• BATMAN : The Hero in the Soul

    2019-01-13 16:40

    BATMAN : The Dark Knight Returnsの偉大なる著者フランク・ミラー氏、クラウス・ジャンセン氏、リン・ヴァーリイ氏、
    そして翻訳をされた石川裕人氏、秋友克也氏に最大の敬意を込めて。

    BATMAN : The Killing Joke の偉大なる著者アラン・ムーア氏、ブライアン・ボランド氏、
    そして翻訳をされた秋友克也氏に最大の敬意を込めて。

    The Dark Knight の偉大なる制作者であるクリストファー・ノーラン氏と、ともに制作に関わった多くの方々に最大の敬意を込めて。

    私に知識を授けてくれた、ソクラテス、フリードリヒ・ニーチェに捧ぐ。

    表紙のイラストも描いています。


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    BATMAN : The Hero in the Soul

    The Crocodile Tears

     ケープを翻し、夜空を滑空する。ウェイン・コープの持てる技術の結晶たるこのケープは今夜も問題なく動作し、私は上昇気流に乗って帆翔している。眼下では、100万ドルの夜景とも評されるゴッサムの美しい街並みが流れては消えていく。
     この街で自警活動を始めて20年の月日が経とうとしている。最初こそは、私のこの活動は市民の嘲笑の種の一つに過ぎなかった。“マスクにタイツを着た変態が自警活動をしている”、“蝙蝠の化け物が人を襲う”、“ゴッサムには大昔からドラキュラの伝説があった”。
     それら市民の間で語り継がれる可笑しな噂の数々が指し示しているものが、“私”という存在であることは明白だった。それで良かった。“ゴッサムで悪さをすると、蝙蝠の化け物に襲われる”。次第に移り変わったこうした言説は、私の思惑通りのものだった。
     “あの日”。私の“父と母が亡くなった日”に、父と母を撃った“あの男”を見て己に誓ったのだ。“目には目を、歯には歯を”。ゴッサムの市民を『恐怖』に陥れ、夜な夜な跳梁跋扈する悪人どもを、同じように『恐怖』で竦ませる。
     “バットマン”という存在は『恐怖』の権化だ。
     私自身の『恐怖』。
     悪人どもの『恐怖』。
     ゴッサムで生きる市民たちの『恐怖』。
     ……それでいい。
     毎夜、ゴッサムの空に“シグナル”が照らし出される。“シグナル”を尻目に悪行に走れば、どこからともなく『恐怖』が訪れる。暗闇から、背後から、蝙蝠の姿の化け物が現れる。
     噂が定着すると、面白いように小物らの悪行は鳴りを潜めた。『悪さをする者たちほど信心深いものだよ』と私に教えてくれたのは、父だったか。その父を撃った“あの男”は、この私の手で牢屋に入れた。“あの男”は、“あの男”の生きる時間の倍以上の期間を牢獄で過ごすこととなった。
     ……しかし、それだけでは私の怒りは収まらなかった。
     幾人もの悪人を相手にしてきた。
     “ペンギン”と渾名される切れ者の悪党は未だにこの街にのさばっている。元々は地方検事として共に“悪”と闘っていたハービー・デントは“トゥーフェイス”へと堕とされた。“ベイン”と呼ばれる大男や、植物を操る“ポイズン・アイビー”なる環境テロリストまでもが現れた。頭のおかしい奴らは、挙って犯罪に走るようになった。
     闘って、戦って、たたかい続けた。私自身の“悪”への怒りは一向に収まろうとはしなかった。怒りは、増す一方だった。
     ……多くの市民の命が犠牲になった。“ロビン”として私を師事してくれた友人のジェイソン・トッドは“ジョーカー”に殺された。ジェームズ・ゴードン市警本部長の娘であるバーバラも“ジョーカー”の手に掛かり、車椅子生活を余儀なくされている。
     犠牲に報いる成果に乏しかった。ジェイソンの墓標に「ゴッサムシティは安全な街になったよ」とあからさまな嘘をつくことも許されない程に、この街は20年間、何も変わらずに腐り続けている。
    『――ブルース様。――』
     無線が鼓膜を震わせる。古き友人であるアルフレッド・ペニーワースの声をクリアな音声で耳朶に届ける。
    『――ゴッサム・リバーで変死体が数多く発見されているようです。何でも、死体は下水道から流れ着いているようで――』
     そして今夜も、“この街”では、“ゴッサムシティ”では、決して事件が尽きることはなかった。尽きるはずは無いのだ。私は半ば諦観していた。
     ビルの谷間を迂回し、再び気流に乗って上昇する。
    「死体に何が?」
     アルフレッドは少し言い淀み、気後れしたように口を開いた。
    『――死体には、何らかの生物に噛み砕かれた形跡があるようです。五体満足な者は殆ど無く、腕だけであったり、頭だけ発見された例もあるようで――』
     眉の間に皺を寄せた。
    「……惨いな」
     アルフレッドが無線の向こうで首肯する。『――ええ、全く――』
    『――これについて近頃、下水道に巨大な鰐が潜んでいるという噂が、一部の市民の間で交わされているようです――』
     私は「ふん」と鼻で笑った。
    「……信憑性は?」
     無線の向こうに座る老獪な執事は大真面目な声色で言う。『――五割程かと――』
    『――“キラー・クロック”と呼ばれる、身長七フィートを超える大男が地下の格闘場に出入りし始めたようなのですが、こちらも妙な噂が――』
     勿体ぶった言い方に焦れる。
    「何が妙だと?」
     眼前には既にゴッサム・リバーが見えている。目的地にはもう間もなく到着する。到着してからでは遅い。アルフレッドが『五割』に賭ける理由を聞いておきたかった。
    『――常にフードを被っていて、決して顔を見せようとしないそうです。しかし、一人だけ、“キラー・クロック”の顔を見たという男が言うのです――』
    「『鰐の様な顔をしていた』か?」
     アルフレッドの言葉に被せるように先読みして言い放つと、彼は満足げに息を吐いた。
    『――ご明察です――』
     ゴッサム・リバーの川縁に降り立ち、下水道の出口へと歩みを進める。巨大なゴッサムシティの生活排水を一挙に流そうとすれば、下水道管は人一人が簡単に入ることが出来る程に大きくなる。同時に、地上で光を浴びることが難しい後ろ暗い者たちが住みかとするのには十分な大きさと言えた。鼻に刺すようなこの汚臭を耐えられるならば、という注釈が付くことになるが……。
     下水道管の中は勿論光源など無い。果てしない闇がどこまでも拡がっている。闇は意図も簡単に忍び寄り、身体を、心を蝕んでいく。
    ――まるで、現在の“ゴッサム”だ。
     ……そう、思った。
     目元のレンズを暗視モードに切り替えた。ユーティリティベルトは辛うじて下水に浸かってはいない。酷い臭いだ。だが、これらは日々我々が排泄したものなのだと考えれば、堪える他にない。歩みを進める、それ以外の選択肢は無い。
    『――着替えのスーツはご用意してあります――』
     アルフレッドが茶化すように言う。
    「……全く、“良く出来た執事”だ」
     皮肉を込めたつもりだったが『――その通りですな――』と一蹴された。
     10分ほど歩き続けたところで、ゴッサムシティの全域から流れる下水を集約する大きな空洞が眼前に広がった。空洞の大きさはハイスクールの校庭程度はあるだろうか。これ程の大きさがなければ、ゴッサムという大都市を支えることは出来ない。
    「……これで巨大鰐が居なかったら、君は何をしてくれる?」
     無線に軽口を叩いた途端だった。
     アルフレッドが応ずる間も無く、巨大な咆哮が空間を満たした。
     耳を劈くそれに顔を顰める。「全く、“良く出来た執事”だ!」
     咆哮の主が叫ぶ。「お前は誰だ!!」
    「“キラー・クロック”。お前の名は“キラー・クロック”で間違いないか?」
     声の主に問うが、聞く耳を持たない。「答えろ!!お前は誰だ!!」
     これ以上叫ばれるのは勘弁願いたかった。仕方なく応ずる。
    「私は“バットマン”。貴様の質問には答えた。次は私の質問に答えて貰おう」
     声の主が絶叫する。
    「そんな義理はねえ!!何をしに来た!此処は俺の住みかだ!!」
     鼻を刺す汚臭と劈く咆哮に、こちらの我慢は限界に近付いていた。暗視モードで周囲を見回す。奴の声は確かに此処に反響している。存在するならば、この眼に見えるはずだ。噂の衣を被った怪物を探している気分だ。
    「そんなはずはない。此処は“公共の”……下水道だ」
     私の言葉は空々しく響く。
    「“公共の”だと?聞こえの良い言い方をしやがって!此処はクソの溜まり場さ!俺や、俺のように上の世界では生きていけない者が行き着く公衆便所さ!」
     周囲を見回す。声の主が捕捉できない。どこだ?どこにいる?
    「我慢しなくていいぜ!そこでゆっくりクソでも垂れていろよ!――」
     とっさに背後を振り返る。
     捕捉した。奴は私の背後でゆっくりと下水から浮上する。
    「今なら見て見ぬ振りをしてやるよ。これからそのクソ溜まりに沈むことになる男をな」
     “キラー・クロック”。その名に恥じない姿だ。
     その顔付きは鰐のように厳めしく、人間のそれとはまったく異なる。目元は窪み大きな瞳が二つ、中心でギョロギョロと忙しなく動く。上半身は下半身に比べて異様に大きく、見事な逆三角形を形成している。その腕は私の身体ほどの太さがあるだろうか。指先には鉤の様な尖った爪が光っている。
     半獣半人とはまさにコイツのことを言うのだろう。
     ……鰐の様な人間なのか、人間の様な鰐なのか。どちらなのかはわからないが。
    「お前が此処をどう思っていようと一向に構わない。――質問に答えよう。私は“ある事件”の捜査のために来た」
     私の言葉を聞いて“キラー・クロック”が鼻で笑う。
    「フン!捜査だぁ!?マスクにタイツの変態野郎が捜査をしてくれるんなら、警察の厄介になる必要はねえな!」
     ……正直に言えば、この20年間で聞き飽きた文句だった。学の無い悪党に語彙は無いのだろう。いい加減に、この姿を見ても驚かなくなって欲しいものだ。しかし、私以上に異様な姿の男を前にしては、お互いに水掛け論だとも思った。
    「……幸いにも、彼ら警察とは良い関係を築くことが出来ている。それは貴様の心配するところではない」
     ゆっくりと“キラー・クロック”へと歩み寄る。奴はこちらの動きを具に観察している。どうやらこの暗闇の中、私を完全に捕捉しているようだ。とんでもない視力を有していることは想像に難くない。何しろ、どうやら奴は人間を超えた存在であるようなのだ。
     ……そうした存在にもいつの間にか慣れてしまっている己を、酷く忌まわしく思った。だが、事実として、カンザス生まれの“あの男”は地球人では無い上に、眼前に立つこの男も地球人然としていないのだから呆れたものだ。
    「今度こそ、こちらの質問に答えて貰おう。ここのところ、下水道から川へ、人間のものと思われる変死体が流れ着いている。人間の手足や頭だ。この件に、貴様は関わっているのか?」
     “キラー・クロック”が僅かに腰を低くした。奴は身構えている。
     ……怯えているのか?
     私は歩みを止めない。
    「さっきも言ったはずだ!答える義理はねえ!此処から出ていかねえってんなら、お前が言ったような肉片に変えてやるぞ!!」
    ――鰐男が動く。
     私はその予備動作を完全に捉えていた。
     大きな腕が私の頭を切り裂こうと宙を薙ぎ払うが、寸でのところでしゃがみ込んで回避する。人間の身体程もあろうかという大きな腕を踏み台にすると、“キラー・クロック”の顎に膝を当てた。
    「ぐうっ!やるじゃねえか……。これでも地下プロレスで名を売ってるんだがな」
     巨体が激しく動き回るが、上体に比べて小さな下半身が下水の中でもがいているようにしか見えなかった。もう一度顔面を殴ったところで、これまで黙り込んでいたアルフレッドが唐突に“喋り”出す。
    『――“キラー・クロック”の素性がわかりました。本名はウェイロン・ジョーンズ。先天的な難病で、DNAが極めて鰐に近いそうです。過去に学会に報告されています。母は10年前に他界、以後の消息は不明――』
     幸いにも、眼前のこの大男は“極めて鰐に近い人間”らしい。
     私は妙な安堵感を覚えて息を吐いた。
    「……なるほどな」
     私の言葉に、焦れたジョーンズが吠える「何が『なるほどな』だ!!」
    「挑発に乗りすぎだ。殴れば殴るほど動きが大振りになる。どうした?息が切れているぞ?」
     ジョーンズの頬を蹴り飛ばす。奴の動きは明らかに精彩を欠いている。
    「私は一度に複数人と闘う術を学んできた。流石に、七フィートを超える鰐と戦ったことはないが……」
     腕を振るうジョーンズの懐に入り込み、鳩尾にあたる部分に拳を捩じ込む。ジョーンズは呻き膝をつく。
    「何故、人間を喰らう!貴様が喰らった人々が、貴様に何をしたというんだ!」
     立ち上がろうとしたところで、足払いをする。ジョーンズの身体は無様に横に転がった。奴が着ているランニングシャツの胸ぐらを掴み、持ち上げる。
     私が、ジョーンズを見つめている。
     ジョーンズが、私を見つめている。
     その鰐の様な瞳には、既に戦意は無い。胸ぐらを掴む手を離すと、僅かに下がり距離を取った。しかし、その懸念はもはや必要が無いとも思った。
    「けっ……、何故喰らうか、だと?可笑しなことを訊きやがる。お前は、人間は、『牛や豚を何故喰らうか』と訊かれたらどう答えるんだ?」
     ジョーンズの答えは明快だった。それ故に空恐ろしく感じた。
     ……奴は、疾うに人間を辞めているのだと言っているに等しい。
    「俺を取り上げた医者は母親になんて言ったと思う?『先天性の疾患があります!非常に珍しい症例ですよ!学会に報告してもいいですか?』だ」
     ジョーンズは天を仰いだ。生憎、此処の空はグレーのコンクリートで塞がれている。ハイスクールの校庭ほどの広さしかない此処が、ジョーンズにとっての世界なのだと思った。
     “本当の世界は、想像よりも遥かに小さい”。
     奴は観念したようだった。
    「物心ついてから、母に言われ続けた言葉がある。『あなたは特別なのよ』。だが“特別な”俺を、母は決して外には出してくれなかった」
     ゆっくりとジョーンズに歩み寄る。ジョーンズはこちらに見向きもしない。奴は一人語りをし続ける。
    「『あなたは特別なのよ』、『あなたは特別なのよ』、『あなたは特別なのよ』。俺はそれが、祝福なんだと思っていた。……だがある時、ふと気が付いたんだ。その言葉は、呪いだと」
     ジョーンズの眼前に立つ。奴の瞳はコンクリートを見つめたまま動かない。正気を失っているように見えた。
    「俺が俺である根幹にはその呪いがある。『あなたは特別なのよ』。“特別”な俺は、人間にも、鰐にもなれない。――そのどちらでもないのが、この俺だ」
     無線を通じてアルフレッドが“喋る”。
    『――……母親は変死体として、自宅で発見されています――』
     息を呑んだ。
    「10年前に母親は他界したそうだが……、まさか――」
     ジョーンズが私を見る。その瞳には涙が浮かんでいた。ポツリ、ぽつりと雫が下水に落ちては胡散する。“鰐の空涙”。本来の意味ではこの涙は“嘘の涙”を指す。この涙は、いったいどちらか……。それを疑うことは、私には出来なかった。

