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ねむねむさん のコメント

今更かも知れないですがふらっと立ち寄ったので少し。
虐めの本質ですか。

>>2で言ってることに概ね同意ですね。
付け加えるなら誰か(自分も含む)に認められていれば、そういう事をする必要はないと思います。
今の競争社会では親も教師も上司も友人も中々認めてくれません。自分で自分を認めることすらも難しい。
そうした人たちが心の安定を図る為に虐めをするんじゃないかなと思っています。
行為としてはネジ曲がっていてもとりあえず誰かの上には立てますから。
No.3
72ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
エーリッヒ・フロム(Erich Fromn) 1900年、ドイツのフランクフルトに生まれる。ハイデルベルグ、フランクフルト、ミュンヘンなどの大学で学んだのち、ベルリン大学で精神分析学を学ぶ。フランクフルト社会学研究所を経て、1933年アメリカに渡り、のちに帰化。イェール、ミシガン、ニューヨークなどの大学で教鞭をとり、さらにメキシコに移住。1980年没。 フロイト理論にマルクスやウェーバーを接合して精神分析に社会的視点をもたらし、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在とされた。また、真に人間的な生活とは何か、それを可能にする社会的条件とは何かを終生にわたって追求したヒューマニストとしても有名である。しだいに、禅や東洋宗教へも関心を深めた。 ―紀伊国屋書店刊 『愛するということ』著:エーリッヒ・フロム/鈴木晶 訳   巻末の 著者紹介より引用 前回の記事「 いじめの本質は何か 2 「SとM」 」にあった次回予告を 裏切り 、今回はE.フロムさんによる「SとM」を見ていこうと思うのぜ。 といっても、ムズカシイ話にしたくないのぜ。リラックスぜみんな。上の人物紹介は、おまけ程度なので肩の力を抜いて欲しいのぜ。まあ、とにかく頭が良さそうな学者さんやったということと、精神分析を専門にしてたことを覚えていればいいと思うのぜ。多分。 ワイは↑で示したフロムさんの著書「愛するということ」を買って、日本語訳版を一通り読んだのぜ。といっても、この本は「SM」やサディズム、マゾヒズムがメインテーマではないのぜ。「愛」がテーマやから、やはり「サディズム」や「マゾヒズム」も「愛」の観点から書かれていたのぜ。 で、「愛するということ」は、フロムさんによると一体何か? ひ、一言では言い表せんのぜ・・・ では、 「愛するということ」から、 ワイは「フロムさんの言う『愛』」はどういうものだと読み取ったか? これなら言える!  『愛』、それは、人間にとって至高のもので、与えるのが大事やけど、与えるのにカナリの熟練を必要とする、素人には勘違いされがちなもの(素人の三百的解釈が極まってて恥ずかしくないの?>自分)。 ・・・これはこれとして置いといて。 フロムさんは 未成熟な形の愛 の中で、主題に掲げた「SとM」があり、それらは互いに依存していると述べていますのぜ。 「SとM」は、 「支配と服従」の関係 ぜ。 SとMはどちらも真の愛から離れたあり方で、どちらも耐え難い孤立感、孤独感から逃れるために両極端な方針を採用しているけど、両者の根源は似ていると感じましたのぜ。 ちょっと引用するのぜ。 まず、Mの方から。 マゾヒスティックな人は、堪えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、彼に指図し、命令し、保護してくれる人物の一部になりきろうとする。その人物はいわば彼の命であり酸素である。 彼が服従するものが人間であれ神であれ、その者の力はふくれあがる――彼はすべてであり、いっぽう私のほうは、彼の一部だという点を除けば、無である。 ただ、私は彼の一部であるから、偉大さ・力・確実性の一部でもある。 マゾヒスティックな人は自分で決定をくだす必要がないし、危険をおかす必要もない。彼はけっして一人ぼっちにはならない。 しかし、彼は独立しているわけではない。いわば、まだ完全には生まれていないのだ。宗教の場合は、崇拝の対象は偶像と呼ばれる。マゾヒスティックな愛情関係という世俗的な文脈においても、本質的なメカニズムはやはり偶像崇拝である。 (中略) どの場合にも、服従する人は統一された人格を捨て去り、自分の外にある人や物の道具になりさがる。そうなると、生産的活動によって生の問題を解決する必要がなくなる。 ―紀伊国屋書店刊 『愛するということ』著:エーリッヒ・フロム/鈴木晶 訳  より引用 次にS。 サディスティックな人は、孤独感や閉塞感から逃れるために、他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取り込むことによって、自分自身をふくらます。 マゾヒスティックな人がサディスティックな人に依存しているのに劣らず、サディスティックな人も服従する人物に依存している。どちらも相手無しには生きてゆけない。 両者の違いは、サディスティックな人は命令し、利用し、傷つけ、侮辱し、マゾヒスティックな人は命令され、利用され、傷つけられ、侮辱される、というだけだ。 表面的にはかなり違うが、より深い感情面では、両者の相違点は共通点よりも小さい。その共通点とは、完全性に到達しない融合という点である。 これが理解できれば、同じ人物が、ふつうは別々の対象に対してサディストにもマゾヒストにもなりうるという事実も、それほど意外ではなくなる。 たとえばヒトラーは、民衆に対してはサディスティックに振舞ったが、運命、歴史、そして自然という「高位の力」にたいしてはマゾヒスティックだった。 彼の末路、すなわち全面的敗北の中での自殺は、全面的支配という彼の夢に劣らず、彼の特徴をよくあらわしている。 ―紀伊国屋書店刊 『愛するということ』著:エーリッヒ・フロム/鈴木晶 訳  より引用 E.フロムさんの「SとM」が「いじめ」の本質と結びつくならば、 「いじめられる方にも、『いじめ』という現象を起こす原因があった」 という結論になると思うのぜ。 [これを受けての仮説] いじめられる方は、まず、堪えがたい孤独感、孤立感の中にあり、これを埋めたいと切に願っていた。孤独感や孤立感を癒すためなら、「クラスのストレスのはけ口」となることも辞さないほどの重症であった。 いじめられっ子が「虐め」を受けながらも耐えるのは、こういう形でも 「 クラス全体と繋がりたい」または「自分はクラスのためにこういう扱いを受けて当然なのだ」という思いが根源にあったためだ。 そして、いじめっ子のリーダー格とクラスの人たち、担任教師も深い孤独と孤立の中にあった。彼らもまた、「いじめられっ子」に「虐」を加えることで、クラス全体の繋がりを保とうとした。 図で示すと、 ■ 「いじめ」の構図(ワイの脳内) ┏→Step1.加虐者・被虐者「深い孤独感・絶望感」「繋がり・自己肯定感を持ちたい」 ┃  ↓ ┃ Step2.加虐者 →(心身の虐待)→ 被虐者 悪   ↓ 無 Step3.加虐者「自己の過小評価→過小な自分でもコントロールできた満足感」 限      被虐者 「自己の過小評価→耐えることくらいしかできないからそれをする」 ┃  ↓ ┃   Step 4. 再び、加虐・被虐両者を揺さぶる、孤独感・孤立感に満ちた出来事) ┃   ↓     ┗ ←Loop   加虐者・被虐者「我々の存在は肯定されるものや否や(自己への懐疑)」              ということやろか? つづく!