-
【競馬】2020年ジャパンカップ
-
うつ病で仕事を辞め、実家へ:③
実家に帰った私ですが
病院も当然行きやすいところに変えますわな。
そこが酷かった。
3分、いや、1分診療。薬漬け。待合室のうるささ、
特に薬による副作用
例えば
・手の震え(スプーンすらまともに持てず食事も私生活にも多大な支障):振戦
・のどの渇き
・目玉が上の方を向いてしまい真っすぐ前を見ることが出来ない:眼球上転、ジストニア
副作用で「生活に支障が出るから薬を変えてくれ」とバッキバキに震える手を見せても
主治医「大丈夫大丈夫」
俺「大丈夫じゃねーよ!!!!!!」
そんなこんなで行きやすさよりいい病院、先生の所が一番でした。
当時動けるようになりB型作業所(障がいを持つ人が内職などで賃金を得たりする所)※
の職員さんに紹介してもらったのが今通っている精神科のクリニックです。
ここからやっと本題です。
希死念慮がどうやって消えたのか、
クリニックでやっている事は他の病院とは全然違う考え方、取り組みをしていて
それに助けてもらって今に至るわけです。
では次回。
※ちなみに作業所には3種類あって
B型:内職や自分たちで作った農作物を売ったりする。やってる仕事によって賃金が違う。
調子が悪いと休んだりも出来る。
A型:ほぼ民間で出来るような仕事を障がいを持ちながらやる。
時間の限度はあるが時給制や出来高制、色々。残業があれば手当がきちんとつく。
休みは労基基準、有給もとれる。
就労支援型:就職活動や就職に向けての訓練、資格取得を目指したりする。
2年間の期限付き。
法律が変わってなければこんな感じです。
B型でつくってるお菓子や野菜やカフェは安いしうまいものもたくさんあるよ!
-
うつ病と診断されてから:②
休職のための診断書を提出し、
治るまで休む事になったわけですが。
とりあえず環境は休むには恵まれていた方だと思います。
・社員寮で職場まで歩いて20秒
(人に会いたくなかったので毎月診断書をこっそり出しに行きやすかった)
・寮といっても6畳風呂トイレ付きの普通のアパートのようなものなので
一人でゆっくり休める時間を作れたこと。
・職場には精神論を押してくる先輩方が居なかったこと。
・田舎なので兎に角静かだったこと。
初診後数日は薬がまだ効き始まらなくて
「苦しい」「迷惑かけて申し訳ない」「眠れなくて辛い」
という具合でしたが
2,3日後からは睡眠薬が効いてきて眠れるようになり
1週間経つと抗うつ薬が少しずつ効いてきて心臓バクバクの不安感や
「きちんと休んで早く仕事に復帰しよう」
と思えるようになってき始めました。
とりあえず体の怠さ、正常な判断力が出来なくて頭で何も考えることができない、
そして食欲が落ちました。
肉や出来合いのものは食欲が湧かないし、でもお腹は空くのでなんとか今食べられるものを
ということで色々試した結果
「納豆」と「めかぶ」を1日一食15時頃に1パックずつ。
これだけはなんとか食べられました。
そして毎日この食生活になっていきました。
引きこもってずっと布団で横になっているだけなのに
エネルギーは消費するんですね。
どんどん痩せていきました。
そしてめかぶのお蔭で体臭が全くなくなりましたw
生活費についてですが
「傷病手当金」というものを病院で教えてもらい職場の保険担当の人と一緒に申請に行き、
通常の給与の2/3だったかな?14~16くらい貰えました。
しかし、ある日保険料を期日内に納め忘れ手当金を受け取れなくなり
貯金を切り崩して生活する羽目になりました。
これは痛かった。
でも月10万ずつ貯金していたし、食費光熱費安く済んでいたのでそこは助かりました。
この間希死念慮や自己否定感はありましたが
安定してくると布団プラス座椅子で1日中「シンプソンズ」のDVDを垂れ流してそればかり見ていました。
テレビは見ていて落ち着かないし、特にバラエティーものなどのガヤガヤするものは本当に苦痛でした。
2週間に一回受診でJRに乗る時も人の居ない朝一で乗り
寮の人達とばったり会わないように帰る時間もずらしました。
希死念慮がなくなった今でもその頃から続いているのがその聴覚過敏です。
やがて半年ほど経っても一向に職場に行くのが怖くて働けなかったので
寮を出ざるを得ず、実家に引っ越しました。
うつ病診断が10月頃、実家に帰ったのが5月頃だったかな。
雪も解けた暖かい日でした。
広告
1 / 7