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『ガールズバンドクライ』とはなんだったのか:ファックサインと〈日常〉の反転|徳田四
本日のメルマガは、ライター/編集者の徳田四による寄稿文をお届けします。
2024年アニメ最大の話題作(問題作)の一つ『ガールズバンドクライ』。「2nd ONE-MAN LIVE」の開催など、いまだシーンを賑わせ続けている本作のアニメ史的達成とは何か。『けいおん!』や『響け!ユーフォニアム』における、脚本家・花田十輝の軌跡と比較しながら考察します。
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突然のお知らせとなってしまいまことに申し訳ございません。今後ともPLANETSのコンテンツをお楽しみいただけますと幸いです。『ガールズバンドクライ』とはなんだったのか:ファックサインと〈日常〉の反転
2024年4月〜7月にかけて放送されたアニメ『ガールズバンドクライ(ガルクラ)』は、同シーズン最大の話題作(かつ問題作)としてアニメファンに受け入れられた。
実際にミュージシャンとしても活動するロックバンド・トゲナシトゲアリの誕生秘話を描いた同作は、オーソドックスなロック神話を題材にした成長譚のようであり、それでいて映像表現の新規性やキャラクター造形などから極めて「現代的」なようでもあり、その評価をめぐってアニメ終了後の今もなお話題に事欠かない、2020年代を代表するアニメ作品の一つとなった。
「トゲナシトゲアリ」とはいささか独特なネーミングだが、その由来もアニメ作中(第7話)において明らかになる。実はボーカリストの井芹仁菜が、観客のTシャツに印字された文字を即興で読み上げただけという、少し肩透かしをくらうエピソードが描かれたわけだが、ある意味この展開は実に「パンク」バンドらしい。
たとえばTシャツといえば、アメリカのハードコアパンクバンド・Pennywiseは観客の着るシャツに印字されたバンドの楽曲を即興でコピーするパフォーマンスで知られているし、GREEN DAYはスタジアム規模のライブであっても観客をステージに上げて共演する演出が恒例となっている。こうしたパフォーマンスは「演者/観客」の境界を無効化する試みであり、「ステージダイブ」や「モッシュ」などもその一環である。
▲TVアニメ『ガールズバンドクライ』第7話挿入歌「名もなき何もかも」かつてカウンターカルチャーとして機能していた「パンクロック」は、このような行動を通じて「支配/被支配」「マジョリティ/マイノリティ」「男性性/女性性」などといった対立構造それ自体を破壊すべく、身体パフォーマンスとしてカオスを表明していたのである。単なる「マイノリティによる反逆」ではなく、「マジョリティ/マイノリティ」を定義する二項対立の成立条件そのものを問い直す、不断の脱構築への意思こそが真のパンクスピリッツだ。
こうした試みももはや様式美化している現代において、『ガルクラ』の主人公・井芹仁菜はいかなる意味において「ロック」で、彼女は何に対して「反抗」していたのだろうか。「ファックサイン」の代替として中指の代わりに突き立てられたその小指は、誰に向けられていたのか。
井芹仁菜の反抗動機
俗に「ロック」なキャラ、「狂犬」などと呼ばれがちな仁菜であるが、具体的に彼女が「反抗」していた人物は3人いる。
・河原木桃香(トゲナシトゲアリのギタリスト、元ダイヤモンドダストのボーカリスト)
・井芹宗男(仁菜の実父)
・ヒナ(ダイヤモンドダストの現ボーカリスト)そして彼女らに反抗すべく仁菜がロックに傾倒していったきっかけとして、以下のようなエピソードが語られる。
高校時代、同級生のいじめを知った仁菜は、自身の正義感からそのいじめられっ子を助けようとする。結果としてそのいじめはなくなるのだが、今度は仁菜がいじめの標的にされてしまう。やがて不登校になる仁菜に対して、「いじめ自体なかったことにする」という条件下での校長の仲介のもと、井芹家といじめっ子双方の家庭での和解の席が設けられる。
しかし自身の正義を頑なに曲げようとしない仁菜はその条件を拒否し、部屋を抜け出す。学校の放送室に立てこもり、全校放送でダイヤモンドダストの楽曲「空の箱」を爆音で再生する。仁菜にとってこの曲は決断の勇気を支えたものであり、周囲に理解者のいなくなった彼女の、唯一の心の支えになっていた曲だったのだ。
▲TVアニメ『ガールズバンドクライ』第1話挿入歌「空の箱」一連の騒動の後、仁菜は高校を中退し、自立を志して上京(厳密には川崎だが)することになる。そして上京当日、彼女の憧れである元ダイヤモンドダストのボーカリスト・河原木桃香と偶然出会うのだった。
この出会いをきっかけに二人はバンドメンバーを結集し、音楽活動を始める。しかしその後作中で頻繁に繰り返されるのは、仁菜と桃香の口喧嘩(時には取っ組み合い)である。
なぜ仁菜は憧れの桃香と口論を繰り返すのか。頻繁に繰り返されるこの展開から『ガルクラ』の主題に迫ろうと思う。そしてこのことが、かつて『けいおん!』(2009〜2010)において〈日常系〉的世界観を生きる少女たちを描いた脚本家、花田十輝の現在地を明らかにするだろう。
ゼロ年代に流行した〈日常系〉の諸作品は、物語的起伏をあえて廃したたわいもない会話劇を淡々と描くことで、ネット黎明期・ポスト〈セカイ系〉の時代で批判力を持った。そのなかで『けいおん!』はロックミュージックの持つ政治性をも〈日常系〉の淡白さに取り込むことで、音楽アニメの新地平を開いたのだ。
そう考えると『ガルクラ』で執拗に繰り返される「ドラマ」は『けいおん!』以前の作劇に「逆行」しているように一見思える。この変化をどう受け止めるべきだろうか。
河原木桃華への反抗
仁菜と桃香が出会ったその日、桃香は川崎駅前での路上ライブを最後に音楽活動を引退しようとしていたが、仁菜の歌声に惚れ込んだ桃香は彼女をバンドに勧誘し音楽活動を再開することになる。しかしその後も依然として桃香は、バンドの方針について(プロを目指すのかどうかについて)はあいまいな態度を取りつづける。
(元)ダイヤモンドダストとしてメジャデビュー目前に脱退して挫折を味わった桃香は、バンド活動を再開させてもなお自信を持ちきれずにいたのだった。そして終いには第7話においてバンドからの脱退まで宣言する。
仁菜からしてみればかつての憧れがなぜこうも優柔不断な態度でいるのか、その理由を問い詰めるがその度に桃香はあいまいな態度でお茶を濁し、何度も口論に至るのだった。
二人の口論は回を重ねるごとに激化し、決定的な衝突が第8話にて描かれる。そして桃香は音楽活動を再開した理由についてこう語るのだった。
仁菜が歌っているのを見て、自分が最初に歌っている姿を思い出したんだ。
仁菜は「売れたい」とか「認められたい」とかじゃなく、好きな歌をただ歌っていた。
あのときの仁菜は、私が好きだった私なんだ。あのころの私なんだよ。
だから仁菜のまま歌い続けてほしかったんだ。
何にも縛られず、その歌を横で聴いていたかったんだ。しかし仁菜は「私の気持ちはどうなるんですか」と、桃香の思いを否定する。そして平手打ちをかまして「私はあなたの思い出じゃない」と、徹底的に桃香を拒否する。
▲「あなたの歌で、生きようとおもった人間もいるんです」/TVアニメ『ガールズバンドクライ』『けいおん!』との決定的な差異がここにあるだろう。
比喩的に言えば、桃香は要するに「放課後ティータイム」を結成したかったのである。そしてたわいもない〈日常〉の中で、あらゆるしがらみに対して目を瞑り、無目的に音楽と戯れていたかったのだ。
しかし仁菜はそれに全力で「反抗」する。なぜならそうしなければむしろ仁菜の「日常」のほうが成り立たなくなるからだ。
かつての桃香の歌によって自身の正義感を貫き、高校を中退までした仁菜を受け入れてくれた大人は、周囲に存在しなかった。だから桃香にまでそれを否定されてしまっては、仁菜の「日常」の拠り所が消滅するのである。単身で上京し、未成年とは言えフリーターになり半分社会人として生きる仁菜が、「河原木桃香から受け取った勇気」も失ってしまうとき、その日常を支える根拠は何もない。「底辺」としての暮らしが待っているだけである。
自身の「日常」を守るため、仁菜には桃香に音楽活動を続けていてほしいという切実な思いがある。「日常」を守るためにこそ、〈日常〉に居直ろうとする桃香を否定せざるを得ないのだ。
〈日常〉の反転と大ガールズバンド時代
この構図は『ガルクラ』と同時期に放送されていたアニメ『響け!ユーフォニアム』(2015〜2024)第3期(『ユーフォ3』)の展開と共通する(シリーズ構成を『ガルクラ』と同じく花田十輝が務める)。
「実力主義」的方針を掲げる吹奏楽部部長・黄前久美子と、〈日常系〉的態度を貫く転入生・黒江真由との対立が強調されるのだ。
「楽しく演奏できればそれでいい」という真由は、コンクールメンバーのオーディションを辞退し、その参加権を譲ろうとまでするが、久美子はそれを否定せざるを得ない。それを受け入れれば「実力主義」によって成り立って(しまって)いた久美子のそれまでの高校生活=日常が否定されるからだ。部員全員に対して公平にオーディションの場が設けられることで成立していた久美子の日常が、真由によって否定されるのを防衛するのだ。
▲黒江真由(「たかが部活なんだし」TVアニメ『響け!ユーフォニアム3』第三回より)つまり『ユーフォ3』で描かれたことは、「実力主義」の称揚でありつつも、同時に「『日常』を成り立たせるための何らかのイデオロギーの保持」それ自体の優先である。そのことは「原作改変」が行われたアニメ版第12話がよく物語っている。このエピソード内で久美子は、「実力主義」において敗北するからだ。
