BATMAN : Beyond Good and Evil
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BATMAN : Beyond Good and Evil

2019-01-13 16:31

    BATMAN : The Dark Knight Returnsの偉大なる著者フランク・ミラー氏、クラウス・ジャンセン氏、リン・ヴァーリイ氏、
    そして翻訳をされた石川裕人氏、秋友克也氏に最大の敬意を込めて。

    表紙のイラストも描いています。

    ―――――――――――――――――――――――――――――――――
    BATMAN:Beyond Good and Evil

    「痛っ……」
     薄汚れ、今では黄ばんでしまった陶器の洗面台に鮮血がポツリと落ちた。鏡の向こうの俺が顰め面をして頬を撫ぜる。細い傷跡に血が滲んでいた。シャワーを浴びたついでに明かりもつけずに髭を剃ろうとしたことが、そもそもの間違いだったのだ。
    「――クソっ」
     使い捨てのシェーバーをゴミ箱に投げ捨て、ハンドタオルで傷口を押さえながら洗面所を出る。リビング――と呼ぶべき部屋――に足を踏み入れる。足元にはピザの箱や紙袋といったゴミ屑が散らかっている。昔は片づけるように努めていたものだが、いつからかこの有様だった。
     ガタガタと隣の部屋から物音がする。微かに女の声が聞こえた。隣の部屋を出入りしているのはゴリラのような図体の大男だったか。一度階段で出くわしたことがあるが、白髪交じりのジジイには興味がないという風情で挨拶も碌にしなかった。猿のように盛るのは結構だが、静かに行為に及ぶ知性すらないらしい。
    「うるせえ!」
     壁を拳でドンッと叩く。ガタガタとした音は、それっきり聞こえなくなった。
     屑を掻き分けてソファを探す。目的の場所は大きな段ボール箱に隠れて見えづらくなっていたが、確かにそこにあった。街を一望できる大ガラスの手前、自分にとって最高と思える位置に置いたと思っていた時代はとうに過ぎ去ったが、自分の体重よりも重いこのソファを動かすことが億劫になって、結局そのまま取り残されている。
    「ああ……ふう」
     ゆっくりとソファに腰掛ける。いつの間にか、立ち上がる時にも座り込むときにも吐息が漏れるようになった。多くの時間が過ぎた。それが己にとって大切な記憶だったかというと、些かもそんな感慨はなかった。だから忘れた。忘れたふりをして、こうしてゴミ屑の頂点に座って、ゴミ屑としてただ生きながらえているのだ。
     眼前には大昔に買ったテレビモニターがある。
     『ここに置けば、ソファに座りながら二人で観られるじゃない?』――そう笑っていた彼女は、病室のベッドの上で最期を迎える瞬間にも俺に微笑んで言った。『――笑って』と。
     何故、笑わなければならないのかわからなかった。笑えるはずがなかった。彼女が俺を見て微笑んでいることが信じられずに、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして無様に縋った。「生きてほしい」「死なないでくれ」と叫んだ。彼女は微笑んだまま何も言わなかった。
     彼女の心音が止まったことを知らせるアラートが滑稽に鳴り響き、医者が何事かを俺に言っていたのはわかったが、何も聞こえなかった。彼女の微笑みだけがそこにあった。脳裏にこびりついて離れないのは、最期の言葉だけだった。
     傍らに置いてあるテーブルの上の屑を掻き分けて端末を探す。幸いにも、それはすぐ手元にあった。眼前のモニターに向けて電源を入れる。部屋がこの有様でも、日本製のそれは美しい映像を観させてくれる。
     映し出されたのは、GCTVのニュース番組だ。
    『――行方不明になっているこの少女は、現在14歳で――』
    「クソッタレが」
     吐き捨てて端末を操作し、チャンネルを変える。野良犬の糞のような出来事しか起きないこの街では、毎日のようにこんな報道が新聞やテレビを通して伝えられる。誘拐、強盗、殺人や傷害に交通事故、その日によってラインナップは変わるが、何も起きない日などない。この街は腐れ切っている。そして、この街に住み続けているこの俺も腐れ切っているのだ。
