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  • 「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(前編)

    2022-12-06 07:002時間前
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    本日のメルマガは、パブリックアフェアーズジャパン代表・藤井宏一郎さんの特別インタビューをお届けします。
    企業や個人など、国家ではない主体が市場での活動を通じて平和創出にコミットしうる「平和マーケティング」。私たちの「戦争」に対する距離感が急激に変化した2022年のいま、改めてその意義を振り返ります。
    (初出:『PLANETS vol.10』「[インタビュー] 藤井宏一郎 企業はマーケティングを通じて世界平和に貢献できるか」(PLANETS、2018))

    「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(前編)

    「平和マーケティング」とは何か

    ――今回は、2016年に広島で行われた「国際平和のための世界経済人会議」で藤井さんが紹介した「平和マーケティング」についてお話を伺いたいと思います。これは企業活動や市場原理を活かすことで、現代において、いかに非国家的な主体が平和の創出にコミットできるのかについての問題提起ですね。民間の市場のプレイヤーが「戦争」という国家のアイデンティティに関わるような領域にどう踏み込みうるかという意味で、ものすごく興味深い思想的な実験だと思いました。

    藤井 最初に経緯を説明すると、「国際平和のための世界経済人会議」というのは、広島県が提唱している「広島平和拠点構想」の一環で、広島を世界的な平和の拠点のひとつにすることを目指して、毎年行われている会議です。広島市が被爆の実相を伝えることを中心に核兵器廃絶への取組を進める一方、県としては核兵器廃絶を含むより広い平和の観点から、国際政治や外交の専門家だけでなく、社会の様々なプレイヤーを巻き込んだ新しい平和の運動を主導していきたいという思いがあったわけです。
     もちろん、従来のような反核・反戦運動も重要ですが、今(2018年当時)起きている戦争は冷戦時代のように、いつなんどき核戦争が起きるかという状況ではなく、非国家的な主体を含んだ小規模紛争が地域を不安定化させていることが、現実的なリスクだったりするわけです。そういうことも射程に入れながら新しい平和像を考え、なおかつ民間企業や社会起業家、あるいはNPO市民セクターといった、いわゆる外交の専門家や国際NGO以外のアクターやビジネスセクターを参加させることにもこだわっていた。
     その第1回目の会議で、テーマを何にしようかと考えたときに、近代マーケティングの父と言われるフィリップ・コトラーが掲げた「平和のためのマーケティング」という言葉があった。マーケティングとは、単に物やサービスを売り込むだけではなく、非営利的で目に見えない抽象的な価値やそれに伴う行動変容を顧客に浸透させることまでを含む、というのが彼のマーケティング論の革命のひとつだったわけです。例えば、節電運動や禁煙運動のような公益的な価値もマーケティングの対象になる、と。
     その中で最も解決すべき問題が、戦争をなくして世界平和を作ることだとすれば、平和だってマーケティングできるのではないか?
     しかし、その段階では萌芽的な発想に過ぎず、きちんとした理論のフレームワークがあったわけではなかった。ただ、「平和のためのマーケティング」という発想は興味を引くし、企業も参加しやすいだろうからぜひやってみようという話になって、そこだけが決まったんですよね。しかし、決まったはいいが、「そもそも平和のためのマーケティングって何なんだろう?」という問題に突き当たり、2日間のプログラムでいろんな関係者がこのテーマについて話すにあたって、フレームワークがまったくなく、言葉だけが踊っていたんですね。
     そこで、私がコトラー先生の孫弟子に当たる縁もあって、普段から公共政策的なキャンペーンをプランニングしたりコンサルティングしたりしている我々マカイラとして企画運営をお手伝いすることになり、平和のためのマーケティングとは何かを概念的に整理するフレームワークを作ってセッションを設計し、それに沿った人たちを呼んできた、というのが経緯です。

    平和マーケティングが直面する困難

    ――最初の会議からの2年間で、平和マーケティングに関する論理方面と実践方面の双方のアップデートは、藤井さんの中でどんなふうに進んでいったんでしょうか?

