• このエントリーをはてなブックマークに追加

今なら、継続入会で月額会員費が1ヶ月分無料!

  • 『タッチ』②:二つのヒロイン像を内面に抱えていた「浅倉南」(碇本学)

    2020-05-27 07:006分前
    550pt
    15ddecf7571e9dfc3d2b4f7d91d38c7054ef8d8f
    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。代表作『タッチ』の分析の第2回目は、物語全編で展開されるキャラクタードラマのあらましを辿るとともに、作品の看板とも言えるヒロイン「浅倉南」が果たした革新的な役割について掘り下げます。

    ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春 第12回
    『タッチ』②: 二つのヒロイン像を内面に抱えていた「浅倉南」

    80年代「少年サンデー」的スポーツ漫画の系譜

    前回は「上杉和也」が死んだ日とそれをめぐる編集者とあだち充の関わり、そして連載前から決まっていた彼の運命について考察した。
    「上杉和也」という存在は1970年代「劇画」ヒーローたちの系譜にあったために最初から死ぬことが運命づけられていた。物語の主人公である「上杉達也」は彼らからのバトンを引き継ぎながらも、80年代という新しい時代を象徴するヒーローとなった。

    上杉達也というニューヒーロー像は、1988年に同じく「少年サンデー」で連載された河合克敏『帯をギュッとね!』にも引き継がれた。こちらは高校柔道を舞台にした作品だったが、従来のスポ根的で汗臭いイメージの強かった柔道を爽やかなスポーツ競技として描いた点が画期的で人気作品となった。主人公の粉川巧は第17回全国高等学校柔道選手権大会のポスターになるほど当時の高校柔道においては影響力のあるキャラクターになっていった。
    どちらも中学時代から始まり、高校三年間がメインで描かれる。主人公も強力なライバルの前では限界値を超える力を出すが、そうでもない相手には簡単にホームランを打たれたり、いとも簡単に試合で負けたりする部分も共通している。
    『帯をギュッとね!』においてのヒロインである近藤保奈美はずっと柔道部マネージャーとして主人公の粉川巧を応援し続ける。もう一人のヒロインと言える海老塚桜子は当初は保奈美同様にマネージャーであったが、後輩の女性選手の練習相手をするようになったため、自身も柔道を始めることになった。浅倉南を野球部マネージャーと新体操選手に分けたものが彼女たちに見えなくもない。

    「少年サンデー」で70年代のスポ根漫画からのバトンをも引き継ぎながらも、80年代ラブコメとの融合によって新しいスポーツ漫画の金字塔となった『タッチ』。そこからラブコメにはあまり寄せないで、さらに新しいスポーツ漫画の可能性を模索しアップデートしたのが『帯をギュッとね!』だった。
    どちらも主人公を陰から見守る従来の劇画的なヒロイン像からは遠く離れて、ヒロイン自身の自我もしっかりと描かれていくあたりも80年代的な新しい時代と呼応していた。

    主人公を含め登場人物たちはほぼ顔の見分けがつかない「あだち充劇団」とも揶揄されるあだち充作品において、『ナイン』『みゆき』『タッチ』と主人公の顔はほぼ変わらないのにも関わらず、『タッチ』のヒロインの浅倉南だけはそのパターンからは少しズレているキャラクターだった。
    『ナイン』の中尾百合は典型的な70年代劇画的なヒロイン像だった。そのせいもあって動かしにくいことからもう一人のヒロイン安田雪美が投入されることとなり、ラブコメ要素が増してヒット作となっていった。ショートカットでスポーティで元気な妹キャラである雪美によって物語が展開しやすくなったことは、あだちの中でも大きな意味をもった。ただ、『ナイン』においては中尾百合と主人公の新見克也は両思いでそのまま恋人となっていく。
    『みゆき』においてはそのふたつのヒロイン像はそのまま引き継がれるが、メインヒロインは安田雪美の後継になる若松みゆきになった。もう一人のヒロインが中尾百合の後継となる鹿島みゆきである。ここでは主人公の若松真人と若松みゆきが結ばれることになった。
    『タッチ』のヒロインである浅倉南は、前述した従来的な劇画ヒロインの系譜と活発で自我をしっかりだしていく新しいヒロインの系譜それぞれをミックス、あるいはフュージョンさせた存在だった。浅倉南についてはキャラクター紹介のあとに後述したい。

