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第三章 他者を探し求めるヨーロッパ小説――初期グローバリゼーション再考(前編)|福嶋亮大
本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。小説史を研究するうえで暗黙の前提となっていたヨーロッパ中心主義を批判すべく、アジアやイスラムがヨーロッパ文学に与えた影響について解説します。
福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
1、ヨーロッパ中心主義をいかに解体するか
世界文学=世界市場の成立は、文芸の諸ジャンルのなかで小説が覇権を握ったことと不可分である。小説は文学史上の新参者であるにもかかわらず、詩や演劇を凌駕し、世界規模の市場を生み出した。いわば小説のパンデミックこそが、近代文学史における最大の出来事なのである。序章で述べたように、それは商品としての小説が勝利したということと等しい。
ただし、このように考えるとき、小説がヨーロッパの固有種であることがしばしば暗黙の前提となっている。世界文学を推進せよというフリーメイソン的な命令を発したゲーテですら、ヨーロッパ文明の源流である古代ギリシアに特権性を与えていた。ゲーテがエッカーマンに対して、来るべき世界文学は何でもありではなく、あくまで「古代ギリシア人の作品には、つねに美しい人間が描かれている」(一八二七年一月三一日)から、それを模範にせねばならないと釘を刺したのは、その証拠である。もともと、ゲーテの美学は一八世紀ドイツの美術史家ヴィンケルマンの『ギリシア芸術模倣論』――古代ギリシア芸術という「源泉」に戻ることを訴え、新古典主義を準備した著作――の影響下にあったが、その尺度は文学にも適用されたのである。
パレスチナ生まれの批評家エドワード・サイードが批判的に論じたように、ヨーロッパ中心主義的なイデオロギーは、ゲーテのみならず二〇世紀の碩学の比較文学者(クルツィウスやアウエルバッハ)にまで及んでいる。サイードは「ヨーロッパと、ヨーロッパのキリスト教的・ラテン的文化圏」を最高位に据えるイデオロギーを解体することに、あくなき執念を燃やし、特にイスラムやアジアへのバイアスのかかった表象(オリエンタリズム)を粘り強く批判した[1]。西洋の帝国主義はたんに軍事力で他者を支配しただけではなく、文学や学問のレベルでも東方の他者を御しやすい記号に変えたとするサイードの批評は、知識=権力のもつ政治性をラディカルに問いただそうとする試みであった。
サイードの仕事の重要性は疑う余地がない。とはいえ、彼とは別のアプローチで、ヨーロッパ中心主義を相対化することも可能ではないか。そもそも、東アジアでは、中国がヨーロッパとは独立した「小説」の文化を数世紀にわたって持続させ、日本や朝鮮半島にまで影響を及ぼしてきた。その歴史の重みは、西洋の内在的批判者であったサイードよりも、ヨーロッパ中心主義者と目されるゲーテのほうが、かえって真剣に受け取っていたと言えるかもしれない。サイードはイスラムに対する西洋諸国(特にイギリス、アメリカ、フランス)の偏見の再生産に鋭い感覚を働かせた反面、中国や日本の文学的伝統はおおむね視野の外に置いた。それに対して、文人政治家のゲーテはむしろ中国(清)の小説にも言及しながら、世界文学の構想を気兼ねなく語ったのである。
さらに、ゲーテは一四世紀ペルシアの詩人ハーフィズに強く触発されて、一二編から成るチクルス(連作)『西東詩集』(一八一九年初版/一八二七年決定版)を刊行したが、それと連動してきわめて綿密な研究を残した。彼はそこでオリエントの「精神」を高く評価している。オリエントの詩歌の最高の性格は、われわれドイツ人が精神[ガイスト]と呼ぶ、上位にあって人間をみちびく存在のすぐれた特性である。〔…〕精神はとりわけ老年に、あるいは老年に入った世界の時期に属する。オリエントの文学には、総じて世界全体を見わたす眼、アイロニー、資質の自在な行使が見いだされる。[2]
ヘーゲルならば、このような言い方は決してしなかっただろう。ヘーゲルにとって、精神の歴史はヨーロッパで真に完成するのであり、アジア文明は踏み越えられるべき未熟な段階にすぎない。それとは逆に、ゲーテはペルシアの詩にこそ、ヨーロッパの人間中心主義とは異なる「老年」の成熟した精神を認めた。「アラビア人が駱駝や馬に対して心からの親和性をもっていることは、あたかも肉体と霊の間柄にさながらである」と称賛したゲーテが、自身の『西東詩集』でもイエスやムハンマドゆかりの「恩寵を受けた動物」(驢馬、狼、犬、猫)を取り上げていることは、注目に値するだろう[3]。『ファウスト』を筆頭にして、ゲーテの文学には人間ならざるものへの変身の欲望があったが(第一章参照)、彼はそれをアラビアの詩に見出したのである。