     ジョーンズの肩に手を置く。その瞳に私が映る。奴が危害を加える気配など、もはや微塵も感じなかった。奴は項垂れていた。
    「約束しよう。私の出資者であるウェイン・コープなら、君の治療ができる。ただの人間に戻れるんだ」
     ジョーンズが私の手を振り払う。「やめてくれ!」
    「……ジョーンズ」
     もう一度肩に触れようとする私の手を掴み、自身の顔と私の顔を引き寄せる。その瞳に影が映る。
     そこにいるのは誰だ?
     ……私、なのか?
    「治ったとして、お前らは愛想よく笑いかけてくるんだろうな。すっかり安心しきってな。俺の顔を見て、『治った』だの、『直った』だの好き勝手なことを……」
     傷は深い。あまりにも深い。
     ……目を閉じて、耳を澄ませる。
     ――見た目に左右されるな!
    「『治る』んだろ、“バットマン”。“俺”を見ろ!」
     魂を見抜け……。
     あるがままを。
     ジョーンズが私に縋って懇願する。「見てくれよ……」
     私が、ジョーンズを見つめている。
     ジョーンズが、私を見つめている。
    ――“あの男”が喚き、最初の銃声が路地に響いた。吹き飛んだ空薬莢がカランと滑稽な音を立てた――
     私は見た……。
    ――宙空を舞い散る真珠の粒が、バラバラと地面を叩く。空薬莢がカランと滑稽な音を立てた――
     それは。
     それはまるで……。
    「見えたよ、ジョーンズ……。君の素顔が」