全国大会でのソロパートを賭けたオーディションにおいて、久美子は真由に敗北する(原作の小説版では久美子が勝利する)。久美子は毅然としてその結果を受け入れ、ソロパートの座から退く。久美子が選択したのは切磋琢磨が生む喜びや悔しさ=「実力主義」という偶然選択されたイデオロギーによって成り立つ日常の保持であって、必ずしも特定のイデオロギーの称揚とは限らないことをアニメ版第12話は示した。
つまりアニメ版では主人公の久美子が敗北する=「実力主義」の恩恵を得られないことによって、「実力主義の称揚」という主張はやや控えられる。代わりに、「『日常』を成り立たせるための何らかのイデオロギー(「実力主義」であれ〈日常系〉であれ)それ自体の保持」という久美子の動機が前面化するのだ。
もっとも最終的には「実力主義」が〈日常系〉に「勝利」して物語は幕を閉じる。「学校の部活動」程度の狭い共同体においては、対立する二つのイデオロギーは「二者択一」にならざるを得ないのだ。そして久美子は母校の顧問教師として帰還することで、その争いの環境を再生産することになる。それが現行の「学校教育」システムの役割だと告げて、『響け!ユーフォニアム』は完結するのだ[1]。
しかし真由が転入生にも関わらず周囲の方針を無視して「〈日常系〉的態度」を主張できたのは、彼女が「上手い」からだ。そして彼女が〈日常系〉的つながりを維持できなくなったのもまた、演奏が「上手い」からだった(真由は自身の演奏力の高さ故に、友人を退部させてしまった過去を持つ)。
つまり「実力主義」に敗北するかどうか以前に、〈日常系〉自身の抱える矛盾と不可能性が黒江真由によってもたらされ、このイデオロギーは自壊しかけていたのである。黒江真由は〈日常系〉を象徴すると同時に「〈日常〉の不可能性」をも体現していたのであり、その矛盾が生む葛藤もまた、『ユーフォ3』におけるもう一つの主題である。
こうした「〈日常系〉的態度こそが人間関係に亀裂を与え得る」というモチーフが、アフターコロナ期の音楽アニメにおいてどのような批判力を持つのかを、私は数日前に『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(2023)の分析[2]を通じて論じたばかりだが、このような状況に対して『ガルクラ』はどのような結末を迎えるのだろうか。
話を戻そう。
『ガルクラ』における「親子」関係
『ユーフォ3』の久美子と真由のように、〈日常〉に居直りたがる桃香に対して、自身の「日常」の防衛として反抗を試みる仁菜。二人の衝突は花田自身がインタビューで明かしているように、「だらしない父親に反抗する思春期の娘」であるかのようだ。
あの5人は揃うと家族みたいな感じで、桃香がお父さん、ルパがお母さんなのでああいう感じなんです。すばるは長女で仁菜がその下の長男、一番下が智ですね。お父さんと長男がいつも取っ組み合いの喧嘩してる家族なんですよ。[3]
しかし〈日常系〉的態度を選択して仁菜(息子・娘)の自立(ビジネスとしてのバンド運営)を拒否する桃香は、「父」というよりむしろ「母」でありたがっているかのようだ。ここで言う「母」とはいわゆる精神分析的な意味での「母」、子を保護する存在一般のことであり、時にそれは子の成熟忌避・子に対する母の同化といった問題を引き起こす。
文芸評論家の三宅香帆は『娘が母を殺すには?』(PLANETS、2024)において、娘による母からの自立(比喩的に「母殺し」)がいかに困難かを、主に女性作家のフィクション読解を通じて論じた。それと似た構図が仁菜と桃香の関係(擬似的な母娘関係)にも見出せるとすれば、次のようなことが言えるだろう。
つまり仁菜の成熟の条件(母からの自立)として、かつ仁菜自身の日常の防衛として、桃香の〈日常系〉的態度を改めさせなければならない。「放課後ティータイム」ではなく一つの経済主体としてのバンド(トゲナシトゲアリ)の大黒柱に桃香を位置付けること。桃香に「母」ではなく「父」になってもらうことが、仁菜にとっての「成熟」であり「日常の防衛」でもある。
先述した第8話の仁菜と桃香の衝突を経て、この「成熟」と「防衛」は果たされる。仁菜の必死の説得により桃香は再びプロミュージシャンの道を歩むことを決意する。そして仁菜は桃香のことが「好き」なのだと「告白」することで、対等な「パートナー」として成熟するのだった。
「母」としての桃香を「父」にして、かつその「父」と対等なパートナーとして成熟することで仁菜は「母殺し」を達成するという、アクロバティックな展開である。他者を「父」化する権利を持つという意味で、家族関係に対して超越者であるとさえ言える。
そしてここで「親―子」の対立構造(桃香への「反抗」の必然性)が消滅=脱構築する。冒頭で述べたように二項関係における弱者(子)が単に反逆を試みて、一方(親)を打ち負かすのではない。その二項対立の成立条件そのものを消滅させまったく別の関係を立ち上げる、脱構築としてのロックが奏でられるのである。
したがって「学校」という舞台設定の制約ゆえに「実力主義」と「〈日常系〉的態度」の対立構造が温存される(どちらか一方が敗北する)『ユーフォ』とは異なる道を、『ガルクラ』は歩むことになるだろう。
宗男への反抗
擬似的な「母」の「父」化による「母殺し」というアクロバティックな展開がある一方で、『ガルクラ』においては仁菜の実父も大きな存在感を放つキャラクターとして登場する。仁菜の上京後は仕送り以外では絶縁状態にあった宗男である。
第10話における仁菜と宗男の和解エピソードは、比較的ウェルメイドな通過儀礼として解決しており特に奇を衒ったことはしていないが、あえて特筆事項を挙げるとすれば二つある。
一つは宗男が安易な「毒親」として描かれなかったことだ。「毒親」「いじめ」「貧困」などといった先天的不幸を元にした復讐劇はフィクションにおいて類型化しているが、『ガルクラ』における宗男はむしろ、仁菜の上京後は自らの振る舞いを反省するなど理解ある父親として描かれる。
これによって「不幸からの脱却」と「ミュージシャンとしての自己実現」を結びつけるようなテンプレ的展開を絶妙に回避しており、あくまでも仁菜が自ら下した決断(いじめられっ子の救済)によって負った理不尽なダメージを、自身の手で挽回するという展開に収まっている。物語終盤までは断片的に描かれる仁菜の過去描写は、「仁菜自身がいじめられていた」というテンプレ的予想をミスリードしつつ、ある種のミステリとしてその後の展開を期待させる機能を担ってもいただろう。
加えて、1エピソードで簡潔に通過儀礼を終えたことで「父からの自立(父殺し)」の神格化を回避している。排除すべき敵としての「独親」「父」を逆説的に過大評価することを避け、あくまでも仁菜自身の成長に焦点が当てられていると言えるだろう。そして二つ目の特筆事項は、仁菜と宗男の和解のサインとして「(小指の)ファックサイン」が用いられたことだ。作中では仁菜が桃香に対して「中指を立てたくなったら小指を立ててほしい」とお願いするかたちで「小指のファックサイン」が誕生し、その後の展開で頻出する。
当初は(放送コードを回避するカモフラージュ的な意味で)単純な中指の代替として、気に食わない相手に「ファックサインだと気づかせないままファックを表明するため」に使われていた。しかし上述したように、やがて「和解」の印やライブ前の円陣の代わりなど身内に向けたジェスチャーとして、複数のキャラクターが使うようになっていく。
「小指ファック」のこの両義牲を、どのように解釈すべきだろうか。仁菜(互い)にとっての「ラスボス」的存在である、ヒナとの関係をもとに考えてみよう。
▲第11話、ライブ直前の円陣として「ファックサイン」が用いられるシーン(「小指、立てませんか?」/TVアニメ『ガールズバンドクライ』)ヒナへの反抗:「ファックサイン」の反転
ヒナは、桃香脱退後のダイヤモンドダストのボーカリストとして登場する。桃香在籍時代の同バンドから、明らかに楽曲の路線が変わりいわゆる「アイドルバンド」となってしまったダイヤモンドダストの象徴である。仁菜にとってはかつてのダイヤモンドの、つまり自己否定の象徴だ。
高校時代、仁菜の友人だったヒナは、例のいじめ問題には関わるべきではないと仁菜に忠告する。そして仁菜がいじめの標的にされたとしても自分は助けられないと現実主義的な態度を示すが、けっきょく仁菜は中退し二人は絶交状態にあったのだった。
そんなヒナが偶然ダイヤモンドダストのボーカルオーディションに受かっていたことを知り、仁菜は憤慨する。そして自身の決断の正当性を示すため、現体制のダイヤモンドダストに「勝つ」ことを目標にバンド活動にのめり込むのであった。
しかし、この「反抗」動機の必然性も最終話で消滅する。
最終場面のライブMCで、仁菜は客席にいるヒナを見つけ、高校時代の思い出、いじめられっ子を助けに向かった経緯を話す。自分の決断に何一つ後悔はないと、いまここにいる自分自身の肯定を宣言する。
そして桃香の歌う「空の箱」によってその決断は成し得たのだと告げて、あることを思い出す。ヒナとダイヤモンドダストを聴いていた日々、楽曲への思いを語り合っていた日々のことを。
桃香さんの歌があったから私は強くなれたし、そんなことをよくヒナと――。
……ヒナも好きだった。ダイダスの歌が。私だけの歌じゃない。ちゃんと届いてたんだ。つまり最終場面において、仁菜がダイヤモンドダストに抱く思いを、誰よりもヒナこそが理解していたことが明らかになる。
このライブの数日前、ヒナは仁菜のことを呼び出して「共演」の提案を持ちかけていた。チケットの売上が振るわないトゲナシトゲアリのマネージャーが、ダイヤモンドダストに共演を依頼していたことを暴露し、あえて煽り口調で依頼を飲んで「あげてもいい」と告げるのだった。当然仁菜は拒否するが、ヒナはそのことを理解していて、むしろ仁菜が共演を拒否するよう仕向けたように描写されている。
さらに、仁菜のライブMCでの発言(過去のライブで仁菜は「全部を晒して生きてやる!」と叫んでいた)を小馬鹿にしながら、ヒナはこうも言う。
「全部晒して生きてやる」んでしょ?
