数字崩し 中編
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数字崩し 中編

2019-06-28 19:58

    (このオハナシを引き続き、さかきれん様の為に)

    男とは、
    決して約束を違えない生き物。
    何かの漫画でそう読んだ。
    テレビのドラマもそう言った。

    しかし思い返せば事情は違う、
    約束をお願いしたのはちほの方。
    一週間を三度も伸ばした、ちほの方。

    その日一日ちほはそわそわしていたが、
    いつもの階段下の隅の廊下を踏む事は無かった。
    戸田君は一度もちほに声をかけずに帰ってしまい、
    ちほの脳味噌が過去の検算を始める。

    あれ、実は一日早かったのかな。
    確か水曜日の約束の筈だったんだけど。
    でもこの前ベッドから落ちて頭を打ったし、
    もしかしたら木曜日だったのかもね。

    けれど木曜日になっても音沙汰無し。
    金曜日も同じく声の一つもかけられず、
    土曜日に思わず仲の良いユーコを呼び出した。

    「そりゃ酷い話だよ、アンタが」

    ちほと戸田君の恋愛事情を四百文字以内で説明する。
    だって長々言うのも照れくさい。
    簡潔に要点を絞って説明すると、
    ユーコからの評価は「酷い話」という高得点。

    「告白の返事を一週間待ってくれって、
     私だってそんな台詞の一つや二つ言ってみたいよ」
    「大丈夫、いつかユーコも言える日が来るから……」
    「かーっムカつくコイツ、調子の良い事言いやがって」
    「ご、ごめん」
    「それで一週間後にもう一週間待ってくれ?」
    「はい」
    「その更に一週間後にもう一週間待ってくれって?」
    「はい」
    「お前どんだけ酷い女なんだよ」
    「そうかな」
    「そうでしょ。
     アタシ絶対アンタとは一緒にファミレス行かない、
     いつまで経ってもメニュー決められないやつじゃん」
    「き、聞いて聞いて、二回目の後には大体決めてたの!
     戸田君と付き合おーかなーって思ってたの!」
    「じゃあそれ本人に言ってやれよ」
    「えー……アタシから?」
    「かーっ、マジこの女腹立つ」

    一週間待たされて、もう一週間待たされて、
    そんでオマケにもう一週間待ってとか、

    「二つ買ったらオマケで付いてくる安物商品かよ、哀れな」
    「ゴメン何言ってるのか判らない」
    「あのねぇ、そんなに延び延びにされたらネガティブになるでしょ、
     戸田君だってこう思ってるに違いないよ。
     三回も延ばすなんてきっと断りの言葉を言うのが辛いんだろうな、
     じゃあもう言い寄るのはよしとこうって」
    「えーそうかなー。ユーコは人の心を読む力でもあんの?」
    「じゃー何で土曜になってもお前は告られてねーんだよ」
    「それは……」
    「そもそも何?何様?三回も先延ばしにするって。
     男を待たせる悪い女にでもなってみたかったの?」
    「そんなんじゃない!悪い女なんかなりたくない」
    「じゃーなんでよ」
    「それは……」
    「アタシも追い詰めて問い詰める趣味は無いからこれ以上言わないけど、
     告白の返事を三回も先送りにされた人の気持ち考えてみ?」

    慙愧に絶えない。
    忸怩たる思いである。
    自分の力を証明したくて身勝手だった。
    正直に言おう、戸田君の気持ちを考えてなかった。

    冷静さが脳内で裁判を起こさせる。
    被告人ちほ、自らの能力を確かめたくて男心を弄ぶ。
    判決は陪審員の全会一致で有罪。
    判決理由は以下に記述。

    「お前がそんな事をされたら許せるのか。無理だろ。」

    有罪、嗚呼有罪。ごめん戸田君。
    こんな女を好きになってくれて申し訳ない。

    罪悪感が勢いづいてちほはその日の帰り道、
    ユーコに自分の不思議な交渉力の事を話した。
    最初は馬鹿にしたような顔をしたユーコだったが、
    試しにやってみた交渉で百円玉をちほに七枚取られて信じるしかなかった。
    ちほは別にお金は欲しくなかった。信じてくれる誰かが欲しかった。
    でも七百円は返さなかった。