もっとも、この野心的な詩集もサイードに言わせれば、オリエンタリズムを「無邪気に利用」したものにすぎない。彼はゲーテの「移住〔ヘジュラ〕」という詩を取り上げて、そこでオリエントが「解放の一形式」に――若々しい精神をよみがえらせる「泉」に――仕立てられたことを批判した[4]。戦争の続く西・南・北の野蛮さに染まっていない「東」を称揚したゲーテは、ペルシアの詩を尊敬するように見えて、実際にはその他者性を除去し、いわば精神のアンチエイジングの機会として横領したのではないか? このサイードの問題提起は広い射程をもつ。なぜなら、他国を勝手に「解放」のシンボルとして祭り上げるイメージ戦略は、過去のオリエンタリズムに限らず、現代でもさまざまな形で反復されているのだから。
それでも、私は以下サイードの見解をたびたび参照しつつも、大筋ではゲーテの(一見するとナイーヴにも思える)世界文学論のプロジェクトの批判的延伸を試みたいと思う。というのも、東西のコンタクト・ゾーンのもつ意味を再考しつつ、アジアの独立性にも十分な注意を払うことは、世界文学論の核心的なテーマだからである。そこで以下の二章では、〈1〉ヨーロッパとその外部世界とのコンタクトを中心として文学史を再記述すること、〈2〉ヨーロッパと並び立つ中国の文学について、その文学史上の意味を再考すること、この二点について考察する。2、コンタクト・ゾーンの文学
もとより、古代ギリシアに始まる純正のヨーロッパ文化とは、それ自体がフィクションである。そのフィクションへの批判として、ギリシア文化のルーツをエジプトやシリアに認めたマーティン・バナールの『ブラック・アテナ』は名高い。彼の仮説は学界で猛烈なバッシングを受けたが、ギリシアをヨーロッパの不動の源泉とする限り、それ以前のメソポタミアやエジプトのきわめて長大な文明が不当に軽視されることは避けがたい。その点で「ヨーロッパ白人中心主義」を解体し、古代ギリシアをむしろ雑色の混成文化として捉え返そうとするバナールの主張は、今でもその意義を失っていない[5]。
ギリシアの文学史にしても、彼らが「バルバロイ」と呼んだ東方の世界とのコンタクト抜きには語れない。ギリシア演劇のパイオニアであるアイスキュロスの悲劇『ペルシア人』は、ペルシア帝国のクセルクセス大王の傲慢ゆえの敗北をテーマとしている。短気なクセルクセスはギリシアとの戦争で、大勢の兵士をむざむざと失った。取り残された女たちは、王の短慮のもたらした大量絶滅への「嘆き」の声でアジアの大地を満たす。「今やげにアジアの全土/人影もなく嘆きあり」[6]。
ペルシア戦争に従軍した兵士でもあったアイスキュロスは、その硬質でゆるぎない言葉によって、ペルシア人女性への感情移入を強力に組織した。ペルシアの指導者の失敗が、女性たちの嘆きにおいて、アジア全土に被害を与える深刻なカタストロフとして表現される――これはまさに表象と感情の政治である。サイードによれば、アイスキュロスのペルシア表象は、偏見に染まった西洋のオリエンタリズムのプロトタイプになった。そこでは、ペルシアは威嚇的な「他者」であることをやめて、比較的親しみやすい女性の嘆きの声へと縮減された[7]。戦争は他者(オリエント)との敵対性を際立たせる一方、それ自体が巨大なコミュニケーション、つまり敵=他者に乗り移り、かつ勝者の立場から敗者の感情を定型化する機会になったのである。
こうして、ギリシアの劇は自らのライヴァルであった「アジア」および「帝国」を消化吸収する器官として機能した。ただ、公平を期して言えば、ギリシア人がただ東方の帝国を「野蛮」や「悲嘆」のイメージに回収し尽くしたわけでもない。
例えば、ヘロドトスは『歴史』でイランの騎馬民族スキュタイ人について「外国の風習を入れることを極度に嫌う」(巻四・七六)としてその閉鎖性を指摘する一方「世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない」(巻一・一三五)と評して、享楽的なペルシア人が異国のファッションを貪欲に吸収し、ギリシア由来の少年愛を存分に楽しんでいることを報告していた。ギリシアの植民都市であるハリカルナッソス(現トルコ)生まれのヘロドトス自身がコンタクト・ゾーンの申し子であり、それは彼のペルシアの見方にも影響したと思われる[8]。ヘロドトスの数世紀後、アレクサンドロス大王の東征をきっかけとして、ペルシア人はギリシア文化と融合してヘレニズム文化を生み出したが、それも彼らの並外れた開放性なしにはあり得なかっただろう。
