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いよいよ改憲か?
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いよいよ改憲か?

2016-07-11 09:20
  • 4
地元のしんぶんを見ると、参院選の結果で、憲法改正を支持する勢力が3分の2を上回ったとのこと。

これに刺激されて、実はあんまり見ていなかった自民党の憲法草案を読んでみたのぜ。
 ↓ のサイトから、現憲法との比較がある草案、およびQandAが見られるのぜ。

自民党サイト「憲法改正草案を発表」
 https://www.jimin.jp/activity/colum/116667.html

争点となりそうな憲法9条がある「第二章」は、

[変更前]戦争の放棄
 ↓
[変更後]安全保障

と、タイトルからガラっと変わったのぜ。ワイが受け取れたポイントは、

・平和主義ではあるが、それは自衛権の発動を妨げるものではない
・自衛隊を国防軍と改称する。内閣総理大臣を最高指揮官とする

というところかな。
誤解される表現かもしれんけど、ワイが感じたのは、
これは紛争や非常事態に備える体制やろな、ということぜ。

好意的に見れば、自民党もバカではないやろうから、具体的な脅威が迫っていて、
大事になる前に抑える必要があるという考えを示しているんやと思う。

バカではない、というのは、拡がった場合、負ける可能性も考慮しとるやろ、ってことぜ。
第二次大戦の結果を見るに、戦時指導者は、逃げることはできてへんから。
「いざ」が起こったとき、政治家、資産家だけが利益を得る、損失を被らん、
ということにはなりそうにない。そこは自民党さんもわかっとると思う。

そうなると、脅威の拡大を抑える必要がある。
ここで、第二次大戦の拡大の経緯を振り返ってみたいのぜ。



第二次大戦前、政府の考えも一枚岩でなかった。
英米と協調する路線と、英米の既得権益を打ち破ろうとする路線があった。
あと、ソ連の脅威に対抗しようとする路線も。
どれが正しいとかは無いような気がする。すべてに理屈がある。

ただ日本は、英米と比較して資源が乏しく国土が狭い。資金も少ない。
「英米の既得権益を打ち破ろう」を選ぶと、英米との衝突は避けられない。
衝突に向けて、乏しい資源と資金を、「どこか」から募る必要がある。

第二次大戦よりも前、その「どこか」を担ったのは他ならぬ英米であった。

ここで、「英米の既得権益を打ち破」り、「ソ連の脅威に対抗」する、
両方の路線の利害が一致してできたのが、満州~華北(中国大陸の北の方)に対する
政策だと思う。

満州~華北に日本の影響力が及ぶ政権を作り出す。そして、現地と資源を融通し合うことで
「英米」に対抗できるようにし、同時に、陸続きの「ソ連」の南下を防ぐ壁とする。

ここで、日本が過小評価していたのが、現地中国人のナショナリズムの高まりだと思う。
いくら軍事力で上回っていても、現地人に「土地を取られた」と嫌われれば、
ゲリラは止むことがないと思う。

米国がベトナム戦争で敗北したこと、中東の問題を軍事力で解決できていないことが
ナショナリズムの強さと難しさを如実に表していると思う。


戦時日本は、蒋介石の国民党軍のゲリラ活動(非軍属日本人の射殺行為も含む)に対して
一撃と停戦協定、また発生したゲリラ活動に対して一撃と停戦協定…を繰り返すうち、
華北からどんどん南下を進めていったのぜ。

以下は、ワイが最近読んだ「昭和史<上>1926-49」にあった、本格的な日中戦争の始まりとも言われる盧溝橋事件(1937年)の後のくだり。ご参考になるのかなあ。
当時、天津の北支那派遣軍司令官 田代皖一郎(たしろ かんいちろう)は重病の床にあり、参謀長橋本群がこれを代理していたが、現地の参謀部内にもこの際、一気に華北を我が勢力下におさめるべきであるという拡大派と、事件の不拡大を望む慎重派とが対立し、統一的な政略運営が不可能な状況にあった。

急遽田代と交代した香月清司司令官は、東京において、この際懸案を一気に解決するようにという強硬論を吹き込まれて赴任したものらしく、橋本参謀長らの慎重論は勢力を失い、拡大派が現地においても有力となった。

東京の陸軍省参謀本部においても、拡大派と不拡大派の対立がみられた。参謀本部第一部長であった石原莞爾らは、五カ年計画の実現のためにも、この際、中国において事を構えることを好まず、在留邦人を長城線の外側に撤退させても、事態を速やかに解決することを希望していたが、在留邦人や小兵力の駐屯群が危険にさらされるのをおそれてついに派兵を受け入れた。

一方、陸軍省軍務課長武藤章大佐や、参謀本部第一課長(作戦)田中新一大佐は、この時、懸案解決のために強硬な姿勢をとり、その主張が勝ちを占めて大軍派遣が決定されたといわれている。