    「お前この事他にも話したか?」
    「ユーコが初めて」
    「いいか、誰にも話すんじゃねぇぞ。
     こんな事が他の誰かに知れたら……」
    「NASAにでも連れてかれるかな。
     それともメンタリストダイゴの、あっ、メンタリストチホ?」
    「馬鹿。下手したらお前吊るしあげられるぞ。
     そんなセコい力を持ってるなんて知れたら、
     下手すりゃ誰もお前に近寄らなくなる。」

    人間てのはそうしちゃう生き物だよ。
    その言葉を話すユーコは大人びていて、
    ああ、私はきっとこの子と一生友達でいるんだろうなとちほは思った。

    それから中学校卒業の証書を貰うまで、
    戸田君がちほを呼び出す事は無かった。
    階段下の隅っちょは苦い思い出が残ってしまう。

    ちほからは戸田君に話しかけなかった。
    ねぇ、あの時の話だけどさ。そんな語り出しも微塵も無い。
    ただ怖かった。
    自分に寄せてくれていた好意が今どんな形になってるのか。
    それはまるで小学校の頃に男子がかくした御飯の入れ物みたいだった。

    御飯の入れ物というのは中身が入っているものだった。
    ただそれは箒とかが入っているクラスの掃除箱の上で発見され、
    開けた時は放置されてかなりの時間がたっていたのか、
    タガメをバラバラに解体して煮詰めたような色になっていた。
    それを人並みの隙間から覗き見てしまったちほは不幸だった。
    だが匂いが届かない位置に居た事は幸運として良い。

    食べ物は放っておくと腐る。
    きっとあんな風に、戸田君の心もなっちゃってるのかな。
    人間である以上幾らでも妄想する事は出来る。
    ただ、それを確認するとなると相当の勇気がいる。
    ちほには充てれるだけの勇気が無く、
    見えない戸田君の心が『身体』という蓋の中でどうなってるのか、
    考えるだけでも恐ろしかった。

    戸田君の心の変化はちほにとっての幻なのかも知れない。
    だが確かめる勇気も無いので真実なのかも知れない。
    そんなちほは他の男子と極力関わらず中学時代を過ごした。
    戸田君の目が怖かったのだ。

    俺の事は三度も拒絶したのに他の男とは仲良くするのか。
    そんな事を思われてしまうのが怖くて。

    「アンタいい加減に戸田の事忘れな。」

    高校に進学しても男に近寄ろうとしないちほ。
    同じ高校に進学していたユーコがをそれを見かねた。

    「アタシが見てきた奴らなんて、
     もっと酷い理由で別れたりしてるんだよ。
     それに比べりゃ可愛いもんよ、三回も先送りにしたとか。
     それにそもそも付き合ってないんじゃん。
     なーにを気にする事があるの?
     アンタが戸田のチンポをちょん切った?」
    「なにそれ……」
    「してないでしょ。もう忘れなって」
    「あの時はさんざん私の事最低って」
    「あーもーそりゃ悪かったって!帰りにアイス奢るから!」
    「トリプルが良い」
    「かーっ、またかよ、お前アタシに何個アイスの玉奢らせるんだよ」

    過去は忘れるべきものかもしれない。
    都合の悪い記憶は蓋をするべきなのかもしれない。

    でも夢に見る程なんだ。
    気が付いたら中学のセーラー服着ていて、
    放課後にあの階段下の隅っちょにポツンと立って待っている。
    来ない戸田君を延々と待って、
    窓の外はサッカー部の誰かを待ってる女子が背中だけ見えている。
    その子も結局部活終わりの彼と帰って、
    自分だけがずっと階段の下で待っているのだ。