間違ってたって言えばいくらでも助けてあげる。
▲「間違ってたって言えばいくらでも助けてあげる」/TVアニメ『ガールズバンドクライ』実はヒナはバンド結成後の仁菜の動向をずっと追っていたことが明かされるのだった。ヒナはかつては仁菜のよき友人であり、そして今でも仁菜の直情的な性格のよき理解者である。
つまりダイヤモンドダスト(かつての桃香とヒナ)は、最初からずっと仁菜のことを肯定していたのだ。
こうして仁菜の「反抗」動機は脱構築され、そして「ファックサイン」の意味が反転する。
「ライバル」バンドとして互いにファックサイン(小指)を向け合っていたトゲナシトゲアリとダイヤモンドダストだったが、ヒナとの「和解」が成立してからはファックとしての意味は変容する。反抗すべき「敵」を定義するためではなく、むしろ敵だと思われていた対象と繋がり合う、「契り」の印として中指の代わりに小指が突き立てられるのだ。
「敵」に向けるためのサインではなく、「敵」とのつながりを見出し二項対立の成立条件自体を無効化する、「脱構築としてのロック」のジェスチャーとして「小指ファック」が誕生したのである。
▲(アニメ『ガールズバンドクライ』公式Xより)なぜ『ガルクラ』はCGで描かれたのか
これらを踏まえて、最後にもう一度「仁菜と桃香」の対立に話を戻そう。この対立は、花田が『ユーフォ3』で描いたように「実力主義」と〈日常系〉の対立構造になぞらえることができるのであった。しかし『ガルクラ』における「反抗」が脱構築の達成までを見据えているとすれば、「〈日常系〉的態度」と「実力主義」の対立も無効化できる可能性がある。
仁菜も『ユーフォ3』の久美子と同じく、「実力主義」において敗北する。楽曲の再生数、ライブチケットの売上ともに、現ダイヤモンドダストに完敗するのだ。
ここで武道館満員にしてダイダスに勝ったら「ラブライブ」になっちゃいますから、ハッピーエンドは最初から全く頭になかったですね。(略)簡単に問題は解決するはずなんてない。でも進むしかない。この話で一貫して描いてきたのはそこなので、それを表現するにはどの形が一番だろうと考えて、あのラストになりました。(「ガルクラ総研1:脚本・花田十輝は『ガールズバンドクライ』で何を伝えたかったのか 制作の舞台裏に迫る」[5]より)
したがって『ユーフォ3』と同様に前面化するのは、「特定のイデオロギー(実力主義)の称揚」よりも「すでに成立してしまった日常の防衛」そのものが優先されるというモチーフである。
そして『ユーフォ3』が「実力主義」と「〈日常系〉的態度」の対立構造を再生産したのに対して、『ガルクラ』において両者の対立は脱構築され、むしろ実力主義(ビジネスとしてのバンド運営)の中でこそ瑞々しく〈日常〉が立ち上がることを示しているだろう。それはフルアニメーションチックなCG表現に現れている。
たとえば第12話において、安和すばる(トゲナシトゲアリのドラマー)が鍋パーティ開催を宣言するシーンは、不必要なほど過剰に「ヌルヌル」動いており、ライブシーンに匹敵するほどファンには人気の場面である。物語の本筋的には鍋を囲む必然性はなく(すばるが開催を宣言してもパーティは始まりすらしない)、いわゆる「日常パート」として差し込まれる場面だ。
▲「ディズニー」アニメーションを彷彿させるレベルで豊かに変化するすばるの表情は、視聴者に特に人気のシーンである(TVアニメ『ガールズバンドクライ』第12話「空がまた暗くなる」WEB予告)。『ガルクラ』においてはこうした、物語の本筋に関わらないたわいもない「日常パート」と、たとえば仁菜と桃香が喧嘩するような「見せ場」のシーンはどちらもCGのフルアニメーションで描かれる[6]。「〈日常系〉的態度」が現れるたわいもないやりとりと、「実力主義」の中で生じる険悪さを孕んだドラマ、両者が解像度的に「等価」であることを、映像が物語っているかのようだ。仁菜とヒナとの「和解」によって、仁菜が思い描いていた対立構造が実は最初から脱構築されていたことを、映像的には「最初から」示唆していたかのようである。
仁菜が上京した時に思っていた敵と味方、正義と悪みたいに世の中単純ではないと、彼女自身が学んでいくんです。実際そういう内容のことを仁菜が言いますし。すばる的には「どの口が言う」でしたけど(笑)。[7]
▲映像の大半がライブシーンで占められるなか、不意に差し込まれる「牛丼」のカットにこの作品のスタンスが表れている(アニメ【ガールズバンドクライ】メイキングムービー)。つまり『ガルクラ』は、一見するとロックミュージックの題材としての扱い方が良くも悪くも古典的に捉えられる一方、作中で提示された対立構造が最終的に全て無に帰すという意味でよりラディカルに「ロック」の描き方を徹底している。
さらにアニメ史的位置付けを考えるならば、次のようなことが言えるだろう。つまり〈日常系〉も「実力主義(によるサクセスストーリー)」も、今や等しく「かつて発明されたイデオロギー/ジャンル」として相対化されている。花田十輝のキャリア初期の傑作として『けいおん!』を位置付けるならば、同作が〈日常系〉の臨界点として社会現象をもたらし、その後『ラブライブ!』を筆頭にしたアイドルブームにおいて音楽アニメの雛形を形成した。
しかし『ユーフォ』『ガルクラ』において花田自身がその終焉と更新の可能性を提示し、俗に言う「大ガールズバンド時代」と合流したのだ。いま音楽アニメに問われていることはむしろ、『けいおん!』=〈日常系〉からの脱却がいかにして可能なのかということだろう。
井芹仁菜が「母」としての河原木桃香から自立を果たしたように。
来るべき「Avoid Note」に向けて
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『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四
本日のメルマガは、ライター/編集者の徳田四による寄稿文をお届けします。
近年のアニメシーンで話題の「ガールズバンドアニメ」。〈日常系〉の臨界点としての、かつての『けいおん!』と2010年代のアイドルブームからの転換は何を意味しているのか。昨年のヒットから話題の絶えない『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』の達成を中心に考察します。『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ
『ぼっち・ざ・ろっく!』『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』『ガールズバンドクライ』――2022年から毎年立て続けにヒットしている「ガールズバンド」アニメが、アニメ業界を震撼させている。2010年代以降のアイドルブームからの大転換、かつての『けいおん!』(2009)をはじめとする〈日常系〉の再解釈、「百合もの」の勃興、ロックンロール神話の再興、声優陣によるリアルライブと「2.5次元」、アニソンのグローバル化、3DCGアニメーションの現在地……ざっと思いつく限りでもこれだけの論点が提示される。いま「ガールズバンド」をどう語るべきか。アニメ視聴者にとっての最優先事項である。
表面的には「音楽アニメ」の主流が「アイドルもの」から「ガールズバンドもの」に転換しつつあると受け取れる。そして一般的には『ぼっち・ざ・ろっく!』が最大のヒット作とされているが、しかし実は『BanG Dream! It's MyGO!!!!!(It's MyGO!!!!!)』こそがいかに革新的なのかを示すことが、この転換のメカニズムを明らかにするだろう。
『ぼっち・ざ・ろっく!』のヒットでもたらされたことは、『けいおん!』の再評価、すなわち〈日常系〉作品と、声優による生演奏ライブのポテンシャルを再解釈する機運である。この二つの遺伝子は現在どのように継承されているのか。まずは2010年代のアイドルアニメについて、〈日常系〉との比較から簡単に振り返ろう。
『けいおん!』から『ラブライブ!』へ
2010年代のアイドルアニメを象徴する『ラブライブ!』(2013)と『けいおん!』の共通点は、多くの論者が指摘してきた[1]。〈日常系〉の最高傑作の一つである『けいおん!』は、このジャンルの諸作品が描く「いまこの瞬間のゆるいつながり」の肯定性をロックミュージックに乗せて描き、音楽アニメのあり方、音楽シーンにおけるアニメ声優の扱いを一変させた。評論家の宇野常寛は、実写青春映画『リンダ リンダ リンダ』(2005)との共通性を見出しながら同作を評して「ロックの意味を書き換えた」と論じたほどである[2]。敵を見失った「反権威の象徴」から端的な「〈日常〉の肯定」へ。放課後ティータイムによってロックミュージックは更新されたのだ。