     頭を横に傾けて窓の外を見た。けばけばしいネオンが彩る通りが眼下に広がっている。真夜中の今は人っ子一人見つけられない。当然だ。この街に来た人間が真っ先に教えられることがある。『この街では、ハイスクールの学生も、パートのババアも、金融街の商社マンも関係がない。夜になれば家に帰り、戸に鍵をかけろ。窓に鍵をかけろ。生きるために』と。
     時々何か勘違いした人間が夜中に出歩き、そして事件に巻き込まれる。もしもそれを目撃してしまっても、割って入るべきではない。見なかったことにして、忘れたことにして、自分の家に帰って戸に鍵をかけ、窓に鍵をかけてベッドに入り、必死に目を瞑って夜が明けることを祈る。それが、この街で生きていくと決めた、或はこの街から出られない人間たちに課されたルールだ。
    『――ニューマン予選は劇的な結末を迎えました。激しく横転しながらゴールラインを越えたフェリス6000の姿に、誰もがブルース・ウェインの死を覚悟しましたが……――』
     ブルース・ウェイン。この男は、この街で成功しているいくつかの家系に名を連ねるウェイン家の末子だ。子供は持っていないと聞く。ウェインコープの会長として、この街の施設や福祉の整備を市と共同して行っている、ただの酔狂な野郎だ。どうやらこの男は信じちまっているらしい。この街がいつか生まれ変わることを。悪人が善人になることを。
     そんな男が、どうやらカーレースに参加して事故を起こしたらしいが――
    『――かの億万長者は、ぎりぎりのところで燃え盛る車から脱出し、軽い火傷を負っただけで奇跡の生還を果たしたのです――』
     この男も、結局は死ぬことができなかったようだ。この街で生きている人間は、果たして生きていることが幸福なのだろうか、死ぬことが幸福なのだろうか。もしも死ぬことの方が、生きていくよりも幸福なのだとしたら。……だから彼女は、あの瞬間に俺に向かって微笑んでいたのだろうか。俺に幸福を齎してくれた彼女に、俺は幸福を与えられていたのだろうか。
     ふと、窓ガラスの向こうに微かな明かりが灯った。俺はなにとなく“それ”を目で追っていた。ゴッサムシティを覆う暗雲に蝙蝠の“シンボル”が映し出されている。
     そう、酔狂な男はブルース・ウェインだけではない。“バットマン”と渾名される男が現れてから20年以上の月日が流れた。奴はあの“シグナル”が夜空に照らし出されると、夜毎に悪人たちに私刑を下す。確かに奴の出現前と比べると小物の悪人たちは怯え、竦み、悪さをする頻度が少なくなっているように感じることがある。しかし、より凶悪な男たちは競うように悪行を行うようにもなった。
     さらには、あのピエロのような化粧の男が――考えるだけでもゾッとして、“シグナル”から目を背けてテレビモニターを観た。モニターには討論番組のようなものが映し出されている。
    『――ラナ、そう興奮しないで。“彼”という存在が示唆しているのは常軌を逸した病める精神の暴走の結果なのだよ。その結果……モラルは地に堕ち、政治不信はさらに深まり、人心は乱れるばかりだ……――』
     禿げ頭に痩せこけた面の男がつらつらと小難しい言葉を並べ、目の前に座る“ラナ”と呼ばれた太った女に語り掛けている。女は負けじと反論する。
    『――それでも、彼が戦ってきた相手の方がもっと危険なはずよ。そうでしょ?例えば、あの男、“ジョーカー”……――』
     つい今しがた思考の外に追いやったはずの男の名がスピーカーを通して聞かれ、顔を顰めた。この街に住む人間にとって“奴”は畏怖の象徴だ。その名を呼ぶことすら躊躇われる。
     “奴”は幾度も“バットマン”と対峙し捕らえられるが、お偉いさん方が頭を捻って捏ねくり出した法律によると、“奴”は精神に疾患があるために罰することができないらしい。そのためにアーカムアサイラムと呼ばれる精神病院に収監されるが、その度に見事にアーカムから脱走して見せる。恐るべき狂人だ。
     モニターに映る禿げた男が口を開く。