    「アイス美味い」
    「キャラメル味好きなんだな」
    「粘っこいのが好き」
    「ふーん。いいもんだろ」
    「え?」
    「美味いのはいいもんだろ。
     あのね、女は幸せな事しないと綺麗になれないんだよ」
    「あはっ、急になに」
    「その力、交渉のやつ。
     もうめっきり使わなくなったけど、折角だから使いなよ。」
    「えー…やだよ」
    「昔は『地上げのちほ』とまで呼ばれた女が何言ってんだ」
    「それやめてよ、凄く嫌だったんだから」
    「別に今すぐ使えって訳じゃねぇよ。あのな、将来営業やりな。」
    「えーぎょう?A行?なんのこと?」
    「A行じゃない、え・い・ぎょ・う。仕事だよ仕事。
     アタシ兄ちゃんと十歳離れてるんだけどさ、
     営業の仕事の事ちょくちょく聞くんだよね。
     兄ちゃん、話が上手いから判らない事でも結構聞くんだけど、
     営業はお客さんと交渉すんのよ。それで売る際の値段とか決めんの」
    「…あっ……」
    「そうそう、それだったら誰も文句言わないでしょ。
     そもそも交渉するのが前提の仕事なんだから何も悪くないし。
     上手くいけばお金も稼げて気持ちいいでしょ。
     な。折角だから幸せな事に使おうぜ。
     その力は持ってて間違いじゃないって思えよ。」

    その言葉にユーコがこう付け足した。
    いつまでも暗い顔してる友達なんて見ててやるせないだけだ。
    ごめん、と思うと同時にありがとうとも思った。
    何があろうともこの女だけは生涯友と呼び合おう。
    そう誓ったちほはそれまで熱心ではなかった勉強に手を付けた。

    「ユーコは大学どうするの」
    「んー陶芸の専門かな。
     ほら、うち親が両方やってるのに兄ちゃん、継ぐ気無いから。
     アタシがやんなきゃうちの工房つぶれちゃう」
    「ユーコが、やりたい事なの?」
    「言いたい事はなんとなく判るよ。
     でも寧ろ親から独立する為に陶芸やる感じかな。
     きっかけは当然親だけど、そこから如何に離れた事出来るか。
     それが生涯の目標。」
    「いいね、それ」
    「そっちは結局どうなのよ」
    「経済学部かな。物流とか色々学ぶ。」
    「ほーん、良いんでない。でもさアンタ」
    「ん?」
    「いや、やっぱりいいわ」

    ユーコが口を途中で閉じた。男の事だった。
    結局高校に入ってもちほの男への敬遠は無くならなかった。
    思う事は種々あれど、ここまできたらしょうがない。
    ユーコがそれ以上男の話題を出す事は無かった。

    大学の合格通知を受け取り、
    高校の卒業証書を受け取り、
    企業の内定通知を受け取り、
    大学の卒業証書を受け取り、
    ちほはいよいよスーツに腕を通して社会に出る準備が出来た。

    「いよいよだね」
    「うん、交渉の練習も色んな人相手にやったからね!」
    「練習もなにもアンタは絶対に…まぁいいか。
     話下手なのは営業として致命的だからね。しっかりやりな。」
    「おうよ!」
    「アタシの口調さすがに移ってきたね」

    男の噂はとんと聞かない。
    人間とは近くに寄らないと喋れない、触れない、関係できない。
    いや、ちほは大学でサークルにも入ったのだ。
    男友達も出来た。楽しく会話をする事もあった。
    ただそれまで男子を、正確には恋愛を避けていた弊害か、
    相手がそのような雰囲気を醸し出すと逸早く察知し、
    自らその相手と距離をおくのだ。

    それでも接近を挑んで来る骨のある男もいた。
    なに、何で避けるの。俺君の事が好きなんだ、付き合ってくれよ。
    若さに任せた恋愛戦闘力で迫る同じ学び舎の学徒。
    ほかに好きな奴がいるの?いないの?じゃあ何で?
    なんで俺じゃ駄目なの。絶対大切にするから、嫌な思いはさせないから。

    けれど一から理由をちほが話すと厄介になる。
    戸田君の事を説明しなければならないし、
    不随事項として自分の交渉力の事も話さねば納得するまい。
    なのでちほはいつも、

