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へるますくさん のコメント

素晴らしい。本当に面白い一文でした。俺は自然と縛りプレイが出来ちゃう人間ですけど、それでもやはりどこかに「しこり」は残りますから。
No.88
100ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
スパ帝氏の 翻訳記事 を読んで、目からウロコが落ちた。 というより、曇り空から差し込む一条の光を垣間見た気分……。 いや、『長年苦しめられていた呪いから解放された』と直接的に表現してもいいくらいの、非常に大きな感銘を受けた。 以下、 ちょっと長くなると 思うがそのことについて書きたいと思う。 自分はゲームで遊ぶのが大好きである。 そして、ゲームで遊ぶのと同じくらいゲームについて語るのも好きだ。 面白いゲームであろうがつまらないゲームであろうが、不特定多数のゲーム好きとそのゲームについて語り合うのは面白いものだ。 一時期はゲサロ(2chのゲームサロン板)に入り浸り、RPGのあるべき戦闘システムや、戦闘関連のバランスが特に秀でているタイトルについて書き込んだものだ。 ……しかし、このようなゲームの話をしていて、 ずーっと頭のなかで引っかかっている問題があるのだ。それも10年以上も。 その問題は、ゲームの”バランス”について語っている時に現れる。 バランスブレイカー という言葉がある。 ゲーム中において、ある特定のキャラ・アイテム・技・攻略法が、あまりに強すぎる・便利すぎるため、そのゲームのバランスをすべてぶっ壊している存在のことを、ゲーマーの間ではそう呼ぶのだ。 タクティクスオウガにおけるハボリムwithペトロクラウド、 FFタクテイクスの剣聖シド、 スパロボFのイデオン……etc。 (挙げられたタイトルが全てシミュレーションRPGなのは、  筆者の趣味の偏りによるものである) これまで数多のゲームが、これらバランスブレイカーの手によって 「もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな」 という状況に追い込まれてきた。 バランスブレイカーという言葉に肯定的な響きは無い。 「どんな状況でもそれさえ使えば勝てる」という存在は、ゲームをめちゃくちゃにするものであることに異論がある人は少ないはずだ。 だが、「あれ強すぎてゲームつまんなくなってるよね」という話題になると、いつも必ず書き込まれる一言がある。 「強すぎると思うなら使わなきゃいいじゃん」 これである。 この一言なのだ。 あらゆるゲームのスレッドに顔を出すこの一言に、 自分は10年以上も頭を悩ませ続けていたのだ。 もちろん、ネットゲームや対戦ゲームでは”使わなきゃいい”という言葉は通用しない。 自分が封印してても相手が使ってくるなら意味がない。 以下は、RPGやSLGなど基本的に一人でプレイするよう設計されているゲームの話と思ってほしい。 なぜ自分がこの一言に悩むのかというと、 「理屈の上では完全に正しいと認めているのに、感情の部分で納得することができない」 からだ。 自分がゲームをしていて一番アホくさいと思う瞬間は、 「アレさえ使えばこんな奴ら簡単に倒せるのに……」 と、 頭の隅で思いながら敵に苦戦することだ。 言うなれば、 「バランスが悪いゆえに縛りプレイをゲームの方から強制されている」 と感じる時である。 FFタクティクスを例に挙げよう。 シドルファス・オルランドゥは、”全剣技”というチートアビリティと 常時ヘイストがかかる”エクスカリバー”というチートアイテムの 2つを引っさげてパーティに加入するチートキャラである。 このお方が居るのと居ないのとでは、最終戦の難易度が段違いだ。 なにせ、ラスボスとタイマン張っても余裕で勝てるほどである。 長い時間をかけて育ててきた我が部隊は、サポート役どころか いてもいなくていい観戦勢の如き存在に成り下がってしまうのだ。 しかし、シドのチートっぷりをいくら述べても、 ”使わなければいい” という理屈の前では無意味である。 「縛りプレイを強制している?何をバカな。誰もシドを使うことを強制などしていない。 強力なユニットを使ってサクサクゲームを進めるのも、あえて使わず 難易度の高い歯ごたえのある道を進むのも、全てプレイヤーのさじ加減ひとつだ。 自分で楽な道を選んでおいて、”簡単すぎてつまらない”などとのたまうのはアホの所業だ」 ぐうの音も出ない正論である。 実際、剣聖シドが参入するのは最終決戦突入直前で、 初心者救済のためのお助けキャラという感が強い。 