    The Man who Laughs

     私の顔を見て、ジェームズ・ゴードン市警本部長は酷く驚いた顔をした。
    「どうした、“バットマン”。そんな顔をして」
     マスクをしているのだから『そんな顔』も何もないはずだ。だが、20年来の友人は私の顔色を簡単に見抜いてしまうのだとも思った。気恥ずかしさはなかった。当然のことなのかもしれない。それだけの年月を、この男と共にゴッサムシティで闘ってきたのだ。
    「ジム、何もない。ウェイロン・ジョーンズは大人しく収容されたようだな」
     私が応じると、彼は顔を顰める。
    「それに酷い臭いだ。あいつと下水に入ったのか?シャワーを浴びた方がいい」
     私は口を真一文字に結んで見せる。彼は「んんっ」と咳払いを一つして真面目な表情を作った。彼と私は、今更冗談を交わし合う間柄では無い。言わば『戦友』であり『友人』ではない。それは、ジムが私との間柄を記者に質問された際の決まり文句でもあった。
    「……“奴”の様子を見たい」
     ジムは苦笑いを一つ零した。呆れたような、それでいて『仕方ないな』と諦めたような雰囲気だった。
    「此処に来る度にそれだな。やはり心配か?」
     アーカム・アサイラム。此処は精神病院だ。刑務所ではない。“キラー・クロック”=ウェイロン・ジョーンズの様に精神に重大な疾患を持ちながら罪を犯した者を、『治療』という名目で此処に安置する。体の良い収容所と言っていい。
     ジョーンズは先程、無事に収容した。だが此処には、最も懸念すべき人物も同様に収容されているのだ。
    「“ジョーカー”……。確かに“奴”は何度も此処を脱走しているが、警備はその度に拡充している。今度こそ、そう易々と脱走を許すつもりはないよ」
     彼が渋い顔をしていることに気が付いて、私は彼の顔を真摯に見つめ返した。
    「君たちの警備が万全だということは勿論理解している。だが、“奴”は常に私たちの予想の範疇を越えた行為に及ぶ。……念のためだよ、ジム」
     私の言葉に、彼は観念したように息を吐いた。「……ああ、そうだ。念のためだ」
    「一々私に断ってから面会しなくていいんだぞ?俺たちは『仲間』だ」
     彼の言葉には親しみが込められていた。しかしだからこそ、私はその距離間に躊躇してしまうのだ。彼ら警察官と、“私”という存在は全く違う。その決定的な違いが、彼らを“善”たらしめているのだから。
    「“親しき中にも礼儀あり”だ。……感謝するよ、ジム」
     彼は部下の一人に目配せすると、私の言葉に手を挙げて応じる。
    「“奴”にも『礼儀』ってものを教えてやってくれ」
     ジムに目配せをされた部下――トーマス・ハリソン警部補――は緊張した面持ちで私に握手を求める。
    「お会いできて光栄です。“バットマン”」
     私はその掌を見つめてから、ハリソン警部補の顔を見た。彼は察したのか、恥じたように腕を引いて「早速、ご案内します」と前を歩き出す。
     私は努めて穏やかな声を発した。
    「よろしく頼むよ。ハリソン警部補」
     警部補は、名を知られていることに驚いたようだった。その肩がビクリと跳ねる。
    「ジムが先ほど言っていたように私たちは『仲間』だ。皆の名前は把握している」
     『仲間』。思ってもいない言葉がするりと口を突いて出たことに、私自身が驚いていた。
    ――“思ってもいない言葉”?
     ハリソン警部補はその言葉に安堵した様で、肩の力が少し抜けた。
     ……本当のところを言えば、市警に勤める警察官らの名前から、年齢、家族構成など全てを把握しているのだが、それを包み隠さずに言うほど慇懃無礼なつもりはなかった。
    ――“慇懃無礼なつもりはなかった”?
     アーカム・アサイラム――エリザベス・アーカム触法精神障碍者病棟――は、元はただの精神病院だった。創設者たる医者のアマデウス・アーカム氏は、治療にあたった犯罪者に妻と娘を殺された。数年後、アーカム氏が治療中の事故に見せかけてその犯罪者を殺したことから、彼もまた患者として此処に収容され、その後に狂死している。そして現在は、彼の甥であるジェレマイア・アーカム氏が此処の責任者の座に就いている。
     ゴッサムの狂気の煉獄たるこの場所に触法精神障碍者が収容されるのは、何とも皮肉めいたものがある。此処はゴッサム市民にとって忌むべき場所であり、此処に収容される患者は恐るべき狂人たちだ。市民の多くは此処に立ち入ることを嫌うし、また立ち入るべきではないと思える空間と言えた。
     前を歩くハリソン警部補もまた、此処、アーカムの中を歩くことが落ち着かない様子だった。周囲をくまなく見まわしては、収容者と思われる者たちの姿にギクリと体を震わせている。
    「私が居る。今は『安心』していい」
     ゴッサムの『恐怖』の権化たる“私”がそのようなことを言う。これではまるで道化だ。警部補は私を振り返って頷く。「……え、ええ」
     警部補の顔色を見て、『安心』出来ていないのは一目瞭然だった。彼は、変声機を通して発した私の声にも驚いて見せていた。
     ロックの掛かった分厚い鉄の扉を一つ、また一つと潜り抜けると、“奴”の収容されている部屋に入るための、最後の分厚い鉄の扉が眼前に現れた。
     ハリソン警部補が私を振り返る。その顔色は、ジムに私の案内を頼まれた時のものとは打って変わって、青白いものに変わっていた。“奴”を恐れているゴッサム市民の顔に相違なかった。
     これ以上、彼の案内を受けるのは気の毒に思った。
    「此処から先は私一人で入る。君はここで待っていてくれ」
     警部補は、部屋に入らずに済んだことに安堵したような、しかし、此処に一人で取り残されることに心細いような、どこか所在無さげに私の顔を見て頷く。私は彼の肩に手を置いた。「此処を頼む」
     私の言葉に、彼は自身の職責を思い出したようだった。背筋を伸ばし、しゃんとする。その顔つきは頼もしい警官のそれに変わっている。私はそんなハリソン警部補に口角を一つ上げ、眼前の扉のロックを解除する。ガシャンッと重々しい音が鳴り響くと、ゆっくりと扉が開く。
     “奴”は鉄格子の向こうで、拘束衣を着せられて椅子に座っている。“奴”が私の姿を捉えた。その口元に笑みが広がる。

