幸せになれないのは、当たり前なのではないか。
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幸せになれないのは、当たり前なのではないか。

2018-11-26 00:07
    幸せになれない理由は至って簡単だ。

    幸せは恐ろしいものだからだ。

    誰もが、幸せになりたくはないのだ。

    幸せになることは簡単だ。幸せだと自覚すればいいだけなのだから。

    それが難しいって?

    いや、あなたは時に自分を幸せものだと思うはずだ。

    しかし次の瞬間、自分は幸せではないと思ってしまう。

    自覚、というのがミソなのだ。

    健常に歩行している人は、歩き方を意識しているだろうか。

    あるときあなたは、「今の歩行がベストだ。この歩行を維持したい」と思ったとする。

    次の瞬間、あなたは同じように歩行しているつもりでも、どこかぎこちなさを感じてしまう。

    というよりも、常に歩行のことが気になってしまう。そして、少しでも歩行の調子がズレると不幸を感じ始めてしまう。

    これと全く同じことが「幸せ」にも起こっている。

    今を幸せだと自覚したくないのは、一度自覚してしまうとそればかりが気になってしまい、それを失う恐怖に支配されてしまうことがとても嫌だからだ。

    当たり前が、当たり前じゃなくなることが怖いのだ。

    人の不幸や死を目の当たりにすると出てしまう、あの防衛反応。ある人は同情し、ある時は援助し、ある人は喜び、ある時は追い込む。

    いずれにせよ、過剰な不幸には、どこかの他人のものであれ、プラスであれマイナスであれ、過剰な感情的反応を示す。

    それは自己防衛なのだ。

    不幸を認識すると、自分の人生が幸福に見えてきてしまう。

    下を見ると、何気なく立っていた場所が高く見えてしまい、そこから落ちるのが怖くなる。

    それが嫌だからこそ、過剰に感情的に反応することでごまかすのだ。

    ある人は援助に向かい、ある人は炎上に向かう。ここでは正負は問題ではない。

    援助タイプも炎上タイプも同じようなものだ。

    援助タイプ/炎上タイプ/正義感タイプ

    この三種は、どれも劣等感が強いがゆえに幸福の階段をあえて上らず、むしろ下がっていく。足並みを揃え(させ)ることで、自分が不幸になる(他人を不幸にさせる)ことで、幸福の恐怖から逃避している。

    フランス革命がもたらし、ニーチェが批判したのはこの部分であるし、およそ人間の共感能力というのはこういう部分なのだろうと思う。

    ラカンの用語を使えば、彼らは幸福を否定している。そんなものはないと言い聞かせ続けることに躍起になっている神経症者なのだ。

    ほかには、

    競争タイプ/無関心タイプ/欲望タイプ がある。

    前述の三種セットとこの三種セットで、それらをちょっと複雑に組み合わせれば大体現代人は説明がつくのではないだろうか。

    この三種は、幸福を否認する人々だ。幸福があることは認めている。しかしそのうえで、自分はまだまだそれではないと思い、上や関係ないとこだけを見て幸福の恐怖から逃避している。

    この三種は、マイルドオタクとマイルド意識高い系が同時に出てきたことをよく説明してくれる。岡田斗司夫ぐらいオタクじゃないし、イチローほど意識が高くないが、自称する人が後を絶たない。

    自分が幸福であることを認めない程度にオタクであれば/意識高ければいいのだから。

    以上のようなことを見ると、

    幸せにならないために、幸せを探しているという、なんとも自己矛盾した構図が見えてくる。

    チルチルとミチルが遠方をいくら探しても見つからなかった青い鳥が、家のなかに居た。

    『青い鳥』の結末は、本当によくできているように思われる。

    青い鳥を探して渡せばある人が助かる→異世界に探しに行くが見つからず→自室の鳥が前より青くなってる→その鳥を渡してある人が助かりハッピーエンド

    『青い鳥』がことさら優れているのは、見つければハッピーではないということだ。そこを勘違いして世に伝わっている節があるが、正確にはチルチルとミチルが幸福になったのではない。せっかく見つけた青い鳥を他人に渡す必要があったのだ。しかも、他人のために探したからこそ、自室の鳥がさらに青くなったという他人を絡ませる念の入れよう。

    『青い鳥』の結末を、あえて利他主義の教訓物語ではなく、このポストの文脈の捻くれた教訓物語として読み直してみよう。

    青い鳥だと気づいたときには、他人に渡さなければならない。

    もしくは、

    幸せに気づいたときには、他人に渡さなければならない。

    幸せは熱された鉄球なのだろうか。熱さを感じるや否や、手が空いてそうな誰かしらに渡していかなければならない。

    モースが描いたポトラッチのように、財は祝祭で他者に還元しなければならないのだろうか。

    競馬で当たった人が、損得を考えずに人に奢ってしまうあの現象。

    所有からの贈与。

    おそらく私たちが幸せに罪悪感を覚えるのは、アドラーの言うような嫌われたり妬まれる恐れからだけではない。

    幸せという言葉は、象徴界の代表のようなものである。言葉の世界にしか存在しないものでありかつ人間の頭に常にこびりつくものである。欲望の対象としての象徴。

    であるならば、幸せを自身の現実と安易に結び付けてしまうことは、象徴界の機能不全を招いてしまう。(象徴は現実と切り離されるほどに力を持つ。かつて社会主義国が思想教育で用いた言葉「悪い考え」のように)

    今の自分が幸せだとしたら、未来に向けて一体どんな仕方で「私」と「世界」を結び付ければいいのだろうか。

    享楽を求めなければ、そこに残るのは無味乾燥な現実/物体としての人間である。

    簡単に言えば、RPGでいう勇者は魔王を倒すから存在意義があるのであって、今に満足している村民だったらゲームをプレイする気にならない。

    この現実界という深淵からの恐怖を避けるためには、幸せをどこか遠くに置くしかないのだ。

    私たちの頭のなかでは、

    幸せと死は、同じ場所にあるのかもしれない。
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