    「今はそういう事、考えられないんです。ごめんなさい」

    と頭を深々と下げてきた。
    ずっと繋がり次ぐけていたユーコにもちほの恋愛事情は届かない。
    当然の事だ、無い袖を振る事は出来ない。
    ユーコもユーコで全ての察しがついていた。
    もうここまで来ると何も言う事は無い。
    なにせこのやりとりは中学生の頃からやっている。
    およそ八年だ。八年もだ。
    たまに思い出すように男の事を聞いてみていたユーコだったが、
    大学を卒業する事にはそれもすっかり絶えていた。

    ちほの心はすっかり恋愛恐怖の苗床になっていた。
    巣食い、根を下ろし、摘出は難しい。

    だからせめて会社での営業仕事で幸せを感じて欲しい。
    そうユーコは祈っていた。

    神に耳があったのか、
    それともちほの努力が実ったか、
    会社に入ってから本格的に営業職になったちほが覚醒した。

    折衝に持ち込めばかならず仕事を取ってくる。
    しかもかなりの金額でデータを見た上司が二度見する。
    二度見した上に目薬指して、それでも金額は変わらない。

    「お前、これどうやって取ってきた?」

    と上司の問いに、

    「いやぁ、頑張っちゃいましたね!私が!」

    とちほが返す言葉は力が籠っている。
    なにはともあれ、高校の時分にユーコの助言が結実した。

    まさに水を得た魚。
    これまでちほは砂漠で暮らしていたのかも知れない。
    飲み屋で仕事の愚痴を話す声がちらほら聞こえる中、
    ちほは喜々として仕事の話をユーコに聞かせていた。

    「それで結局先方がその値段で良いですって!」
    「へー、良かったじゃん。ちゃんと力が通用するみたいで」
    「本当、商談決まった時がマジきもちーの!」
    「おうおうよしよし、あ、すいませんジントニック」
    「コーラ下さい!」
    「営業でコーラ頼む奴はアンタくらいよ」
    「お客さんの前ではまっずいビール飲んでるもん!」
    「まぁ楽しくやれてそうで何よりだわ。」
    「ユーコの方はどう?壺は売れてる?」
    「壺だけ作ってるみたいな言い方すんな。
     まぁね、ぼちぼち売れてるよ。生きていける位には。」
    「アタシがどこかに売りさばいてあげようか!高値で!」
    「いや、いいよ。」

    追加されたグラスを傾けユーコが語り口を薄く解く。
    この業界はさ、自分の気持ちと値段が一致しないものなのよ。
    これは良く出来た、文句無しって作品が売れなかったり、
    なんか調子悪かったけど得意先に持ってってみるか、
    ってのが高値を付けられたりもする。

    「作り主の感想なんて値段が付かないのよ。
     買い手の自己満足に、値段が付くの。
     本当、変な世界だとは思うけど、
     今更足抜けしようとも思わないしね。
     だから今は自分の納得だけ求めて作ってる。
     こういう話、父さん達とも話した事無いけど、
     もしかしたら私が子供の時から同じ事を思ってたのかもね」

    値段は買い手の自己満足。
    その言葉を聞いてちほには踏み込めない領域だと悟った。
    ちほの売る物にはれっきとした『価値』がある。
    それに対する『妥当な値段』がある。
    その周りを綱引きするように高くしたり、安くしたり。

    流石に、『自己満足』に値段を付けるというのは、戸惑う。

    棲み分けは大切な事である。
    あなたはあっち、わたしはこっち。
    お互いの場所で楽しくやりましょう。

    「ねぇちほ、その後どう?」
    「ん?」
    「随分と良い顔をするようになったよ、あの頃に比べて」
    「いやぁノってるからね、心も肌も!見て!」
    「その輝いてる肌に惹かれる男は、」

    という言葉が発火点、
    瞬間的に爆発した沈黙がちほの顔毎固めてしまう。

    まだ早かったか。
    いや、もしかしたらもう「早い」も「遅い」も、
    ないのかも知れない。

    けれどこれで良いのだ。
    ちほが今の人生に幸せを感じているなら。
    もう、金輪際二度と男の話題は振るまい。

    それからまたちほは企業戦士となる。
    営業に出向いて話してまとめあげ、
    高い値段で落としてく。

    社内の営業成績もメキメキあがり、
    同期は愚か先輩方の成績も喰ってしまっていた。

    人間とは口があり、心がある。
    心で思った徒然な事をつい口にしてしまうもので。

    余りの若さに営業成績、
    社内の幾人かはそれを『不釣り合い』とみなしてしまった。
    面白くないのである。
    彼らの中に下らなく染みついた古臭い『順序』という考え方が、
    あらぬ噂を流し出す。