    「……バッツ。バッツ、バッツ、バッツィ。愛しのバッツィ。ご機嫌麗しゅう」
     “ジョーカー”は私が歩みを進める間も必死に口を開き続ける。
     ……まるで、言葉を発するということをたった今思い出した様な風情だった。
    「俺様はこの通り、椅子に座って大人しくお前さんを待っていたんだ。少しは口を開けよ、バッツィ」
     鉄格子を挟んで“奴”の眼前に立つ。“ジョーカー”は決して笑みを絶やさない。この20年間、“奴”は笑い続けている。
    ――ジェイソンを殺した“あの時”も。
    ――バーバラを撃った“あの時”も。
     “奴”は私に笑って見せた。
    「少しやつれたか?俺様もそうさ。意味不明なロールシャッハテストを受けさせられたんだ。あれで俺の何が解るっていうんだ?なあ、お前さんなら、俺様のことが解るだろう?」
     “ジョーカー”。ある晩に、突如として“ジョーカー”と称して私の前に現れたこの男を、しかしながら私は、ついぞ理解することが出来ずにいる。
     ……そうだろうか。
    ――本当に……、解らないのか?
    「定期面談にもそろそろ飽きてきたな。なあ……、俺を此処から出してくれよ」
     “ジョーカー”が軽口を叩く。“奴”を此処から外に出す?そんなことが許されるはずがないと、“奴”は解っているはずなのに。
     ……そうだろうか。
    ――本当に……、解っているのだろうか?
    「なあ、少しは口を訊いてくれても良いはずだ。俺様がこの独房に入って何年が経った?何カ月だ?」
     私はいつの間にか口を開いている「……まだ三日も経っていない」
     その声色を聞いて、“ジョーカー”はあからさまに色めき立った。拘束衣が破れんばかりに上体を動かして私に語り掛ける。
    「退屈過ぎて無限に感じるんだ。なあ、口を訊いてくれよ……」
     私は口を噤み、眼前の“男”を見つめる。
     “ジョーカー”が笑う。
    「だんまりか……。まあ、いいさ。観客の愛想が悪くっても、ピエロってのは道化を演じ続けるもんだ」
     その椅子に腰掛けているのは、ただの道化師ではない。
     私を仰いでくれた少年を殺した男。
     私の真の友人の娘を撃った男。
     “ジョーカー”と名乗る、狂った男。
     多くを語るには、“私たち”は闘っている時間が長過ぎた。
     だが、この男と戦い続ける事に疲れを覚えている己を自認していた。溜息を一つ吐く。
    「……“孤独な人間がよく笑う理由を、恐らく私は最もよく知っている。孤独な人間はあまりに深く苦しんだために、笑いを発明しなければならなかったのだ”」
     “奴”は首を擡げ、訝しげに問う。「それはお前さんの言葉か?もっと正直になろうぜ」
     私は唇を舐めた。喉が渇いている。
    「……これでいいのか?どんな不幸がお前の人生を狂わせたのか、それは知らない。だがもし、私がその場にいれば、お前の力になれたかもしれない。――お前の助けに」
     私の口は滑らかに言葉を発する。
    ――まるでそうすることが、何でもない、自然なことであるかの様に。
    ――まるでそうすることで、自分自身を弁護するかの様に。
    「お前の回復を手伝い、力を合わせて一緒に働けたかもしれないんだ。だからもう、自分を追い詰めるな。苦しみを一人で背負い込むな――我々が殺し合う必要などない」
     “ジョーカー”はと言えば、漸く口を閉じて私の言葉に耳を傾けている。結局、どれだけ調べたところで、本名が解ることはなかった。本性が解ることはなかった。
     ……そうだろうか。
    ――本当に……、解らなかったのか?
    「……どうなんだ?」
     “ジョーカー”は初めて――この20年間で初めて――悲しげに眉を寄せた。
    「すまねえけど……。ダメだ。遅いよ。遅すぎるぜ……」
     “奴”の赤い口元が歪む。しかしそれは、笑っているのではない。“奴”は心の底から悲しんでいるのだと解った。
     ……そうだろうか。
    ――本当に……、解ったのか?
    「なあ……、一つ、ジョークを聴いてくれよ」
     私は、“ジョーカー”を見つめている。
     “ジョーカー”も、私を見つめている。
    「とある精神病院に二人の男が居た。ある晩、二人は、もうこんな場所にはいられないと腹をくくった。――脱走することにしたんだ」
     私は“奴”を傷つけたくない。
     “我々”の関係を殺し合いで終わらせたくはなかった。
    「それで屋上に登ってみると、狭い隙間の向こうが隣の建物で、さらに向こうには、月光に照らされた夜の街が広がっていた――自由の世界だ!」
     だが、既に選択の余地は無くなりつつある。
     お互いに解っているはずだ。
     ……そうだろうか。
    ――本当に……、解っているのか?
    「……で、最初の奴は難なく跳んで、隣の建物に移った。だがもう一人の奴はどうしても跳べなかった。そうとも、落ちるのが怖かったんだ」
     恐らく、今夜が最後のチャンスだろう。
     今夜で全てを変えられるかもしれない。
     20年間変わらずに続いてきた関係を、変えることが出来るかもしれないのだ。
    「その時、最初の奴が閃いた。奴ぁ言った。“おい!俺は懐中電灯を持ってる!この光で橋を架けてやるから、歩いて渡って来い!”」
     もしも“奴”が拒めば、我々はこのまま破滅への道をひた走ることになる。
    「だが、二人目の奴ぁ首を横に振って怒鳴り返した。“てめえ、俺がイカレてるとでも思ってんのか!”」
     “ジョーカー”は笑顔で言う。
    「“どうせ、途中でスイッチ切っちまうつもりだろ!”」
     ……“私たち”は、本当に解り合うことができるのだろうか。
    「HAHAHAHA!す……、すまねえ……。HAHAHA!」
     私は口を開いた。漸く発した言葉は、少し掠れた。
    「……“人は何を笑いの対象にするかで、その人の人格が解る”」
     “奴”は首を横に振る。「……おいおい、いい加減にしてくれ。哲学の授業はうんざりだ」
    「……なあ、バッツ。今頃ゴッサムで馬鹿みたいに平和ボケしている奴らが俺様を“悪”として、お前や警察の奴らを“善”とする根拠は何だと思う?」
     私は即座に応じた。「私は“善”ではない」
     “ジョーカー”も即座に応じる。「“善”なんだ」
    「……そうでないと困るんだ。“俺たちゃ”合わせ鏡なんだよ。光と影だ。影と光か?この際、どちらが“善”でどちらが“悪”かだなんて、どうだっていいんだ」
     “奴”は笑う。だが、これ程悲しげに笑う人間は、いない。
    「“俺たちゃ”、互いに存在しないと存在しえないのさ。例えば、お前さんのグラップルガンを拳銃に持ち替えて、俺様のこめかみに向ける。BAN!――どうだ!そうすりゃ全て丸く収まる!」
     私は首を横に振る。
    「……私は、お前を決して殺さない」
     “奴”が声を上げて笑う。「HAHAHA!」
    「そうだ!お前さんにゃ出来ない!何故かって?――存在意義が無くなるからだ」
     言葉は口をついて出る。「“私”の存在意義が?」
    「……そうさ。例えば、ゴッサム中の悪人どもが明日、急に宗旨替えして善行ばかりするようになったとする――万々歳だ!これ以上のことはねえ!」
     “奴”が首を傾げる。
    「だがお前はどうする?“バットマン”は?急にゴッサムの一市民に戻れるのか?」
     “私”は……。
     “バットマン”は……。
     “ブルース・ウェイン”は……。
     『戻る』ことが出来るのだろうか……。
     『戻る』?
    ――“何”に『戻る』んだ?
    「俺ぁごめんだ!お前が居なくなり、俺ぁケチな道化師に戻る?考えたくもない!それは俺様じゃあない!俺様は“ジョーカー”だ!」
     “ジョーカー”が懇願する。「馬鹿な事を言うのは止めてくれ!」
    ――“あの男”が喚き、最初の銃声が路地に響いた。吹き飛んだ空薬莢がカランと滑稽な音を立てた――
    「“お前”は誰だ?」
    ――“私”は誰だ?
    ――本当に……、解らないのか?
    「解らないのか?HAHAHA!傑作だ!冗談だろう?どうやら一生の付き合いになるようだぜ!俺様とお前さんの我慢比べだ!どちらかが死ぬまでな!」
     “ジョーカー”は心底可笑しいという様に笑い転げている。椅子がガタガタと揺れる。狭い室内でそれらが反響する。私の脳みそが揺さぶられる。
    ――宙空を舞い散る真珠の粒が、バラバラと地面を叩く。空薬莢がカランと滑稽な音を立てた――
     “私”は、“ジョーカー”を見つめている。
     “ジョーカー”も、“私”を見つめている。
    ――“私”は本当に……、解らないのか?