    「あだち充劇団」のメジャー化

    原作付きの漫画から自身のオリジナル作品となった『ナイン』、大ブレイク作『みゆき』、そして今回の『タッチ』においてあだち充作品の登場人物のパターンはほとんど完成されていた。
    あだち自身が「あだち充劇団」というほどに見分けのつかない各作品の主人公や脇役たちの第一期完成形としての『タッチ』を見ることができる。
    『タッチ』のあとに連載された『スローステップ』におけるメイン男性キャラや『ラフ』の主人公の大和圭介には、『H2』のメインキャラとなる橘英雄への萌芽が見られる。そして、その二作品が終わった後に連載された時代劇×SFというコメディ寄りな『虹色とうがらし』はそれまでの第一期総集編のようにそれまでのキャラクターが一堂に会するものとなった。
    『タッチ』の登場人物たちについて、コミックス全26巻を五章に分けたものの流れに沿って触れていく。


    ea61d164ebaaed086e697e674dd67b9823a96425
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…
    入会月以降の記事を読むことができるようになります。
    ・PLANETSチャンネルの生放送動画アーカイブが視聴できます。

     
  • 分断を埋める「洒落」をアップデートする(丸若裕俊)

    2020-05-26 07:00
    550pt
    aea68fff3377a36449a177b8c05480fa4fbe01e3
    工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレス──日本的なものたちの手触りについて』。今回のテーマは「洒落」です。新型コロナウイルスによって多くの分断が露呈してしまった現状を前に、茶が提供する「和やかさ」は、人々にどんな影響をもたらすのでしょうか。日本的な美意識と、そのアップデートをめぐる対談です。
    4943398cd690377295ab32b1e1f083fdca75da5d

    丸若裕俊 ボーダレス&タイムレス――日本的なものたちの手触りについて 第12回 分断を埋める「洒落」をアップデートする

    コロナであらわになった「分断」

    丸若 まず、先が見えないなかの話にはなるんですが、ある程度視野を広く持っている人ってこのコロナ禍が起きたことって、すごく大きな転換期として捉えていると思うんです。 
     僕も、今まではまずはとにかく「1人でも多くの人にお茶を飲んでもらいたい」と考えていたけど、正直言うとそれだけではいられなくなってしまった、というのが今の正直な心情です。
     たとえばいま、何事もなかったかのように街に出ている人たちがたくさんいる。もちろん、理由があって街に出ている人もいると思うんですが、そうじゃなくて、単に気にせずに、いつも通り徘徊してしまう人もたくさんいるじゃないですか。そしてそういう人とどうコミュニケーションを取っていいか、僕にはわからないなって痛感しちゃったんです。同じ日本人で同じ地域に暮らしてるってところは一緒でも、こうも違うんだっていうのがもろにわかってしまった。

    宇野 今回のできごとで、いわゆる社会の分断というものが大きく加速してしまったことは間違いないと思います。まず受動的にテレビやTwitterを眺めている人たちと、もう少し能動的に自分から公的な情報と専門家がそれにどう反応し、議論が別れているかを調べている人たちに大きく別れている。そして前者の人々の中にも、自粛していない人々をまるでウイルスのように警戒する人々もいれば、逆にびっくりするくらい気にせずに「今日はよく晴れてるから鎌倉に行こう」と出かけてしまう人々もいる。
     もちろん、最低限の知識が共有できていなくて、無防備に出かけてしまう人たちはベタに、そして徹底的に啓蒙しなきゃいけないと思うんだけれど、それがいわゆる「自粛警察」的なインターネットリンチによってなされるのは、後世のために絶対に認めちゃいけない。しかしこの警鐘自体が、リンチの対象になりかねないところまで事態はエスカレートしているように思えます。

