残る香りは終焉の調べ
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残る香りは終焉の調べ

2017-02-24 07:23
    部屋の鍵を入れていつもと違う感触がした。
    左に回してもがちゃりといわずに、
    右に回したらがちゃりといった。
    そのまま引いてみたらドアが『ガスン』と音を鳴らす。
    開いていない。
    ということは最初から開いていたんだ。

    再び左に回して鍵を開ける。

    『今夜は遅くなるから、晩御飯は温めて。』

    妻の電話越しの言葉。
    私はそれに従い鍵を左に回した。
    でも音がしたのは右に回した時だった。

    なんで妻は鍵を開けて出て行ったのだろう。

    ドアを開けると明かりはついていなかった。

    「ただいま。」

    誰に話しかけるでもなく、
    習慣という作法から引き出した言葉を闇へと放る。
    玄関で靴を脱ごうとしたら、
    今私がはいている靴以外は一足もなかった。

    「片付けたのか。」

    独り言。
    玄関の壁に手を伸ばして明かりをつけると、
    それまで開けたドアから差し込んだ光しかなかった玄関が,
    一気に明るくなる。

    そこにあったのは、やはり私が履いている靴だけ。

    左右の靴を玄関に残して、
    体を部屋の中にゆっくりと入れた。
    部屋の天井にへばりついているライトに明かりと入れると、
    台所のテーブルに置かれてあるチーズ盛りに目が行った。

    これだけか。

    他に何も食べられるモノは置かれていない。
    もし私が山羊だとしたら、一つだけ増えるが。

    テーブルの上には一枚の紙が置かれてあった。

    好江

    白い紙の右隅に、妻の名前だけが書いてあった。
    余白の部分は使われていなくて、
    どこか殺風景だった。

    「チーズだけか。」

    冷蔵庫を開けながらまた独り言。

    チーズだけというのは都合が良かった。
    今夜は強引に飲みに誘われて腹は膨れて帰ってきた。
    ハンバーグなどが置かれていたら、
    捨てるか朝まで置いておくしかないと思ってた。

    冷蔵庫から取り出した缶ビールを開けて椅子に腰掛ける。
    少しだけ空気に侵食されたチーズはカマンベールとチェダーとゴーダ。
    綺麗にラップされた皿の上。

    ご飯を食べた後はいつも私だけがチーズを食べる。
    日本人ならお茶漬けというかも知れない。
    だとしたら私は日本人じゃなくても良いからチーズを食べたい。
    「おかしな人。」
    と、妻はよく言いながら食事の最後にチーズを出した。

    チーズを食べながら、
    ふと家族の写真を見ると、

    『ねぇ、あなた今晩のご飯は?』

    私の横に写っている筈の妻が切り抜かれていた。
    持っていた缶ビールをゆっくりとテーブルの上に下ろして、
    私は席を立った。

    手に取った写真には、
    私の体と、
    後ろに移る観覧車と、

    「…なんだこれ。」

    消えた妻。
    私の肩からばっさりと半分、写真が切り取られていた。

    『ね、今度の休み、ランチでも食べに行かない?』

    ふとリビングの方に目をやると、
    妻がいつも水をやっていた名前の知らない花が花瓶ごと無くなっていた。

    『どっちの服が良いと思う?』

    戸棚を開けると妻のコップと箸と皿が無くなっていた。

    『ちょっと洗濯物畳んでくれる?』

    妻がいつも飲んでいるビタミン剤も無くなっていた。

    『ほら、ちゃんと薬飲まないと。』

    タンスの中の妻の服も全部無くなっていた。

    『ココア、淹れようか?』

    妻のスリッパも、

    『ほら、画鋲落ちるわよ。』

    妻の歯ブラシも、

    『新しい歯磨き粉買っておいたわよ。』

    家の中に妻の残響だけが残っている。

    しかし実物は、
    妻匂いが付いているものは、もう、何もかも、
    部屋の中から無くなっていた。

    私は妻の名前だけが書かれた紙を手にとったまま、
    台所の椅子に座っていた。

    『なんで最後にチーズなんて食べたいのかしら、
     本当におかしな人ね。』

    妻が残していったのは、
    右下隅に遠慮気味に書かれた、
    メッセージなんて何も無い、妻の名前だけが書いてある紙切れ一枚と、
    皿に盛られたいつも食事の最後に食べているチーズ。