    『――待ってくれ、ラナ。“ジョーカー”は運命に翻弄された哀れな人物なのだよ。比べるのは筋違いだ――』
     太った女が唾を飛ばしながら応戦する。
    『――“ジョーカー”の被害者にも同じことが言えて?――』
     禿げた男は努めて冷静に言葉を選んでいるように見えた。
    『――ラナ、もしも……ああ、もしも、と断ったうえでの話だよ。現在アーカムに収監され治療を受けている“ジョーカー”が万が一にも再び脱走して犯罪に走ったとしても、責めることはできない。彼は心神喪失状態にあるんだ』
     太った女は椅子の背凭れに体を預け、深く息を吸う。冷静さを欠いた己を恥じているような表情だった。そうしてゆっくりと語り始める。
    『――だったら、“バットマン”はどうなの?彼が精神疾患を有しているのであれば、“ジョーカー”と同様に、その行為の責めを負うはずがないじゃない?』
     隣の部屋から再びガタガタと物音が聞こえ、女の高い声がキャンキャンと響く。俺は眉の間に皺を寄せ、端末を操作してモニターの音量を上げた。
     ラナという女の言葉に、禿げた男は難しい表情で口を曲げた。何としても、目の前の太った女を言い負かせたいように見えた。
    『――“彼ら”はまるで違うさ。“あの男”は、自分の行いが及ぼす効果まで全て知り尽くしている。ファシストはみんなそうだ――』
     男は吐き捨てるように言う。まるで、“バットマン”という男を毛嫌いしているかのように。
     壁にガンガンと何かが叩きつけられる音が部屋中に響く。再び端末を操作して、これ見よがしにモニターの音量をさらに上げた。「老害の俺の耳は遠いんだ」という言い訳はとうに用意してある。ジジイ一人を殴り殺す手間を掛けるほどの余裕が隣の大男にあるとは思えなかった。でなければ、隣室にまで響くほど行為に及ぶはずがない。
     太った女が口を開く
    『――あなたは、どうしても“バットマン”を“悪”だと決めつけたいようだけど、要は、“彼”を認めたくないだけなんじゃないの?“彼”のことが羨ましいんでしょ?――』
     女の言葉に、禿げた男が激昂して立ち上がる。
    『――な……何を言うか!きょ……強大過ぎる力はそれだけで“悪”なのだ!よく聞け、このデブ女!“あの男”はな、その力を好き勝手に……!――』
     壁を叩く音が激しくなっていく。ここの壁は薄い。女のキャンキャンと喚く声が尚も響き続ける。しかしそれは、嬌声だろうか。ふと思い至った俺は、モニターの音量を少し下げて女の声に耳を傾けていた。
     気が付くと、俺はソファから立ち上がっていた。大粒の汗が噴き出している。寝間着のままコートを羽織り、玄関までゴミ屑を蹴散らしながら進み、そっと戸の上下の鍵を外した。廊下を覗き見る。誰もいない。取り換えられていない蛍光灯がちかちかと明滅している。するりと扉を潜り抜け、隣の部屋の戸に耳を寄せた。くぐもった女の声が聞こえる。恐らく、俺の勘は当たっているだろう。
     どうする?
     どうするだと?
     することは決まっている。『夜になれば家に帰り、戸に鍵をかけろ。窓に鍵をかけろ。生きるために』だ。
     俺は自身の部屋の戸を静かに開き、音もなく中に入った。戸の上下の鍵をかける。ゴミ屑の山を掻き分けてソファに座り、これまた屑の山に手を突っ込んで煙草とライターを探し回る。無い。無い。そうだった。シャワーの前の一服で最後のひと箱をゴミの山に投げたことを思い出した。
     ゴミ山を漁るのを諦めて顔を上げると、昔は知り合いに自慢して回った一面の大きなガラスが、ゴッサムの夜空を俺の眼前に突きつけてくる。
     ブルース・ウェイン。バットシグナル。酔狂な男たち。
     気付けば俺は、再び立ち上がっていた。酔狂な男に憧れていた時代もあった。しかしそれは若気の至りで、歳を重ねるとともに、勝手に諦観していたのだ。人は、一度は“ヒーロー”に憧れたことがあるはずだ。
     今からすることはただの蛮勇だ。何の意味もないが、何とかしなければならない。でもどうすればいい?そうだ!大昔に買った拳銃があったはずだ。部屋中をひっくり返して探す。無い。無い。どこに置いた?あるはずだ!
