• 再生産の病②

    2019-05-12 13:26
    再生産の病」で考察したことが事実ならば、こう考えなければならないのではないか。

    「他者との関係性とは、マウントの取り合いである」と。

    モースが示したように、贈与とは相手に負債を与えることである。

    この負い目が次の贈与へと向かわせる。

    しかし実際には、A→Bと贈与されたのだから、B→Aと返礼されるというわけではない。

    Aの善意を負ったBは、Cにその返済を行う。そしてそのCはDにといった具合だ。

    だから、単純な母子関係=鏡像関係=二者関係のマウントの取り合いというわけではない。

    さらに言えば、「「徳」をするには。」で考察したような、無意識の善行が負債の始まりになることも考えることができる。

    経済活動のように、自分のお金がどこをどう巡っているのかわからない。自分の財布に入っているお金がどこの誰のものかわからない。

    この「匿名性」こそが、お金ないしは象徴界ないしは無意識の基底を成しているのであり、デリダが郵便になぞらえた部分である。郵便物は時折行方不明になったり、配達先の間違いが起こりうる。SNS時代とは、まさにこのような時代ではないか。

    買い物でいえば、a客が代金をA店に渡す→なぜかA店はb客に商品を渡す→b客がB店に支払う→よくわからないけどお金が来たC店はc客に商品を渡す→c客はなぜかD店に代金を支払う

    のような、匿名の買い物が延々と行われているのが、贈与の世界≒象徴界なのではないか。

    この状況が現実だとしても、人々はそれに耐えることができない。このカオスを無理やりにでも可視化して整然としているように見せかけなければならない。

    なぜ耐えきれないのかといえば、ボクシングの試合で、AがBを倒したくて殴ったのに、そのダメージがどこの誰とも知らないFに蓄積されていくみたいなことが起こるのであれば、殴る気力が失せてしまうからである。

    そこで、人間は象徴界の匿名性を隠蔽するために、想像界に引き戻す必要がある。ここで偽りの主体が生まれる。アイデンティティが生まれるのである。

    ボクシングのたとえを引き継げば、AはBにダメージが蓄積されていると思い込む必要がある。実際はどこの誰とも知らない人に蓄積されていっていると感じていながらも。

    このように思い込まなければ、自身の存在はエントロピーの海≒死の世界に引きずりこまれることになってしまう。自身の存在を保つならば、ネゲントロピーであるためには、匿名性を消し去らなければならない。平等であってはならない。