さらに、西洋文化の源流としてヘレニズムと並列されるヘブライズム(ユダヤ・キリスト教の一神教文化)も、アジアとのコンタクト・ゾーンを母胎としている。バビロン(現在のバグダード近郊)に強制移住させられたユダヤの民は、異郷の地で聖書の編集にあたったが、そのプロセスでオリエントの神話が聖書のテクストに侵入することになった。特に、『創世記』の最初の部分(いわゆる「原初史」)における洪水物語(ノアの箱舟の説話)は、メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』の洪水物語から、その多神教的要素を払拭し、峻厳なヤハウェ信仰の立場からそれを書き改めたものと推測されている。加えて、旧約聖書のコーへレト書(伝道の書)にも『ギルガメシュ叙事詩』とよく似た人生観――人間が死ぬべき「空の空」の存在であり、その運命が動物の運命と何ら変わらないことを率直に認めようとするニヒリスティックな覚悟――が認められる[9]。
生物学的な隠喩を使えば、ヘレニズムにせよヘブライズムにせよ、いわば遺伝子の交叉(クロスオーバー)に似た文化現象と評せるのではないか。はっきりしているのは、ヨーロッパの文化的アイデンティティの古層はすでにアジアに深く浸透されており、その純正さを無理に主張しようとしても、せいぜい偏狭なオリエンタリズムに陥るだけだということである。われわれはむしろ、アイスキュロスの劇もヘロドトスの歴史書もユダヤの聖なるテクストも、アジアの帝国との「接近遭遇」というトラウマ的なショックなしにはあり得なかったことを再確認すべきである(裏返せば、オリエンタリズムとはこのショックを無化しようとする集団心理的な反応として理解できる)。
そして、この接近遭遇ゆえのショックは、七世紀以降アジアに強大なイスラム帝国が築かれたことによって、いっそう増幅された。サイードは次のように鋭く指摘している。たしかにイスラムは多くの点で、まことに気にさわる挑発的存在であった。それは、地理的にも文化的にも、不安をかき立てるほどにキリスト教世界に近接していた。ユダヤ教的=ヘレニズム的伝統を身につけたのもイスラムなら、キリスト教から独創的なやり方で借用を行ったのも、軍事上、政治上の無類の成功を誇ることができたのもイスラムであった。そればかりではない。イスラムの国々は、聖地の近隣、いや聖地の頂点[イェルサレム]にさえ存在していた。[10]
キリスト教世界にとって、イスラムは自己と遠く隔たった他者ではなく、むしろ多くの点で自己と近似した――しかもしばしば自己よりも優れた――他者なのであり、だからこそその存在が気にさわったのだ。この近さゆえの不安と否認が、今日のパレスチナ問題やヨーロッパ社会のイスラモフォビアにまで及んでいるのは明らかだろう。
そもそも、イスラムの高度に洗練された知識や技芸は、ヨーロッパの思想や文化にも入り込んでいる。十字軍遠征を経て、アリストテレスをはじめ古代ギリシア人の哲学がイスラム経由で中世スコラ哲学に入り込んだことはよく指摘されるが、文学についてもその中枢にある恋愛表現が、イスラムから影響を受けたという有力な説がある。
ドニ・ド・ルージュモンによれば、ヨーロッパ抒情詩の源流である一二世紀のトゥルバドゥールには、アラビアの文学の影響が及んでいる。彼らの詩は結婚を度外視した純潔な魂の讃歌であり、その「永久に満たされることのない」愛ゆえの神秘主義的な飛躍を、高度に洗練されたレトリックで歌い上げた。その母胎となった宮廷風恋愛(コルテツィア)の隠喩は、アラビアのエロティックな詩とよく似ているとされる。その一方、アンリ・ダヴァンソンはより微妙な筆遣いで、この「アラブ仮説」の行き過ぎを戒め、両者の違いを指摘したが(例えばアラビアの愛がしばしば同性愛であったのに対して、ヨーロッパのトゥルバドゥールのそれは異性愛的性格をもつ)、それでもアラビアからの影響を決して否定したわけではない[11]。この観点から言えば、ゲーテの『西東詩集』はヨーロッパ抒情詩のアラビア的古層を、再び視界に浮上させるような仕事と見なせるだろう。
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「ショートムービー以降」のインターネット(後編)|天野彬
本日のメルマガは、マーケターの天野彬さんと宇野常寛との対談をお届けします。 TikTok特有のサービスとしての特徴を分析しながら、「ショートムービー」がコンテンツ業界や言論空間にどのような影響を与えるか議論します。