石原莞爾は同年(1937年)九月、関東軍参謀副長に左遷され、以後、陸軍は強気一色に塗りつぶされてしまうのである。満州事変勃発のさいには拡大論一点張りで中央をないがしろにした石原は、今度は部下の反逆を抑えきれずに要職を去った。


― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   282~283ページより引用

日本政府はもちろん、予定外であった中国国民党軍との全面戦争を避けようと交渉したし、蒋介石の方も、中国共産党との戦いを優先するため、日本との対立は避けたかっただろうと思うのぜ。

しかし、日中双方で、中央が現地軍の行動を抑えきれなかったように見えるのぜ。このとき、日本と中国国民党が対立して益があるところ、それは、中国共産党かもしれん。。
…(1937年)八月九日夕刻、大山海軍大尉が上海で自動車で走行中、中国保安隊によって射殺された。

(中略)

大山大尉事件が起こってのち、八月十三日には、日中両軍の間で戦火が拡大し、中国空軍は黄浦江に停泊中の日本艦隊を爆撃した。
被害はなかったが、これにこたえるように、日本の海軍航空隊は南京に対して渡洋爆撃を実施し、戦争は上海一帯に波及した。こうして日中間の紛争は、約一カ月余のうちに全面戦争に突入してしまったのである。

当時、北支事変と呼ばれていたこの戦争は、上海付近への戦火の波及とともに支那事変とよばれることになり、日本側の合言葉は暴支膺懲(ぼうしようちょう)という旗印であった。

これ以後、日本軍は北京、天津一体の中国軍を追い払った後、北京を起点とする京漢線(北京―漢口)、天津を起点とする津浦線に沿って南下し、他方、山西省にも侵入して中国軍を駆逐しつつ、同年11月には黄河の線にいたった。

― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   285~286ページより引用
日本軍は、蒋介石の根拠地であった南京までも到達した。
いわゆる「南京虐殺事件」はここで起きた出来事らしいのぜ。あるなしに諸説あるものの。

当然、南下するにも武器弾薬、食料などの補給が必要になる。
当初予定になかった中国大陸での紛争の拡大は、日本の財政に大きな打撃を与えたのぜ。

同時に日本の南下は、当時、中国大陸での権益を持っていて、今後の権益に関して「機会平等」を唱えていた英米の態度を硬化させた(現地人を置いといて「機会平等」も大概やと思うけど…)。

このあたりで、また引用を:
日本が全面戦争を開始するや、中国は九月十三日の国際連盟総会に日本の侵略行為を提訴し、連盟規約、不戦条約、九カ国条約の明らかな違反であると主張した。
その結果、一〇月六日、日中戦争の討議のために九カ国条約国会議が招集されることになった。

ルーズヴェルト米大統領は(1937年)一〇月五日、シカゴにおける演説において、好戦的なドイツ、日本両国を強く非難し、とくに日本に対しては、侵略国を隔離すべきであるという強い声明を行った。

― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   287ページより引用
話は飛んで1940年頃、硬化した英米に応じる日本側、近衛文麿内閣の外相は松岡洋右さんで、この人は若い頃に米国のオレゴン大学に留学したらしいのぜ。
松岡の発想は、ドイツ、イタリアと提携するとともに、ソ連をもこのグループに引き入れて、英米に対抗する勢力を結成し、その圧力で英米を押さえ込んで、日中戦争を解決しようというものであった。

松岡は、若くしてアメリカのオレゴン大学に留学し、アメリカ人は力をもって対抗してくる相手に対しては、尊敬し対等に遇するが、弱みを見せればますますかさにかかってくる、と信じていた。

― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   322ページより引用
松岡さんの米国人への評論は当たっているかどうかわからん。とにかくこの頃、日本軍は中国大陸をさらに「南進」し、英米が蒋介石への援助物資を経由させているとされる北部仏印(北部フランス領インドシナ:現在の北ベトナムあたり)に進駐したのぜ。これが1940年9月初旬。

この中国大陸、および仏印への「南進の度合い」に対応して、米国はどうも段階的に対日政策を強硬化させたみたいなのぜ。
一方、近衛内閣成立以後、アメリカの対日政策はいっそう強硬化した。
日本に対する屑鉄・石油の輸出を許可制にしたのが(1940年の)七月二十五日、航空機用ガソリンの輸出禁止が七月三十日のことである。

のちにみるように、日本側が大量の石油輸入を企図した事実がこの反応をもたらしたことが、現在では知られている。客観的に見れば、アメリカは、日米通商航海条約の破棄(1939年7月)によって行動可能になった切り札を一枚ずつ使用して警告を行ったつもりだったが、日本はこれに三国軍事同盟締結によって応える結果になったともいえよう。

― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   328ページより引用
「三国軍事同盟」とは、1940年9月27日に締結された日独伊三国軍事同盟のことなのぜ。
日本、ドイツ、イタリアのうち1国がヨーロッパ戦争または日中戦争に参加していない国から攻撃された場合、政治経済的および軍事的に相互に援助を行うというものぜ。

ヨーロッパ戦争または日中戦争に参加していない国…すなわち、この時点の米国を指していると見てよさそうなのぜ。

松岡さんは、この同盟に大変大きな自信を持っていたようなのぜ。
(1940年の)九月十九日の御前会議においては、(松岡は)次のように述べた。

「アメリカは一時硬化せんも、冷静に利害を算討し、冷静なる態度に立ち返るべしと考える。もとより彼がますます硬化して、いっそう険悪なる状態となるか、彼が冷静反省するかの公算は半々なるべし」。

― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   331ページより引用
この発想に対して批判的な人も多くいらっしゃったみたいぜ。
御前会議の席上で、原嘉道枢密院議長は、次のような質問をしている。

アメリカは最近、イギリスにかわり、東亜の番人をもって任じ、圧迫を加えてきているが、なお日本を独伊側に加入せしめないためにかなり手控えているようだ。しかし、この条約(日独伊三国の条約)の発表により、日本の態度が明確となれば、圧迫を強化し、結局、蒋介石を援助して、日本を疲弊させ、戦争に耐えないようにしようとする計画であろう。
アメリカは自負心の強い国である。したがって、わが国の毅然たる態度の表示がかえって反対の結果を促進することはないか。

また、重臣―前首相らに対する説明会では、広田弘毅元外相も質問を重ねた。

この条約が何の必要あって締結されたか了解に苦しむ。締結の結果、英米の日本に対する態度は極めて悪化するであろう。そうなれば、中国はこの事態を利用するであろうから、支那事変の終結はいよいよ困難を来すであろう。
日本は従来、英米と連絡を保つことによって経済的発展を図ってきたのであるが、前記のような状況となれば、いかにして発展を企図しえようか。それはまた、ソ連の対日態度に好ましからぬ影響を及ぼすおそれがある。


これらのいわば良識的な批判は、この時期の熱狂的な新体制論、日独伊枢軸強化論のあらしの中ではもとより小さな響きしかもたなかった。実際、アメリカは、このとき以後、対日関係の改善をほとんど諦めたようである。

― 「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」 
   332ページより引用
まあ、最後の段落は著者の感覚も入っているんやろうけどね。

そして対米戦争に対抗する自給自足体制を築くため、1941年7月、日本軍は石油その他の資源を求めて南部仏印に進駐した。

対応して米国は、1941年7月25日には日本の在米資産を凍結させ、ついで8月1日にはとうとう、石油の全面輸出禁止を決定した。

この、米国の対日石油全面輸出禁止が、

「時間がたつほど日本が戦争に不利になってしまう」
「対米戦争をするなら、早いうちしかない」

という日本軍部の判断を生み、やがて太平洋戦争につながっていった。
…と、解釈してますのぜ。


■参考文献
「昭和史<上>1926-45 中村隆英 著/東洋経済新報社 刊」
https://www.amazon.co.jp/dp/4492061851


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×
お久しぶりです。朝鮮戦争と日本国憲法成立の経緯をよく調べていた自分としては白眉の文章でした。

しかし、こうして眺めてみると松岡洋右の見識(あるいは当時の日本を取り巻く世相の形成)には大変な問題があったと自分は考えますね。米国は英国よりもはるかに、日本を含めた東洋の事情に無知であった(もっと言えば興味が無かった)ことは、朝鮮戦争で事態をコントロールできなくなった(東洋の番人である中国と、その代わりの役割を果たしていた日本を軽視した結果、楔を失った火薬庫・朝鮮半島が爆発)ことから分かります。

安直にですが、松岡外相(あるいは当時の世相形成)の興味は、主に広域的なパワー関係に置かれていて、仔細な地域のコントロールに無知であったのかもしれません。と言っても、当時の大日本帝国の民衆にどれだけの統一感のある「日本人」観があったのかは疑問ですが。
60ヶ月前
×
サギシさん、おひさしぶりです。こんにちは。
読んでくれてアリガトナス!