その後2010年代になるとAKBグループやももいろクローバーZが牽引した「ライブアイドルブーム」と合流し、音楽アニメもアイドルを題材にした作品が頻出するようになる。象徴的な作品が『ラブライブ!』で、『けいおん!』とのスタッフの共通性(脚本家の花田十輝)などから両作は度々比較されてきた。特に「軽音部」「スクールアイドル」といった「部活もの」の設定は「日常」「青春」の刹那性を表現するのに相性がよく、さらにアイドルライブにおけるパフォーマーとオーディエンスの一体感を高める演出[3]や、(主に10代の)アイドルが持つ「キャリア形成の不可逆性」が刹那性を高めるうえで相乗効果をもたらし、アイドルこそが「いまこの瞬間の日常」の肯定性を歌い上げるのに極めて適していた。転じて2010年代の、特に前半期においては「復興」「町おこし」のアイコンとしてアイドルが機能することもあった。
「いまこの瞬間」の肯定機能としてのアイドル像は、たとえば『ラブライブ!』作中で結成されるアイドルグループ、μ'sの楽曲のリリックにも反映されている。
奇跡 それは今さ ここなんだ
みんなの想いが導いた場所なんだ
だから本当に今を楽しんで
みんなで叶える物語 夢のStory
(KiRa-KiRa Sensation!)〈日常系〉作品は時に〈空気系〉と呼ばれることもあり両者はほぼ同義として扱われているが、アイドルによる〈日常〉の肯定は、いわば「熱気」あふれるものとして一時代を築いたのである。
ところがSNS社会の進行とともに、アイドル産業が抱える構造的問題がやがて指摘されるようになる。たとえば香月孝史が指摘するように、アイドルの(ファンサービスとして事実上不可欠な)「プライベートの投稿」すらもコンテンツとして消費される状況は、労働上の問題があると認識されるようになっていった。香月はこの構造を「日常化するドキュメンタリー」として批判的に分析している[4]。まさに「日常」に潜む問題として、アイドルが「日常」のことを自己言及的に発信すれば、むしろその「日常」は崩壊する(「労働」として回収される)という矛盾を抱えるのである。
「アイドルによってこそ〈日常〉は肯定し得る」ということと「アイドルがアイドルであろうとし続ける限り、アイドル自身の日常は失われてしまう」という二つの言説が両立してしまうジレンマが生じたのだ。
この(もはやアイドルに限らなくなってきた)問題を「アイドルの立場」から端的に告発した作品として、乃木坂46一期生・高山一実原作によるアニメ映画『トラペジウム』(2024)がある。アイドルを夢見る女子高生の東ゆうは「日常化するドキュメンタリー」の問題に極めて自覚的で、あくまでも「演出」としてボランティア活動に参加しその様子をSNSに投稿するなどして、彼女が「アイドルとして好ましい」日常を過ごすさまが露悪的に描かれる。
▲東が「日常化するドキュメンタリー」にあまりに自覚的なことと、それでもなおアイドルという職業に固執し続けるさまが狂気的であるとして、公開当時一部のアニメ視聴者から頻繁に話題にされていた。しかしこの問題の「深刻さ」について本編の分量の大半が割かれる一方で、「解決」について何かを提示する試みはほとんど放棄しており、終盤は一度アイドル活動に挫折した東の再起とアイドルとしてのある程度の成功が、半ばダイジェストのような形であっさりと描かれて物語は幕を閉じる[5]。こうした脚本の展開自体が、「この問題についてはアイドル自身もファンも芸能プロダクション側も認知しているが、解決については誰も手をつけられないでいる」構造を暴露してしまっているかのようであり、ある意味でアイロニカルな悲劇として受け取れる。
『トラペジウム』がこの2020年代になって「アニメ」化したことは示唆的である。現実と同じようには「日常化するドキュメンタリー」が問題化されないアニメの世界においてもこの事態がメタ言及されるようになったことは、ジャンルとしての成熟(≒転換期)を象徴している。
それでは近年の「ガールズバンドもの」の代表作の一つ『It's MyGO!!!!!』が、このようなアイドルを取り巻くメディア環境に対しての「カウンター」としてパンクロックを奏で、音楽アニメの新たな地平を切り開くとすれば? 本題に入ろう。注
[1]高瀬司「スクールアイドルの輝きの向こうへ 『けいおん!』から読む『ラブライブ!』」(「ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ」青土社、2016)。
[2]『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2011)や『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版、2018)における〈日常系〉の分析より。
[3]松本友也「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」(『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』青弓社、2022)では、アイドルに求められる「アマチュア性」とファンの主体性がライブでの「一体感」の醸成にどのように関係しているのかが分析されている。
[4]香月孝史「絶えざるまなざしのなかで アイドルをめぐるメディア環境と日常的営為の意味」(前掲書)
[5]そもそもこの作品の物語自体「ダイジェスト的」だとする否定的な意見が公開時にしばしば見られた。もっともこれは高山が小説家としての技量的には発展途上であるという以上の指摘にはなり得ないが、しかしこの「ダイジェスト」ぶりは、結果的に視点人物でもある東ゆうの周囲への関心のなさ(なにもかもが「ドキュメンタリー」の演出要素でしかないという認識)を表しているかのようだ。「ごはんはおかず」から「春日影」へ:〈日常系〉再解釈
『It's MyGO!!!!!』にも、たとえば先に引用したμ'sの楽曲や『けいおん!』の劇中歌「ごはんはおかず」「天使にふれたよ!」のように〈日常〉のつながりを自己言及的に肯定する楽曲が登場する。「春日影」である。
雲間をぬって きらりきらり 心満たしては 溢れ
いつしか頬を きらりきらり 熱く 熱く濡らしてゆく
君の手は どうしてこんなにも温かいの?
ねぇお願い どうかこのまま 離さないでいて「春日影」は女子中学生バンド・CRYCHICが作曲したもので、ボーカルの高松燈がメンバーとの絆と感謝を歌ったものである。口下手かつ「天然」で周囲に馴染めない性格だった燈はバンド活動を通して初めて他人との友情を感じ、その思いを「春日影」の歌詞に乗せたのだ。
ところがこの「春日影」が演奏された直後には、むしろ必ず何らかの「決別」が訪れてしまう。
CRYCHICが「春日影」を演奏し、初めてのライブを成功させた直後、バンド発足者である豊川祥子はなぜか姿を現さなくなってしまう。数日後、雨の中傘も刺さずにずぶ濡れの状態でスタジオに現れた祥子は、突然バンドからの脱退を宣言する。ドラマーの立希は祥子が無責任だとして糾弾するが、それをベースのそよがなだめる。そよは全員がこのバンド活動を楽しんでいたはずだと、解散するのはおかしいと、周囲に問いかける。そしてギターの睦が答える。
私は、バンド、楽しいって思ったこと……一度もない
そよは絶句する。CRYCHICは事実上の解散となった。そして時は流れ、彼女らが高校1年生になった時期へと場面は移る――。
これが「第1話の冒頭」で描かれるシーンである。
▲「アニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』#1 冒頭部分の一部を公開!」
動画タイトルからは信じられないほど険悪なシーンである。続く第7話においても「春日影」は演奏されるが、やはりそこでも「日常のつながり」の肯定には失敗する。元CRYCHICの燈、立希、そよに新メンバーとして愛音と楽奈が加わってバンド活動が再開し(後に「MyGO!!!!!」として正式に発足する)、いよいよ初めてのライブを迎えた場面だ。
CRYCHICに未練を持つそよは、あくまでも「春日影」は練習曲として位置付けていたものの、本番中に楽奈が即興的に「春日影」のイントロフレーズを弾き始め、なし崩し的に演奏が始まってしまう。やむをえず演奏に加わるそよだったが、そこで偶然ライブ会場に訪れていた祥子を目撃してしまう。そして、かつてCRYCHICの絆を歌った「春日影」が別バンドの曲として演奏されるのを見て、祥子は泣きながらライブハウスから駆け出していってしまうのだった。そしてライブ終了後、そよはメンバーに対して激昂し、バンド活動に姿を見せなくなってしまう。
▲【アニメ切り抜き】なんで春日影やったの!?