    簡単な言葉でいえば、「わたしはこれをやり、このような成果がでました」と

    因果で自分と世界を結び続けなければならない。

    ことさらに、匿名性や平等性を重んずるSNSで成果を見せつけたいのは、これゆえになのではないか。

    知らない誰かのおかげで成功した、何か知らないけど成功した、は許されないのではないか。

    再生産の病」で確認したように、生きる目的を失ってしまうがゆえに。

    自意識はなぜ生まれたのか、という問いはいたる学問分野で散見されるようになったが、

    象徴を手に入れたがゆえ、がおおまかな正解なのように思える。

    象徴とは、概念を理解しやすい形で表現することである。

    日本人というあやふやさを、天皇が掬いあげるように。

    魔法使いが自らの寿命と引き換えに魔法を使うとすれば、

    象徴使いは自らの存在と引き換えに象徴を使うのである。

    言葉は、分類する。細分化する。

    「これが、ブタです」「これが、ウシです」「あれが、木です」

    と名詞をつくって表現するのだから、

    「これが、わたしです」と自分も言葉で表現せざるを得ない。

    「では、ブタとはなんですか」と聞けば、生物学者が答えるように、

    「では、わたしとはなんですか」と聞かれれば、自分学者として答えるしかない。

    この自分学者こそが自意識だし、自分学者はあらゆる想像や妄想を使って答えるのである。

    自分学者が適切に機能しなければ、上手に言葉で表現=象徴界に参入できなければ、人の自我は崩壊してしまう。

    自我が崩壊してしまうということは、象徴界が崩壊することである。

    ゆえに、言葉は全能でなければならない。言葉は世界を見る目である。目を失うわけにはいかない。だから人は、認知症などの脳の障害をもっとも恐れる。

    言葉を保つためには必死に、自分学者=自意識を保たなければならない。

    そのためには、上述したように因果で自分と世界を結び付け続けなければならない。

    だから、何かをしなければならない。自らの名で、わかりやすい対象に、何かをして、

    誰かに自分を説明しやすくしなければならない。

    わかりやすいほどにそれはいい。より象徴化されたということなのだから。

    だから、人々はビッグな成功を求める。善行を強調する。正しさを主張するそれを廉価にしたのがSNSのいいねで、商品化したのが資格なのではないか。

    ああ、成功や正しさ以上に説明しやすい象徴があっただろうか。

    ゆえに人々は回収し続ける。何かをし続ける。成果を求めて。

    「これをやったぞー!」と叫びたいのだ。「わたし」を得る喜び。胎内への回帰。


    何かをしない、何もしない、という行為があらゆる選択のなかでもっとも能動性があることをご存知だろうか。

    ここで勘違いしてほしくはない。何もしないことをしているようでは、していることになるのだから。
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  • 再生産の病

    2019-04-29 15:54
    私が気になっていることは、「改善」についてである。

    もしくは、「終わらない改善」について。

    不思議なことに、人類史上「これ以上は手を加える必要がない」というものは存在していない。

    存在していないというよりは、それは価値観の問題なのだから、人類が「存在させていない」のである。

    多くの完成品が存在するはずの芸術作品においてさえも、そして宗教でさえも、劣化するとわかっていながらも、なぜか人は原点だけでは飽き足らず、何か付加価値をつけようとしてしまう。

    もし最高の芸術作品が多数あるのならば、もう新しい芸術作品はいらないのではないか。

    なぜ、人は飽き足らず「〇〇には遠く及びませんが、、、」などと言いながらも生産し続けるのだろうか。

    ここまで書けば見えてくるとおり、この「再生産の病」はアイデンティティの問題として捉えなければならない。

    そして以前に「差別とは。」で書いたように、妬みの問題、所有の問題として捉えなければならない。そしてそれらは須らく、固有名の問題なのである。

    創造には破壊がつきものだ。

    と人は言うがまさにそのとおりで、「完成品=既存物」を壊さなければならない。自分のものにするために。

    私は改革者を批判したいのではない。

    浅田彰が『構造と力』で総括したように、「人間はサンス(意味/方向性)を持たない動物」なのであって、ゆえに生きるためには既存物を破壊して再生産するという循環構造を維持しない限り、自らの生きる意味を見失ってしまう。

    だから、人は何かを作り続け、改善し続ける。完成品は許されない。よって人は、未完成品を作ることを好む。

    あるいは、トマス・クーンのあげたパラダイム理論周辺が示すように、人は自身の認知の枠組みからそう簡単には抜け出せないという話かもしれない。



  • 自らを託し続けなければならない。

    2019-01-14 11:02
    ラカンや心理学のテキストが指摘するように、人間と動物の大きな違いのひとつにポルトマンの言う、生理的早産の有無が挙げられる。

    人間は、他の動物に比べ圧倒的に早産である。ゆえに、人間は生まれながらにして自らの多くを他者に委ねなければならない。

    「生まれたての小鹿のようだ」と私たちは言うが、その私たちは生まれた時点では小鹿の足元にも及ばない。小鹿は生まれてものの数分で歩き、三日も経たずに自ら周囲を探索することができる。一方は私たちは目で物を追えるようになるだけで2か月ほどを要し、本来の歩行ではないハイハイですら半年以上の歳月を必要とする。

    人はこれだけ無力な状態で生み出されてしまうのだから、コミュニケーション能力が生死を分かつことは火を見るよりも明らかであって、生理的微笑が生後すぐから見られること、喃語が歩行よりも早く生後3、4か月で獲得することなどは、それを判然と示している。

    生まれた瞬間から、自らの多くを他者に託さなければならない。

    エピジェネティクス進化論的に考えれば、早産するようになった←→コミュニケーション能力が発達したということになる。

    脳の発達が遺伝的に継承されていくにつれ、子どもの頭が大きくなる→早産せざるを得なくなる→上述したようなコミュニケーション能力が優れた子どもがより生き延びる→最初に戻る

    さて、この早産を精神分析家は悲観的に捉える。この最初期(フロイトの一番弟子であったランクによればお産の瞬間から)に、人は根源的恐怖を植え付けられ、コミュニケーション依存症に陥るのだ。