    藤井 最終的には平和をどう定義するかというところに関わってくるのですが、平和には二つの考え方があって、単に戦争がない状態を平和と捉える「消極的平和」に対して、「平和学の父」と言われるヨハン・ガルトゥング博士が提唱した「積極的平和」という概念があります。これは戦闘の有無が問題ではなく、人間が人間として尊厳のある安全な環境が保障されていることが重要であるという、人間の安全保障論にもつながる考え方です。
     しかし、平和マーケティングにビジネスセクターを巻き込もうとしたときに陥りやすい問題が、ここにあります。彼らと話をしていると、どうしても積極的平和論のほうにばかり話が流れていくんですね。なぜかというと消極的平和論、つまり端的に戦争をなくすための反戦運動・平和運動に企業が参加するのは、さまざまな理由でものすごく難しい。
     まず第一に、平和運動は本業のビジネスに貢献しにくい。企業の社会活動について、株主は通常、ブランディングなどで本業につながることを求めますが、戦争と平和の問題はほとんどの企業にとって本業から遠すぎる。第二に、政治的リスクを伴う。多くの国で、平和運動=反体制運動とみなされます。第三に、既存のビジネスに抵触する可能性がある。製造業であれ金融業であれ、サプライチェーンや事業展開のどこかで軍需産業に接点を持ってしまっている企業は多いです。
     だから「戦争と平和」の問題を正面から取り上げるのはやりにくいけど、「貧困をなくそう」とか「地球環境を救おう」みたいな話ならば、普通のCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)をめぐる議論の延長でできてしまうんです。だからそちらに流れやすい。特に、2017年の第2回では、「SDGs(Sastinable Development Goals:持続可能な開発目標)」をテーマにしたのですが、私はこの方向性に少し躊躇がありました。SDGsにフォーカスしすぎると、貧困や教育、福祉や地球環境の話が中心になって、肝心の平和についての議論が置いてけぼりになる危険性を感じたのです。実際、昨年の会議はSDGsやCSRのような企業にとって理解しやすいテーマが増えましたが、一番難しい、消極的平和をどう実現していくのか、その議論をいかに置き去りにしないかという部分については、語りつくせなかった印象があります。私としては、もうちょっと平和の部分を話したかったのですが、そこのバランスが難しいのです。
     今年、2018年は「2030年の世界からのバックキャスト」がテーマになると聞いています。2030年の地球で起こりうる地域の不安定化や紛争、さまざまな国家や人間に関する安全保障やそのリスクへの対策などを議論していくのですが、やはりその距離感が難しい。「いかに戦争をなくすか?」という部分には、どこかで真正面から取り組まなくてはならないし、この会議の仕掛け人である広島県の湯崎英彦知事も、個々のテーマがいかに平和実現につながるか、ということは常にご関心が高いです。

    ――どうしても議論がCSRの延長線上の企業ブランディングのほうに流れてしまうということですね。では、この流れに違和感を覚える藤井さんが、平和マーケティングによる消極的平和論に焦点を当てたとき、どのような発展の可能性があると考えていますか?