「春日影」演奏直後、そよの激昂シーンは国内外(とくに中国)の視聴者から度々話題にされる。バンド演奏を通じた「日常のつながり」の肯定は、『It's MyGO!!!!!』においては必ず失敗するのだ。むしろ「日常の自己言及的な肯定」自体が原因となって日常自身が自壊するとさえ言ってもいい。
そのことは第7話の映像演出にも表れている。同エピソードではライブ直前のシーンまでメンバーの楽屋での様子が描かれるが、それはBGMもない定点カメラの視点で描かれる。監督の柿本広大はこれについて「MyGO!!!!!の自然なやりとり」を撮りたかったと述べている[6]。定点カメラによる「ドキュメンタリー」風アングルで、自然なやりとり、すなわち「日常」的な姿が描かれたわけだ。
しかしその直後彼女らが直面するのは「つながりの崩壊」である。ここでは『ラブライブ!』が『けいおん!』を継承したのとは逆の事態が起きていて、〈日常系〉的メンタリティを音楽に乗せることにむしろ挫折することから物語が始まるのだ。
「アイドルもの」が成熟期を迎え、音楽アニメが継承してきた「〈日常〉の肯定」がむしろ困難なものとして描かれること、これを「日常の不可能性」と呼んでおこう。そしてこの「日常の不可能性」にどのように立ち向かえばいいのか、音楽アニメとしての射程が問われるのはこの意味においてである。[6]『TVアニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」official guidebook FOTPRINT』(ブシロードワークス、2024)p.87
「日常の不可能性」と「ちいさな一瞬」としてのつながり
かつて放課後ティータイムが歌った「ごはんはおかず」のような〈日常〉の素朴な肯定が不可能となれば、別の回路が必要になるだろう。『It's MyGO!!!!!』においてそれは「ポエトリーリーディング」という形で現れる。
ポエトリーリーディングとは一般的には音楽に合わせてある程度のリズムで、かつメロディを排して詩を読み上げることを言う。『It's MyGO!!!!!』においては燈の「心の叫び」としてポエトリーリーディングが登場する。
先述した第7話での「春日影」の演奏後、そよの断交を期に事実上の活動休止に陥ったバンドメンバーだったが、燈はバンド活動の再開とメンバーとの和解を決意する。そしてたった一人で、詩の朗読という形でライブ活動を始めるのだった。
「春日影」を歌ってしまったことへの後悔、メンバーへの罪悪感、それでもなお感じている絆を、言語化しようともがく。言葉にしきれない思いの輪郭が少しずつ現れていくかのように、ライブを行う度に詩の内容は徐々に変化していく。こうした燈の姿に感化された楽奈、やがて立希も、燈の「ライブ」に参加するようになり、後に愛音も燈の説得によりバンドに復帰するのだった。
そして燈、楽奈、立希、愛音の4人でのライブ本番当日、そよが観客として姿を現す。そよを見つけた燈はステージを駆け降り、演奏に加わってもらおうと彼女の手を取る。バンドを「終わらせにきた」つもりのそよはそれを頑なに拒否するが、ついにステージまで上げられてしまう。愛音が、エレキベースのストラップをそよの首にかける。楽奈がアルペジオを弾き始め、燈のポエトリーリーディングが加わる。立希のドラムフレーズが重なり、やがてアドリブセッションとしてライブ演奏が始まった。
一緒に泣きたいよ
一緒に笑いたいよ
僕らの道が平行線だとしても
昨日を握ったまま ズキズキふるえてる
痛いほど伝わるから君を離れないうたう 手と手をつなぐうた
ほどきたくないんだ ずっと一緒にいよう
うたう 僕らになれるうた うたう
ここではじめよう もう一度メンバーは輪を作り、お互いを見つめながら演奏が進む。演奏をバックに、CRYCHICの思い出、初ライブを決意した瞬間のカットが走馬灯のように次々と差し込まれる。過去を受け入れ、「つながりの肯定」の自己言及に唯一成功する瞬間である。
うたううた うたういま ああ届いて
君の胸に まだ間に合うかい「つながり」への意思は歌詞の「意味」によってだけではなく、端的な言語の「音」としても表現されているだろう。発音上、母音の連続は省略・接続され「うたうたうたう」と発声されるこの歌詞は、音素レベルで循環構造を成しており、バンド(輪)の「つながり」を象徴しているかのようである。
やがて「詩超絆」として実際に音源化するこの演奏は、作中では「即興でたまたまできた曲」として扱われ、二度と演奏されることはない。「つながり(日常)の自己言及的な肯定」が成功するのはほんの一瞬の出来事で、それを反復することにはまたしても困難が生じるのである。
▲詩超絆(アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」#10 挿入歌)なぜ「即興」の、「ポエトリーリーディング」の楽曲としてなら、ほんの一瞬でも「日常の肯定」を成しうるのだろうか。あるいはなぜ「ポエトリーリーディング」が必要とされたのか。
ポエトリーリーディングは、歌詞を「言語記号」として強調する。本来「歌詞」はあくまでもメロディという「音楽記号」としての機能から逃れられないが、ポエトリーリーディングにおける「歌詞」は端的な言語記号として現れる。そして楽器隊による演奏(=音楽記号)との衝突・分離が起きるために「歌詞」の言語性は相対的に強調されるのだ。
したがってポエトリーリーディングで綴られた歌詞の内容は、それがそのままボーカリストの「本心」であるかのような演出をより強調する[7]。『It's MyGO!!!!!』において「日常」は素朴に肯定されるものではなく、そうまでして本「心」の叫びとして、力の限りを尽くして強調してようやく肯定されるものとして現れるのだ。しかしそれでもなお「日常」の肯定に成功するのはほんの一瞬で、それも偶然起きた出来事である。それほどまでに「日常の肯定」が困難なものとして、希少なものとして描かれる。
つまりここでも『けいおん!』や『ラブライブ!』が描いていたような、「卒業」という時間的有限性から〈日常〉の刹那性を相対的に強調したのとは逆転した現象が起きている。前提として「日常」が不可能なものだからこそ、それを成り立たせるには困難が伴い、かつそれはほんの一瞬しか現れないという意味での「刹那性」にたどり着くのである。「いつか失われるかもしれない(「卒業」による有限性)」からこその刹那性ではなく、「最初(第1話時点)から失われている」からこそ一瞬だけ立ち上がる刹那性である。
そのことはアニメ放送時点での最新曲「迷路日々」の「ちいさな一瞬 あつめたい」というリリックが的確に表現している。
迷いながら 戸惑いながら歩く
めいろの中で 僕らは居合わせてた
名前のない感情 ああ 抱きしめてる
ちいさな一瞬 あつめたいちっぽけだって 隠さないでいたいよ
はみ出したまま 不揃いな僕らでも
いびつな言葉で ズレては すれ違ってさ
傷つけたことに 傷ついてる
それでもこの手を ほどかないただし「迷いながら」「戸惑いながら」というように、やはりはっきりとそれを断定するには至らない、わずかなためらいも見出せるだろう。そのことは歌詞の「音楽記号」としての側面にも現れている。
理論的な話に踏み込むが、たとえば引用したサビに頻出するボーカルのロングトーンの音は「ド#(C#)」である。それに対して楽器隊は伴奏(コード)として「ソ(G)」を鳴らす。詳細な説明は省くが[8]、ベース音の「ソ」に高い「ド#」を当てるのは限りなく不協和音に近い(厳密に不協和音というわけではないが)。ためしに適当なピアノアプリか何かで「ソ」「(より高い)レ」「(より高い)ド#」を同時に鳴らすとどれほど不安定な響きであるかがわかるだろう。
歌詞の水準では「つながりの肯定」を望みながらも、編曲の水準では随所に不協和が生じているのだ。あるいは逆の言い方として、不協和(=日常の不可能性)が生じるのは前提のうえで、それでもなお一瞬だけ生じる「つながりの肯定」への意志を持ち続けるという決意の現れだとも解釈できる。
ライブって、一瞬で……
でも、あのときの気持ちや、眩しさは、確かにある
そういう、一瞬一瞬を沢山かさねたら、一生になるんだと思う燈が最終話で口にしたこのフレーズは、その宣言である。「ちいさな一瞬」としてのつながりの肯定を、試行錯誤しながら「一生」重ねること、それが「日常の不可能性」への「反抗」としての、MyGO!!!!!が奏でる新たなパンクロックの形である。
▲【Official Music Video】迷路日々 / MyGO!!!!!【オリジナル楽曲】[7]たとえばポエトリーリーディングの楽曲を制作する音楽ユニット・MOROHAはこうしたポエトリーリーディングの特徴を生かしたエモーショナルなリリックが評価されている。
[8]この曲のキーがDメジャーであるとして、パワーコードで弾かれたGをG△7の省略形だと解釈すれば、それに対してボーカルメロディのC#がオルタードテンションの#11thを担っていると思われる。ボーカリストが何の補助もなしにこの音を当てるのは非常に難易度が高いはずだが、このロングトーンの直前に毎回楽器の音がブレイクし、そこに差し込まれるアカペラの上昇メロディがC#のロングトーン発声に対して補助的な機能を果たすのだろう。大ガールズバンド時代宣言