前編はこちら。
(構成:徳田要太、初出:2022年5月24日(火)放送「遅いインターネット会議」)情報との出会い方
宇野 「タグる」というキーワードが昔からありますが、この本でもすごく重視されていますよね。最初にこの言葉が定着したのはたぶんインスタだと思うんですが、インスタの「タグる」からTikTokの「タグる」への変化について聞いてみたいと思います。
天野 僕が「タグる」を提唱するようになったのは2016年頃で、リサーチを通じて多くのユーザーがインスタで情報を探すようになっているとわかったんです。それがまず一つ面白いところだなと思ったんですよね。流行りのお店を探すのもGoogleで検索して探すのではなく、インスタで ハッシュタグを使って、パンケーキならパンケーキのお店を「#」を使って探していくと。ハッシュタグを使って自分で情報を手繰り寄せるように探すので、その掛け言葉として「タグる」という言葉がしっくりくると思いました。やはり今はもうGoogleで検索してもいい情報に出会えないみたいな状況がありますよね。それよりもSNSのほうがリアルで、しかも鮮度の高い情報が得られる。なのでみんな「ググる」から「タグる」になっているんだというのが、そこでの議論の要旨です。
でもTikTokだとあんまりハッシュタグで情報を探すという感じでもなかったりするんですよね。TikTokは良くも悪くも全てが中動態的で、ほぼおすすめに頼るような状態なんです。つまり、能動的にハッシュタグを辿りはするんですが、それが完全に能動的かというとそうとは言い切れなくて、自分が見た動画や「いいね」の履歴からアルゴリズムがレコメンドする動画を受動的に受け取っているだけとも言えます。だから「タグる」というキーワードも、引き続きインスタで使われていたり、Twitterでも「#」をつけた情報が発信されたりするので、従来の形とは少し違う情報体系なのかなという気がします。
宇野 僕はいつも「どうすれば、ほど良い偶然性を自分の生活や社会にインストールできるのか」ということを考えるんです。どうしたら自分がまだ知らないけれど興味を持っているものに出会えるんだろうと。そこで比較的僕がうまく使えば面白くなるかもしれないと思うのが、恐ろしいことに「アルゴリズム」なんです。もちろんAmazonのレコメンドはダメなんですが、メルカリやヤフオクなどの表示には意外と刺さるものがあって。僕はフィギュアオタクで「仮面ライダー」とか特撮系のものを集めているんですが、時々「このアイテム今まで意識してなかったけれど、意外といいじゃん」みたいなことに気づかされるの。つまり、ああいった中古市場の商品は、ユーザーが自分で写真撮って出品しますよね。だから宣材写真ではないんです。そうすると意外な魅力が伝えられて「あれ、意外とこのシリーズありじゃん。買って集めてみようかな」とか思ったりするんです。だから実は、二次創作とまではいかないけどユーザーが自分なりの視点で撮影したものやアップロードした情報が、アルゴリズムで示されるということが、今のところ僕は有効な気がしてるんです。人間とはまったく違う思考回路で、「人間だったら絶対にこれとこれ共通しないじゃん」というようなものが出てくるのが大事だと思っていて。いかに人の目や意識を排したシステムを組み込んでいくのかということが大事なのかなと思っていいます。
なんでこんな話をしたかというと、けっきょくこのショートムービーもコミュニケーションの一つのベースになってきているというのは間違いないと思うからです。インスタがスマートフォンで撮影した写真を人間のコミュニケーションのかなりの部分を占める基礎単位にしたのと同じくらいのことは起こるでしょう。その世界の中で、いかにいま僕が言ったように、人間を創造的にする偶然性を、この状況を逆手に取って社会にインストールしていくのか、天野さんはどう思っているのかと聞きたいんですよ。
天野 メルカリはたまに僕も使うんですけど、ひとつのフォーマットのようなものがある気がしていて。古着はよくチェックするんですが、やはり撮り方や商品の紹介の仕方には型があると思います。型があるということが、多くの人の発信や創造性を引きだしている面はあると思っていて、そういう意味ではショートムービーでは動画を作りやすいという利点があります。発信のハードルを下げて、そこにズレを内包させてどんどんコンテンツを生成させることで、偶然性を招きやすくしているわけですね。セレンディピティが訪れるかどうかは試行回数と密接に関係しているので。