    藤井 企業がSDGsで「貧困がなくなりました」というのは素晴らしいことなんですが、その先にどういうルートを経て平和が実現するのかという部分が描ききれていない。そこをきちんと描き切らなくちゃいけないというのが僕の考えなんですね。紛争のリスクがあって、そのリスクに対する解決がある。その解決をみんなに促すために、マーケティングがあるはずなんです。そもそもマーケティングとは、「特定の行動」を特定のターゲットグループに促す手法なんですね。この「特定の行動」こそが解決手段です。でも、その「特定の行動」が何なのかがわからないと、マーケティングはできない。解決のための手段を探すことについては、マーケティングは解を持たないんですよ。それを考えるのは平和学であってマーケティングの役割ではない。そこを一足飛びにやろうとしてもうまくいかないんです。
     よく平和学は医学に例えられますが、健康になるためには、毎日柔軟体操をやったりバナナを食べたりといった健康法がある。その手段が決まった上で、厚生労働省や文部科学省はラジオ体操や食生活の改善など、人々の行動の変化を促すキャンペーンを行います。このフレームワークで考えると、解決手段の検討をすっ飛ばして平和を叫ぶのは、健康になる方法を考えないまま、ただ「健康になろう」とキャンペーンを始めるのと一緒なんですね。手段を無視したマーケティングにはおよそほとんど意味はなくて、これはいわゆる情緒的な平和運動。「平和!」と叫べば平和が来るという情熱論と同じです。
     本当にやるべきことは、今の世界にどういったリスクがあり、どの地域で紛争が起きたり不安定化するのかをリストアップすること。そしてその原因が何なのか、民族間紛争か、資源争奪戦か、環境破壊による移民の流入か、と全部洗い出す。その上で、政府ができることと民間企業が貢献できることを見極め、後者に民間企業を当てはめていく。本当はこれをロジカルにやるべきだったんです。しかし、その議論がビジネスセクターに共有されないまま、うわべだけSDGsやCSRが流行ってしまった感じはある。今年の会議では、そのバランスがうまく取れるといいなと思います。
     とはいえ、「平和のためのマーケティング」と呼ぶかはともかく、平和論とサステナビリティ論のブリッジングをきちんとビジネス文脈で考えている人がいないわけではない。例えば、「気候変動と脆弱性」という議論がありますが、これはすごくちゃんとやられていると思います。「脆弱性」というのは安全保障上のリスクも含めた各種リスクですが、気候変動によって戦争が起きる可能性の議論を、外務省がG7の枠組みの中で取り組んでいて、外務省の気候変動課がものすごく頑張っている。外交官やシンクタンクだけでなく、実際にソリューションを持ちうる企業を巻き込みながらワークショップを展開したりしています。
     ほかにも、あまり日本では流行らないんですが、難民問題がどうやって戦争につながりうるかも極めて重要な問題で、こういった議論は最近進んできていますね。サステナビリティと安全保障の研究をしているAdelphi というドイツのシンクタンクが気候変動による戦争リスクについて「A New Climatefor Peace」という報告書を出していて、ローカルリソースコンペティション、つまり地域資源の争奪戦によって移民が出ると警告しています。例えば大洋州の島が台風の頻発によって、水資源が潮に浸かって飲み水がなくなったり食べ物が不足したりしたとき、貧しい島からどんどん人が移住してくる。すると元の住民と新しく入ってきた人たちの間で紛争が起きる。特に水資源のマネジメントは紛争につながりやすくて、川の上流側が水を堰き止めて自分たちだけで使い下流側と戦争になるというのは、人類史上で何度も起きていることで、気候変動が具体的に戦争につながるというわかりやすい例です。
     これは冷戦下の米ソの構造とは全然違う状況ですよね。現代の紛争がどうして起きているのか、きちんと考えなくてはいけない。ジョン・レノンではダメなんです。もちろんジョン・レノンも重要だけど、どういうときに平和が訪れるのかを実証的に検証していくことが重要だと思います。

    ――たとえば少し前までは、戦後西ヨーロッパ的な「金持ち喧嘩せず」の状態が拡大するという考え方がそれなりに支持されていたと思うんですね。つまり、マクドナルドがある国同士は、絶対に戦争しないといったような考え方です。

    藤井 民主的平和論みたいなものですね。

    ――ところがそれが近年のウクライナなどの情勢悪化で崩れるわけです。現代においてはさすがに、戦後西ヨーロッパ的な経済の安定と民主政治と集団的安全保障の3点セットがあればとりあえず大丈夫ではないか、という議論にはもうならないと思うんですね。ならないことはわかっているのだけど、やはり戦後の国際社会の延長線上でやっていくしかないんだ、戦後西ヨーロッパ的な世界を少しでも拡大していくしかないんだ、という人たちもいれば、そもそもこういう発想自体がテロリズムの連鎖の遠因となる戦後先進国たちの驕りだと批判する人たちもいる。平和学はこうした現状に対して平和を再定義するには至っていないと思うし、そもそもそういう性質のものでもないと思うんですよね。

     
  • 「分断」から「瓦解」へ――変質する民主主義の危機 ~中間選挙を読み解く3つの視座~|橘宏樹

    2022-12-02 07:00
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    現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。
    今回は11月におこなわれたアメリカ中間選挙のポイントを解説するとともに、ニューヨーク市民と日本国民の選挙に対する姿勢の違いについて分析します。

    橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記
    第7回 「分断」から「瓦解」へ――変質する民主主義の危機 ~中間選挙を読み解く3つの視座~

     おはようございます。橘宏樹です。ニューヨークでは、11月24日にサンクス・ギビング・デイ(感謝祭)を迎えました。去年に続き今年もアメリカ人の友人宅にお招きいただき、大きな骨付きハムを分け合って楽しい時間を過ごしました。感謝祭の料理と言えば七面鳥がおなじみですが、ハムの流派も多いのだとか。

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    ▲手製のサンクス・ギビング・ハム。グランベリーなど甘めのソースをかけて食べるのがセオリー。

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    ▲アラビア文字の書かれたお皿がハムと餃子と団らんを待つ多文化な食卓。

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    ▲手製のチョコチップ入りピーカンナッツ・パイ。使われたメープルシロップは庭で採れたものだそう。めちゃくちゃ美味しかった...…

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    ▲大きな家と薪の暖炉。これぞアメリカの冬って感じ。

     翌25日のブラック・フライデーのセールには人々が殺到し、ロックフェラーセンター前の有名な巨大クリスマスツリーはいそいそと装飾を始めています。クリスマス休暇の始まりまでは少し間があるものの、なんかもう、ニューヨーク市内からビジネスのやる気は感じられず、仕事納めに向かっている雰囲気です。

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     さて、11月8日は中間選挙の投票日でした。連邦上院、下院、州知事、州議会等の選挙が一気に行われました。インフレへの不満が強いことやトランプ派の候補者が勢いづいていると見られていたことから、民主党は大敗するだろう、共和党のシンボルカラーが上下両院を席捲する「赤い波(Red Wave)」がやってくるだろう、との声がもっぱらの前評判でした。
     しかし、蓋を開けてみると、民主党が上院の過半数をギリギリながらもキープし、下院も共和党220に対し民主党213(過半数は218。2議席未決着。執筆時点(11月27日)。)と踏みとどまりました。大統領の党が負けやすい選挙にしては、バイデン民主党はかなり善戦したと言ってよいでしょう。

     日本でも、共和党が大勝しなかった原因分析(米最高裁の中絶権認める判例破棄への反発と2020年大統領選挙結果を否定するトランプ派の行き過ぎた台頭に対する嫌悪感等)、上下両院内での両党の激しい拮抗、民主党内の世代交代(ペロシ下院議長退任)やプログレッシブ派の伸長、トランプ前大統領の2024年大統領選出馬表明や脱税疑惑への訴追、バイデン政権への支持率の低さ、バイデン大統領の次回大統領選不出馬との憶測、共和党内でのフロリダ州デサンティス知事の台頭とトランプ前大統領との闘争、などなど、主要論点については既に様々な論考が出回っております。

     時事的・政治的な分析はそれらに譲るとして、今号では、この度の中間選挙で、日本社会と比較して、僕が個人的に面白いな、重要だなと思ったポイントを3つ挙げたいと思います。それは、①選挙管理の危機、②分断を助長する予備選挙、③司法の政治化です。選挙における競争が苛烈過ぎるあまり、アメリカ民主主義の土台までをも破壊しかねない様相を呈しているように見えます。アメリカ民主主義の危機は「分断」からもう一歩深まって制度それ自体の「瓦解」の域にまで踏み込みつつあるかもしれません。ある意味、危機の変質が見られると言ってもよいのかもしれません。一方で、アメリカ民主主義の希望というか、さすがのバランス感覚というか、行き過ぎを踏み止まらせる良心の底力のようなものも感じ取れます。何が起きているのか。なぜそうなっていくのか。僕なりの中間選挙の観察記録を書いてみたいと思います。