    The Hero in the Soul

    『――少女はアパートメントの二階、向かって左側の角部屋に軟禁されているようです。現在……男は、アパートメントの斜め向かいのコンビニエンスストアで食料品を購入している模様です。……ブルース様が波風立てずに彼女を奪還するつもりであるのでしたら、今が好機かと――』
     物心がついてから40年以上の付き合いになる友人たるアルフレッドは、既に気が付いている。今の私は平静ではない。“波風を立てずに彼女を奪還する”。そうして、寝床に帰ってきた男を縛り上げ、警察に突き出す。……そうだ。それだけでいいはずだ。
     だが、事態はそう上手くは運ばないものだ。
     少女が軟禁されていると目されるアパートメント内に銃声が響く。サイレンサーすら使用しない不用心な銃声は、外で監視している私の耳にも届くほどのものだった。
     あの男が根城として使用している部屋のリビングには大きなガラスが嵌め込まれ、ゴッサムの夜景を眺望するのに適している。しかしそれは、私のような不躾な隣人が室内を覗くことにも適しているということでもあった。
     目元を覆うレンズを暗視モードに変更する。廊下のチカチカとした明かりを背に、一人の老人が室内に入ってくる。どうやら先ほどの銃声は、あの老人がドアの鍵を破壊するために撃ったものなのだと合点した。
     老人はリビングにあたる部屋までズカズカと踏み込むと、怯える少女を見つけた。何事かを話している。ここからでは聞き取ることは出来ない。口元を読み取ることも出来ない。老人が少女に近付こうと足を踏み出した。少女が後退る。
     介入するべきか?
     いいや、あの老人は違う。
     何が違う?
     悪行を働く者どもと、あの老人は何が違う?
     何かが、違う。
    ――大きく、違う。
     根拠のない安心感を抱いて、私はじっと二人を見つめた。
     そうすべきだと思った。
     老人は、自らが着ていたコートを脱ぐと、素早く、半裸で怯える少女の肩に掛けた。そうして、ゆっくりと少女に語り掛ける。老人の口元が見える。今度は何を言っているのか、はっきりと読み取ることができた。
     『大丈夫だ。……大丈夫だ』
     老人は、少女を安心させる様に、まだこの世に神が存在することを示すかの様に、彼女の背をそっと、遠慮がちに撫ぜる。
    ――不意に、記憶がフラッシュバックする。
     右手に持った拳銃の銃口が街頭に光る。
     銃口を父へ向ける“あの男”。
     父は“あの男”を、或は私や母を安心させるように言う――『大丈夫だ。……大丈夫だ』
     父が札を出そうと胸ポケットに手を差し込む。
     “あの男”が喚き、最初の銃声が路地に響いた。
     吹き飛んだ空薬莢がカランと滑稽な音を立てた。
     私はそれを見つめている。
     私の傍らには、父が倒れていた。
     母が絶叫し、“あの男”に掴みかかる。
     もう一度、銃声。
     母の首元を美しく飾っていた真珠のネックレスが宙空に散る。――出掛ける直前、父はネックレスを見て言った。『……綺麗だ』と。
     父の言葉に、母が“まるでデートに誘われたティーンエイジャーの少女のように”悪戯っぽく笑って応える。『私は?』と。
     二人がクスクスと笑い合う。そんな二人を、私も笑って見つめている。――宙空を舞い散る真珠の粒が、バラバラと地面を叩く。
     吹き飛んだ空薬莢がカランと滑稽な音を立てた。
     私はそれを見つめている。
     私の傍らには、母が倒れている。
     私は、“あの男”を見つめている。
     “あの男”も、私を見つめている。
     ……気が付くと、GCPDのロゴが張られたパトロールカーが眼前にあった。
     私の視界はぼやけていた。
     何も見えなかった。わからなかった。
     誰かが私の肩に何かを掛ける。自身の肩を見る。男性物のコートだと分かった。
    『私が誰だかわかるか?』
     声が聞こえ、そちらに向き直る。男性がしゃがみ込み。私の視線の高さに二つの目がついている。男性の声にも、顔にも、見覚えがあった。
    『ゴッサム市警、ジェームズ・ゴードン警部補。父さんが“信頼できる”って言ってた人だ』
     私が答えると、ジムは悲痛な面持ちで目を瞑った。
    『……そうだ。ブルース』
     ジムは私を抱き寄せ、その固い胸に抱く。
     不思議と、私は安心していた。
     安心したと同時に、堰を切ったように感情が溢れ出した。
     眼から、鼻から、みっともなく液体が噴き出す。
     私を抱き寄せる力が、グッと強くなる。
     彼は言った。
    『大丈夫だ。……大丈夫だ』
    ――『――ブルース様。……ブルース様。――』
     アルフレッドが私を呼ぶ声が耳朶を打つ。少女の背を撫ぜる老人がリビングの入り口を見つめていた。男が、奴が根城としている部屋に戻ってきている。老人が男へ向けて拳銃を構える。その手は震えている。無理もないことだと思った。奴の身長は、優に六フィートはある。
     男が言う。『なんのつもりだ……じいさん』
     老人が何事かを応える。ここからでは口元を読み取ることはできない。男が押し黙る。少女も、老人も押し黙っている。室内に音を発するものは何もない。奴が足を上げた。老人が拳銃の引き金に指を掛け、何事かを喚いた。
    ――“あの男”が喚き、最初の銃声が路地に響いた。吹き飛んだ空薬莢がカランと滑稽な音を立てた――
     無心に壁を蹴った。リビング一面を覆う窓ガラスに突き当たる。
     邪魔だ!!
     あの老人は違う!
     何が違う?
     悪行を働く者どもと、あの老人は何が違う?
     何かが、違う。
    ――大きく、違う!
     ガラスを突き破り、男に向けて突進した。奴は虚を突かれた様子で無防備だ。脛を拳で撃つと膝を着く。顎に掌底を放つ。その身体が僅かに宙に浮く。私は男を背に担ぎ、眼前にあったテーブルへと叩きつけた。テーブルが真っ二つに割れる。そして、奴は動かなくなった。
    「し……死んじまったのか?」
     不意に老人が言葉を発した。これまで息を殺していたようだった。彼は拳銃の引き金を引くことはしなかった。止めることが出来た。それだけのことで、私は何故か安堵していた。
     私が彼を振り返ると、彼の胸に抱かれた少女の肩がビクリと跳ねる。……そうだ。私は『恐怖』の権化なのだ。わかっていたはずだった。これまでの20年間、疑問を抱いたことはなかったはずだ。
    「……殺してはいない。気を失っているだけだ」
     そっと応じる。変声機を通して発した声に、今度は老人の肩がぎくりと動いた。老人が少女を胸の内にグッと抱き寄せる。少女も、老人に強く縋りついていた。この二人の前に私が居てはならないと思った。これ以上に二人を怯えさせる必要はない。今夜の出来事は、十二分にこの二人の肝を冷やしたはずなのだ。
     『恐怖』はここに居てはならない。何よりもこの二人に必要なものは『安心』のはずだ。
    「あんたが、……“バットマン”なのか?」
     老人がおずおずと私に尋ねる。
    「……そうだ」
     そう名乗り、そう呼ばれている。否定する理由はなかった。
     ……そうだろうか。
    ――本当に……、解っているのか?
     老人の言葉に応じつつ、自身が破ったガラス片を踏みしめながら窓際に立つ。音を発するもののないこの部屋は、まるで時間が止まってしまったかのように静まり返っている。隣室から、テレビモニターの“声”がこの部屋にも響いて聴こえる。
    『――“バットマン”は“善”か“悪”か。議論はつかないでしょう――』
     そっと息を吐いた。“私”という存在を善悪の二元論に集約するのであるならば、間違うことなく“悪”だ。『恐怖』とは、“善”たらしめない存在だ。己を侵略し、支配しようと迫り来る。それが『恐怖』だ。私はその力を利用して市民を『恐怖』に陥れている。その行為は、“悪”に他ならない。
     しかし、私の思考に反して老人が静かに言う。
    「あんたは“ヒーロー”だ。……少なくとも、俺たちにとっては」
     何を言うのか、そう思った。言葉は口をついて出た。
    「私は“ヒーロー”ではない。“バットマン”だ」
     ……そうだろうか?
    ――本当に……、解っているのか?
     『恐怖』の権化は、決して“ヒーロー”ではない。
     “ヒーロー”であるべきではない。
     それはあくまでも『恐怖』でしかない。
     “悪”でしかない。
     ……そうだ。
    ――“バットマン”は、“悪”でしかない。
     それに引き換え――
    「その少女にとっては、あなたが“ヒーロー”だ――」
     老人は私とやりとりをしている間も、絶えず少女の背を撫ぜている。少女は、安心しきったように老人の胸に抱かれている。
    ――ジムは私を抱き寄せ、その固い胸に抱く。不思議と、私は安心していた――
    「――あなたのような人が、まだこの街にいてくれて良かった」
     言葉は、心の底から溢れ出た。この街で活動を始めてからというもの、善人が悪人になることは多かったが、その反対は全くと言っていいほど無かった。最初こそ、志を抱いて活動を始めた私だったが、終ぞ、私自身はこの活動に意味を見出すことが出来ずにいる。しかし、彼という老人は、ゴッサムシティの市民の良心そのものだと思った。
     ……それで十分だった。
     グラップルガンを空へと向け、引き金を引く。勢いよく射出されたそれは天高く跳ね上がり、そして隣の建物の屋根のどこかに噛んだ。ボタンを押すとワイヤーが勢いよく巻き戻される。私の身体が宙空に飛び上がる。
    『――ブルース様。ゴッサム市警へ通報しました。間もなくそちらに到着するはずです――』
     “よく出来た執事”だ。私の思考を先取りして、彼は、あの二人に『安心』を提供しようとしている。
     ……それは、“悪”でしかない“私”には行うことが許されない、崇高な……行為だ。
    「……ありがとう。アルフレッド」
     彼に対して珍しく礼を言うと、皮肉屋な執事が戸惑ったように咳払いを一つした。
    『――ブルース様。長い夜でしたが、今夜はもう大きな事件は起きないはずです。お戻りになっても宜しいのでは?――』
     アルフレッドが、珍しく私を気遣うように言葉を吐く。その小さな優しさが、今はとても心地良かった。
     ……それで十分だった。
     電線を掴んでそっとその上に乗る。電線の中を走る大量の電流はスーツの上を走り、決して私の肌は焼かない。宛ら、私は電線にぶら下がる蝙蝠だ。ウェイン・コープのCEOたるルーシャス・フォックスの技巧の賜物だ。
    「そうだな――」と応じようとした刹那だった。不意に、背後から声を掛けられた。
    「……蝙蝠にしては、大きいわね」
     私は素早く背後を振り返る。アパートメントの窓の一つが開け放たれている。少女が一人、窓の淵に手を掛けて私を仰ぎ見ていた。少女は黒縁の眼鏡を掛け、ボーイッシュに前髪を横に流している。如何にもティーンエイジャーといった雰囲気の少女が無邪気に言う。
    「あなたが、“バットマン”なの?」
     一晩の内にそう何度も同じ問いかけをされることは稀だ。普段であれば音もなく悪人どもに忍び寄り、声を上げる間もなく叩きのめしている。やはり、今夜は潮時だと思った。明らかに精彩を欠いた行動だ。……よもや、少女に見つかるとは。
     少女の問いを否定する理由はなかった。だが応える理由もなかった。私は口を噤んだ。
     ……そうだろうか。
    ――答えるのが、怖かっただけじゃないのか?
    ――答えられないことが、怖かっただけじゃないのか?
    ――本当に……、解っているのか?

