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凝縮社会-電車の中にて。
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凝縮社会-電車の中にて。

2013-03-30 12:09
    昔、元彼女と交際していた頃のお話。そして、この見解はたぶん現在も変わっていないし、今後も変わることがないだろう。

     埼玉県に住んでいた元彼女のところへ赴くには、いつも電車を使っていた。
     普段、電車とかバスといった公共交通機関に縁のない私にとって、公共交通機関、とりわけ電車というものは、本当に嫌いなものだった。
     静岡から埼玉まで、どういう風にすれば「安く」「快適に」移動できるものかと、リアル鉄道屋な弟や後輩の知恵を借りて考えてみた。速さは二の次である。結果、「時間に余裕があるときは」JR東日本の接続駅まで普通在来、そこから先は小田原駅まで東海道本線普通在来、そこから先は東海道本線から横須賀線を通って赤羽駅までまっすぐ行く「湘南新宿ライン特別快速」になった。小田原駅からは普通グリーンである。運が良ければ、沼津から小田原乗換も普通グリーンで行く。時間がないときは東海道新幹線一択である。1時間の短縮ができる。

     何が言いたいかというと、電車はやっぱり得意ではない、ということ。乗車率(乗車人数)を上げるために用意された対面ロングシートは、長旅(?)では本当に精神を蝕む。
     
     そして、今回の本題。私が電車の中で感じたことに繋がる。

     時折、朝早い時間や夜遅い時間に移動することがあった。朝はまだラッシュ時間前だからいい。だが、夜の移動はとにかく辛い。真冬のくせに窓がガッツリ結露するほど暖房が強く、それにあわせて人も多い。23時台でも電車が動いている、しかも満員近いとか、地元では有り得ないことだ。
     電車に乗る人を観察する。皆、明後日の方向を向き、あるいは手元の携帯電話に視線を落とす。すべての人に疲労の色が現れていて、酒のにおいもしょっちゅうである。

     ……どうして、この人たちはこんな環境に馴染めるのだろうか。

     定年まで働くとするなら、仕事がある日は毎日、およそ40年間、通勤時間を電車内で過ごすことになる。つまり、40年間、毎日一定時間、まったく見ず知らずの人と過ごすことになる。しかも、こんなスシ詰め状態の電車の中で!
     正気の沙汰とは思えない。
     とてもじゃないけど、自分だったら1年も続かない。心が折れる。しかも独身者なら大概は帰宅しても待っているのは誰もいないワンルームのアパートが大多数だろう。皆が求めてきた社会的立場と賃金の見返りが、この有様だよ!
     ……これは多分、マイノリティ(社会的少数者)な自分だから言える意見だと思う。病んでいるのは、私か? それとも大都会で暮らす皆か?

     そしてもうひとつが駅の足元、壁、いたるところに貼ってある「女性専用車両の時間」について。非常に腹が立つ。「男女平等」が叫ばれる世の中であって、この張り紙や床への印刷(印刷というか貼り付けなんだろうけど)は、燃やすか剥がすかしたくなってくる。真の意味で男女平等を謳うなら、男性専用車両も作るべきだ。無論、女性の社会進出を快く思っていないわけではない。働きたいなら働けばいい、その機会が用意されているわけだからね。自分が述べたいのは、この状況は本当に「平等」なのかということ。社会が「男尊女卑」から「男女平等」を謳い「女性重視」に変化してきている。過去の時代を調べると分かるけど、実は男性の立場のほうが完全に弱い時期というものもそれなりにあった。そうでなければ、例えば卑弥呼の話なんかは伝承として残らなかったであろう。
     もしこれを読んでいる女性の方がいたら、手を胸に当てて考えて欲しい。男女平等を謳い、期待しながらも、私は女だから、とか、そういうのは男の仕事だ、といった内容の反応をしたことがないか、と。真の意味で男女平等を実現するなら、それは人間という器に当てはめられた機能差にだけ主眼を置き、それ以外の事柄について(特殊な仕事などの事例を除き)性別を持ち出してはいけない。女だから重いものは運びたくないなんて、もってのほかだ。CVSの配送で働く女性は案外居る。夜中に、ひとりで、パレットを十枚以上持ち運んで、回収する。その仕事ぶりは下手な年配者より、余程しっかりしている。事あるごとに性別を引き合いに出すなんて、ただの甘えに過ぎない。
     