    その指摘はもっともだろう。しかし、好意的に解釈してみれば、人はその瞬間から「他者に自らを託すことができるようになった」「他者を信頼することを覚えた」ということができるのではないだろうか。

    ある程度成長できたということは、誰かに助けられたということだ。どの生物にも共通していることではあるが、上述したように人間はその度合いが高い。どんなに不幸な生い立ちの子であっても、不幸だと認識している歳までは少なくとも生きたというその一点に限っては誰かの協力なしには成しえないことだ。ここでひとつのテーゼが生まれる。

    生を意識するということは、自らのなかに他者を認めるということではないのだろうか。

    死を意識するということも、同じである。

    では、なぜ人はときに人を疎み、妬み、殺害し、遂には自らの生を否定してしまうことが起きてしまうのだろうか。という問題は置いておいて、ここからは少し「他者に託す」という営みを見てみよう。

    国家とはなんだろうか。

    お金とはなんだろうか。

    私は「託す」という観点でみる限り、この両者は同一物であると言い切ることができる。

    国家は、たとえば古代文明がそうであったように、大規模な経済活動をより効率的に行うための共同体がその成り立ちだったということができる。たとえば古代ギリシャでは、人々は灌漑事業の労働の対価として粘土製のトークンと呼ばれるお金を政府から貰い、それを生活必需品に変えて生活していた。メソポタミア文明では農耕民と牧畜民が分業体制を取り銀地金による経済交流を行っていたことを挙げてもよい。中国最初期の王朝である殷の別名は商であり、商は塩の専売特許のことであったし、古代ローマは元々はエトルリア人が塩を運ぶための中継都市だった。このように、国家とは部族や単なる共同体とは違い、お互いを託し合う人々の集まりとして発展してきたと捉えることができる。

    部族や共同体もお互い託し合っているではないか、いやむしろより密接に託し合っているのではないか、という指摘があるかもしれない。私がここで「託す」という言葉に託した意味とは、冒頭で記述したような意味においてなのである。子どもは母親を選べない。子どもは自分のコントロールが及ばない場所に自らを託さなければならない。

    部族や共同体は、お互いの顔が見知っていたり、ある特定のルールや目的のなかで生活をしており、それは自らのコントロールが及びやすい。もしくはそれ自体で完結している。しかし、都市や国家においては、他部族、他民族、他宗教、他業種、他国との繋がりや交流が不可欠なのであり、国家がどう動くかは誰にも予測ができない。知らないものに身を委ねるという行為が必要条件となる。

    さて、多くの動物が絶滅危惧種となり、人間が地球上ほぼすべての場所に居を構えるようになった。そして多くの部族が絶滅危惧種となり、地球上ほぼすべての土地は国家に管理されるようになった。

    どうやら歴史的には、唐末期の広州でムスリム商人が大量虐殺されるまで大貿易を行っていたように、十字軍が結果的にお互いの文化が融合するきっかけとなったように、何の慈悲もなく簡単に殺せるぐらいに異質な他者との交流が繁栄には必要だったということらしい。

    国家は国家を飲み込もうとする。それはひとつの独裁のようでありながら、逆説的に国家内に無数の他者を取り込んでいく営みである。国家は他者を好む。

    なぜ他者を取り込もうとするのだろうか。それは冒頭に書いたように、国家が「効率的な経済活動を行うため」に生まれたからである。インフラの整備も、より細やかな分業体制も、経済市場の拡大も、すべては「効率的な経済活動」のためである。

    「なぜ、国家は成長ばかりを目指すのか」「持続可能な」「資本主義的/帝国主義的考えの時代は終わった」とある人は言うが、何も産業革命から成長を目指し始めたわけでも侵略し始めたわけでもなく、人類史は少なくとも文明が始まって以来ずっと成長と侵略を続けてきた。

    国家は人々の欲望の集積である。神官や王や政府は、国家を生業としているに過ぎない。国家は、ビジネスをまとめるビジネスなのである。そこに善意や正義を持ち込んだり、美しさや気高さを見出すのは、その国家というビジネスのイメージ戦略にはまっているに過ぎない。

    これからの国家は違うという人がいるかもしれない。そうではないのだ。冒頭から述べている通り、「自らを託した」ことが国家の始まりなのである。その例のひとつが「お金」である。お金が登場し始めてからまもなく国家は「お金」を支配し始めた(そして国家が使用を強制するお金は「通貨」と呼ばれる)。