     ふと、今は亡き妻の姿が脳裏を過ぎった。
     『この街では必要なんだ。俺がこの家にいない時、君は一人になる。これを鏡台にしまっておきなさい』――俺のその言葉に頷く彼女が、重々しい表情でそれを受け取り、確かに鏡台の引き出しにしまっていたのを俺は見つめていた。
     どうして忘れていたのか。彼女の最期の言葉ばかり焼き付いて離れず、彼女と共に過ごした時間すら忘れていたのか。鏡台は薄汚れて何も写さなくなっている。そんなことはどうでもいい。引き出しを開ける。あった。拳銃がそこにあった。弾倉を確認する。これまで一度も使われてこなかった。弾丸は込められている。
     屑を掻き分けて玄関を目指す。今はこのゴミの山が煩わしくて仕方なかった。一刻でも早くしなければならない。確かに聴こえたのだ。女は叫んでいた。『――助けて』と。
     戸の上下の錠を外して開く。隣の部屋の前に立ち、息を整えた。拳で戸を叩く。女の喚く声が大きくなる。ノブを回すが、鍵がかかっているようだ。あの大男は部屋の中にいるのだろうか。中にいるとして、この老獪が太刀打ちできるのだろうか。
     懸念は上げればキリがないが、今は一刻の猶予もないはずだ。撃鉄を下ろし、鍵の部分に銃口を向けて引き金を引く。ズガンッと大きな音が響く。木造のそれは簡単に穿ち、戸は無防備になった。
     蹴破って中に押し入る。室内は明かりが点いていない。女の声がますます大きくなる。男の気配は無い。部屋の造りは俺のそれと同様のようだ。リビングにあたる部屋へとズカズカと歩みを進めると、彼女はそこにいた。
     泣き腫らした表情の少女は、半裸でベッドのシーツらしき物に包まっている。突然押し入ってきた拳銃を持つジジイに怯える少女のその顔には、見覚えがあるように思えた。しかし、一体どこで――
    『……あんた、行方不明になってる娘か?』
     少女はおずおずと首を縦に振った。先ほどのニュース番組が頭を過ぎる。14歳の少女が、こんな姿で目の前にいる。神様なんていない。そう思えた。彼女は一生分の傷を心に背負って生きていくことになるのだ。生きることと死ぬことと、果たして彼女にとってどちらが幸せなのだろうか。
     ズカズカと近付くと、微かに少女が後退る。しかし背後は壁だ。途端に絶望したような表情になった。小汚いジジイが迫れば、襲われると思われるのは当然のことだと思った。努めて少女を安心させるような声色を絞り出した。
    「大丈夫だ。……大丈夫だ」
     コートを脱いで少女の肩にかける。少女は次第に息をゆっくりと吐くようになった。どうやら少女は俺が危害を及ぼさないと信じてくれたらしい。少女が俺に縋りつく。コートの上から、そっと彼女の背を撫ぜた。安心させるように。この世にまだ神様が存在するのだと思い出させるために。
     階下の門戸が開き、閉じられる音が微かに聞こえた。巨大で重い何かがゆっくりと階段を上っている気配がする。そしてそれは、この部屋の前でピタリと止まった。
     不味い事態になった。蹴破ったドアはそのままだ。何か重い質量のものが壁を叩き、部屋中がビリビリと震える。男が戻ってきたのだ!銃声を聞かれたのかもしれない。小用で出ていただけだったのかもしれない。ドスドスという足音が床を這って迫る。間もなく、大男がリビングの入り口に立っていた。
     廊下の明かりを背後に立つ男の威容は、以前よりも更に巨大に思えた。
     少女が「ひっ」と息を吸って俺に縋る。俺は片腕で少女を抱き寄せると、拳銃を大男に向けた。手が震える。長年の大酒飲みが祟ったと思いたかった。少女に、俺が怯えていると感じさせたくなかった。
    「なんのつもりだ……じいさん」
     男の声は低く、ドスが効いている。小便をちびりそうになった。
    「……この娘は行方不明になっている娘なんだろう?さっきテレビで観たよ」