情報の発信のしやすさが、確率的に良いものを生み出させるうえですごく大事で、TikTokだと音楽を乗せて簡単に誰もが動画を作れるとか、ミームと呼ばれるフォーマットがあったりします。模倣の連鎖によってカルチャーが根付いていったり、みんなの発信の中からわずかな差分で新しいものが出来てきたり、そういうことに繋がっていくのかなという気がしています。もちろんその型の先に守・破・離があることは大事なんですが。
TikTokと言論活動との相性
宇野 なるほど。少し視点を変えると、冒頭で「言論活動とショートムービーとの相性をどう思うか」と質問していただきましたが、僕はここに関してかなり危機感を覚えています。今の文字ベースのTwitter言論は明らかに正しく機能していないですよね。だからそこに当然未来はないと思うんですが、じゃあTikTokなりのショートムービーが主体になったときに、僕が思ったことが一つあります。山本太郎と宮台真司が戦ったときに、宮台真司に勝ち目はあるんだろうかと。山本太郎に絶対勝てない気がするんですね。つまり語り口だけが意味がある世界がそこに爆誕した結果、エビデンスや論理性とかいったものがほぼ完全に度外視される世界が到来してしまうんだと思うんですよ。
天野 そうですね。今の例えがちょっと絶妙すぎて、確かにそうだなと思ってしまいました。あとはいわゆるひろゆきさん旋風もその視点から分析できますね。彼自身が「切り抜き動画の原液」になったことで、ショートムービーの素材になったのが知名度獲得に寄与した。ひろゆきさん特有の話法も効果的だったわけで。やはり短い時間である分、議論の詳細な内容よりはインパクトのあるワードとかパフォーマンスに視聴者がどういう印象を持つのかが重視されますよね。
あとはTikTokってコメント欄でみんながどう思っているのかがけっこう可視化されるんです。40代か50代くらいの意見がYahoo!ニュースのコメントに象徴されているとすると、10代後半から大学生の子にとってはTikTokがその場になってるんですよね。ニュースのちょっとした映像に対してみんながコメントで何を言っているかによって自分の考え方にある種のバイアスがかかるというか、「みんながこのニュースについてすごい叩いているから、やっぱりこれダメなんだな」というふうに思うようなところがあります。だからそういう意味では話し手のパフォーマンスの印象によって言論の質がかなり影響されやすいと思います。字幕をどう入れるかとか、音楽とか、盛り上がりを映像的にどう表現するかとか、そういう勝負になってしまうんだろうなとは思います。
TikTok上でいわゆる言論活動をしている人はまだあまりいないですけれど、わりと知識啓蒙系のような人はまぁまぁ出てきていて。多くの人が関心ある、それこそダイエットの話題から、人間関係を良くする心理学とか、そういう知識紹介系の人はいるんですが、やはり専門家からするとエビデンスが怪しいと突っ込まれるクリエーターとかも少なくありません。そういう人たちが耳障りの良いキーワードをでかい級数で字幕に出したりして、ちょっと効果音とかを付けるとどうしても「そうかも。」なんて思ってしまうようなマジックがあったりして。しかもTikTokでは画面占有がそれだけなので没入してしまう。
宇野 どうしたらいいんですか? 僕らのようなオールドタイプは。ファンネルとか飛ばせないタイプは。
天野 (笑)。でもTikTokをやりつつも、TikTokだけで完結する人は実はあんまりいなくて。リンクからYouTubeに飛ばす人もいれば、人によってさまざまですが、TikTokはそういうショートムービーの話法は話法としてあるとして、何かそこだけでというよりは、何か別の場に移してコミュニケーションしたり啓蒙したりするケースが多いです。Twitterも同じで、結局140字で語れることには限界がありますが、そこからnoteに誘導するなりすれば伝わる人には伝わるわけですよね。ショートムービーはいろいろなものの入り口ではあるんですけど、そこが本体かどうかはまた違う話で、でも入り口としては有用だということですかね。TikTokだけに全てを背負わせてしまうのも酷かなという気もするので、そういう組み合わせが大事だとは思います。
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【トークイベント】2020年代の日本文化の世界発信|石岡良治×草野絵美×増田セバスチャン×吉田尚記×宇野常寛(渋谷セカンドステージ vol.27)
PLANETSよりトークイベント開催のお知らせです!