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    ▲ニューヨーク・マラソンを走る参加者

    ① 選挙管理の危機


    ・「選挙管理」という論点の存在

     連載第2回でも触れましたが、今のアメリカでは「選挙の5W1H(①誰が(who)②なぜ(why)③いつ(when)④どこで(where)⑤何に(what)⑥どうやって(how)投票するのか)」のうち、「③いつ(when)」以外の全てのステージで政治闘争が繰り広げられています(逆に日本では、総理の解散権③いつ(when)が最も争点になるところと対照的ですね。)。特に「⑥どうやって(how)投票するのか」について、郵便投票の是非をめぐる議論が過熱しています。アメリカの選挙は、支持者獲得競争の域を超え、選挙のインフラ部分にまで闘争の領域が広がっているのです。
     
  • 宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い>

    2022-11-25 07:00
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    本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の特別インタビューをお届けします。
    「水曜日は働かない」ことで実現する社会との関わりや「議論」のあり方、ライフスタイルの変化にとどまらないその真髄が語られます。
    (初出:週刊読書人2022年7月8日号

    【イベント情報】
    本日19時〜
    青山ブックセンター本店(渋谷)にて、宇野常寛が浅生鴨さんと対談します。
    題して、“それっぽい「いい話」と、この悪いやつを叩き潰せという怒号にあふれたこの世界を生きるために、「情報」との付き合い方をもう一度考えてみよう”。
    浅生さんの新刊『ぼくらは嘘でつながっている。』&宇野の新刊『砂漠と異人たち』の発売記念イベントです。
    たくさんの方のご参加をお待ちしています!お申し込みはこちら

    宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い>

    引き算から始める、自分デザインの暮らし方

    ──この本は宇野さんの日常から語り起こされ、多様な要素が入り交じりながら、読み進むと一続きのメッセージが立ち上がってくるようです。改めて批評とは何かということを感じさせられる本でもありました。

    宇野 数年前からエッセイ的な語り口が、今の自分に必要なのではないかという思いがありました。SNSが浸透して誰もが手軽に発信できるようになり、多くの人が自分の半径五メートル以内のことを饒舌に語るようになっています。たとえばコンビニで出会ったマナーの悪い客に対して腹を立てたとか、韓国料理屋でおいしいキムチクッパを食べたとか。また天下国家についても饒舌に語りますよね。イーロン・マスクのツイッター買収について、ウクライナ情勢について、あるいは岸田政権の支持率について。SNSで天下国家についてひたすら怒っている人たちもいますが、どうも自分でものを考えているようには思えない。半径五メートルと天下国家の話が、乖離しているように見えます。インスタントな承認を獲得するためにSNSのタイムラインの潮目を読んで、既に話題になっているものに言及し、その中で支配的な論調にイエスと言うかノーと言うかを選択しているだけなのではないか。

     そうだとしたら忌々しき事態で、そこからどのように言論を回復していくのかを考えると、自分が手で触れて実感できる半径五メートルの世界が、天下国家の大きな話に繫がる回路が必要なのだと思うんです。

     だから、僕はこんな距離感と進入角度で、普段の暮らしから世の中をこのように見ているのだと、国や社会を考える筋道を、面白く肯定的に示したいと考えています。この本はその試みの一つなんです。

    ──本のタイトルにもなっている「水曜日は働かない」は、画期的な宣言であり提案ですね。水曜を休みにすることで、全ての曜日が休日に接続するという。コロナ禍の生活環境の変化にも即しているように思います。以前、英文学者の外山滋比古さんが、週休二日制になって人々は日曜に憂鬱になるようになった、と言っておられたのを思い出しました。日曜だけ休みだった時代、土曜の半ドンが程よく楽しかったそうです。「水曜日は働かない」という言葉は、時代を映す社会批評にもなっていると思います。

    宇野 僕が「水曜日は働かない」と言い始めたのは二〇一九年後半ですが、その後コロナ禍となり「暮らしかた改革」などと言われるようになりました。ただいわゆる「週休三日制」は、金曜か月曜を休みにして三連休を作ろうという話です。二日休むのと三日休むのとでは回復力が違いますし、それも一案だと思うのですが、その上で僕が「水曜日を休みに」と言うのは、ハレの日とケの日を分けないという考えからなんです。つまりキラキラした休日を過ごすために、労働者として暗黒の平日を生きるというのではなく、ウィークデーにも自分なりの楽しみをもって、自分で自分の暮らし方や働き方をデザインしていきましょうよと。それで週の真ん中の水曜日を休みにするという、休日と平日の境目がなくなるような提案をしているんです。