    「ふ~ん」
     少女は意味有り気に微笑み「そうだわ!」と突然閃いたかのように口を開く。
    「私、“ヒーロー”に憧れているの」
     「ふふふ」と何か可笑しいのか笑いつつ、少女は続ける。
    「どうすれば、あなたのような“ヒーロー”になれるの?」
     うんざりした。身体はクタクタだ。早くベッドに全身を投げ出したかった。皮肉屋な執事が珍しく気遣ってくれたことが幸いしたのか、私はとんでもなくお転婆な少女に見つかってしまったようだ。
    「……私は“ヒーロー”ではない」
     日に何度、同じ問答をすればいいのか。先ほど老人に応えた文言で静かに応じると、少女が矢継ぎ早に口を開く。窓から身を乗り出し、今にも落ちそうで危なっかしい。
    「じゃあ、あなたは“何”なの?一体、“何”のために行動してるの?」
     私は答えに窮した。
     私は“何”なのか。
     “何”のために行動しているのか。
     それは、私が自問し続けているものに他ならなかったからだ。
     押し黙る私を見て、少女が眉の間に皺を寄せる。
    「確かに、テレビ局や新聞社はあなたのことを好き勝手に書き立てているわ。でも、あなたは無視すべきよ」
     少女が唾を飛ばしながら熱弁する。
    「あなたの活動にとって、彼らの批評なんて意味をなさないわ。だって――」
     そしてとても小さな声で、恥ずかしそうに頬を染めて続ける。
    「……とっても、崇高な……行為だもの」
     いつの間にかずり落ちていた眼鏡を持ち上げ、「そうでしょう?」と少女が問う。彼女の可愛らしい仕草に頬が緩む。しかし私は、少女の言葉に同意することも出来なければ、二の句も告げられずにいる。
     そんな私に痺れを切らしたように、少女が再び口を開く。
    「“我々に関する他人の悪評は、しばしば本当は我々に当てられているのではなく、全く別の理由から出る腹立ちや不機嫌の表明なのである”」
     得意満面に言う彼女の言葉は、しかし彼女自身の言葉ではない。
    「フリードリヒ・ニーチェだ。読書が好きなのか?」
     漸く言葉を発した私に、嬉しそうに少女が頷く。
    「生まれてばかりの私が病気に罹ってしまったみたいで、以来、母さんがあまり外に出してくれないの。本当は外に出て走り回りたいんだけど……。でも、ゴッサム中央図書館に行くことは認めてくれているから、あそこの本ならほとんどは読み終えたわ!」
     声変わりもまだしていない少女が表情をくるくる変えて喋り続ける様が、小鳥が囀っているようで可愛らしい。加えて、中央図書館の蔵書の殆どを読み終えているとは……。
    「……私は二年半掛かったよ」
     ついつい心が許してしまったのか。私はそう口にしていた。すぐさま口を真一文字に結ぶ。プライベートな出来事を口にするなど、あってはならないことだ。どういう訳か、気が緩んでしまっている。そうさせる雰囲気を、この少女は振り撒いているのかもしれない。
     私の言葉に、少女が驚いた表情で仰ぎ見る。
    「私は三年半掛かったわ!」
     この少女のペースに乗せられている。手薬煉引いている姿が目に浮かぶようで馬鹿らしかったが、今は彼女の思うままに乗せられても良いとも考えている己に気が付いていた。彼女とのやり取りには、言い知れぬ心地良さがあった。
    「……素晴らしいことだ。知識を得ることが無駄になることはない。“己が無知であることを知る”ことが出来るからだ」
    「ソクラテスでしょう?知ってるわ!」少女が身を乗り出す。
    「ねえ……、いい加減に誤魔化さないで答えて」
     その表情は、とても真剣なものに見えた。
    「どうすれば、あなたのような“ヒーロー”になれるの?」
     ……観念すべきなのだと思った。
     ここまで、彼女の掌の上で転がされている振りをし続けていたツケが回ってきたのだ。私は真摯に、彼女に向き合わなければならない。
     努めて慎重に、私は言葉を選ぶ。
    「先ほども言ったが、私は“ヒーロー”ではない」
     「それはさっきも聞いたわ」と少女が頬を膨らませる。
    「視点の違いだ。私は、私自身を決して“ヒーロー”として規定していない。だが……時々、君のように勘違いした人間は、私を“ヒーロー”と規定する」
     憤慨したように少女は言う。
    「勘違いなんてしていないわ!あなたは“ヒーロー”そのものよ!」
     私は興奮した少女を宥める様に、そっと、息を吐いた。
    「いいか?私は“ヒーロー”ではない。だが、誰でも“ヒーロー”になることが出来る――」
     少女は口を噤んだ。聡い娘だと思った。
    「――傷ついた少女の肩に上着を掛け、まだこの世界に神様がいることを教えてあげるだけでいい」
     少女は静かに問う。まるで囁くかのように……。
    「……それだけ?それだけで“ヒーロー”になれるの?」
     私は大きく頷いた。
    「それだけで十分だ。私にとっては、それこそが“ヒーロー”だ」
     ……そうだ。
     ……それだけで十分だったんだ。
     少女は視線を下げ、深く思考しているようだった。この言葉の意味するところを、より自身に理解し易いように咀嚼しているに違いなかった。本当に聡い娘だ。私はその手助けをすべきだと自認した。
    「“君の魂の中にいる英雄を諦めてはならない”」
     少女が反射的に言う。
    「――フリードリヒ・ニーチェ……」
     小さく頷く。
     私はこの少女に語り掛けることによって、この20年もの間、自らに問い続けてきた難題への答えを導き出そうとしている。
     私は、少女が理解し易いように、ゆっくりと、極力噛み砕いて、言葉を紡ぐ。
     ……そっと。
     吐息を漏らすかのように。
    「人間は可能性に満ちている。私も。そして君も。この可能性を諦めるか、諦めずにいられるかは己次第だ」
     少女は頷く。
     私も頷いている。
    「そして……もしも。もしも君が、“君の魂の中にいる英雄を諦めず”にいることが出来たなら、君の可能性は、きっと君を“ヒーロー”にしてくれるだろう」
     少女は首を傾げた。
    「つまり……どういうこと?」
     私はと言えば、ついつい微笑んでしまっていた。
     ケープを広げ、グラップルガンを頭上へと掲げる。
     彼女のお陰だ。答えは出た。長居する理由はもはや無くなった。
    「君なら、いずれわかることだろう」
     引き金を引くと、鉤爪が上空へと発射される。少女の住まう建物の屋根のどこかに噛んだ。後はワイヤーを巻き取るだけでいい。
     しかし、そうだ――
    「……君の名を聞いていなかったな」
     少女は私の所作をボーっと見つめていたかと思えば、はっとして、挑戦的に眼鏡を持ち上げて口を開く。
    「私はキャリー。キャリー・ケリー。」
     そして言う。
    「あなたは?」
     私は応じる。「私は“バットマン”」
     ……そうだ。
     “私”は、“バットマン”。
    「君はいつか、この家という鳥籠から大きく羽ばたくことだろう」
     キャリーは無邪気に口を開く。
    「だとすれば、あなたと共にゴッサムの夜空を飛んでみたいわ!」
     グラップルガンのボタンを押す。
     瞬時にワイヤーが巻き取られ、私が上空へと飛翔する。
    「君が、“魂の中にいる英雄を諦めなければ”!」
     背中の装置から電流が流れ、ケープが翼を形成する。私の身体が上昇気流に乗り、空高くへと舞い上がっていく。キャリーが眼下で叫ぶ。
    「私は決して諦めないわ!」
     ケープを翻し、夜空を滑空する。100万ドルの夜景とも評されるゴッサムの美しい街並みが流れては消えていく。この光は“未来”だ。この街はいつか、生まれ変わることが出来るだろう。キャリーのような少女が、このゴッサムシティには何万人もいる。その魂の中にいる英雄を、決して諦めさせてはならない。
    「……アルフレッド」
     無線に問いかけると、これまで押し黙っていた“良く出来た執事”は漸く口火を切った。
    『――金融街で銀行強盗が一件、ペンギンの配下の者が関わっている虞があります。加えて、アーカム・アサイラム周辺でハーレイ・クインが目撃されたとGCPDに情報が入っています。……全く、悪人ども程よく働きますな――』
     視線を上げると、ゴッサムの夜空に“シグナル”が輝いている。その根元には、ゴッサム市警本部の屋上がある。ジムが私を呼んでいる。
    「……今夜も眠ることはできない。明日の会食はキャンセルしてくれ」
     私の言葉に、アルフレッドは吐き捨てるように言った。
    「――既にキャンセルしました――」
     全く、“良く出来た執事”だ。
     この街で自警活動を始めて20年の月日が経とうとしている。
     “あの日”。私の“父と母が亡くなった日”に、父と母を撃った“あの男”を見て己に誓ったのだ。“目には目を、歯には歯を”。ゴッサムの市民を『恐怖』に陥れ、夜な夜な跳梁跋扈する悪人どもを、同じように『恐怖』で竦ませる。
     “バットマン”という存在は『恐怖』の権化だ。
     『恐怖』が街を支配すれば、いずれその『恐怖』と闘うべく、自ら立ち上がる者が現れるはずだ。
    ――その人物こそが、真に“ヒーロー”と呼ばれることだろう。
     その日まで、“バットマン”として闘い続けよう。
     この街に蔓延る“悪”と。
     己自身に忍び寄る“悪”と。
     私の魂の中にいる英雄を、諦めないように……。


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  • BATMAN : Beyond Good and Evil

    2019-01-13 16:31

    BATMAN : The Dark Knight Returnsの偉大なる著者フランク・ミラー氏、クラウス・ジャンセン氏、リン・ヴァーリイ氏、
    そして翻訳をされた石川裕人氏、秋友克也氏に最大の敬意を込めて。