    「西嶋の成績どうよ」
    「いや、今期も凄い事になってる」
    「うひゃー、流石だねぇ。」
    「まぁ上手くやってるんじゃないの」
    「だろうな、あの成績だと」
    「いや、違う違う」
    「え、なによ」
    「知らねぇの?噂よ噂よ。客に上手い事取り入って、
     それで商談で値段負けてもらう代わりに別日に会って」
    「え、それって」
    「いやー、実際どうなんだろうねぇ。だって数字が異常だし。
     そういう事で商談決めてましたと言われても、
     はぁやっぱりね、と思っちゃうでしょ」
    「んー、そういう事?」
    「まぁ本当かどうかなんて会社としては良いんでしょ。
     金引っ張ってくる営業が一番偉いんだから。
     だからと言ってねぇ、手管選ばずってのは、
     いやいや、強かだよぉ、西嶋は。」

    西嶋の成績の秘訣は枕営業。
    そう言えば商談の殆どの相手は男性だった。
    これはアイツもなかなかやるねぇ。

    そんな声が大きくなって、
    西嶋本人の耳にも届き始める。

    しかし鼻で笑ってしまう。
    何せ西嶋本人は男と同衾した事は愚か、
    手を繋いだことも碌にない。
    恋愛経験知がきれいさっぱりゼロの西嶋の耳に、
    枕営業の噂は戯言もイイところだった。

    (言ってなさいよ、その間に私はもっと仕事を取ってくる。
     しかも高値で取ってくる。
     数字を取ってくる営業が一番偉いんでしょう?
     だったら私がこの会社で一番偉くなってやる!
     私の力ならそれが出来る!)

    ちほが敵を認識したのも初めての事であった。
    燃えに燃えたちほは増々客先へ伸ばす足を忙しくする。
    それに比例するように様々な噂が更に流れた。

    悪い事には、ちほがプレゼン資料を作るのがさほど上手くなかった事だ。
    ある時先輩の営業が『補佐』という名目で同行した際、
    ちほが出した資料の出来に眉をしかめた。
    酷いという出来では無かったが、
    高値の商談を毎回取り付けられる内容のものにはまるで見えない。
    しかしその商談の最後に客は、

    「しょうがない、その価格で良いよ」

    と言ったのだ。
    まるで狐に摘ままれたようであった。

    「あれは絶対何か裏がある、話術も普通の営業レベル、
     一体なんで高値の商談が取れてくるのか全く分からない。」

    と周囲に吹聴する先輩の営業。
    更に下品な噂までもが飛び交うが知った事ではない。
    仕事をすればするほど成績があがる、年収が上がる。
    社会の理不尽と楽しみを天秤にかけた時、
    楽しみの皿が音を立てて地面を叩くのだ。
    ちほは噂なんぞに気を留めている暇が無かった。

    あくまで、噂、には。

    「いや、もう勘弁してくれよ」
    「え」

    そう言われたのは得意先の一つ、
    金属成形機械を売っている会社の担当だった。

    「引継ぎとかないの?」
    「え、あの、なんのことですか?」
    「ここの担当が変わるとかさ。
     だって結構御社に払ってるよ、良い額を。
     いや、判ってるよ、御社のモノが良いって事はさ。
     でもやっぱり払える金額とのバランスってのがあるでしょ。
     ここ数年西嶋さんからシステムを何度も買ってるけど、
     毎回うちが負けてるじゃん。
     いや、話し合って決めてるからこんな事言うのも可笑しいと思うけど、
     西嶋さんが相手だとなんか、それでいいや、って言っちゃうんだよ。
     そうだよね、何回も俺そう言ってるよね?」