     図星を突かれたためか、男は押し黙る。部屋は不自然なほどに静まり返っている。開け放したままの俺の部屋のテレビモニターの音がここまで響いて聞こえる。男が足を上げた。拳銃の引き金に指をかけ、「動くな!」と叫ぶ。きちんと発音できていたのか怪しかった。大男はすぐ目の前に来ていた。
     瞬く間だった。
     大きな影が窓ガラスを突き破って男に突進する。大男は虚を突かれた様子で、脛を打たれて膝をつく。影は大男の顎に掌底を撃ち、無防備になった男を背に持ち上げると、大きなテーブルの上に叩きつけた。テーブルが真っ二つに割れる。そして、男は動かなくなった。
    「し……死んじまったのか?」
     息を殺してその様子を見つめていたが、絞り出すように問いた。影が俺を見た。少女の肩がビクリと跳ねる。
    「……殺してはいない。気を失っているだけだ」
     影の声はこの世のものとは思えないほど低く、恐ろしかった。訳もなく抱えている少女を胸の内に抱き寄せる。少女も、俺に縋り寄ってくる。その小さな肩は震えていた。この老獪の命に代えても、この少女は守らなければならない。そう思った。影はその様をただ見つめている。まるで、慈しむ様に……。
    「あんたが、……“バットマン”なのか?」
     影に問うと、“それ”はゆっくりと窓際へと歩みつつ応じる。
    「……そうだ」
     俺の部屋のテレビモニターが“喋って”いる。
    『――“バットマン”は“善”か“悪”か。議論はつかないでしょう――』
     その言葉を聞き取ったのか、影がそっと息を吐くのがわかった。俺は何故だか無性に、“彼”に落胆してほしくなかった。必死に頭を巡らせて言葉にする。
    「あんたは“ヒーロー”だ。……少なくとも、俺たちにとっては」
     尻すぼみの取って付けたような俺の言葉に、影が此方に向き直る。
    「私は“ヒーロー”ではない。“バットマン”だ――」
     影は尚も続ける。
    「――その少女にとっては、あなたが“ヒーロー”だ。あなたのような人が、まだこの街にいてくれて良かった」
     影はそう言い残すと、何かを空に向けて撃ち、一瞬で空へ向けて飛び上がった。行方を見送りたかったが、私の胸の内にはまだ怯え切った少女がいた。少女の背を撫ぜ、自分自身に語り掛けるように息を吐く。
    「大丈夫だ。……大丈夫だ」
     少女の頬を撫ぜる。その痛々しい涙の跡をなぞり、俺は微笑んで見せた。
    「ほら、……笑って」
     “あの時”の俺とは違って、この少女はゆっくりと俺に向かって微笑み返してくれる。
     嗚呼、……神よ。
     俺が生きていることで、この少女の人生に介在できたのかもしれない。
     俺が生きていることで、この少女を救うことができたのかもしれない。
     この少女はこれから先も、多くの困難に出くわすことだろう。しかしそれは、生きていなければ、決して出くわすことができないものだ。
     “「何故生きるか」を知っている者は、ほとんど、あらゆる「如何に生きるか」に耐えるのだ”
     だとすれば、“生きる”ということは幸福なことなのかもしれない。少なくとも、“死ぬ”ことよりは……。
     街は静まり返っている。何故かと言えば、“彼”がこの街を守ってくれているからに違いなかった。どこからかパトカーのサイレンが聞こえる。“彼”が通報してくれたのだろう。ありがたかった。少女に縋りつかれていることは別にして、腰が抜けている今、電話まで辿り着けそうになかった。
     遠くのテレビモニターの“声”が室内に響く。
    『――それでも、私はこう思うのです。“彼”は、“バットマン”は、“善”と“悪”を越えたところにいるのではないかと――』


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