    表紙のイラストも描いています。

    ―――――――――――――――――――――――――――――――――
    BATMAN:Beyond Good and Evil

    「痛っ……」
     薄汚れ、今では黄ばんでしまった陶器の洗面台に鮮血がポツリと落ちた。鏡の向こうの俺が顰め面をして頬を撫ぜる。細い傷跡に血が滲んでいた。シャワーを浴びたついでに明かりもつけずに髭を剃ろうとしたことが、そもそもの間違いだったのだ。
    「――クソっ」
     使い捨てのシェーバーをゴミ箱に投げ捨て、ハンドタオルで傷口を押さえながら洗面所を出る。リビング――と呼ぶべき部屋――に足を踏み入れる。足元にはピザの箱や紙袋といったゴミ屑が散らかっている。昔は片づけるように努めていたものだが、いつからかこの有様だった。
     ガタガタと隣の部屋から物音がする。微かに女の声が聞こえた。隣の部屋を出入りしているのはゴリラのような図体の大男だったか。一度階段で出くわしたことがあるが、白髪交じりのジジイには興味がないという風情で挨拶も碌にしなかった。猿のように盛るのは結構だが、静かに行為に及ぶ知性すらないらしい。
    「うるせえ!」
     壁を拳でドンッと叩く。ガタガタとした音は、それっきり聞こえなくなった。
     屑を掻き分けてソファを探す。目的の場所は大きな段ボール箱に隠れて見えづらくなっていたが、確かにそこにあった。街を一望できる大ガラスの手前、自分にとって最高と思える位置に置いたと思っていた時代はとうに過ぎ去ったが、自分の体重よりも重いこのソファを動かすことが億劫になって、結局そのまま取り残されている。
    「ああ……ふう」
     ゆっくりとソファに腰掛ける。いつの間にか、立ち上がる時にも座り込むときにも吐息が漏れるようになった。多くの時間が過ぎた。それが己にとって大切な記憶だったかというと、些かもそんな感慨はなかった。だから忘れた。忘れたふりをして、こうしてゴミ屑の頂点に座って、ゴミ屑としてただ生きながらえているのだ。
     眼前には大昔に買ったテレビモニターがある。
     『ここに置けば、ソファに座りながら二人で観られるじゃない?』――そう笑っていた彼女は、病室のベッドの上で最期を迎える瞬間にも俺に微笑んで言った。『――笑って』と。
     何故、笑わなければならないのかわからなかった。笑えるはずがなかった。彼女が俺を見て微笑んでいることが信じられずに、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして無様に縋った。「生きてほしい」「死なないでくれ」と叫んだ。彼女は微笑んだまま何も言わなかった。
     彼女の心音が止まったことを知らせるアラートが滑稽に鳴り響き、医者が何事かを俺に言っていたのはわかったが、何も聞こえなかった。彼女の微笑みだけがそこにあった。脳裏にこびりついて離れないのは、最期の言葉だけだった。
     傍らに置いてあるテーブルの上の屑を掻き分けて端末を探す。幸いにも、それはすぐ手元にあった。眼前のモニターに向けて電源を入れる。部屋がこの有様でも、日本製のそれは美しい映像を観させてくれる。
     映し出されたのは、GCTVのニュース番組だ。
    『――行方不明になっているこの少女は、現在14歳で――』
    「クソッタレが」
     吐き捨てて端末を操作し、チャンネルを変える。野良犬の糞のような出来事しか起きないこの街では、毎日のようにこんな報道が新聞やテレビを通して伝えられる。誘拐、強盗、殺人や傷害に交通事故、その日によってラインナップは変わるが、何も起きない日などない。この街は腐れ切っている。そして、この街に住み続けているこの俺も腐れ切っているのだ。
     頭を横に傾けて窓の外を見た。けばけばしいネオンが彩る通りが眼下に広がっている。真夜中の今は人っ子一人見つけられない。当然だ。この街に来た人間が真っ先に教えられることがある。『この街では、ハイスクールの学生も、パートのババアも、金融街の商社マンも関係がない。夜になれば家に帰り、戸に鍵をかけろ。窓に鍵をかけろ。生きるために』と。
     時々何か勘違いした人間が夜中に出歩き、そして事件に巻き込まれる。もしもそれを目撃してしまっても、割って入るべきではない。見なかったことにして、忘れたことにして、自分の家に帰って戸に鍵をかけ、窓に鍵をかけてベッドに入り、必死に目を瞑って夜が明けることを祈る。それが、この街で生きていくと決めた、或はこの街から出られない人間たちに課されたルールだ。
    『――ニューマン予選は劇的な結末を迎えました。激しく横転しながらゴールラインを越えたフェリス6000の姿に、誰もがブルース・ウェインの死を覚悟しましたが……――』
     ブルース・ウェイン。この男は、この街で成功しているいくつかの家系に名を連ねるウェイン家の末子だ。子供は持っていないと聞く。ウェインコープの会長として、この街の施設や福祉の整備を市と共同して行っている、ただの酔狂な野郎だ。どうやらこの男は信じちまっているらしい。この街がいつか生まれ変わることを。悪人が善人になることを。
     そんな男が、どうやらカーレースに参加して事故を起こしたらしいが――
    『――かの億万長者は、ぎりぎりのところで燃え盛る車から脱出し、軽い火傷を負っただけで奇跡の生還を果たしたのです――』
     この男も、結局は死ぬことができなかったようだ。この街で生きている人間は、果たして生きていることが幸福なのだろうか、死ぬことが幸福なのだろうか。もしも死ぬことの方が、生きていくよりも幸福なのだとしたら。……だから彼女は、あの瞬間に俺に向かって微笑んでいたのだろうか。俺に幸福を齎してくれた彼女に、俺は幸福を与えられていたのだろうか。
     ふと、窓ガラスの向こうに微かな明かりが灯った。俺はなにとなく“それ”を目で追っていた。ゴッサムシティを覆う暗雲に蝙蝠の“シンボル”が映し出されている。
     そう、酔狂な男はブルース・ウェインだけではない。“バットマン”と渾名される男が現れてから20年以上の月日が流れた。奴はあの“シグナル”が夜空に照らし出されると、夜毎に悪人たちに私刑を下す。確かに奴の出現前と比べると小物の悪人たちは怯え、竦み、悪さをする頻度が少なくなっているように感じることがある。しかし、より凶悪な男たちは競うように悪行を行うようにもなった。
     さらには、あのピエロのような化粧の男が――考えるだけでもゾッとして、“シグナル”から目を背けてテレビモニターを観た。モニターには討論番組のようなものが映し出されている。
    『――ラナ、そう興奮しないで。“彼”という存在が示唆しているのは常軌を逸した病める精神の暴走の結果なのだよ。その結果……モラルは地に堕ち、政治不信はさらに深まり、人心は乱れるばかりだ……――』
     禿げ頭に痩せこけた面の男がつらつらと小難しい言葉を並べ、目の前に座る“ラナ”と呼ばれた太った女に語り掛けている。女は負けじと反論する。
    『――それでも、彼が戦ってきた相手の方がもっと危険なはずよ。そうでしょ?例えば、あの男、“ジョーカー”……――』
     つい今しがた思考の外に追いやったはずの男の名がスピーカーを通して聞かれ、顔を顰めた。この街に住む人間にとって“奴”は畏怖の象徴だ。その名を呼ぶことすら躊躇われる。
     “奴”は幾度も“バットマン”と対峙し捕らえられるが、お偉いさん方が頭を捻って捏ねくり出した法律によると、“奴”は精神に疾患があるために罰することができないらしい。そのためにアーカムアサイラムと呼ばれる精神病院に収監されるが、その度に見事にアーカムから脱走して見せる。恐るべき狂人だ。
     モニターに映る禿げた男が口を開く。
    『――待ってくれ、ラナ。“ジョーカー”は運命に翻弄された哀れな人物なのだよ。比べるのは筋違いだ――』
     太った女が唾を飛ばしながら応戦する。
    『――“ジョーカー”の被害者にも同じことが言えて?――』
     禿げた男は努めて冷静に言葉を選んでいるように見えた。
    『――ラナ、もしも……ああ、もしも、と断ったうえでの話だよ。現在アーカムに収監され治療を受けている“ジョーカー”が万が一にも再び脱走して犯罪に走ったとしても、責めることはできない。彼は心神喪失状態にあるんだ』
     太った女は椅子の背凭れに体を預け、深く息を吸う。冷静さを欠いた己を恥じているような表情だった。そうしてゆっくりと語り始める。
    『――だったら、“バットマン”はどうなの?彼が精神疾患を有しているのであれば、“ジョーカー”と同様に、その行為の責めを負うはずがないじゃない?』
     隣の部屋から再びガタガタと物音が聞こえ、女の高い声がキャンキャンと響く。俺は眉の間に皺を寄せ、端末を操作してモニターの音量を上げた。
     ラナという女の言葉に、禿げた男は難しい表情で口を曲げた。何としても、目の前の太った女を言い負かせたいように見えた。
    『――“彼ら”はまるで違うさ。“あの男”は、自分の行いが及ぼす効果まで全て知り尽くしている。ファシストはみんなそうだ――』
     男は吐き捨てるように言う。まるで、“バットマン”という男を毛嫌いしているかのように。
     壁にガンガンと何かが叩きつけられる音が部屋中に響く。再び端末を操作して、これ見よがしにモニターの音量をさらに上げた。「老害の俺の耳は遠いんだ」という言い訳はとうに用意してある。ジジイ一人を殴り殺す手間を掛けるほどの余裕が隣の大男にあるとは思えなかった。でなければ、隣室にまで響くほど行為に及ぶはずがない。
     太った女が口を開く
    『――あなたは、どうしても“バットマン”を“悪”だと決めつけたいようだけど、要は、“彼”を認めたくないだけなんじゃないの?“彼”のことが羨ましいんでしょ?――』