    『何で食事の最後にチーズなの?』

    かじったカマンベールは、
    空気を少し吸っていて、
    固く、味が変わっていた。

    いつもよりも食べ易いように、
    薄くスライスされていた。

    妻の最後の心遣いだった。
    『残る香りは終焉の調べ』2006-04-28

    部屋の鍵を入れていつもと違う感触がした。
    左に回してもがちゃりといわずに、
    右に回したらがちゃりといった。
    そのまま引いてみたらドアが『ガスン』と音を鳴らす。
    開いていない。
    ということは最初から開いていたんだ。

    再び左に回して鍵を開ける。

    『今夜は遅くなるから、晩御飯は温めて。』

    妻の電話越しの言葉。
    私はそれに従い鍵を左に回した。
    でも音がしたのは右に回した時だった。

    なんで妻は鍵を開けて出て行ったのだろう。

    ドアを開けると明かりはついていなかった。

    「ただいま。」

    誰に話しかけるでもなく、
    習慣という作法から引き出した言葉を闇へと放る。
    玄関で靴を脱ごうとしたら、
    今私がはいている靴以外は一足もなかった。

    「片付けたのか。」

    独り言。
    玄関の壁に手を伸ばして明かりをつけると、
    それまで開けたドアから差し込んだ光しかなかった玄関が,
    一気に明るくなる。

    そこにあったのは、やはり私が履いている靴だけ。

    左右の靴を玄関に残して、
    体を部屋の中にゆっくりと入れた。
    部屋の天井にへばりついているライトに明かりと入れると、
    台所のテーブルに置かれてあるチーズ盛りに目が行った。

    これだけか。

    他に何も食べられるモノは置かれていない。
    もし私が山羊だとしたら、一つだけ増えるが。

    テーブルの上には一枚の紙が置かれてあった。

    好江

    白い紙の右隅に、妻の名前だけが書いてあった。
    余白の部分は使われていなくて、
    どこか殺風景だった。

    「チーズだけか。」

    冷蔵庫を開けながらまた独り言。

    チーズだけというのは都合が良かった。
    今夜は強引に飲みに誘われて腹は膨れて帰ってきた。
    ハンバーグなどが置かれていたら、
    捨てるか朝まで置いておくしかないと思ってた。

    冷蔵庫から取り出した缶ビールを開けて椅子に腰掛ける。
    少しだけ空気に侵食されたチーズはカマンベールとチェダーとゴーダ。
    綺麗にラップされた皿の上。

    ご飯を食べた後はいつも私だけがチーズを食べる。
    日本人ならお茶漬けというかも知れない。
    だとしたら私は日本人じゃなくても良いからチーズを食べたい。
    「おかしな人。」
    と、妻はよく言いながら食事の最後にチーズを出した。

    チーズを食べながら、
    ふと家族の写真を見ると、

    『ねぇ、あなた今晩のご飯は?』

    私の横に写っている筈の妻が切り抜かれていた。
    持っていた缶ビールをゆっくりとテーブルの上に下ろして、
    私は席を立った。

    手に取った写真には、
    私の体と、
    後ろに移る観覧車と、

    「…なんだこれ。」

    消えた妻。
    私の肩からばっさりと半分、写真が切り取られていた。

    『ね、今度の休み、ランチでも食べに行かない?』

    ふとリビングの方に目をやると、
    妻がいつも水をやっていた名前の知らない花が花瓶ごと無くなっていた。

    『どっちの服が良いと思う?』

    戸棚を開けると妻のコップと箸と皿が無くなっていた。

    『ちょっと洗濯物畳んでくれる?』

    妻がいつも飲んでいるビタミン剤も無くなっていた。

    『ほら、ちゃんと薬飲まないと。』

    タンスの中の妻の服も全部無くなっていた。

    『ココア、淹れようか?』

    妻のスリッパも、

    『ほら、画鋲落ちるわよ。』

    妻の歯ブラシも、

    『新しい歯磨き粉買っておいたわよ。』

    家の中に妻の残響だけが残っている。

    しかし実物は、
    妻匂いが付いているものは、もう、何もかも、
    部屋の中から無くなっていた。

    私は妻の名前だけが書かれた紙を手にとったまま、
    台所の椅子に座っていた。

    『なんで最後にチーズなんて食べたいのかしら、
     本当におかしな人ね。』

    妻が残していったのは、
    右下隅に遠慮気味に書かれた、
    メッセージなんて何も無い、妻の名前だけが書いてある紙切れ一枚と、
    皿に盛られたいつも食事の最後に食べているチーズ。

    『何で食事の最後にチーズなの?』

    かじったカマンベールは、
    空気を少し吸っていて、
    固く、味が変わっていた。

    いつもよりも食べ易いように、
    薄くスライスされていた。

    妻の最後の心遣いだった。

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