>しかし、こうして眺めてみると松岡洋右の見識(あるいは当時の日本を取り巻く世相の形成)には大変な問題があったと自分は考えますね。

そうかもしれないですね。

今回紹介した本の流れでは、まず世界恐慌を発端とした当時の不況から日本の庶民、軍人、政治家に閉塞感が
蔓延していたという背景があって、
さらに第一次大戦後の軍縮会議で、英・米・日の戦艦(やったかな?)の割合を5:5:「3」に
されることへの不満が、特に軍部に強くありました。それから、
「英米の既得権益を打ち破りたい・英米主体の平和主義は嘘くさい!排したい」という気分が一部にできてきたと。

その気分を持っている人の中に、血筋、経歴ともに文句なし、京大出の公家の家柄の人、近衛文麿さんがおったと。
近衛文麿さんは穏やかで人当たりの良い、「側近三千人」と言われるほど人に好かれるタイプの人らしかったんやけど、
雑誌に「英米本位の平和主義を排す」と題する論文を寄稿するほど、世界秩序の現状打破を心に秘めた人やったらしいです。

論文では、
「大戦後の世界において、民主主義、人道主義の思想が盛んになることは否めないが、事実においては、英米の論者の言う平和とは、彼らに都合のよい現状維持にすぎない、これを人道と呼んで美化しているのだ」
「現状維持を弁理とする国は平和を叫び、現状破壊を弁理とする国は戦争を唱う。平和主義なるゆえに必ずしも正義人道にかなうにあらず。軍国主義なるゆえに必ずしも正義人道に反するにあらず(平和主義だからといって必ずしも正義や人道に沿っているとは言えない/軍国主義だからといって必ずしも正義や人道に反しているともいえない)。」
とあるそうです。

これはこれで、特に当時の考えからすると、否定はできない理屈ではあると思いました。特にまあ、前半の方が。

こういう思想を秘めた近衛さんが、日中戦争激化/日米関係冷却寸前時の内閣総理大臣で、
その近衛さんの気に入る、強硬な考えを持っていたのが、時の松岡外相でした。

こうして1940年代、日本は軍部の強気に任せて南進し、硬化した米国から石油を禁輸されるようになりました。。。
日本は石油禁輸をされると陸海軍力がもたなくなるので、日米戦争を行ってでも南方資源を入手すべきという
考えに傾きました…という流れを、本から受け取りましたのぜ。
60ヶ月前
×
>安直にですが、松岡外相(あるいは当時の世相形成)の興味は、主に広域的なパワー関係に置かれていて、仔細な地域のコントロールに無知であったのかもしれません。

そのとおりなのかも、と思いました。

「植民地経営」というと議論が湧きそうですが、占領した土地を経営するノウハウの面では、
それで長い間巨大な財産を得てきた英米に叶わないところが、日本にはあったかもしれません。
無知であったからこそ、「占領後の統治」などを考えないでどんどん攻め進んでしまった。

朝鮮、台湾、満州は、まだ「占領後の統治」がよく考えられていた方なのでしょうね。
しかし、華北以南について、これは考えがなかったように見えます。
叩かれたから、叩いて進む、相手が降参するまで。叩いて進んだその途中の土地を将来的にどうするのか…
これは、進軍の道筋となった土地の庶民に芽生える感情も含めて。

うまく統治できないと、そこは無人の焦土となるか、あるいは敵意のゲリラに囲まれるばかり。。と思いましたのぜ。

そもそも、かなり長距離の陸上遠征ですが、自軍の補給についての見通しが浅いように感じました。補給のため、経済が圧迫されたのは事実のようです。
60ヶ月前
×
>朝鮮、台湾、満州は、まだ「占領後の統治」がよく考えられていた方なのでしょうね。
>しかし、華北以南について、これは考えがなかったように見えます。

朝鮮、台湾のときは、明治帝とその臣下たちが、議論を重ね、ある程度のビジョンを持って「総督府」などを置いて長い目でやっていこうとしたように見えます(個人の感覚です)。臣下の一人、伊藤博文さんは現地の人に暗殺されてしまいましたが。

満州は、俗にいう「石原構想(石原莞爾が考えた満州地域に対する方針)」をベースに、満鉄の人や関東軍がなんとかうまいことやろうとしていたような。

しかし中国大陸での華北以南については、そもそも政府も拡大派・不拡大派に割れていて、ビジョンどころでなく、何もまとまらない中、現地の強気と勢いに任せてやっちまった感があるような(個人の感覚です)。

そして「統帥権」が理由で、当時は内閣総理大臣でも軍政に口を出せなかったらしいです。また5.15や2.26で、将校による政府要人暗殺事件もあったので、下手に口を出すと命があぶない…という恐怖も、文官大臣にはあったのでしょう。

ここでようやく記事の「改憲」と繋がりますが、自民の改憲案を作った人の中には「統帥権」による弊害を意識した人が含まれているような気がします。
それを、「内閣総理大臣を国防軍の最高指揮官」としているところに見て取りました。第二次大戦時は、陸軍出身の東条首相でさえ、軍から詳細な戦況を聞けない状態だったとのことです。 つまり、敗色が濃厚になりつつあるのを、国政のトップが正確には認識できていなかった。 そのため、悲惨なことになるまで重要な政治判断がしづらかった。

これを、先の大戦の反省として、踏まえているのかなあと、思った次第です。
60ヶ月前
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