     女の言葉に、禿げた男が激昂して立ち上がる。
    『――な……何を言うか!きょ……強大過ぎる力はそれだけで“悪”なのだ!よく聞け、このデブ女!“あの男”はな、その力を好き勝手に……!――』
     壁を叩く音が激しくなっていく。ここの壁は薄い。女のキャンキャンと喚く声が尚も響き続ける。しかしそれは、嬌声だろうか。ふと思い至った俺は、モニターの音量を少し下げて女の声に耳を傾けていた。
     気が付くと、俺はソファから立ち上がっていた。大粒の汗が噴き出している。寝間着のままコートを羽織り、玄関までゴミ屑を蹴散らしながら進み、そっと戸の上下の鍵を外した。廊下を覗き見る。誰もいない。取り換えられていない蛍光灯がちかちかと明滅している。するりと扉を潜り抜け、隣の部屋の戸に耳を寄せた。くぐもった女の声が聞こえる。恐らく、俺の勘は当たっているだろう。
     どうする?
     どうするだと?
     することは決まっている。『夜になれば家に帰り、戸に鍵をかけろ。窓に鍵をかけろ。生きるために』だ。
     俺は自身の部屋の戸を静かに開き、音もなく中に入った。戸の上下の鍵をかける。ゴミ屑の山を掻き分けてソファに座り、これまた屑の山に手を突っ込んで煙草とライターを探し回る。無い。無い。そうだった。シャワーの前の一服で最後のひと箱をゴミの山に投げたことを思い出した。
     ゴミ山を漁るのを諦めて顔を上げると、昔は知り合いに自慢して回った一面の大きなガラスが、ゴッサムの夜空を俺の眼前に突きつけてくる。
     ブルース・ウェイン。バットシグナル。酔狂な男たち。
     気付けば俺は、再び立ち上がっていた。酔狂な男に憧れていた時代もあった。しかしそれは若気の至りで、歳を重ねるとともに、勝手に諦観していたのだ。人は、一度は“ヒーロー”に憧れたことがあるはずだ。
     今からすることはただの蛮勇だ。何の意味もないが、何とかしなければならない。でもどうすればいい?そうだ!大昔に買った拳銃があったはずだ。部屋中をひっくり返して探す。無い。無い。どこに置いた?あるはずだ!
     ふと、今は亡き妻の姿が脳裏を過ぎった。
     『この街では必要なんだ。俺がこの家にいない時、君は一人になる。これを鏡台にしまっておきなさい』――俺のその言葉に頷く彼女が、重々しい表情でそれを受け取り、確かに鏡台の引き出しにしまっていたのを俺は見つめていた。
     どうして忘れていたのか。彼女の最期の言葉ばかり焼き付いて離れず、彼女と共に過ごした時間すら忘れていたのか。鏡台は薄汚れて何も写さなくなっている。そんなことはどうでもいい。引き出しを開ける。あった。拳銃がそこにあった。弾倉を確認する。これまで一度も使われてこなかった。弾丸は込められている。
     屑を掻き分けて玄関を目指す。今はこのゴミの山が煩わしくて仕方なかった。一刻でも早くしなければならない。確かに聴こえたのだ。女は叫んでいた。『――助けて』と。
     戸の上下の錠を外して開く。隣の部屋の前に立ち、息を整えた。拳で戸を叩く。女の喚く声が大きくなる。ノブを回すが、鍵がかかっているようだ。あの大男は部屋の中にいるのだろうか。中にいるとして、この老獪が太刀打ちできるのだろうか。
     懸念は上げればキリがないが、今は一刻の猶予もないはずだ。撃鉄を下ろし、鍵の部分に銃口を向けて引き金を引く。ズガンッと大きな音が響く。木造のそれは簡単に穿ち、戸は無防備になった。
     蹴破って中に押し入る。室内は明かりが点いていない。女の声がますます大きくなる。男の気配は無い。部屋の造りは俺のそれと同様のようだ。リビングにあたる部屋へとズカズカと歩みを進めると、彼女はそこにいた。
     泣き腫らした表情の少女は、半裸でベッドのシーツらしき物に包まっている。突然押し入ってきた拳銃を持つジジイに怯える少女のその顔には、見覚えがあるように思えた。しかし、一体どこで――
    『……あんた、行方不明になってる娘か?』
     少女はおずおずと首を縦に振った。先ほどのニュース番組が頭を過ぎる。14歳の少女が、こんな姿で目の前にいる。神様なんていない。そう思えた。彼女は一生分の傷を心に背負って生きていくことになるのだ。生きることと死ぬことと、果たして彼女にとってどちらが幸せなのだろうか。
     ズカズカと近付くと、微かに少女が後退る。しかし背後は壁だ。途端に絶望したような表情になった。小汚いジジイが迫れば、襲われると思われるのは当然のことだと思った。努めて少女を安心させるような声色を絞り出した。
    「大丈夫だ。……大丈夫だ」
     コートを脱いで少女の肩にかける。少女は次第に息をゆっくりと吐くようになった。どうやら少女は俺が危害を及ぼさないと信じてくれたらしい。少女が俺に縋りつく。コートの上から、そっと彼女の背を撫ぜた。安心させるように。この世にまだ神様が存在するのだと思い出させるために。
     階下の門戸が開き、閉じられる音が微かに聞こえた。巨大で重い何かがゆっくりと階段を上っている気配がする。そしてそれは、この部屋の前でピタリと止まった。
     不味い事態になった。蹴破ったドアはそのままだ。何か重い質量のものが壁を叩き、部屋中がビリビリと震える。男が戻ってきたのだ!銃声を聞かれたのかもしれない。小用で出ていただけだったのかもしれない。ドスドスという足音が床を這って迫る。間もなく、大男がリビングの入り口に立っていた。
     廊下の明かりを背後に立つ男の威容は、以前よりも更に巨大に思えた。
     少女が「ひっ」と息を吸って俺に縋る。俺は片腕で少女を抱き寄せると、拳銃を大男に向けた。手が震える。長年の大酒飲みが祟ったと思いたかった。少女に、俺が怯えていると感じさせたくなかった。
    「なんのつもりだ……じいさん」
     男の声は低く、ドスが効いている。小便をちびりそうになった。
    「……この娘は行方不明になっている娘なんだろう?さっきテレビで観たよ」
     図星を突かれたためか、男は押し黙る。部屋は不自然なほどに静まり返っている。開け放したままの俺の部屋のテレビモニターの音がここまで響いて聞こえる。男が足を上げた。拳銃の引き金に指をかけ、「動くな!」と叫ぶ。きちんと発音できていたのか怪しかった。大男はすぐ目の前に来ていた。
     瞬く間だった。
     大きな影が窓ガラスを突き破って男に突進する。大男は虚を突かれた様子で、脛を打たれて膝をつく。影は大男の顎に掌底を撃ち、無防備になった男を背に持ち上げると、大きなテーブルの上に叩きつけた。テーブルが真っ二つに割れる。そして、男は動かなくなった。
    「し……死んじまったのか?」
     息を殺してその様子を見つめていたが、絞り出すように問いた。影が俺を見た。少女の肩がビクリと跳ねる。
    「……殺してはいない。気を失っているだけだ」
     影の声はこの世のものとは思えないほど低く、恐ろしかった。訳もなく抱えている少女を胸の内に抱き寄せる。少女も、俺に縋り寄ってくる。その小さな肩は震えていた。この老獪の命に代えても、この少女は守らなければならない。そう思った。影はその様をただ見つめている。まるで、慈しむ様に……。
    「あんたが、……“バットマン”なのか?」
     影に問うと、“それ”はゆっくりと窓際へと歩みつつ応じる。
    「……そうだ」
     俺の部屋のテレビモニターが“喋って”いる。
    『――“バットマン”は“善”か“悪”か。議論はつかないでしょう――』
     その言葉を聞き取ったのか、影がそっと息を吐くのがわかった。俺は何故だか無性に、“彼”に落胆してほしくなかった。必死に頭を巡らせて言葉にする。
    「あんたは“ヒーロー”だ。……少なくとも、俺たちにとっては」
     尻すぼみの取って付けたような俺の言葉に、影が此方に向き直る。
    「私は“ヒーロー”ではない。“バットマン”だ――」
     影は尚も続ける。
    「――その少女にとっては、あなたが“ヒーロー”だ。あなたのような人が、まだこの街にいてくれて良かった」
     影はそう言い残すと、何かを空に向けて撃ち、一瞬で空へ向けて飛び上がった。行方を見送りたかったが、私の胸の内にはまだ怯え切った少女がいた。少女の背を撫ぜ、自分自身に語り掛けるように息を吐く。
    「大丈夫だ。……大丈夫だ」
     少女の頬を撫ぜる。その痛々しい涙の跡をなぞり、俺は微笑んで見せた。
    「ほら、……笑って」
     “あの時”の俺とは違って、この少女はゆっくりと俺に向かって微笑み返してくれる。
     嗚呼、……神よ。
     俺が生きていることで、この少女の人生に介在できたのかもしれない。
     俺が生きていることで、この少女を救うことができたのかもしれない。
     この少女はこれから先も、多くの困難に出くわすことだろう。しかしそれは、生きていなければ、決して出くわすことができないものだ。
     “「何故生きるか」を知っている者は、ほとんど、あらゆる「如何に生きるか」に耐えるのだ”
     だとすれば、“生きる”ということは幸福なことなのかもしれない。少なくとも、“死ぬ”ことよりは……。
     街は静まり返っている。何故かと言えば、“彼”がこの街を守ってくれているからに違いなかった。どこからかパトカーのサイレンが聞こえる。“彼”が通報してくれたのだろう。ありがたかった。少女に縋りつかれていることは別にして、腰が抜けている今、電話まで辿り着けそうになかった。
     遠くのテレビモニターの“声”が室内に響く。
    『――それでも、私はこう思うのです。“彼”は、“バットマン”は、“善”と“悪”を越えたところにいるのではないかと――』