    ──一方では、「水曜日しか働かない」とか、「水曜日すら働かない」と言っておられます。仕事とは、宇野さんにとってどのようなものですか。

    宇野 そうですよね(笑)。そういう意味では、僕は世界とのチューニングがうまくいっている方なのかもしれません。休日に、旅行に行くとか、映画館に行くとか、そういう時間の使い方も時にはしたいけど、もっと何でもないことをして過ごしたい。まず午前中に街を走って、お昼は少しも妥協せず好きなものを食べて、お風呂に入って一休みした後に、好きなカフェで書き物をしたいんです。そして夜は好きな本を読んだり、映画を見たり、模型を作ったりして就寝するというのが、僕の理想の休日です。僕にとって仕事の一部である執筆が、休日にしたいことの一つでもあるんですよ。

     もともとサブカルチャー批評から出発しているので、社会に物申したいとか、著述業で有名になりたいというのではなく、この作品の素晴らしさを世界に訴えられなければ討死!! みたいな、若者特有の思い込みに駆動されていた時期がありました。自分の外側にある大事なものへの愛を追求した結果として、社会と接続することになったんですよね。若い頃はそれが生きづらさでもあったけど、四十歳を過ぎてこういう社会との繫がり方もありなんだと思えるようになった気がします。

    ──「水曜日は働かない」もそうですが、目次に「ない」「ない」「ない」と、否定が並ぶのが面白いですね。「マラソン大会は必要ない」けど他に大事なものがあるとか、「僕たちに酒は必要ない」けど代わりに必要なものがあるとか。引き算のうまさを感じました。 

    宇野 世の中には、誰かや何かを排除することでメンバーシップを確認したり、自分がマジョリティの側にいることを確認して安心するという、分断を生む否定が多すぎる気がしています。僕は引き算は、気軽に物事を始めるために使うべきだと思うんです。たとえば社会人のキャリア相談や大学生の就職活動セミナーでは、自分のやりたいことをみつけて、夢に向かって目標を立てて邁進しなさい、というようなことを言われます。でもそれでは何かを始める前に、足し算、足し算で息苦しくなると思うんです。そうではなくて、いやいや飲み会に行くのを止めてみませんかとか、親に言われたからって持ち家を買うことを、必ずしも考えなくていいんじゃないですかとかね。そうすべきと思われていることを一回やめてみると、社会との間に距離ができて、自分の中に余裕が生まれます。その余剰で、自分に必要な何かを足すことが、初めてできるのではないかと思うんです。

    ここからどこにでも行けると思えるメディアを

    ──「僕たちに酒は必要ない」の「リア充」の使い方も面白く気になりました。「リア充」とは充実した私生活を送る人への羨望と揶揄が入り混じるような言葉かと思います。宇野さんが敢えて、これからリア充自慢をしますと宣言し、その先で、ソーシャルメディアに動員されない生活の楽しみや新しい文化の発見について語るのを、面白く読みました。

    宇野 「飯の友の会」の話ですね。僕が主宰するPLANETS CLUBでは、勉強会の他、メンバーが自主的に企画して、皆で軽井沢へ走りに行ったり、美術展に行ったりすることもあります。そもそも僕はコミュニティが苦手な性質ですが、それでも大人同士が趣味を通じて楽しく過ごす回路を、この社会の中に作ることは意味があるのではないかと思うんです。誰でもちょっとした前向きさがあれば、日常に充実した楽しみを発見できることを示したかったし、「リア充」に対してエクスキューズとわかる書き方をすることで、笑い飛ばしていい言葉なんだと示したかった。あるいはエクスキューズを入れなければ揶揄されるような世の中って嫌だよねとか、そんないくつかの意図を込めています。