    丸若 だから僕も、以前は本心で「より多くの人にお茶を」って思ってたんだけど、もうそれが変わってしまって。

    宇野 たとえばいまアメリカでは健康保険に入っていない人たちが困ってると言われています。その人たちの何割かは確実にトランプに投票してるわけです。彼らはトランプが「アメリカらしいアメリカを取り戻す。お前たちの仕事がなくなっているのは移民のせいだ、だからグローバル化を制限して、壁を作ります」って言ったから、投票したわけです。要するにこれって、みんな承認の問題を解決するためにトランプに投票しているわけですよね。トランプの政策が自分たちの生活にプラスになるかどうかを、彼らは冷静に判断してなかったと思うし、その能力もなかった。その結果、彼らは実際にオバマケアを外されて、生命の危機に瀕しているわけですよ。
     言い換えれば彼らは効率と安全よりも、承認と安心を取ったわけですよね。同じようなことがおそらく世界中で起こっていると思う。ウイルスってよくわからないものが流行っていて、不安だからテレビ、Twitterを見る。情報を探しているときだけは不安を忘れられる。その結果として不確かな情報をいっぱい吸収して、うち何割かは再拡散する。
     つまり、同じようなことがいまも繰り返されているわけです。人間って心の安定のためだったら平気で命も売るんだ、ということがよく分かる。このような状況に、丸若さんがコミットしてきた日常に句読点を打つ行為がどうコミットできるのか、を今日は考えたいです。

    日本の美意識は「和やかさ」にある

    丸若 日本の美意識って、よく「繊細さ」「研ぎ澄まされてる感じ」「緊張感」「引き算」という言葉で語られますけど、最近「ちょっと違うな」と思っているところもあるんです。いま僕が注目しているのは「和やか」というキーワードです。茶道にせよ、日本美術といわれているものにせよ、緊張感だけじゃなくてちょっと笑顔になるとか、気持ちが安らぐというところが、美しさの頂点にあるんです。
     それは日常的に飲まれてきた茶の話でも同じで、茶は安らぎや穏やかさを与える飲み物だったからこそ、みんなに重宝されてきたと思うんですよね。もちろん、茶の美味しさが美食家の舌を唸らせることもあるんだろうけど、世の中には他にいくらでも舌に対してアプローチする飲み物がある。この和やかさが、いま日本人だけじゃなく世界中にすごく求められていると思っています。
     でも、この「和やかさ」は実は経済と反比例したところにあるのかもしれない。みんなその感覚を麻痺させられてきたから、どうやってそれを取り戻していいのかわからなくなってしまった。

    宇野 「和やかさ」は確かにいま、もっとも求められているけれど、もっとも足りていない成分かもしれないですね。でもこれは難しい問題で、たとえば戦争中に「お前、なんでスカート履いてるんだ。もんぺ履けよ」みたいなことを注意して回るおばちゃんがいたと思うんですよ。あの人たちは別に本当に彼女が空襲にあったときにスカートだと逃げられないから注意してるんじゃなくて、空気を読んで我慢しない人がいるのが嫌で攻撃してるんだと思う。そしてそういう、本当はどうでもいい他人の人生に干渉することによって自分が死ぬかもしれない不安から逃げたかったんだと思うんです。
     この、スカートを履いて歩いているお姉ちゃんを注意するもんぺのおばちゃんみたいなものと、「和やかさ」を大事にする日本的な美って実はコインの裏表なんだと思うんです。そして残念ながら、このコロナ禍は日本的なものの悪いところの方が出ちゃってる気がしている。なんとかして恒常性を維持したいという気持ちが、ソーシャルネットワークではデマの温床になっているし、休日の小町通りはごった返すということにつながっている。
     そこに対して、和やかであることを求める日本的な美のポジティブな面でいかに対抗するかですよね。「毒を以て毒を制す」じゃないけれど。

    丸若 だから僕はこの前お話したとおり、茶を配って「みんな家で飲もうよ」というところから、その次のステップのティータイムというものを考えたいと思っていて。「間」っていうのは和やかさのことだと思うんです。良い間があるということは、和やかな状態のこと。今は隙間のないところに無理やり隙間を作ろうとしてるから、みんな変に必死になっている。それって滑稽じゃないですか。

    宇野 はい、滑稽ですよね。


    ea61d164ebaaed086e697e674dd67b9823a96425
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…
    入会月以降の記事を読むことができるようになります。
    ・PLANETSチャンネルの生放送動画アーカイブが視聴できます。

     
  • 「絆」なんか、要らない『半沢直樹』と『あまちゃん』とのあいだで 宇野常寛コレクション vol.21【毎週月曜配信】

    2020-05-25 07:00
    550pt
    9183892b901f1bf8ebed348bf763059021c0738d
    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、宇野常寛によるメディア論をお届けします。2012年に大ヒットしたドラマ『半沢直樹』『あまちゃん』と、そこに象徴される団塊ジュニア世代のメンタリティを読み解きながら、「テレビの時代」の終わりと、「正しい断絶」に基づいたインターネットの新しい可能性について探ります。
    ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。

