじゃなかった。
    ばあちゃんちの蔵の匂いに似ていた。
    でもねぇちゃんの頬のあったかいのは好きだった。

    重なってた目と頬が、かさぶたを剥がす時の様にゆっくりと離れた。

    「アンタ、本当に泣かないね。」

    姉がティッシュで目と頬を拭きながら言った。

    「アタシが先にこんな身体で生まれてきちゃったせいかね。
     ごめんね。」
    「そんな根拠の無い事で謝る事ねーよ。」
    「根拠ならあるわよ。
     私が先に生まれて、
     アンタが後から生まれた。
     アタシは何か飲むだけで涙が出て、
     アンタは今まで泣いた事が無い。
     生まれた時以外はね。母さんがそう言ってたよ。」
    「生まれた時に泣かなかったら死んじゃってるよ。」

    泣かなかったのは、
    泣かない体質だからとか、そんなのじゃない。
    ねぇちゃんが泣いてたから、だから自分は泣いちゃいけないと思ってたから。
    女のねぇちゃんが泣いてて、
    男の俺が泣いてちゃいけないと、
    子供心に思ったから。
    懐かしいな。
    あの頃の事が今でも癖になってるのかな俺。

    「お母さん上がったみたい、先にお風呂はいる。」
    「おう。」

    肉じゃがの匂いが優しいものだ。
    匂いが部屋一面に散っている。

    泣きたい時なんか俺には無いんだ。
    泣きたいほど苦しい時は沢山ある。
    でも泣きたい時なんか無い。
    泣けない身体なんだ、泣きたいと思っても馬鹿らしい。

    俺は泣けない訳じゃない。
    泣けないけど、泣けない訳じゃない。
    ねぇちゃんが涙を分けてくれた時にだけ、泣く事が出来る。
    どうしようもない時は家に帰る。
    そんな時は、ねぇちゃんも何か悟ってくれて、
    俺に涙を分けてくれる。

    「……まだ温い。」

    左側だけの頬に残る涙の貰い物。
    指で掬い取って舐めてみると、

    少しだけ、化粧品の酸っぱい味がした。




    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    私が実際にテレビで見た事があるのは、
    口に水を含んだ女性が瞼を開き、そこから噴水のように水を出す光景でした。
    また、世の中には眼球の水分を渇かないように保つ事が出来ず、
    定時的に目薬をささなければならない方もいらっしゃいます。

    神様は何を思ってこんな風に設計したんでしょうね。
    けんいちろうでした、良い土曜日を。


    →本日の御愛読有難う御座いました←


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