「渋谷セカンドステージ」では、渋谷ヒカリエ 8/COURTを舞台に、PLANETSと東急株式会社が共同で、渋谷から新しい文化を発信することをテーマに様々なトークショーを開催しています。今回は2020年代の日本文化の世界発信について議論します。
ゲストは、批評家の石岡良治さん。
アーティストの草野絵美さん。
アートディレクターの増田セバスチャンさん。
にニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんをお迎えします。参加チケットのお申し込みはこちらから。
▼イベント概要
「クールジャパン」という言葉がまったく意味をなさなくなった平成を経て、2020年代の日本文化はどうやって国際競争力を発揮すべきか。アートからアニメ、ファッションや特撮、音楽、あらゆる分野のスペシャリストとともに議論します。
▼出演者
石岡良治(批評家)
1972年東京生まれ。批評家・表象文化論(芸術理論・視覚文化)・ポピュラー文化研究。 東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)博士後期課程単位取得満期退学。 早稲田大学文学学術院(文化構想学部)准教授。
著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社) 『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社) 『現代アニメ「超」講義』(PLANETS/第二次惑星開発委員会)など。宇野常寛(評論家・PLANETS編集長)
1978年生。評論家として活動する傍ら、批評誌『PLANETS』『モノノメ』を発行。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、『水曜日は働かない』(ホーム社)ほか多数。
2022年10月『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)刊行。草野絵美(アーティスト)
1990年、東京都出身。Fictionera代表取締役。アーティスト。レトロフューチャリズムをテーマにAI等を使い創作活動を行う。高校時代に原宿でストリート写真家デビューし、FITミュージアムやヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で展示。80年代アイドル文化を再構築する「Satellite Young」の主宰兼リードシンガーとしてSXSWで活躍。2021年、当時8歳の息子のNFTアート「Zombie Zoo」プロジェクトをきっかけにWeb3ムーブメントに参加し、アニメNFTプロジェクト「新星ギャルバース」を共同創設、ローンチ後OpenSeaの取引総額24時間ランキングで世界一に輝いた。東京藝術大学非常勤講師、AI時代の子育て論を書く「ネオ子育て」等執筆も行い、多彩な顔を持つ。増田セバスチャン(アーティスト)
1970年生まれ。ニューヨーク在住。1990年代前半より演劇や現代美術に関わり、1995年に表現の場としてのショップ「6%DOKIDOKI」をオープン。一貫した独特な色彩感覚からアート、ファッション、エンターテインメントの垣根を越えて作品を制作。きゃりーぱみゅぱみゅ「PONPONPON」MV美術、「KAWAII MONSTER CAFE」プロデュースなど、世界にKawaii文化が知られるきっかけを作った。世の中に存在する全ての事象をマテリアルとして創造しつづける。
2017年度 文化庁文化交流使 / 2018年度 ニューヨーク大学客員研究員 / 2019年 Newsweek Japan 世界が尊敬する日本人100人吉田尚記(ニッポン放送アナウンサー)
1975年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。2012年第49回「ギャラクシー賞DJパーソナリティ賞」受賞。
ラジオ番組でのパーソナリティのほか、テレビ番組やイベントでの司会進行など幅広く活躍。またマンガ、アニメ、アイドル、デジタル関係に精通し、「マンガ大賞」発起人、バーチャルアナウンサー「一翔剣」の「上司」であるなど、アナウンサーの枠にとらわれず活動を続けている。
共著を含め13冊の書籍を刊行し、ジャンルはコミュニケーション・メディア論・アドラー心理学・フロー理論・ウェルビーイングなど多岐にわたる。著書の『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(太田出版)は国内13.5万部、タイで3万部を突破するベストセラーに。
最新作は2022年11月28日発売の『オタクを武器に生きていく』(河出書房新社)▼スケジュール
2023年6月21日(水)
19:00 開場(受付開始)
19:30 開演(オンライン配信開始)
21:00 終演▼会場
渋谷ヒカリエ8 01/COURT
〒150-8510 東京都渋谷区渋谷2-21-1
渋谷ヒカリエ 8F(フロアマップ )イベントの詳細や、参加のお申込みはこちらから!
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