「日常の不可能性」への「反抗」というイメージで思い出されることは、2020年の世界的なパンデミック進行の直後、「ロック」が音楽シーンにおいて「復権」したことである。ラッパーのmgk(Machine Gun Kelly)が同年9月に発表した「ポップパンク」のアルバム『Tickets to My Downfall』は、全米Billboard 200で1位を獲得した[9]。まさに「日常」が一瞬にして「不可能なもの」に変容したあの時期、その鬱屈さへの「反抗」としてロックミュージックは再起動していたのだ。
パンデミックが引き起こしたのは日常の崩壊、とりわけ「青春の自明性」の崩壊である。それこそ「部活動」や「文化祭」が計画通りに開かれないまま卒業を迎えてしまった学生は大勢いるだろう。
それ以前に21世紀社会では中間集団(家族や企業、地域共同体など)の衰退による、大衆の個人化が進行していた。プライベートの人間関係は社会から与えられるものではなく「選択的」にならざるを得ず、その関係性の不明瞭さはしばしば社会問題にもなった。「友人関係において、関係の維持を保証する材料は、『お互いの納得感』以外にあまりない。しかし、納得感には、継続性に乏しい、という欠点がある。今、関係性に納得していた友人が、その後も、納得し続けてくれるかどうかは、わからないのである」[10]。
石田光規は『友人の社会史』(晃洋書房、2021)において、2000年以降「無菌化された友情(=本来なら生じるはずの、対人関係におけるいざこざを一切除外した友情)」の物語が急増したことを、新聞記事の分析をもとに明らかにしている。〈日常系〉がゼロ年代に流行したこともその現れの一つであろう。
しかしそこにパンデミックによって「学校」という舞台も破壊されうることが明らかになったいま、いよいよその「無菌化」もフィクションにおいて機能不全を起こしつつあると言えるだろう。さらに言えば〈日常系〉における人間関係の「無菌」性は、キャラクターたちが同性同士である(異性愛的恋愛関係に発展しにくい)ことで支えられていたと指摘されることがあったが、現代のジェンダー観でそれを言うのは難しい。
したがって(時期的には偶然)アフターコロナの時代に登場した『It's MyGO!!!!!』は、「無菌化」とは別の仕方で「日常の肯定」を試みた作品だと解釈可能である。さらに言えば『ぼっち・ざ・ろっく!』『It's MyGO!!!!!』『ガールズバンドクライ(ガルクラ)』はいずれも学校の「部活動」ではない舞台(いわゆる「外バン」)の物語だ。音楽バンドはまさに「選択的」な人間関係の象徴であるし、とりわけその関係を「いざこざ」を含みながら(=無菌化せずに)運営していく困難を描いたのが『It's MyGO!!!!!』である。
「つながりを保証する場所(の自明性)」の崩壊を経験した少女たちが、いかにして「日常」のつながりを立ち上げるか。第11話で楽奈が呟くセリフは、この作品の主題を象徴している。
ライブハウスやってた。SPACE。一生あるって思ってた。なくなったけど……。
でも、居場所って、また誰かが作るんだって。つまり「パンデミック後の青春への希求」「〈日常系〉の機能不全」「日常化するドキュメンタリーに直面したアイドル(の成熟)」、この三つの合流地点に位置するのが『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』であって、こうした時代性(への反逆)を新たなロックミュージックの定義として奏でるための舞台、それが「大ガールズバンド時代」[11]である。
近年のバンドアニメブームに対して、半ばネタ的に呼称されるこのワードの定義を、ここで宣言しようと思う。そして『It's MyGO!!!!!』こそがこの新時代の地平の原点Oである。
ここにおいてロックミュージックの新たな転換を見出すことができる。「最初の」ロックが「反権威」の象徴だとして、それを表明できるのは商業的に評価されたものだけだという矛盾を抱えており、その矛盾に耐えきれずにカート・コバーン(ニルヴァーナ)は自死したのだ[12]。
やがて反権威性を脱臭することで新たな定義を試みた、放課後ティータイムによる「〈日常〉の肯定」としてのロックもいまや不可能性に突き当たっている。そもそもその「持続」は不可能であることを『けいおん!』自身が明らかにしてしていたのであって、むしろ卒業という「時間的有限性を持ち出さなければ〈日常〉を肯定できなくなった」のが〈日常系〉の臨界点としての『けいおん!』である。
今や〈日常〉は、持続性に乏しいどころか、前提として壊れている。したがって〈日常〉を肯定するためにこそ、(「アイドルもの」との差別化という商業的要請も相まって)むしろカウンター精神が呼び起こされるのである。
[9]「マシン・ガン・ケリーが自身初の全米1位獲得。ロック・アルバムが首位になるのは約1年1ヶ月ぶり」(2024年6月9日閲覧)
[10]石田光規『友人の社会史』(晃洋書房、2021)p.178
[11]「大ガールズバンド時代」とは「BanGDream!」のアニメシリーズで発明された用語である。
[12]『反逆の神話〔新版〕: 「反体制」はカネになる』(早川書房、2021)などのカウンターカルチャー研究を参照されたい。「idol」としてのAve Mujica
『It's MyGO!!!!!』にはMyGO!!!!!とは別にもう一つ、「日常の不可能性」への反逆を試みたバンドが登場する。「春日影」の作曲者、豊川祥子率いるAve Mujicaである。
▲「Ave Mujica」(Official Anime × Live Video)
ゴシック・メタルを思わせる曲調はMyGO!!!!!と対照的だ。Ave Mujicaは、CRYCHICを脱退した後に祥子が結成したバンドとして登場する。祥子の脱退理由については詳細には語られないが、最終13話でその理由が推測されることになる。最終場面で帰宅した祥子の足元には大量の空き缶ビールが映し出され、彼女はこう呟く。
ただいま……クソ親父。
そして唐突に画面は暗転し、物語は幕を閉じる。
祥子は裕福な家庭の生まれであったが、恐らく両親の離婚(と父親が親権を得たこと)によって家庭環境が急激に悪化し、このことがCRYCHICの脱退に関係していると推測されている。こうした家庭の問題に加えて、MyGO!!!!!メンバーによる「春日影」の演奏によって友人関係も崩壊し、あらゆることに絶望した祥子が「全部忘れ」るために結成したバンドがAve Mujicaである。
Ave Mujicaは作中描写や曲調(パンクロックに対してのメタル)、グッズ展開の仕方などからMyGO!!!!!とは対をなす存在として登場する。典型的なのは両バンドのライブ演出で、第12話と第13話において両バンドのライブシーンが描かれる際に、その対照性がはっきりと表れている。端的に言えばMyGO!!!!!がパンクバンドとしての「飾らなさ」を表出するのに対して、Ave Mujicaのライブはミュージカルであるかのような凝った演出をなす。
たとえばMyGO!!!!!のフロントマン・燈がMCについては無計画だったのに対して、Ave Mujicaはメンバー紹介のためだけに、約4分間にわたり各々が名乗りを上げる寸劇をおこなう。「人形に命が吹き込まれている」という設定のAve Mujicaでは、メンバーは素顔を隠すための仮面をつけており、それぞれに役名が与えられているのだ(5人のメンバーが「ドロリス」「オブリビオニス」「モーティス」「ティモリス」「アモーリス」を名乗る)。そしてはっきりと自身の役名を名乗ることは、自身の「偶像」性を徹底するということである。
▲『バンドリ! カバーコレクション Extra Volume』
左側がMyGO!!!!!の高松燈、右に描かれているのがAve Mujicaのドロリス。こうした構造を踏まえてアニメ声優陣によるリアルライブについて言及しておこう。「BanG Dream!」シリーズのメディアミックスプロジェクトでは、アニメ声優が自身の演じるキャラクターに扮して実際にライブ演奏をおこなうが、Ave Mujicaのライブは単なる「キャラクターの再現」とは言い切れない奇妙なリアリズムが生じることになる。Ave Mujicaの声優陣が演じるのは厳密にはキャラクターそのものではなく、キャラクターたちが演じているという設定の人形劇である。いわば「キャラクターの演技の演技」だ。Ave Mujicaはアニメの世界においても「虚構」として登場するわけだから、アニメ世界と現実世界における姿、どちらが「ほんとうの」Ave Mujicaなのか? どちらのほうが「虚構」的なのか? という問いを無効化してしまう。2次元と3次元を貫通する「虚構(偶像)」性――Ave Mujicaが徹底して「偶像」であるということは、ある意味ではよりラディカルに「アイドル(idol)」的であるということになる。