     少々話が逸れてしまったものの、電車で見た・感じた景色は、自分にとっては「凝縮社会」だった。「凝縮された社会を垣間見た」という風に受け取って頂いても、「社会を凝縮した図だった」と受け取って頂いても構わない。それなりの解釈の違いはあるものの、大筋は変わらないと思う。

     従来なら、私の話はここでお終いになる。が、今回はもうちょっとだけ書いていこうと思う。

     では、首都圏で暮らす大多数の人たち、あるいは地方でも公共交通機関が発達している地域では、なぜこういうことが起こっているのだろう。それは簡潔に言ってしまえば、タイトル通り、この社会はすべてが凝縮されているから、の一言に尽きてしまう。
     ただでさえ少ない土地にオフィスや職場があり、駐車場は作れない。そんな事例が常識になると、公共交通機関に人は集中する。その集中した人を捌くには、公共交通機関も凝縮――この場合は過密化――が必要になる。結果、山手線内回りなんか1分か2分待てば次の電車がやってくる有様だし、入れないからと次の電車を待てばそれも満員だったりする。ピーク時間帯の東京駅なんか、この世のものとは思えないほどの混雑ぶりだし、新宿駅はまるでダンジョンや迷路の類ではないかという構造になってしまっている。
     さらにそれらの大元を辿ると、結局は人に行き着く。地方から上京してくる人でごった返し状態。どうして上京するのかといえば、大きな企業は首都圏にあるわけで。良い会社に入るには(入ったなら)通勤圏内でなければならない。何をするにも学歴とか職歴がついてくるなら、良い学校や大企業に入るのが常識という状態。どうしてそんなものを求められるのかといえば、親なり配偶者(予定)なんかに気に入って貰うにはそうするしかないから。大体こんなところじゃあないだろうか。

     結局のところ、これは「人災」なのだ。より良い暮らしを求めるのは人として当然の欲求である。だがしかし、それらが過剰に働き、要求されると、すべてが凝縮されることになる。地方はスカスカになり、首都圏が高密度な状態になる。規律正しい生活をして、クタクタな身体を狭い電車に押し込まれ、その後自分の部屋に押し込まれる。なんだよ、結局こんなの牢獄と大して変わりはしないじゃないか。 そうした世の中が見えてきた時、私は既に病んでいた。いや、悪化したのかもしれない。世界を受け入れるのを拒絶した。そして、色々と考えていくうちに、自分で世界を作ってしまえば良いのだと感じた。その結果が蜂蜜屋である。


     ……起業直前に元彼女と別れたので(2011年)、電車の中で考えていたところは、こんなところである。
     無論、この記事は反感を買う可能性も大いに秘めている。毎日あんな電車の中でスシ詰めを食らってる人が見たら「それでも生きるためにやっているんだ」と怒鳴られても仕方があるまい。でも「それ以外に選択肢がなかったんだ」「何も分かっていない人間が暢気な口をきくな」という意見は聞きたくない。なぜなら、それこそが私の現在の状況だからである。

     なぜこの記事を書くのかというと、先日夜、友人とそんな話をしたからだ。
     友人は一時期首都圏近郊に住んでいて、貿易関連の仕事をしていた。しかし、仕事を辞めて地元に戻ってきてしまった。将来が見通せないから、といって。
     そして地元に戻ってきて、いまは仕事を探している(実体は良いところを探している)。「選ばれる」のではない、「選んでいる」のだ。
    「時深は凄いよなぁ、自営業で目標もってやってるんだろ」
    「そっちだって、この時代によく転職なんて考えたじゃないか。選べるだけ贅沢な悩みだと思えよ。俺なんか他の選択肢なんて殆ど無かったから、今こうして苦労しているんだぜ」
     本人は「給料なんて最初は少なくてもいいから、法令順守して、ちゃんと休日や余暇の時間が貰える仕事が良い」と述べている。都会は殆どがその真逆だ。給料が多少多くても、休日があまりなく、毎日残業、みたいな。
     私は彼の考えを汲み、自分と似ているところがあるな、とか思った。あるいは、本人もそのことに気付いたから戻ってきたのかもしれないが。

     ここの読者さんも気をつけたほうがいい。「この記事うざいなぁ」と思うなら、まだ社会に毒されたままで、それは「社会的に都合が良い」状態だから。「確かにそうだよな」とか「なるほど」と思うようになったら要注意。それは「社会的に都合が悪い」状態で、しかし私の考える人間的には良いと思える状態。

     生活を守るためにマジョリティの皮を被り続けるか、自身を守るためにマイノリティになるか。
     あなたは、どちらが正しいと思いますか?
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