    ──雑誌『モノノメ#2』の話になりますが、「観光しない京都2022」の、久世橋の話が響きました。久世橋という観光的にはなんでもない場所に、宇野さんはいつも来たくなるのだと。「この場所は僕にいつも、自分はここからどこにでも行けるのだと思わせてくれた」。「ここからどんな場所にも、物事にもつながっていく。そう思えるメディアをつくりたいと自分は思っていたのだ」、この言葉にハッとさせられました。

     見田宗介さんは若い頃、「アンチテーゼは一見フレッシュでオリジナルに見えるけれど、それはただの流行商品で、ネガティブな思想は結局弱い」と語っておられます。現状を捉えながら常にその先を示そうとされたようです。見田さんの思想と同じワクワク感を、久世橋についての宇野さんの言葉にも感じました。

    宇野 何でこの橋が好きなのか、自分でも長いこと不思議に思っていました。京都に住む直前は、北海道にいたのですが、北海道では隣町に行くのに半日かかるから、覚悟を決めて出かけないとならないんです。京都に越して、隣の町に日帰りで行けるという感覚が、新鮮に蘇りました。そういう感覚と相まって桂川の水脈が──鴨川と木津川、その先で淀川に合流し大阪湾へと注ぐのですが──自分はどこにでも行けるのだと思わせてくれたんですよね。

     久世橋は、本当に何でもない橋です。でも「イナイチ」と通称される、京都から阪神に抜ける国号171号線にかかる橋だから、地元の人はみな知っています。あの橋が何かの理由で不通になると、京都の物流はまずいことになる。久世橋は、ハブなんです。

     ぶらぶら散歩していて楽しいとか、カフェでゆっくり本を読みたいのは、京都中心部の鴨川付近です。でもメディアの仕事は、久世橋的でなくてはならない。これには自戒も込めていて、『モノノメ』は責任編集の個人のカラーの強い媒体なので、どうしても僕の理想の世界を見せるようなものになっていくんです。それがよさでもあると思うのですが、いかにも「宇野らしい」というような予定調和に落とし込むことは避けたい。雑誌であるからには、結論が出ずに判断が保留になっているものとか、当りか外れかまだわからないけど、何か予感を抱かせるものを、積極的に入れていかなければならない。そう思っています。

    共進化と無関心的歓待の公共空間

    宇野 見田宗介さんの話が出ましたが、『群像』七月号から「庭の話」という連載を始めました。それには、見田さん=真木悠介さんの『自我の起原』から引用しています。この本は進化生物学のリチャード・ドーキンスにインスパイヤを受けた、真木さんのロマンチックな哲学が展開するもので、もっともめざましい高度な共進化の例として、ミツバチとクローバーの関係が挙げられています。何が素晴らしいと言って、花は自分の繁殖のために、虫という異種を誘惑するようにできているんです。そして認知能力が優れている人間は、その高度な共進化の豊かさについて理解し、だからこそ花を美しいと思うのだと言うわけです。そうした想像力がなければ、遺伝子を残すことに直接貢献しない、宗教や文化といった社会的活動を、人間が持つことはありえない。人間には花を美しいと思える回路があるからこそ、宗教や文化が展開するということになります。僕はこの見田さんの考え方が好きなんです。

     現在の情報社会では、同種を誘惑し合うゲームに多くの人が勤しんでいます。そのことが物事に対するアンテナを低くしてしまっている。人間を人間たらしめるのは、同種間の相互評価のゲームを超えたところにある、むしろ自己滅却の欲望とか、究極的には死への想像力みたいなものなのではないか。人間の認知能力は、自己の保存の快楽と同時に、他者による自己の解体の快楽も理解することができる。「花」的コミュニケーションの多様な豊かさは、表現に関わる人間として忘れてはいけないと思っています。

     人間同士の相互評価のネットワークの外にあるのは、モノやコトです。それは時に久世橋であり、ウルトラマンの怪獣フィギュアであり、東京の森のカブトムシ採集であるわけですが、物事にしっかり接続されたメディアを作ることが、僕のポリシーです。

     多くの人が、人の顔色を見て発言しすぎているし、タイムラインの潮目を読んでいるだけで、物事そのものを語っていない。物事そのものに接続しないと、思考は鈍り、世界はどんどん平板で狭くなっていくんです。