     昨2013年は国内のテレビ放送開始から60年目の節目にあたる。そのため、この一年は各媒体でテレビ文化を総括する企画が数多く見られた。そしてテレビ文化に対しての批評をデビューから多く手掛けてきた僕は、その手の企画に呼ばれることの多い一年だった。新春に放送されたNHKの「朝ドラ」の歴史をさかのぼる番組から、『三田文學』誌のテレビの行く末を案じる座談会まで実にバラエティに富んだ企画に出席したが、そこで問われているものは本質的にはひとつしかないように思える。
     それは、もはやテレビの役割は終わったという現実にどう対応していくのか、という問いだ。こう書いてしまうと、実際にこの手の企画で僕と同席することの多い研究者やもの言う制作者たちは不愉快に思うかもしれない。じっさいにこの種の企画の席上でも、僕は彼らとぶつかり合うことが多かった。曰く「とは言え、今はまだ国内最大メディアとしてのテレビの訴求力は大きい」「とは言え今はまだインターネットを情報収集の主な窓口とするライフスタイルは都市部のインテリ層に限られている」……もちろん、その通りだ。しかし、彼らの反論の「とはいえ今はまだ」という語り口が何より雄弁に近い将来にそうではなくなることを、誰もが予感していることを証明しているのではないか。
     ある座談会でたぶん僕とは親子以上に年齢の離れた学者先生はこう言った。「とは言え、あの頃のように国民全体に共通の話題を提供するテレビのようなものは必要なのではないか」、と。僕はすぐにこう反論した。「いや、そんなものはもう要らない」と。
     人間の想像力には限界がある。目の前で産気づいている妊婦を助けようと考える人も、遠い知らない街が災害に見舞われたと知ってもいまひとつピンと来ない、なんてことはそう珍しくない。この距離を埋めるためにマスメディアが機能したのが、20世紀の歴史だった。遠く離れたところに生きる人間同士をつないで、ひとつにすること。ばらばらのものをひとつにまとめること。こうして社会を成立させるために、マスメディアは有効活用された。そして、有効活用されすぎてファシズム(ラジオの産物と言われる)のようなものが発生し、世界大戦で危く人類が滅びかけたのが20世紀前半の歴史だ。そしてその反省から20世紀後半はマスメディアは政治から独立することを前提に運用されるようになった。しかし、その結果マスメディアは第四の権力として肥大し政治漂流やポピュリズムの温床と化している。
     僕はこう考えている。もはやばらばらのものをひとつにまとめる装置としてのマスメディアの役割は、少なくともこの国においては終わっている。会社員男性の大半がプロ野球に興味を持ち、巨人ファンかアンチ巨人だという時代を回復しなくても、社会が破綻することはないだろう(現に破綻していない)。たしかに国家の、社会の成熟の過程でマスメディアが誰もが同じ話題に関心を持ち、重要だと考える「世間」を機能させることは有効だったに違いない。しかし、敗戦から70年に達しようとしているこの老境の近代国家・戦後日本はもはやその段階にはない。現に、インターネットを当たり前に存在するものとして受容している若い知識人層を中心に、「テレビ」の体現する公共性は大きく疑問視され始めている。
     僕は社会人になってから一度も新聞を購読したことがない。そしてテレビのニュースはほぼ完全に、見ない。なぜならばそこで話題にされていることが、ほとんど自分の生きている社会のようには思えないからだ。政治報道は政局中心、経済報道は昔の「ものづくり」中心、科学と海外ニュースは割合自体が極端に低い。街頭インタビューで「市民の声」を拾えば、ねずみ色のスーツに身を包んだ新橋のサラリーマンと東京西部のベッドタウンの専業主婦を選ぶ。特にひどいのが文化面で、文化的存在感においても経済規模においても、ほとんど意味のないものになっている芥川賞を一生懸命報道するにもかかわらず、夏冬それぞれ50万人の動員をほこる世界最大級のイベントであるコミックマーケットは会場で事故が起きたときしか扱わない。


    ea61d164ebaaed086e697e674dd67b9823a96425
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…
    入会月以降の記事を読むことができるようになります。
    ・PLANETSチャンネルの生放送動画アーカイブが視聴できます。