    間違いなかった、
    この担当の人には何度もちほは世話になっている。
    過去四回の商談で全部ちほの要求を通してきた。

    「俺も上に言われるんだよ、何でこの値段で通したって。
     その度に、いやこれはこういうシステムで、
     とても良くてって頭下げながら説明すんの。
     いやぁ、肩身が徐々に狭くなってくるんだわ。
     一回他の若いのに担当を代わってみろって言ったけど、
     代わりに上から怒られるのは嫌です、なんて言いやがった。
     だからねぇ、システムは買うよ。
     でも営業を変えてくれないかねぇ、
     もしくはさぁ、今度こそこっちの値段、飲んでくれよ。西嶋ちゃん」

    屈辱ではない。もっと他の何かだ。
    とにかく驚いた。大きな驚きが全てを押し流す。
    相手の目を見たままぽかんとちほは口を開けて固まってしまった。

    「……なんてね、ごめんごめん、俺何言ってんだろ。
     いいよ、判った、西嶋ちゃんにも面子があるもんな。
     今回もいいよ、その値段で」
    「いえ  あの  すいません、そちらの値段で」
    「えっ!いいの!?」
    「あ はい いつも有難うございます」
    「あはっは!ほんとぉ!イヤー助かる、
     今度は社長になんて言い訳しようか悩んで胃の中丸コゲだったんだ、
     ごめんねぇ西嶋ちゃん負けて貰っちゃって!
     今度いつ予定空いてる?飲みに行こうよ!」

    余程嬉しかったのだろう、
    相手の担当の笑い声は耳を痛くするほどだった。

    会社に帰ったちほは肩からするんと鞄を降ろし、
    そのまま誰に何を告げるでもなく自販機へと向かった。
    飲みなれたコーラで両手を冷やしながら歩いていると、
    喫煙所から声が聞こえる。

    「西嶋が」

    聞こえた自分の名前に足が止まり、
    喫煙所のドアを横切らず、少し手前で立ち止まった。
    両手にコーラ、みるみる缶に水滴が付いてくる。

    「うちの会社にいる間はもうダメだな、きっと」
    「いやいや、そんな事無いっすよ~、
     木口さんが本気出せば余裕で抜けますって!」
    「はは、ダメダメ。俺仕事は手を全く抜かないもん。
     だから前は数年ずっと営業成績トップだったんだよ。
     西嶋、本当どうなってんだろうなー、わっかんねぇ。」
    「実際凄いですもんね、あいつ」
    「うーん……前はさぁ、娘にね?
     パパが営業一位だよ~っていうと、
     うわぁ~パパすごいね~!いちば~ん!
     って喜んでくれたんだよ……。
     それが今じゃパパとお風呂入りたくないって」
    「ははは」
    「笑い事じゃねぇよ、この辛さ判るか?」
    「スンマセン、判らないっす」
    「ふぅ……しょうがねぇ、負けてるもんは文句言う資格がない。
     こういう世界はどんな手使っても一位になった奴が一番偉いんだ」
    「色んな噂聞きますけどね、西嶋」
    「そんなの関係ない、数字取れたら良いんだ。
     噂が沢山ある有能と、噂の無い無能。
     会社としてはどっちがいいと思う?」
    「どっちもどっちじゃないですか」
    「馬鹿、有能な人間が良いに決まってるだろ。
     今の所法に触れてるような噂は聞かないし、
     会社に損を出さない限りは西嶋が一番なんだよ。」
    「はぁ」
    「しかしなんだアレ……一人だけ次元が違うんだよなぁ。
     あれはきっとそういう星の元に生まれてるんだよ。
     アイツがこの会社に居る限り俺は二度と一位になれないね」
    「そんな事言わないで下さいよ木口さん~。
     木口さんは俺の憧れなんすから」
    「気持ちだけ受け取っとくわ」