アイドルに求められるのは、特に国内においてはパフォーマンスそのものよりもむしろそこから滲み出る「パーソナリティ(その人らしさ・その人の個性)」だということは指摘されてきた[13]。しかしAve Mujicaのように完璧な「偶像(idol)」を徹底することは、むしろ「パーソナリティ」の存在を否定することになる。「idol」性を徹底することで、逆説的にパーソナリティという個人的なものが享受されること(アイドル的な消費のされ方)に抵抗するのだ。
このような既存の「アイドル」との差別化は、後述するように「BanG Dream!」というプロジェクトが発足当初から志してきたものだった。MyGO!!!!!もバンド発足後2022年に初ライブをおこなってから約1年間は、声優名とその素顔が明かされず、あくまでもメンバーはキャラクター名義でライブ活動を続けていた。これも一つの「パーソナリティの否定」であり、「アイドル」から「idol」への転換の過渡期的存在としてMyGO!!!!!を位置付けられる。
こうした過程を経てAve Mujicaがどこまでの射程を得るかは続編のアニメ『Ave Mujica』を待つほかないが、少なくとも「BanG Dream!」プロジェクトにおける一つの達成ではある。
[13]『「アイドル」の読み方』(青弓社、2014)p.103
すべてはPoppin'Partyから始まった
「BanG Dream!」プロジェクトが始まったのは2015年だが、そのきっかけはむしろ「アイドル」によって生まれていた。「アイドルマスター」シリーズに出演する愛美(後に『BanG Dream!』主人公・戸山香澄を演じることになる)が、2014年のライブ「THE IDOLM@STER M@STERS OF IDOL WORLD!!2014」において自身の演じるキャラクター・ジュリアに扮してギターの生演奏を披露し、それをブシロード代表の木谷高明が知ったことがプロジェクト発足のきっかけになったことは、ファンの間ではすでに知られたエピソードだ[14]。
このライブをきっかけに、かつての放課後ティータイムのようにアニメ声優が楽器を生演奏することの発展性を木谷が見出し、プロジェクトは動き始めた。当時すでに「アイドルもの」が飽和気味だったオタクカルチャーシーンに対して、アイドルではない音楽コンテンツとしてブシロードが始めたのが、ロックバンドを題材にしたメディアミックスプロジェクト「BanG Dream!」である。
つまり『けいおん!』の〈日常系〉的遺伝子を継承したのが『ラブライブ!』だとすれば、「放課後ティータイム」がその片鱗をみせつけた「アニメ声優のロックバンド」の遺伝子を発展させようとしたのが「BanG Dream!」だと整理できる。
ブシロードはリズムゲームアプリ『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル』(2013〜2023)の運営経験を生かし、2017年に『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』を配信する。同アプリは2024年現在も継続的なユーザー獲得に成功し、コロナ禍を経過してなお、動員の要としてライブ興行を支えるプロジェクトになっている。
一方で「BanG Dream!」のアニメシリーズ第1作はやや不完全燃焼であったことは木谷自身も認めるところである[15]。二つ理由を挙げるとすれば、一つは「主人公の差別化が徹底しきれなかった」ことにあるだろう。アニメ版『BanG Dream!』の主人公・戸山香澄が『ラブライブ!』の主人公である高坂穂乃果のキャラクターを踏襲していることは明らかだが、これがうまく発展しきれていないように思われる。「廃校」を防ぐべく全学年の生徒を巻き込んで「スクールアイドル」活動を始めた穂乃果に対して、香澄がバンド活動を始める必然性はうまく説明しきれておらず、香澄は単にわがままなキャラクターとして受け取られ、アニメシリーズの評判はファン以外の視聴者には振るわなかったのだろう[16]。
もう一つはそもそも「楽曲面での差別化が徹底しきれなかった」ことにあるだろう。Poppin'Partyの楽曲は(ある程度ギターが前面に出ているとはいえ)「ユニゾン」や「合いの手」の多用といった、アイドルソングが定番としてきたアレンジも多くみられる。加えて現在「ラウド系アイドル」と呼ばれる系譜[17]として2012年にはすでに、メタルやハードコアパンクの要素を存分に取り入れたBABY METALやBiSがデビューしているし、ちょうど2017年にはアイドルによるスクリームがリスナーに衝撃を与えた、PassCodeの『ZENITH』がリリースされてもいる。声優が実際にライブ演奏をおこなうという点では画期的だが、アイドル自身のパフォーマンスの過激化がかなり進行していた当時において、やはり「バンドである」というだけでアイドルとの差別化を図るには、何かあと一歩決定打となるものが必要だったことは木谷自身も感じていたのだろう。
したがって「声優の生演奏」という利点を最大化するには、やはり肝心のアニメのクオリティが鍵になるわけだが、その最後のピースが『It's MyGO!!!!!』によって埋められたと整理できるだろう。実際、2024年のブシロードのライブ興行成績は、同作の影響から過去最高値を記録したと公表されている[18]。愛美が「アイドルからの脱却」としての「最初の1音」をエレキギターで奏で、プロジェクト発足から約10年の時を経て、「アイドルではない音楽コンテンツ」として一つの集大成が誕生したと言えるだろう。
加えて言えば、贔屓目を抜きにしてもアニメ『2nd season』以降の「BanG Dream!」の展開は端的に評価に値する。脚本面ではまず、先輩格にあたるバンド・Roseliaやライバル的存在となるRAISE A SUILENとの比較から、Poppin'Partyのバンド運営での葛藤に焦点を当て、バンドごとの「人格」を明確にすることで、上記3バンドのメンバーを含め数十人のキャラクターが登場する物語を破綻なく構成させてもいる。
さらにRAISE A SUILENは『現代メタルガイドブック』(日販アイ・ピー・エス、2022)にて紹介されるなど、アニメファン以外の音楽リスナーからの評価も高く、同バンドの結成エピソードがアニメで描かれたことの意義も大きい。同バンドのライブをはじめ、コロナ禍以降「BanG Dream!」が率先して(クラスターを発生させることなく)ライブ興行を再開・継続させたことも肯定的に評価されるべき事実である[19]。
ちなみに木谷はインタビューにおいて「『バンドリ!』はやっぱり『ガンダム』にしたいんですよね。40年50年と続くものにしたい」と語っている。アニメプロデューサーが自社コンテンツを『ガンダム』にたとえてしまうのは恐るべき臆面のなさだが、この「木谷イズム」とでも言うべき精神は「BanG Dream!」をはじめとしたブシロードのプロジェクトに現れている。
エンタメ企業としては後発であるがゆえに、自社プロジェクトに大胆なカウンター性とクロスオーバー性がみられる(他社IPをふんだんに利用したカードゲーム『ヴァイスシュヴァルツ』など)ブシロードにとって、(アイドルへの)カウンター性と強烈なメディア越境性を持つ「BanG Dream!」はその企業精神の一つの象徴である。そして近年のバンドアニメブームが、シーン内部にとどまらないような変革をもたらすとすれば、「BanG Dream!」がそのゲームチェンジャーとして中心的存在に躍り出ることになるだろう。
「宇宙世紀」という舞台にあらゆるモビルスーツとスピンオフが誕生したのと同様に、「大ガールズバンド時代」というプラットフォームから大量のロックバンドとスピンオフ作品のクロスオーバーが生まれる可能性を考えると、『ガンダム』にたとえた木谷のあの発言もあながち間違ってはいないのかもしれない。まずは2025年1月に控えている、MyGO!!!!!とトゲナシトゲアリ(『ガールズバンドクライ』発のリアルバンド)との対バン企画「Avoid Note」がどのような影響をもたらすか、見届けなければならない。
[14]「ブシロード 木谷高明が語る、『バンドリ!』プロジェクトの軌跡と未来 「何十年も続く作品にしたい」(2024年6月22日閲覧)
[15]同上
[16]ただし、アニメ版に先行する小説版『BanG Dream!』(アスキー・メディアワークス、2016)では、むしろ「歌うこと」に不安を覚える香澄の内面描写が物語序盤から詳細になされている。
[17]冬将軍「2010〜2020年の『ラウド系アイドル』」(『ヘドバン・スピンオフ ヘドバン的「現代のメタル(2010~2020)」100枚とクロニクル』シンコーミュージック、2020) p.98
[18]BUSHIROAD 2024年6月期通期決算説明資料(2024年8月17日閲覧)
[19]「【独占インタビュー】日本経済とエンタメ業界に黄金の20年代がやって来る!! ブシロード・木谷高明会長が2020年の総括と未来を語る」(2024年8月28日閲覧)
(了)▼プロフィール
徳田四(とくだよん)
1996年生。ライター/編集者。もう一度インターネットを「考える」場にするために。PLANETSがはじめたあたらしいウェブマガジン「遅いインターネット」の記事はこちら!