    「お金は裏切らない」、と人は言う。そうなのだ。国家が保証してくれている限りお金は裏切らない。人がお金を信頼するとき、それは国家に自らを託していることを意味する。ナショナリズムの原型はここにみなければならない。「通貨」とは、文字通りの意味で「国債」なのだ。生まれながらに強制的に「通貨」という名の債権を購入させられているのだから、その債権を無駄にしないためには、応援しないわけにはいかない。

    このように国家は、人々の生活を担保にしているため、個々人の正義感に関わらず、経済的に、あるいは生存本能的に動いていく。植民地政策も、数多の大量虐殺も、国家そのものが常に孕んでいる問題というだけのことである。(これだけ学問や文化が成熟したはずの21世紀、最も豊かなはずのアメリカでトランプが支持されるのは、国民が悪いのではない。これにみるように国家というシステムそのものが自国ファーストを導くのである。これを幼稚化した現代人とかいう見方があまりにも幼稚である。逆に幼稚でなかった時代について教えていただきたい。)

    グローバリズムが進んだり、仮想通貨(上述した定義では通貨ではないのだが)が出てきたことで、アナーキズム思想が増えているが、結局誰かが何かを保証しなければ始まらない。「信用できるのは自分だけ」の論理で、人々は国家や生まれ故郷にこだわる。それは保守性や自閉性の問題ではない。「お金」は「土地」と大いに結びついている。それは「民族」が「土地」と大いに結びついているのと同じである。なぜなら、人間は仮想空間のアバターではなく、穀物や動物を食べて石油を消費して物理的な家に住むからである。仮想通貨は確かに、「お金」と「国家」を切り離す可能性を有している。しかし、「土地」と「国家」を切り離すことはできない。

    「お金」はそもそもが物々交換のための手段である。お金でお金をまわす金融経済になってからは忘れられがちだが、「お金」は安定的にモノを生産できる土地がなければ無価値なのである。(インターネットによる金融やコンテンツだって、安全な土地にサーバーがあって安定した電力供給がないと始まらない。それはいったい誰が保証するのか。いつ侵略されるかわからない土地に自らの資産を投資したい人がいるのだろうか。侵略される/されないで論争をする人がいるが論点がおかしいのであって、資産や人生を託したくなるか/ならないかが問題なのである)

    だから国家は土地を増やそうとし、資源を手に入れようとし、土地を自衛する。軍隊が必要なのは、そのためである。戦争をするために軍隊があるのではなく、お金の価値を保つために、国民からすれば自らの生存権のためにあるのである。それは人々の生存本能の集積によるので、道徳とは無関係であって、個人は国家のために死ぬことはできても、国家は個人のために死ぬことは決してできない。

    ここで、あえて予防線を張ろう。私はもちろん戦争反対である。が、そう大きな声では言えない。なぜなら戦争に反対することは、途方もなく壮大な挑戦だからである。単に倫理的問題や道徳的問題として反対する人や戦犯者を悪魔かのように責め立てる人は卑怯者で思考停止者だといえる。人間の歴史を侮辱している。過去の戦争に参加せざるを得なかった人々を侮辱している。

    彼らは人間として戦争せざるを得なかったのだ。その人間性を否定するような発言は許されるものではない。戦争に反対するということは、国家/土地/お金、つまりは所有を否定することであり、これは共産主義が目指したものであり、有史以来実現したことがない。これを達成するということは、今までのやり方を根本から変えるということである。エヴァンゲリオンの人類補完計画を連想するほどには壮大なことなのである。

    この問題から逃走線を引くときに間違ってはいけないのは、コミュニズムを単純に想定してはならないことである。社会主義国家の失敗は、国家が人々の欲望の集積であることを忘れたことにある。繰り返すように、神官も王も政府も人々の欲望を円滑に循環させる役職でしかない。ゆえに、経済が立ち行かなくなれば須らく彼らは処刑されてきたし、経済が回っているときは彼らは厚遇された。共産主義的発想は国家が先にあるために、催眠研究に注力して思想統制を行うしかなくなってしまう。順序が転倒しているのだ。古来より国家は常に国民(の欲望)によって再生産され続けているのである。