「どうしてもクリアできない、でもエンディングは見たいという下手くそはシド使ってね。 SRPGは大の得意、シド使うとぬるすぎって奴は……使わなきゃいいんじゃかな」 という開発者のメッセージが感じ取れる。 このことは他のゲームにだいたい当てはまる。 一部強制出撃などはあるにしても、バランスブレイカーが自軍に加わったとして 出撃させるかどうかはプレイヤーの任意だ。 封印してゲームを進めるだけの自由度は保証されている。 やはり、「強すぎるなら使わなければいい」という理屈は正しい。 ……が、どうしても納得いかない感情が頭のなかに残り続ける。 タクティクスオウガにおいて、 剣聖ハボリムとペトロクラウドの魔法は最強の組み合わせである。 ペトロクラウドとは敵を石化させる魔法だ。 このゲームでは石化したキャラクターは完全に行動不能となり、 石化を回復する手段も非常に乏しいので、敵にとって石化は即死とほぼ同義である。 そして、AGIとDEXの能力が高いハボリムは、 この魔法を極めて高い命中率で放つことができる。 ゆえに、ハボリムにペトロクラウドを装備させたが最後、 敵の面子にクリアランス(状態回復)の魔法が使えるクレリックが居なければ、 もうその時点で勝ちへの道筋がハッキリと見えてしまうのだ。 居たとしても、考えるべきはそのクレリックを如何に早く始末するかということだけだ。 (まぁ、これを考えるのはそれなりに面白くはあるのだが) 自分が勝つことがわかりきっている戦いは、 負けるのがわかりきっている戦いと同じくらい退屈なものである。 人間ではなくAIが相手となると特にそうだ。ワクワクしようがない。 では、ペトロクラウドを封印したとして、剣聖シドを封印したとして、 それでゲームは楽しめるようになるだろうか。 バランスの破壊神たる剣聖達の存在を知らなかった頃の、過去の自分に戻れるだろうか? 自分が納得のいかない部分とはこのことなのだ。 楽しめるはずじゃないか、普通に考えりゃ。 ところが、実際やってみるとつまらないを通り越して 苦痛 に近い体験だった。 「五十年戦争の英雄、オルランドゥ伯にご出陣願えれば、  ルガヴィの如きなどエクスカリバーの錆ぞ」と、 ウチのラムザ君は歯噛みしながら悪戦苦闘を強いられる。 「なんでわざわざ自分から苦しい戦いに身をおいてるんだろう。  別にシド抜きでクリアしたところで、  アイテムが貰えるわけでも隠しEDが見れるわけでもないのに」 と、道中何度も考えた。 無意味な奮闘に思えて仕方なかった。 第1章から育て上げたキャラクター達でラスボスをフルボッコにし、 勝利を自分の手に取り戻したという達成感もどこへやら。 残ったのは疲労感だけだった。 しかし、「強すぎるなら使わなければいい」という理屈が間違っているとも思えないので、 そのうち 「この苦痛は自分の性格が原因でもたらされている」 と考えるようになった。 つまり、自分はゲームにおいて細かいところまでこだわり過ぎるきらいがあるので、 そのため、自分で自分を見えない鎖で雁字搦めにし、 「苦しい~苦しい~」 と一人でのた打ち回っているにすぎないのだと。 ゲームはもっと自由にプレイすべきもので、 強い・弱い、使える・使えないという指標から解き放たれたほうがきっと面白く遊べるのだ。 それを、効率的に進めることに執着しすぎる自分は、 自らの手で選択肢を制限しているのだろう。 変更を加えるべきなのはゲームの仕様の方ではなく、 自分の考え方・受け取り方の方なのだ と、そういう風に結論付けていたのだ。 そんな中見つけたのが 冒頭に紹介した記事 ですよ。 これは、Civilization4のリードデザイナーを務めたSoren Johnson氏が、ゲーム情報誌に掲載した記事を(ニコニコのCiv界隈では有名な)スパ帝氏が翻訳したものである。 以下引用。 “Civilization”開発チームで使っていた言い回しが「水はひび割れを見つける」というものだ。 つまりプレイヤーの利用できるゲームデザイン上の穴があった場合、 それが発見されて悪用されるのは絶対に不可避である。 最大の危険は、プレイヤーがひとたび利用できる穴を見つけてしまうと、 最早それを使わずにプレイする事が不可能になってしまうという事だ。 得た知識は忘れたり無視する事はできない。知らなかった方が良いと思っていてもだ。 やっぱプロのゲームデザイナーは違うわ……。 「水はひび割れを見つける」 ……なんて簡潔で分かりやすい表現。 そうだよな……。 一度ひび割れを見つけてしまったら、もうそれをスルーすることはできない。 水が高きに流れるなんてことは、絶対にありえない。 自分だけじゃなかったんだな、こういうの……。 