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中心をもたない、現象としてのゲームについて 第41回 第5章-7ハブとしての循環概念を評価する|井上明人
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。
「遊び-ゲーム」の分節を説明できる理論はいかにして可能なのか。「インタラクション」「学習」「循環」といった概念でそれを記述する困難を確認しつつ、改めて「遊び-ゲーム」を分節化すること自体の意義を問い直します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第41回 第5章-7 ハブとしての循環概念を評価する5.7 ハブとしての循環概念を評価する
5.7.1 包含関係によるハブ概念としての循環概念前回、「遊び-ゲーム」に関わる現象を観察する4つの観察モデルが、さまざまな遊び-ゲームを捉える説明(学習説や非日常説)の多くに適用可能なものであることを示してきた。
これは、いわば複数の要素間の循環のような現象がゲームを説明する鍵を握っているのではないかということを示すものだった。こうした複数の重要概念が、この4つの観察モデルを通して並列させてみることができるとは一体どういうことなのかを考えてみたい。
「遊び-ゲーム」にとって中心的な概念とは何か、という基本的な問いを考えたとき、その対象となる行為を幅広く説明可能なものとして、第三章では、ゲームを学習として考えるという発想を論じてきた。それと同様に、循環もまた遊び-ゲームに関わる概念を幅広く説明可能なものとなっている。学習説の概念が多様な概念と先後関係を持つというような形で機能し、複数の概念間をつなぐハブとして機能しうるからではないか、というのが現時点での見解だった。
前回までの議論から言えることとして、 ここで循環のモデルとして取り上げた概念系も、そうした性質をもっているということだ。多様な現象を記述できる媒介となりうる性質をもっている。これは遊び-ゲームについての「循環」系の概念を使った説明が、遊び-ゲームのほとんどの領域を記述可能な万能理論的な性質をもっているということを示しているといっていい。それゆえに、ガダマーも、ボイデンディクも西村清和も、多くの論者が循環的な性質の意義を強調してきたと考えてもいいだろう。
では、循環のモデルはハブ概念として、学習説と比較して、どのように評価できるだろうか? 循環的な側面を強調することは、学習説とは異なっている側面がある。
第一に、循環のモデルを用いて遊び-ゲームに関わる諸概念を記述することはできる。しかし、「記述できる」ということは、因果関係や相関関係、先後関係といった仕方で諸概念と関係しているといったことではない。
さまざまな概念を「記述できる」ということは、遊び-ゲームに関わる様々な概念が循環に関わる属性を共通して備えているということである。
言い換えれば、それは遊び-ゲームに関わる様々な概念が、循環に関わる概念の(1)部分集合であるか、(2)もしくは積集合(共通部分)としての性質を持っているということだと考えられる。可塑的な複層構造をもったものは様々なものがあるが遊び-ゲームはその一例となりうるし、循環参照的な推移をするものも様々なものがありうるが遊び-ゲームはその一例となりうる。
すなわち、何らかの包含関係という形で循環に関わる概念は遊び-ゲームの諸概念のハブとなっていると考えられる。
部分集合であるか積集合であるかはさておくにせよ、遊び-ゲームの諸概念を幅広く含むかたちで、循環系の概念は位置づけることができる。学習説が現象の移行するプロセスに着目していたのとは違った関係性によって循環系の概念は概念のハブとしての性質を持っていると見做すことができる。
5.7.2 循環概念は遊び-ゲームだけを含むのか
包含関係的なハブであるということは良いとして、これが何らかの包含関係によるものなのだとすれば次に起こる問題は、これがどこまで広い現象を説明するものなのかということだ。
学習説は、「学習」と省略して呼んではいるが、実際にはフロー体験のような比較的、限定された学習のケースを想定している。では、可塑的な複層構造や循環参照的な順序といったものはどうなのか。
素朴に考えれば、可塑的な複層構造のような話は、記述可能な範囲が広すぎると言っていい。構造化が徐々に進むやや複雑なプロセスをもったような現象を含むものであれば、だいたいのものはこのモデルで記述できてしまう。生命の進化プロセスでも、法の制定過程でも、組織の秩序化が行われるプロセスでも記述できる。記述できる幅が広すぎる。
20世紀後半に多くの学問分野で、オートポイエーシスやシステム論が注目され、それらの理論は、生命システムから社会システムまでかなり広範な領域を説明してきた。こうした一般性の高い話との切り分けをしなければいけない。
説明力は高く、確かに循環のような現象は遊び-ゲームの記述において有用であるが、遊び-ゲームの領域固有の特徴を限定するための説明モデルとしては適切な粒度であるとは言い難い可能性がある。
5.7.3 適切な限定を加えることはできるか?
これは、適切な限定をすることが不可能であると言っているわけではない。
概念範囲の広さをめぐる論点は、ビデオゲーム研究に限定した話をするならば、「インタラクティビティ」概念が、ビデオゲーム特有の性質を適切に記述する概念たりうるのか? という議論でも似たような議論がなされてきた。インタラクティビティの概念と「循環」の概念が同じであるかどうかはやや注意すべき点もあるが[1]、可塑的な複層構造や、固定的な複層構造、あるいはその中間のような複層構造は、一般に「インタラクティビティ」という語彙によって想定される範囲とほとんど重なるものだろう。
「インタラクティビティ」はビデオゲームに特有の性質を持つ語彙として、しばしば注目されてきたが、「インタラクティビティ」のあるものはビデオゲーム以外にも、ゲーム以外のPCのソフトウェアや、若干の複雑な挙動をする機械の多くに当てはまる性質である。そのため「インタラクティビティ」をビデオゲーム固有の性質として見做すことはしばしば批判を受け[2]、そして、適切な範囲の限定を加えるための議論も蓄積してきた。
興味深いことに、インタラクティビティの範囲を限定する際に行われる概念化は、しばしば学習説やコミュニケーション説の要素を部分的に採用しているように解釈できるものが多い。
たとえば、オーセット(1997)は「エルゴード的(ergodic)」という概念を導入し、読者が読み通すために「小さくない努力(nontrivial effort)」を要するものだという限定を加える[3]。また、スマッツ(2009)Smuts, A. 2009. What Is Interactivity?. The Journal of Aesthetic Education, 43(4), 53–73.は、反応を返すもののうち、完全にコントロールするものではなく、完全にコントロールされるものでもなく、完全にランダムな仕方では反応しないもの[4]という限定を加える。プロのテニスプレイヤーがまともに勝負にならない程度に下手な相手とプレイするようなときは、あまりインタラクティブな状況とは言えず、何かを習得することが難しいようなときには、その何かが最もインタラクティブであるのだという[5]。こうした概念化は、遊び手による主体的な状況の関わりについての概念化であり、とりわけスマッツによる概念化はインタラクションの議論と学習説の議論を融合させた議論のように読める。
また、クロフォードによるインタラクティビティの概念化は、会話をモデルとしたものになっている。クロフォードによれば、インタラクションとは「二人の行為者が交互に聞き、考え、話す循環的プロセス」だと言う[6]。
ここまで、遊び-ゲームのハブ概念として、学習説、コミュニケーション、インタラクティビティといった概念が強力に機能しうることを述べてきたが、いずれも、インタラクティビティの概念化のために、深く関係を持ちうる学習説やコミュニケーションような概念ハブの特質を借りてくることで、概念の範囲を絞ろうとしているように思われる。
こうした概念の限定の仕方は、遊び-ゲームに関わる範囲を限定する上で、学習やコミュニケーションが強力なハブ概念として機能しうる限りにおいて、説得的な限定にはなりうるだろう。
ただし、ここで与えたい限定は、学習説やコミュニケーションのようなハブ概念に頼らないかたちでの概念の限定がありうるのか? ということである 。学習説やコミュニケーションなどを再記述するものとしての「循環」の適切な概念化のために、学習説やコミュニケーションの概念を借りてしまってはトートロジカルな説明になってしまわざるを得ないため、それらに頼ることはできない。
学習説ほとんどそのものではなくても、学習説の一部を構成する――たとえば「自発性」――のような心的態度を条件の限定に持ち込んで、「自発的に循環の中で揺蕩うこと」あるいは「循環の中で揺蕩うことを拒否しないこと」といった形で限定すれば、それなりに限定できるかもしれない。ただし、循環の観察モデルのなかに心的態度を持ち込むことを正当化できる根拠を筆者はここで持ち出すことはできない。
循環や「インタラクティビティ」といった概念を扱うことの難しさの一つは、「会話」や「学習」といったものに比べると、こうした概念が指し示す範囲についての日常的な意味の範囲というものが日本語ではあまり明確に存在しているとは言い切れないという点がある。「インタラクティビティ」などは英語圏ではかなり日常的な語彙になっているようだがそれでも1960年以後のことであり、非西洋圏では、いまだ日常的な語彙とは言えず、言語圏によっては、かなり専門的な語彙にさえ響く[7]。いわば「日常概念」であるのかどうかのボーダーライン上にあるものだと言える。
それゆえ、この概念が適切な範囲をもった日常概念たりうるかどうかは、現在の原稿執筆時の2024年時点では、議論すること自体がおそらく難しい。この概念がハブ概念として適切な範囲を持ちうるかどうかは、100年後の議論に委ねても良いかもしれない。
2024年の現時点では、「適切な概念範囲の限定を与えることが難しい概念なのではないか」ということを確認するに留めたい[8]。
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