    乾いた笑い声が聞こえる。
    幽かに聞き取れる程だ。
    笑いの終わりを聞き取らず、ちほは踵を返して場を後にした。

    ちほは久しぶりに『他者の都合』というものに思考が及んだ。

    ちほと言う存在がこの会社で営業をやっている限り、
    どこかで割りを喰っている人間が何処かに居るのだ。

    当たり前の話だ。
    交渉とはそういうものだ。
    勝負とはそういうものだ。

    どちらかの条件を飲めば片方が割を喰い、
    誰かが勝てば誰かが負ける。

    その日のビールが祝杯に変われば慰めの酒にもなるのだ、
    それが世の中というものなのだ。変えようがない。

    だけど違うじゃない。
    私の『コレ』は、違うじゃない。

    努力をした覚えも無い、試行錯誤した覚えも無い。
    ただ気付いた時から『そう』なるようになってた、
    数字を交えた交渉で私に勝てた人間は居なかった。

    神様が贔屓したんだ。
    気紛れにこんな力を与えたんだ、きっと。

    世の中には色んな人が居る。
    神がかり的な能力、と呼ばれ詐欺師扱いされる人達もいるけど、
    きっとそのうち何人かは本物で、
    本物でも表に出ずにひっそりと暮らしている人達もいっぱいいる筈。

    だって私ですら『持ってるん』だもん。

    もしかして私、
    『そういう人達』の中で暮らすべきだったのかな。
    『一般の人』に混ざって生きるべきじゃなかったのかな。

    この力を使っちゃいけなかったのかな。
    だってコレ、ずるだもんね。凄いんだよ。
    恋する男の子意志だって曲げられちゃうの。
    とんでもないの、実はロクなもんじゃないの。

    それまで会社でイキイキと働いていたちほに、待ったがかかった。

    実の所、ちほの営業としての能力は以上と断じれる。
    子供のかけっこに金メダリストが混じってるようなものだ。

    だが勝負の世界は非情。
    負けた者が幾ら「ずるい」と言っても仕方ない。
    弱い状態を持つ彼らが悪い。
    背の高いバレーボール選手に敵側の選手が

    「ずるいから身長減らせ!」

    と言ってる場面を見た事があるだろうか。
    または想像出来るだろうか。まず無いだろう。
    人生とは配られたカードでしか勝負出来ない。
    裏を返せば、配られたカードなら使って良い。
    むしろ使わなければ文字通りの持ち腐れになる。

    だがちほは性根が優しかった。
    過去の戸田少年の事も思い出してしまい、
    徐々にだが営業成績を落とし始めた。
    相手が「じゃあその値段で」と言ってもあろうことか、

    「あ、もうちょっと値下げしますか…?」

    なんて事を口に出す。
    言われた方もあっけにとられる様が傍から見ていて面白いのだが、
    ちほの心情は深刻なものがあった。

    そんなある日、
    向かう予定の担当からこんな連絡を受けた。
    転勤で関西の方に行かねばらないので今後自分では対応できない、
    引き継ぐ社員を紹介するので次回の商談で顔合わせをしたい、との事。

    「いや、ごめんねぇ。
     もう僕は西嶋ちゃんにお金貢ぐ事ができなくて」
    「貢ぐってそんな(笑)」
    「でも引継ぎの奴はかなり仕事も出来る奴だから。
     色々やりとりもスムーズに行くんじゃないかな。
     たしかねぇ、西嶋ちゃんと同い年だったと思うよ。
     ごめんね、ちょっと今別件で遅れてて……お、来たかな?」

    足音が聞こえる。
    チューブ状の廊下が反響を大きくし、
    誰かが段々と近づいてくるのを教えてくれていた。

    ガチャ、と遠慮のない音で開いたドアから、
    引継ぎと紹介された男が現れる。

    「すいません遅れまして、
     今後担当させて頂く戸田です」
    「こんにちは初めまして西嶋と言います」
    「……」
    「……戸田……戸田君?」
    「………あっ」
    「ん?あれ?二人とも知り合い?
     いやーこりゃ良かった、知り合いなら更に円滑に話せるでしょ、
     じゃ戸田、ここ座って、ホラ突っ立ってないで。
     資料前もって送ってたけど今回はこのシステム導入予定で、
     え?所で二人、どこで知り合ったの?
     中学校?え、中学校?へぇーっ、こういう事もあるもんだねぇ!
     神の巡り合わせってやつかな?
     はぁはっはっはっは!

     えーとそれじゃあ早速だけど、この基幹部分の――」


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