自身でカードゲームやボードゲームの制作を手がける翻訳者のスパ帝氏も、 同じような意味で(少なくとも自分はそう受け取った)こう述べている。 以下 手慰みの報酬 という記事から引用。 報奨系はゲームメカニクスそれ自体と密着している。 「ゲームバランスが悪い」というのは報奨系が崩れているという事である。 例えば戦略ゲームで戦闘機が異様に強いとすれば、それはひたすら戦闘機だけを生産する事を報奨している。 しかし戦略ゲームは慎重に計画を練って資源を配分する遊びである。 故に報奨系はそうした深謀遠慮に報いるべきであり、頭を使わない連続クリックに良い結果を与えてはいけない。 「動作」と「報奨」の不一致こそゲームバランスの穴である。 プレイヤーは報奨系の命令に逆らう事ができない。 戦闘機だけを作る事が勝利への最短経路であれば、それがどれほど退屈であってもプレイヤーはそうし続ける。 そしてしばらくの後にゲーム自体を止める。 ですよねー……。 レベルを上げて物理で殴る ことが勝利への最短経路であれば、 それがどれほど退屈であってもそうせざるを得ない。 自分が感じた違和感の原因は、やはりゲームの方にあった。 そうなのだ! 自分は、現れた敵をただ倒したいのではなく、 「ルール上許されているあらゆる手段を用いて」 打ち倒したいのだ。 その中で有効な手段は何か、比較検討し、試行錯誤しながら見つけ出したい。 その部分こそゲームの美味しいところなんじゃないか。 なんで自分から肝の部分を捨てる必要があるのか。 効率的に進めることに執着してなにが悪い。 強い・弱いにこだわってなにが悪い。 効率を求めるという行為は、ゲームをつまらなくするどころか 楽しむための最も基本的な要素なのだ。 (少なくとも、戦闘や競争が主体となるゲームにおいてはそうだろう) 「好きな武器を使って殺し合いをしてください」 と言われ、 (ここはオーソドックスに剣でいくか。 いや、リーチが長いのは槍の方だ。 いやいや、それを言うなら弓の方が射程は長い。 しかし当てられるかどうか不安だ……) と思案している最中に、マシンガンが置いてあるのを見つけたら 誰だってそれ使うだろ! 手元に強力な武器があることが分かりきっているのに、 わざわざそれを捨てて徒手空拳で挑まねばならない理由はない。 しかし、相手も銃で撃ち返してくるならともかく、 原始的な武器しか持たない集団をマシンガンで皆殺しにしたところで空しいだけだ。 勝って当然。 「真のゲーマーなら、銃なんか使わずナイフで戦え」という外部からのヤジも聞こえてくる。 しかし、マシンガンを捨てて肉弾戦を挑み、ギリギリのところで勝利を拾ったとしても、 (マシンガン使えば無傷で勝てたのに) という思いを消し去ることはできないのだ。 これでは「あー面白かった」と、気持ちよくゲームを終わらすことができない。 電源を切った後も、心 にしこり のようなものを抱えたままだ。 自分はゲームの制作に携わったことはないが、 ゲームのバランスをほどよく調整するという作業が 至難の業であることは容易に想像できる。 実際、Soren Johnson氏が手がけたCivilization4も、 ひび割れ を完全に駆逐できたとはいえない。 ”1円外交”などは”植林→伐採の永久ループ”の再来に近いものがあるし、 (Soren氏は関わっていないが)Civilization5でも、 強すぎる存在 をパッチで潰して回るという作業を何度も繰り返している。 初期の騎兵、 自分の領土を自分で略奪することで資源を何度でも他国に売りつけることができる略奪経済、 研究協定にステルス爆撃機……。 ゲームのバランス上に潜む魔物、 バランスブレイカー との戦いは終わりなき死闘だ。 面白いゲームを作るためには避けること叶わず、リリースされた後も途切れることはない。 開発者の方々には頭がさがる思いである。 ゲーマーとは迷える子羊だ。 我々は楽しむためにゲームをプレイするが、 時にそのゲームによって苦しめられることもある。 質の悪いことに、我々を苦しめるゲームとは必ずしも クソゲー だけに限らない。 何度プレイしても面白い 神ゲー からも、往々にして苦しめられるのだ! むしろ、クソゲーよりも神ゲーからもたらされる苦しみの方が根は深いと言えるだろう。 (念のため注記しておくが、文中散々例に挙げたタクティクスオウガもFFタクティクスも、  自分は生涯ランキングベスト20に入る傑作だと思っている) そんな子羊に救いの手を差し伸べてくれた (向こうはそんなつもりは全く無いだろうが) Soren Johnson氏、そして記事を日本語に訳してくれたスパ帝氏に感謝の念を述べて、 この記事を終わりにしたいと思う。 久しぶりに長文書いたらなんか疲れた……。('A`)